陳寿「魏志倭人伝」の風景(その1)
奴国までの道のり
今回の舞台は、猿丸太夫(神を助けた話・猿丸太夫・参照)の頃よりも更に時代をさかのぼった西暦200年前後です。「魏志倭人伝」によると当時の日本には「邪馬台国」という大国がありましたが、どこにあったかは確定されておらず、実に100か所近くの候補地(説)があります。ここでは、いくつかの説を頼りに日本の原風景を追っていきましょう。
出典:ウィキペディア・魏志倭人伝、新訂 魏志倭人伝(石原道博編訳)を踏まえた日本語訳、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D
「魏志倭人伝」以前の日本人についての描写
中国の歴史書に日本のことが記されたのは、紀元前1世紀頃の「漢書」です。以下のように100もの国が点在し、なかには漢(当時の中国の国名)に朝見する国もありました。
楽浪海中に倭人有り、分れて百余国を為し、歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。
出典:班固、「漢書」地理志(訳文)
また、「後漢書」東夷伝によると、西暦57年、奴国からの朝賀使に対して後漢の光武帝が与えたのが下に引用した「漢委奴国王印」とされています。
出店:Original uploader: User:金翅大鹏鸟 at zh.wikipedia, Public domain, via Wikimedia Commons、漢委奴国王印、福岡市博物館
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:King_of_Na_gold_seal.jpg
さらに、西暦107年(永初元年)になると、同じく後漢に対し帥升(すいしょう)という倭国の王の一人が朝貢を行ったという記録が残されています。「帥升」は外国史書に初めて名前を残した日本人となりました。
安帝の永初元年、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた。
出典:范曄、後漢書東夷伝
帥升が治めていた国については「奴国」とする説や「伊都国」とする説などがありますが、当時の日本には国々をまとめる王は存在しませんでした。魏志倭人伝(魏書東夷伝)などによると、1世紀後半の「倭国大乱」の後、諸国は邪馬台国の卑弥呼を女王として共立し、混乱が収まったとされています(~3世紀中頃)。
朝鮮半島の帯方郡や狗邪韓国
「魏志倭人伝」は邪馬台国への道のりを記すところから始まっています。
「倭人は帯方(今の韓国ソウル付近)の東南大海の中に住み、山島に依って国邑をつくる。」
出発点の「帯方郡」は古代朝鮮半島の中国の郡の名称です。中心地となる「帯方郡治」の場所は特定されていませんが、以下に引用したマップのように、「楽浪郡治」のあった北朝鮮・平壌の南、韓国・ソウル周辺のエリアにありました。
出典:Takomonja, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ancient_Korea_Taihougun.png
「もとは百余国。漢のときに朝見する者があり、いま使者と通訳を接触させているのは三十国である。郡(帯方郡)から倭に至るには、海岸に従って水行し、韓国(馬韓)を経て、あるいは南へ、あるいは東へ進み、倭国の北岸にある狗邪韓国(くやかんこく。伽耶・加羅・金海)に到着する。(帯方郡から隔たること)七千余里。」
下には3世紀中頃に朝鮮半島南部にあった「狗邪韓国」の遺跡とされる「大成洞古墳群」の写真を引用いたしました。こちらの丘陵周辺の平野部には1世紀から3世紀の古墳、丘陵の頂上には4世紀から5世紀の古墳が集中しているとのことです。魏志倭人伝の時代(2世紀後半から3世紀後半)には、ビルやマンションが建つ平野部にも古墳が点在していたかもしれません。
出典:写真AC、大成洞古墳群(金海)
https://www.photo-ac.com/main/detail/3571126/1
倭に渡る(対馬国)
「始めて一海を渡ること千余里で、対馬国に至る。その大官を卑狗(ひこ。彦か)と言い、副官を卑奴母離(ひなもり。夷守・火守か)と言う。居ると壱岐は絶遠の島で、四方は四百余里ばかりか。土地は山が険しく、深林が多く、道路は鳥や鹿の径(みち)のようだ。千余戸ある。良い田はなく、海産物を食べて自活し、船に乗って南北に行き、米を買うなどする。」
上には対馬の最北端・鰐浦にある韓国展望所からの写真を引用させていただきました。明るく見えるのは50㎞程度の距離にある韓国・釜山の町です。釜山は3世紀にはすでに都市として発展していたとのこと、当時も夜になると街の灯りが見えたでしょうか。
