司馬遼太郎「空海の風景」の風景(その6)

遣唐使船に

渡唐を決意した空海でしたが(空海の風景の風景その4・参照)、天皇の待僧のポストを与えられていた最澄(空海の風景の風景その5・参照)と違い、遣唐使船に乗るための売りこみに奔走します。なんとか留学生として入唐することが許された空海は、停泊場所の那ノ津ではじめて最澄を目にしました。今回からは唐での相棒となるクセ者・橘逸勢も加えて「空海の風景」のストーリーを追っていきましょう。

最澄と空海の立場の違い

「最澄の渡唐志願は、わりあい容易であった。かれは宮廷の待僧ともいうべき十人の内供奉禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)のひとりであったし、天皇桓武との関係も深かった。」
最澄は「還学生(げんがくしょう)」という短期留学生の扱いで遣唐使船に乗り込みました。国から天台宗の体系を移入せよと委任されているため資金も潤沢に出たとのこと。還学生は後世の国立大学の教授よりも権威があったといいます。

「しかし空海は無名の僧にすぎない」
空海は、佐伯今毛人などを輩出し官界に勢力のある「大和佐伯氏」などの力を借りることにより、「留学生(るがくしょう)」として渡唐できることになりました。なお、留学生は約20年もの間、唐に滞在することが義務付けられており、生活費は自前で調達せざるを得ませんでした。

出典:写真AC、大阪・難波宮跡と法円坂遺跡
https://premium.photo-ac.com/main/detail/25049834?title=%E5%A4%A7%E9%98%AA%E3%83%BB%E9%9B%A3%E6%B3%A2%E5%AE%AE%E8%B7%A1%E3%81%A8%E6%B3%95%E5%86%86%E5%9D%82%E9%81%BA%E8%B7%A1

上には法円坂遺跡にある復元された巨大高床倉庫の写真を引用しました。こちらは遣唐使船の出発地・難波ノ津(難波津)の遺構とされています。大阪城公園に隣接した海から数km離れたロケーションにありますが、当時の風景は以下の様でした。
「難波ノ津は、潮がふかく内陸に入り込んで、かっこうの船泊まりをなしている。松の多い台上に、蕃客を接待するための鴻臚館がある。・・・・・・鴻臚館より西方をながめると、すでに目の下から海である。のちに市街地になる地の大半はなお海底にあり、潮が浅くはしっている。洲が多かった。白い沙の洲が点々と沖までつづき、入船は八十島といわれる洲と洲のあいだをめぐりつつ鴻臚館の下まで入ってくる。」

こちらの周辺で空海が乗船の作業に追われているところをイメージしてみます。
「空海はおびただしい荷物をもっていた。十人ばかりの人夫がそれをかついで船にのぼり、船底にはこびこんだ」

航海の危険性

「日本は推古八年(六〇〇)に遣隋使を送って以来、隋町へ四度、ひきつづき唐朝へは、空海らの第十六次遣唐使が出発するまで十五度(うち航海の都合での中止が二度)も使節を送りつづけてきた。送ることは、困難をきわめた。」

上には平城宮跡に再現されている遣唐使船の写真を引用しました。以下、遣唐使船についての説明を抜粋してみます。
「構造は、たらいのように底がひらたい。これを泛べれば波の上に浸っているという感じで、底のとがった中国船やアラビア船のように波を切ってゆくということができない。・・・・・・戸板を張りあわせたような構造であるために、荒波の攻撃にはわずかしか耐えることができなかった。この日本船の構造は、百済からの技術輸入によったものであるらしい。もともと百済そのものの造船技術が朝鮮半島における他の二国にくらべて遅れがあった。・・・・・・百済滅亡後、百数十年経つというのに、なおも昔の百済船に似たような、あるいはそのままかもしれない大船を作っていた。・・・・・・」

「空海の乗る遣唐使船が難波ノ津を出帆したのは、延暦二十三年の夏のはじめである。・・・・・・葛野麻呂が搭乗する船は四隻のうちの第一船であった。空海は葛野麻呂にもほとんど顧みられることもなく、船室の片すみにすわっていたであろう。」

遣唐使船内の風景

「船内では、葛野麻呂のまわりで、最澄のことがたえず話題になっていたと思える。―――禅師どの(最澄)との連絡はとれているか。といったぐあいに、である。最澄はこの時期、九州にいた。かれはさきにこの遣唐使船が暴風にあってひきかえしたとき、そのまま九州へ上陸して、大宰府にとどまった。船団が出直す場合の航海の安泰を祈るため竈門山寺などに籠り、とくに薬師仏四体をつくって一年余というあいだ、祈祷をつづけていたのである。・・・・・・」

下にはそのころの最澄の修行の地と伝わる竈門山(宝満山)の「伝教大師窟」の写真を引用しました。最澄は航海安泰の祈祷をするかたわら、こちらの窟で修行をしていたとされています。ここでは、自然と一体になって「止観業」を行う最澄の姿を置いてみましょう。

