柳田国男「神を助けた話」の風景(卍字と錫杖)

卍字と錫杖

卍字・錫杖は岩木山にいた「二頭の鬼神」と伝わりますが、柳田氏は「磐次磐三郎(神を助けた話の風景・磐次磐三郎・参照)」伝説と関連付けて、「卍字=萬字(磐次)」、「錫杖」は「萬三郎」の別名と推測しています。また、土地を得る話において、昔は相手から騙し取るのが主流でしたが、仏教などの影響を受け、円満に寄進されるという話が増えていきました。

出典:『柳田国男先生著作集』第10冊 (神を助けた話),実業之日本社,1950. 国立国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/pid/1159949

伝説を拡散した人たち

「狩人が神を助けた話、日光が最初であって、東北へは此から送り出したものと断定することは、まだ些しく不安心な点が無いでも無い。佐藤氏が故郷に於て志を得ず、縁故を辿り又は新地を拓いて、追々(おいおい)と道の奥へ分散した際に、偶々(たまたま)我在所の二荒神社の祭に、神子の語るを聴いたのと稍(やや)近い話が、時として先住者の間に行はれ居るのを見て、其は猿丸の事であらう。詳しいことはかくかくと、此方の絵具を以て土人の粗画を彩色したことはあるか知らぬが、元来素人が伝説を移植することは、多くは根を生す迄の効果は無いものである。」

上で述べる「故郷に於て志を得ず」の「佐藤氏」とは信夫郡(福島県福島市周辺)を治めた「信夫庄司」の佐藤氏の事と思われます。例えば「信夫庄司」佐藤継信は義経四天王ともよばれた武将で、屋島の戦いにおいて義経の身代わりになって平教経の矢を受け、戦死したと伝えられています(諸説あり)。以下にはその場面を描いた絵巻を引用いたしました。なお、奥州藤原氏に仕えた継信の父・基治は鎌倉幕府軍との戦いに敗れ、「信夫庄司」は衰退していきます(神を助けた話の風景・阿津賀志山・参照)。

出典:Toyohara Chikanobu, Public domain, via Wikimedia Commons、楊洲筆「屋島之役」、3枚揃大判錦絵
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Y%C5%8Dsh%C5%AB_Chikanobu-Protecting_his_master_Tsugunobu.jpg

「之に比べると宗教家殊に僧侶には、方便と云ふことが有って知りつつも縁起を仮作し、乃至は土地に存する話に、信仰に都合の好い修正ぐらいは加へて、いつの間にか之を古来の物語とするだけの力があった。と解釈せねばならぬやうな話が、まだ随分有るのである。」

以下には東北地方の中でも「磐司磐三郎」伝説が多く残る立石寺の写真を引用しました。こちらの山中やお堂では「磐司磐三郎」の話が盛んに語られていたことでしょう。

出典:写真AC、立石寺-山寺201507
https://www.photo-ac.com/main/detail/24512550?title=%E7%AB%8B%E7%9F%B3%E5%AF%BA%EF%BC%8D%E5%B1%B1%E5%AF%BA201507

「さうすると結局の問題は、大多数の日本人部落に共通に、行はれて居たのは如何なる形式の話であるか、及どの位古くから、其話が有ったかと云ふことに帰着する。勿論此は後世の学者が、大に研して始めて明かになるべき難問題である。」

山の神

「山の神が双神であることには、深い仔細があるやうであるが、其までは此一冊に説かうとするのでは無い。私の言ひたいのは、今日迄文字ある人の耳に入らなかった為に、忘れ誤り消え碎けた口碑と云ふものが、此外にも幾ら有るか分らず、今の内に地方々々で骨を折ったら、まだ其材料の若干だけは、後の学問の為に保存し得るかも知れぬと云ふことである。東北の山々には、怖しい物が住む又は住んだと言へば多くは二人で、悪路王大武丸などの名が、之と結附(むすびつ)いて居る。」