中国の使節が対馬のどこに立ち寄ったかは記されていません。当時の対馬の中心地は三根湾の周辺(現在の峰町あたり)にあったとされています。
ここでは三根湾の港付近の景色(上は周辺のストリートビュー)を見ながら、対馬の役人の歓待を受けている中国(魏)の使節たちの姿をイメージしてみましょう。
二つ目の島(壱岐国)
「また南に一海を渡ること千余里、瀚海(かんかい。大海・対馬海峡)という名である。一大国(一支・壱岐)に至る。官をまた卑狗と言い、副官を卑奴母離と言う。四方は三百里ばかりか。竹林・叢林が多く、三千あまりの家がある。やや田地があり、田を耕してもなお食べるには足らず、また南北に行き、米を買うなどする。」
下には「魏志倭人伝」の「一大国」の国都があったとされる「原の辻遺跡」周辺のストリートビューを引用いたしました。
こちらは丘陵の周囲を何重もの溝で囲んだ環濠集落で、丘陵の高い場所には一大国の王などの主要人物が住んでいたとされています。原の辻遺跡は公園として整備され、上写真のように当時の様子が復元されています。ここでは兵士が右側の見張り台から周辺を監視している様子をイメージしてみましょう。
九州上陸!草木の茂る末廬国
「また一海をわたること千余里で末廬国(まつろこく。松浦市周辺)に至る。四千余戸ある。山と海の間の海岸に居住する。草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない。好んで魚やアワビを捕え、水は深くても浅くても、皆が潜って取る。」
末盧国は、音の近い松浦地方の旧肥前国佐賀県唐津市に菜畑遺跡、松浦川や半田川、宇木川の流域に桜馬場や宇木汲田(うきくんでん)などの遺跡があるため、これらが中心領域に含まれていた地域と推定する研究者が主流である。(中略)風景描写等から呼子付近に上陸したとする考えが有力である。
出典:ウィキペディア、末ら国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E3%82%89%E5%9B%BD
上に引用したように末盧国は唐津市の周辺に比定されています。呼子は現在も「イカの町」として有名で朝市では下の写真のような浜焼きが人気です。当時の使節たちにもこちらのような食べ物が提供されていたかもしれません。
出典:写真AC、呼子朝市通りの浜焼き
https://www.photo-ac.com/main/detail/29573882&title=%E5%91%BC%E5%AD%90%E6%9C%9D%E5%B8%82%E9%80%9A%E3%82%8A%E3%81%AE%E6%B5%9C%E7%84%BC%E3%81%8D
また、下には呼子港周辺(呼子町小友)のストリートビューを引用いたしました。こちらから「草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない」という風景を想像してみましょう。
末盧国の候補地・唐津市にある「菜畑遺跡」は日本最古の水田跡とされていて、同所に立つ遺跡公園(末盧館)には以下に引用させていただいたような古代米(赤米)の水田が再現されています。魏からの使節が通ったのが秋だったとすれば、こちらのような風景を見ていたかもしれません。
海外の使者が常駐する重要拠点・伊都国
「東南に陸行五百里で、伊都国(いとこく・いつこく。糸島付近)に到着する。官を爾支(にき。稲置・県主か)といい、副官を泄謨觚(せもこ。島子・妹子か)・柄渠觚(へくこ。彦子・日桙か)と言う。千余戸ある。代々王がいたが、みな女王国に統属していた。(帯方)郡の使者が往来し、常駐する場所である。」
伊都国の場所については、下のように糸島市周辺という説が有力です。
糸島市三雲を中心とした糸島平野の地域に伊都国があったとする説が有力である。弥生時代中期後半から終末期にかけて厚葬墓(こうそうぼ)(王墓)が連続して営まれており、それが三雲南小路遺跡(三雲・井原遺跡南小路地区)・平原遺跡(曽根遺跡群)である。
出典:ウィキペディア、伊都国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%83%BD%E5%9B%BD
また、以下に引用させていただいたように、使節は糸島平野の西にある引津湾に停泊したといいます。
志摩の西側の引津湾は、弥生時代から奈良時代にかけて、古代朝鮮と往来した使節が停泊していました。
出典:一般社団法人糸島市観光協会、糸島観光サイト、つなぐいとしま
渡来してきた人々は、優美な山を見て、故郷の朝鮮半島南部にある「伽耶山」を懐かしみ「可也山」と呼んだという一説があります。