出典:写真AC、宝満山登山「伝教大師窟」
https://www.photo-ac.com/main/detail/22692689

「船団は、瀬戸内海を無事航走していた。讃岐の多度津の沖合を通るときに、空海は左舷の舩側に身をよせてはるかに磯のかなたを見つめたことであろう。空海の父は故人になっていたが、母は健在であり、おそらくは母は磯まで出て、沖を通るこの船を見送ってくれているにちがいなかった」

下には多度津沖に浮かぶ高見島から空海の故郷に近い多度津町の方面を見たストリートビューを引用させていただきます。空海もこちらのような景色を眺めていたでしょうか。

最澄の姿

「空海と最澄とは、いつどこで対面するのか。空海が難波ノ津で乗船したときは、むろん最澄はそこにいない。」

上で引用したように最澄は大宰府で待っていました。「空海の風景」で空海が初めて最澄を見るのは那ノ津(なのつ)と呼ばれた博多湾の奥にあった港です。

「船は、この那ノ津で泊まる。一同、ここで下船し、野を歩いて大宰府へゆくのである。・・・・・・最澄は那ノ津の浜まで出むかえていた、と思える。むろん、空海を出迎えていたのではない。正使の藤原葛野麻呂と副使の石川道益をむかえるがためである。」

出典:福岡市の文化財公式FACEBOOK、平成30年度市民講座「鴻臚館学」入門 開催のお知らせ
https://www.facebook.com/bunkazai.city.fukuoka.page

上には復元された鴻臚館や那ノ津周辺のCGを引用させていただきました。こちらの砂浜のどこかに以下のような人物たちを配置してみましょう。
「この那ノ津の磯では、逸勢のような階等の者は波うちぎわにむらがり、指示のくるのを待っていた。空海もそういう階等の一人だったが、しかしかれだけはごく自然に群れから離れていた。むこうの松林のなかに、藤原葛野麻呂ら高官たちがいたはずである。当然、最澄もいた。」

最澄について、「空海の風景」では以下のように表現しています。
「(あれが、最澄か。・・・・・・)と、空海は、遠目ながらも最澄のすべてを見ぬいてしまいたいような衝動をもって見つめたはずである。空海が想像していたよりも小柄な男だった。頭が大きく、足腰がかぼそげに見え、一本の槌が立っているように見える。表情まで窺えなかったはずであるが、全体として葛野麻呂にいささかも媚びている様子がない。そのあたり、空海はいかにも意外だった。もともと、宮廷での遊泳がうまい男だと思っていたのだが。・・・・・・」
とあります。

橘逸勢(たちばなのはやなり)

「ここで小説としての描写をすれば、『あれが内供奉十禅師の最澄だ』と、空海の背後でささやきかける人物を設定しなければならない。声にとげがあった。そのとげのために、宮廷の大人たちからかならずしも好かれていない若者である。橘逸勢(たちばなのはやなり)という儒生だった。」

出典:黒木安雄 編『古文書鑒』,中興館,大正12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/967779 (参照 2024-10-31、一部抜粋)、第五 橘逸勢筆 行艸 願文(伊都内親王願文)/6
https://dl.ndl.go.jp/pid/967779/1/16

のちに嵯峨天皇や空海とともに「三筆」と称される橘逸勢の代表的な書「伊都内親王願文」の写真を引用しました。書体は行書と草書をおりまぜ、字の大きさも変化させていて、リズム感が豊かとされています。筆跡とおなじく性格も自由だったようです。

「空海はこの那ノ津までの船中、たれとも進んで語ることなく、森の中で弧り起臥しているようにしてすごしていたのだが、逸勢だけが近づいてきて、小むずかしい議論を吹っかけたりした。・・・・・・逸勢のほうは空海に驚嘆したはずである。空海は博覧強記の人であった。逸勢はおそらく空海が好色な雑書までよんでいることにもおどろかされたに違いない。」

司馬さんは以下のような逸勢と空海の会話が「ありあり見えるような気がする」といいます。

逸勢「なぜ僧になった・・・・・・女がほしくはないか」
空海「あたりまえではないか・・・・・・だから仏法を志したのだ」

那の津(博多港)に上陸

話を那ノ津の浜に戻しましょう。
逸勢「あれが内供奉十禅師の最澄だ・・・・・・くだらぬ男だろうよ」
空海「そうではあるまい」
「と、むしろ逸勢を軽蔑するような顔をする。空海にとって最澄があさはかにみえるのは、天台教学のような生命感覚の希薄な体系に血迷っていることだけであった。それを思うと、浮世の名声のわりには何と感受性のにぶい男かとおもわざるをえないのだが、しかし松林の中にいる当の最澄が、逸勢が唇を反らしていうほどにくだらぬ男とは見えない。少なくとも(―――儒者よりはましだ)と逸勢をふりかえって、蠅を追うようにいいたかったであろう・・・・・・」

上には鴻臚館の復元イメージの動画を引用させていただきました。
「空海らが、このまま客舎である鴻臚館に入ったことは、疑いを容れない。どの時期の遣唐使の一行も、そのようにしていたからである。」