以下には鹿島神宮が所蔵する「悪路王」首像の写真を引用させていただきました。「悪路王」は坂上田村麻呂が率いる朝廷軍と戦った東北の英雄・阿弖流為(あてるい)とも同一視されることもあります。

また「大武丸」とは陸奥国の岩手山に住んでいたと伝わる伝説上の蝦夷の首長です。坂上田村麻呂に討たれたともいわれ、その大武丸の体を埋めた場所は鬼死骸村という名前で呼ばれたそうです。以下には一ノ関市内に残るバス停跡(鬼死骸停留所)の写真を引用させていただきました。

また、下に引用したのは大武丸の亡骸を埋めた場所に置かれたとされるされる「鬼石」の写真です。周辺には下にあばら骨を埋めたとされる「肋石」などもあります。

出典:Animataru, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons、大武丸の亡骸を埋めたとされる場所
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Oniishi.jpg

卍字錫杖の伝説

「然るに独り津軽の岩木山に於ては、萬字錫杖と謂ふ二頭の鬼神と云ふことに為って居る。山上に清泉あり、之を錫杖清水と称す。」

岩木山-2024-08-04 錫杖清水で乾杯 / じじさんの活動データ | YAMAP / ヤマップ

上には登山情報サイトYAMAPから岩木山の活動日誌を引用させていただきました。「4/9」に「錫杖清水」の写真が掲載されています。

「昔此山に卍字錫杖と呼ぶ二鬼あって、此泉の辺に住んで、吉野大峰の前鬼後鬼と同じく、人の信不信に因って、或は護り或は懲したと云ふかと思へば、山中赤倉と云ふ処に洞穴がある、道者の此処に往く者、物を云ふことを厳禁す、之を犯せば必ず風雨あり、是洞の裡(うち)に右の二鬼が住む故とも伝へて居る(一)
(一)「津軽のしるべ」。但し津軽一統志巻一の漢文を書改めただけである。此名前の鬼神、岩木山以外にも居るか否、実はまだ確かには知らぬ。」
下に引用させていただいた別の方の岩木山活動日誌には、「鬼の土俵」という場所に鎮座する鬼の石像が掲載されています(20/66)。こちらの鬼は村人と相撲を取るなどの交流を持ち、水路造りなどにより村人の生活を助けてくれました。
他にもこちらには山神様や赤倉霊場で信仰されている「永助様」の像などがあり、霊場の空気が感じられます。

巌鬼山・岩木山(赤倉コース) / ちっぽさんの活動データ | YAMAP / ヤマップ

「一方には又、卍字錫杖は鬼神の名では無かった。之を退治した篠原の花若殿の旗印であったと云ふ説もある(二)
(二)東日流伝記。地名辞書岩木山神社の条に引いて居る。
鬼神と云へば悪い奴と、速断する結果でもあらうが、一つには卍字と錫杖との名が余に殊勝で、古来の山神などに附けた理由が分らぬからでもあったらう。成程萬字に至っては、山寺磐神山等の旧伝を知った者で無ければ、到底其来歴を解することは出来ぬ。而も既に此経験を提げて臨めば、錫杖が萬三郎の別名であったことと、仏法が此霊山を統御する以前、彼等両人も亦例の狩人であったことが、容易に推測し得られるのである。錫杖が僧侶の旅行具であって、毎(つね)に仏法の伝播と関係あることは、最早説明をする迄もあるまい。深山に修行する聖に取って、脚を扶ける実用の効があった外に、殊に我邦では古今を通じて、杖を以て権力の徴と為し、神を祭るにも土地を占めるにも、杖を立てて其堺を明かにするの風が盛であった(三)
(三)此は「榎の杖の話」と云ふ題で、今に詳しく書くつもり」
以下には錫杖を手にする役行者(修験道の開祖とされる)の像を引用いたしました。左右で行者を護っているのは「卍字錫杖」の二鬼に例えられた「前鬼後鬼」です。