https://kanko-itoshima.jp/spot/kayasan/
下には引津湾周辺のストリートビューを引用いたしました。画面の左側には「可也山」の姿が映っています。こちらの港には海外使節を接待する迎賓館なども並んでいたかもしれません。
なお、糸島平野で発見された「平原遺跡1号墓」からは40面の鏡のほか、メノウ製管玉やガラス製勾玉といった装飾品が数多く発掘され、被葬者は女性と考えられています。このことから下の引用文のように、こちらを卑弥呼の墓という説もあるようです。
高島忠平は、卑弥呼はヤマト王権の大王と同様に、女王居処ではなく出身地に葬られたとし、平原遺跡が卑弥呼の墓である可能性が高いとして、伊都国の出身である可能性を示した。
出典:ウィキペディア、卑弥呼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC
現在、「平原歴史公園」内に復元管理されている「平原遺跡1号墓」とその周辺のストリートビューを引用いたしました。
二万余戸の大国・奴国
「東南の奴国(なこく・ぬこく。那珂川市、春日市、大野城市付近)まで百里で至る。官を兕馬觚(しまこ。島子か)と言い、副官を卑奴母離と言う。二万余戸ある。」
奴国の場所については、名前の類似性などから福岡県春日市周辺という説が有力なようです。
後の儺県(なのあがた)、律令制下での那珂郡周辺(現在の福岡県福岡市・春日市)に存在したと推定する研究者が多い
出典:ウィキペディア、奴国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E5%9B%BD
下には春日市にある高辻D・F遺跡の発掘調査の写真を引用させていただきました。稲作に適した平野部は外敵から狙われやすかったため、住居は丘陵地に築かれることが多かったとのことです。壱岐国の集落と同じく、周辺を濠・柵で囲み、見張り台を設けていたと考えられています。こちらの写真にいくつかの竪穴住居を置き、食事の支度をしているところなどを想像してみます。
ここで対馬から奴国までの道のりを再度、チェックしてみましょう。所在地に関連した文章を抜き出すと以下のようになります。
始めて一海を渡ること千余里で、対馬国に至る(中略)
出典:ウィキペディア・魏志倭人伝
また南に一海を渡ること千余里、瀚海という名である。一大国に至る。(中略)
また一海をわたること千余里で末廬国に至る。(中略)
東南に陸行五百里で、伊都国に到着する。(中略)
東南の奴国まで百里で至る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D
また、以下にはグーグルマップ上に概略の位置を記してみました。
上図の一大国は壱岐市(市役所)、末廬国は唐津市末廬館、伊都国は糸島市の平原遺跡、奴国は「春日市奴国の丘歴史資料館」の位置にプロットしています。
旅行などの情報
韓国展望所
対馬の最北端にある展望所で韓国までは約50㎞の近距離にあります。上では夜景を紹介しましたが、空気の澄んだ天気の日には釜山市の町並みを肉眼で望めます。2024年4月、下に引用させていただいたような韓国古代建築を思わせる姿にリニューアルされました。トイレや駐車場も完備なのでドライブの休憩場所としてもおすすめです。
なお、韓国展望所は対馬中央部にある「対馬やまねこ空港」からは約70㎞北上することになります(約1時間30分)。途中、古代の中心地だった三根遺跡の出土品を展示する「峰町歴史民俗資料館」や今から1350年前に築かれた朝鮮式古代山城・金田城なども併せて観光してみてください。
基本情報
【住所】長崎県対馬市上対馬町鰐浦
【アクセス】対馬空港から車で約1時間30分
【参考URL】https://www.nagasaki-tabinet.com
呼子朝市
末盧国観光で唐津市末盧館を訪れるなら、「呼子朝市」での買い物や食事もスケジュールに入れてみてはいかがでしょうか。輪島(石川県)や高山(岐阜県)と並んで三大朝市に数えられる大正時代からの長い歴史のあるスポットです。基本は毎日開催ですが、時間が朝7時30分から12時となっているのでお気をつけください。
上のストリートビューのようなわかりやすい看板が目印で、約200mに渡って点在する露店では新鮮や魚介類やその加工品のほか、野菜、花なども販売されています。購入したものを調理して食べさせてくれるお店もあるので、朝食や昼食にもご利用ください。
基本情報
【住所】佐賀県唐津市呼子町呼子
【アクセス】唐津駅または大手口バスセンターかバスを利用。バス停「呼子」で下車
【参考URL】http://www.asobo-saga.jp/