時期区分第Ⅰ期(7世紀後半~)
・・・(中略)・・・
時期区分第Ⅱ期(8世紀前半~)
・・・(中略)・・・
時期区分第Ⅲ期(9世紀初~)

出典:福岡市役所公式サイト、国史跡鴻臚館跡整備基本計画、第2章 鴻臚館跡の 概要と現状
https://www.city.fukuoka.lg.jp/index.html

以下にはCGに登場する時期の目安について、福岡市役所の公式サイトから引用させていただきました。空海が渡唐したのは西暦804年とされていますので、CGのI期またはⅡ期の建物だったと思われます。ここでは、空海たちが館内に入っていくシーンを想像しておきます。

最澄は大宰府の宴席へ

「那の津から東南にむかえば大宰府である。ひとすじの官道がはしっている。それをゆくと、やがて長大な土塁が前方の野をながながと塞いでいる。・・・・・・水城とよばれているように、博多湾に外敵が上陸したとき、たちまちそのあたりを水浸しにするような防衛上の機能を秘めているのだろうか。その土塁が官道と交差するところに、雄大な城門がそびえていた。城門には、正使藤原葛野麻呂をむかえるべく、太宰大弐が供をそろえて待っていた。」

以下に引用させていただいたのは水城跡周辺の古代官道の資料です。鴻臚館を拠点に滞在した葛野麻呂たちが大宰府に向けてたどったのは西門ルートだったでしょうか。

出典:大野城市役所公式サイト、水城跡周辺の古代官道(山村信榮 1993「大宰府周辺の古代官道」『九州考古学』第68号より)
https://www.city.onojo.fukuoka.jp/s077/030/010/170/050/20190225135204.html

「この都城には左右十二筋の南北道路が走り、東西には二十二筋の道路が通じていて、精密な条坊をなしていた。その朱雀大路にあたる中央道路の奥に、内裏に相当する都督府がある。目の前にそびえている都府楼のいらかが、その位置を示していた。
以下には当時の大宰府の様子をイメージできる動画を引用させていただきました。

観世音寺を訪問

「大宰府では、数旬、滞留した。その間、空海はたんねんに大宰府の官衙、寺院、学校、病院などを見てまわったであろう。かれは帰国後、大宰府にとどまったほどだったから、この時期に幾人かの知人をつくったに相違ない。」
注)旬=10日間

出典:写真AC、観世音寺の風景
https://www.photo-ac.com/main/detail/3228283

帰国後に空海がとどまることになる観世音寺の講堂(上に引用)は、現在の講堂(元の本堂)の約2.5倍の敷地があったとのことです。また、室町時代に描かれた「観世音寺伽藍絵図(下に引用)」によると、写真の右側には五重塔などもあったことが分かります。

出典:東京美術学校 編『観世音寺大鏡』,大塚巧芸社,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1119460 (参照 2024-11-01、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1119460/1/63

「観世音寺の規模の大きさに空海は、存外な思いがしたであろう。奈良の大寺の規模をしのぐほどで、着工後、多少事情の曲折があったとはいえ、八十年の歳月がかかったというのも当然だったかもしれない」

出典:東京美術学校 編『観世音寺大鏡』,大塚巧芸社,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1119460 (参照 2024-11-01、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1119460/1/15

さらに上に引用させていただいたように本堂には5mを超える仏像が立ち並んでいました(写真は昭和初期のもの)。空海もこちらのような堂内の壮観さに感銘を受けていたことでしょう。

旅行などの情報

鴻臚館跡展示館

空海が那の津に滞在していた際に宿泊していた鴻臚館の跡地です。7世紀後半から11世紀前半まで大陸の使節などをもてなす迎賓館として使用された重要な場所でした。

出典:福岡市公式サイト、鴻臚館跡展示館
https://fukuokajyo.com/facility/kourokan-ato-tenjikan/

建物は残っていませんが上に引用させていただいたような遺構が公開されています。パネルや復元建物などの展示を見ながら空海の頃の風景を想像してみてください。ほかにも中国の青磁や白磁器、イスラムの陶器や西アジアのガラス器などが展示され、当時の交易範囲の広さを知ることができます。

基本情報

【住所】福岡市中央区城内1
【アクセス】市営地下鉄・赤坂駅から徒歩約7分
【参考URL】https://fukuokajyo.com/kourokan/

観世音寺

空海が帰国後、大宰府で長期間滞在することになるお寺です。天智天皇の発願で80年の歳月をかけて建てられた西日本最大級の寺院でした。創建当初の梵鐘が残り(現在は九州国立博物館に寄託)、参道は昔の場所をそのまま引き継いでいるとされます。

上に引用させていただいた投稿のように、講堂に鎮座していた巨大な仏像は現在、宝蔵で拝観できます。また、紅葉の名所でもありますが、大宰府天満宮などと比べて空いているので比較的ゆったりと散策を楽しめるでしょう。

基本情報

【住所】福岡県太宰府市観世音寺5-6-1
【アクセス】西鉄五条駅から徒歩約13分
【参考URL】https://kanzeonji.net/