出典:Nankou Oronain (as36…, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimed、神変大菩薩尊像(役行者) Standing figure of En no Gyōja
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E7%A5%9E%E5%A4%89%E5%A4%A7%E8%8F%A9%E8%96%A9%E5%B0%8A%E5%83%8F(%E5%BD%B9%E8%A1%8C%E8%80%85)_Standing_figure_of_En_no_Gy%C5%8Dja_-_panoramio.jpg

「仏教の方でも巧に此思想に和して、諸国に杖石杖銀杏杖立清水がある如く、錫杖松と称して錫杖の成長して樹と為るもの、錫杖石と謂って石突の凹みを遺す石、又は前に云ふ錫杖清水などがあるので、いづれも仏神の霊験を語る普通の例である。上総相川の鉄杖山は、最明寺時頼来って杖を立て、之に由って火を守る故に、社の名を火守神社と謂ひ(四)摂津の箕面山には役行者、泉州の巻尾山には行満上人、共に霊場に錫杖石を留めて居る。」

以下には江戸時代に描かれた摂津名所図会より、箕面瀧(箕面大滝)周辺の図を引用いたしました。

出典:丹羽桃渓, Public domain, via Wikimedia Commons、秋里籬島・著 丹羽桃渓・画 摂津名所図会 箕面の滝
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Minoo_no_taki.jpg

以下のように、「摂津名所図会」の説明文には錫杖石が座禅石と同じ場所(中央の山上附近)とあります。なお、「雄滝」は日本の滝百選の箕面大滝の少し上流にある高低差3ⅿほどの滝です。

奥飛泉(おくのたき) 大瀧より六町許(ばかり)奥にあり。飛流(ひりゅう)八丈許(ばかり)。大瀧を雌瀧といひ、これを雄瀧といふ。
座禅石 奥の瀧の上にあり。行者ここに練行し給ふ。
錫杖石 同所にあり。行者ここに錫杖を立て給ふ。

出典:大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』第1輯第6編摂津名所図会,大日本名所図会刊行会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/959909 (参照 2025-09-12)
https://dl.ndl.go.jp/pid/959909/1/21

騙して土地を得た話(洞雲寺)

「奥州には又斯な話もある。陸前宮城郡北七田の洞雲寺は、奈良朝時代に定恵と云ふ僧が来て開いた。」
「定恵」は藤原鎌足の長男で留学僧として唐に渡った人物です。以下に引用させていただいた藤原鎌足像の右下に描かれています(左下は鎌足の次男・藤原不比等)。

出典:京都大学貴重資料デジタルアーカイブ、『藤原鎌足像(模本)』(京都府総合博物館所蔵)部分
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00033844

「定恵此山を相するに、峰が九十九、谿が九十九あって霊山である。乃伽藍を玆(ここ)に営まんとすれば、山に二人の異人住むあって、求むる土地を与へなかった。此二人は夫婦であった。男の名は大菅谷、妻の名は佐賀野、共に紅顏美麗にして老いず、而も能く数百年の昔を語ったとある。云はば仙界の人であったにも拘らず、之をしも此僧は欺いた。其手段は今から見れば簡単なもので、定恵携ふる所の錫杖を立て、其及ぶ所だけの地を貸せと云って、夫婦の者を承知させた。及ぶとあるのは錫杖の影の届くだけと云ふことであらう。奇なる哉一山悉く錫杖の及ぶ所となり、約束なれば是非も無く、異人は遂に遙(はるか)に西の方、根白石(ねのしろいし)の山間に退いて住す。仍(よっ)て其地を堂所と謂ひ、今も稀に異人の姿を見ると云ふ(五)
(四)上総国誌稿。
(五)仙台封内風土記巻三。」
定恵が開基したお寺は「蓮葉山円通寺」という名称でした。その後、弘仁期(810年~824年)に慈覚大師が「山の寺」として整備、暦応3年(1340年)に明峰素哲(めいほうそてつ)が再興し「龍門山洞雲寺」と称したとのことです。下には明治時代の洞雲寺の写真を引用いたしました。

出典:『行啓紀念写真帖』,宮城県宮城郡,明41.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13833949 (参照 2025-09-12、一部抜粋)、洞雲寺
https://dl.ndl.go.jp/pid/13833949/1/54

「右の話は通例牛の皮で土地を借ることに為って居り、世界に分布して居る(六)
(六)牛の皮一枚で囲ふだけの土地と約束し、其皮を細く切繋いで縄張をしたと云ふ語。古くは阿弗利加北岸カルタゴの旧史にも見え、又南支那の澳門(マカオ)で、葡萄牙(ポルトガル)人が之を遣ったとも言はれて居る。」

騙して土地を得た話(松尾神社)

「形を変へて日本にもまだ処々に在る。例へば甲州松里村の松尾六所明神の七不思議の一つに、借生檜(かりおひのひのき)と云ふことがある。昔六所明神此地に出現の時、地主の松尾神に檜を栽える土地一尺だけを借りて、際限も無く檜の苗を植えられた。松尾樣が違約を責められると、一尺と言ったのは、土の中へ根の入る深さだと答へたまふにより、今も此森には檜の古木が多いが、樹根の土に入ること至って浅い云々(七)
(七)明治神社誌料。」
下に引用したのは甲州市にある松尾神社鳥居前のストリートビューです。確かに植えたときの苗の根は一尺(30㎝)以内だったかもしれませんが、現在は深くまで根を張っていると思われます。

「此などは殊に口実が無理で従って上品とは申されぬが、其だけに又後世の発生では無いことを証拠立てる。総体に世中の道楽が進んで、騙すと云ふは感心せぬ話と為り、其上に仏教にも漸く尾鰭(おひれ)が附いて、其迄にして取った土地では、有難いとも云はれぬと云ふ考が強く為った為か、龍門山の錫杖の影の話などは例外で、多くは土地の神、出で来って悦んで地を献ずるのみならず、或は警固案内の役を勤め或は霊仏霊宝の所在を示した。其が又何れも立石寺の盤司と等しく、犬を牽き弓箭を携へた狩人であったのは、必しも寺が山寺であったからではあるまい。」

土地を寄進される話(高野山)

「弘仁七年の四月に、弘法大師禅定の依所を求め相応の霊崛を尋ぬとして、畿内を修行したまひしに、大和国字陀郡にして一人の猟人に遇ひたまふ。其色赤にして長八尺計なるが、袖小青き衣を著たり。骨高く筋太くして勇壮の形なり弓箭を身に帯して、大小二つの黒犬を隨へたり云々。猟者申す様。我南山に犬を飼ひて、領する所の山地萬町ばかり也。其中に幽平の澤あり。三面にして山門巽(たつみ)に開け萬水東に流れて一水に集まる云々と、自ら進んで報じかつ薦めて居る(八)
(八)三国伝記巻三のまま。同書巻一には又熊野の起原を説き、猟師近兼、山中の石窟に於て、熊と誤まって弥陀如来を射、発心帰依して證誠殿を齋いたことを記して居る。
此が今日の丹生明神で、大師の為の第一の大檀越(だいだんおつ)、又第一の帰依者であった。」
下には「高野大師行状絵巻」より、土地を探す弘法大師が丹生明神(赤い顔の大男)と出会う場面を引用いたしました。
なお、司馬遼太郎・空海の風景(・・・の風景12・参照)では上記の伝説とは別に、空海は「山上が平らで広やかな山をさがしていたのではないかと思われる」とあります。高野山は空海の望みにぴったりの場所でした。

出典:ColBase 国立博物館所蔵品統合検索システム、高野大師行状絵巻(模本)部分
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-6912?locale=ja

「右の外、泰澄大師は能登石動山に於て、行基菩薩は近江伊香郡の法華寺に於て、共に二人の弓箭を帯した異人に出会し、始めて仏法興隆の瑞相を得たと伝ふる類、後に伽藍の鎭守となる程の神が、必狩人であって、杣(そま)でも無ければ金掘でも無かったのは、寺の境内敷地との関係上、何か其だけの理由があったのでは無からうか。」

狩場の神

「之を日光山の場合に宛てて言ふならば、小野の猿麻呂は必ずしも赤城山との神争ひが起らずとも、出でて仕ふべき宿命があったので、之を花やかな弓矢の誉に托したのは、寧中世以後の宗教文学に属せしむべきものでは無いかと思ふ。高野の丹生の大神の如きは、空海の手録と云はれる旧記にも、既に之を丹生津姫神の御子と云ひ、姫神は天照大御神の御妹にして同体同心の神とさへ云って居る(九)
(九)丹生大神宮の儀軌。続群書類従には空海撰とある。」

下には丹生津姫神(丹生都比売)を祀る「丹生都比売神社」・二つ鳥居の写真を引用いたしました。弘法大師・空海に建立され、1649年に石造に建て直されたとのことです。それぞれ「丹生都比売神」と「高野御子神(丹生都比売神の子・丹生明神)」の鳥居となっていて、高野山巡礼の前にこちらで丹生都比売神社に参拝するのが慣例でした(ウィキペディア・丹生都比売神社)。

出典:Saigen Jiro, CC0, via Wikimedia Commons、丹生都比売神社 二つ鳥居
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Niutsuhime-jinja_futatsutorii.JPG

「即仏法の力を須(ま)たずして、狩場の神は夙(つと)に畏き御神であった。別の語で云へば今とは内容に多少の異動があるにしても、此話は仏教の流布よりも前から、日本の田舍には既にあったらしい。伊勢の野中塚の由来として、古く伝へて居る話などは、聊(いささか)も寺とは縁が無い。狩人鹿を狩りに山に入り、風雨の夜、鬼を射て之を塚穴の中に焼殺し、神女を助けて家に伴ひ還り、共に住んで一子を儲けた。神女後に児を連れて大和に還る。狩人は神女の遺した歌、我宿は三輪の山本こひしくば、とふらひ来ませ杉立てる門とあるに由って、三輪に詣でて祈請すれば、御戸少し開いて母と子の姿が見えた。験の杉と云ふ事は之に始まる。其狩人も亦後に神になり、伊勢の人行いて之を祀ると云ふ(十)
(十) 三国地誌巻三十に引く童蒙抄。」
以下には昭和初期に撮影された三輪明神・大神神社の拝殿の写真を引用いたしました。境内には数多くの杉の木が植えられ、上文の「験(しるし)の杉」も根元の部分が保存されています。

出典:大神神社々務所 編『三輪叢書』,大神神社々務所,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1192747 (参照 2025-09-16、一部抜粋)、本社拝殿
https://dl.ndl.go.jp/pid/1192747/1/18

「神と人との間に神子が生れ、其子孫が神子の家となることは、殆残らずの地方の神社に、昔は共通にあった物語である。二荒山の神伝に在っては、之に稍(やや)特色ある一二の潤飾が加はって居るだけのことである。」

旅行などの情報

丹生都比売神社

空海に高野山の土地を寄進した「丹生明神」は丹生都比売大神の御子とされます。こちらはその丹生都比売大神をお祀りする神社で、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素の一つです。丹(赤)色に塗られた社殿が美しく、厄除けや開運・必勝にご利益があるとされます。

上に引用させていただいた「すずひめ」「大輝」という「みちびきのご神犬」は「丹生明神」が連れていた二匹の犬に由来します。神犬の姿をご覧になりたい方は御祭神の縁日である16日(10月以外毎月)の午前10時~11時30分または午後1時~2時30分にお出かけください(令和7年8月31日の公式サイトのお知らせより。公式サイトで最新情報をご確認願います)。

基本情報

【住所】和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野
【アクセス】笠田駅からかつらぎ町コミュニティバスまたはタクシーを利用
【参考URL】https://niutsuhime.or.jp/