司馬遼太郎「空海の風景」の風景(その12最終回)

兜率天へ

空海の書は変幻自在で実体がつかめないとのこと。真蹟を参照しながら「空海の風景」を追っていきましょう。空海は仏教の呪術部門に過ぎなかった密教を体系化し「真言宗」を開創します。修禅の道場として高野山を開き、官寺の東寺を真言宗の根本道場とするなどの仕上げをして、兜率天へ上っていきました。

中国の能書家の書

「空海の風景」では最澄と空海の決裂の話(空海の風景の風景その11・参照)のあと、空海の書について語ります。空海がお手本とした中国の能書家や最澄の書にも触れられているので、書の写真を引用しながら文章を追っていきましょう。

「日本の書道は、奈良朝以来、王羲之(三〇七?~三六五?)をもって、いわば流祖としてきている。・・・・・・その書風は典雅で巧緻ながらも微妙な変化があり、さらには端整で明朗ながらもほどよい陰影をもつ。・・・・・・書における王羲之の権威はかれの在世中からのものであったが、その死後三世紀をへて唐の太宗(五九八~六四九)がこれを好んだために唐朝を通じて圧倒的なものとなった。・・・・・・」

下には代表作とされる「蘭亭序(写し)」の写真を引用しました。なお、「蘭亭序」の原本は唐太宗が陵墓に副葬させたため現存していません。それ以外の王羲之の真筆も戦乱などで失われ、現在は模写と石版や木板に模刻した拓本のみが残っています。

出典:copyst after Wang Xizhi (ACE 303-361), Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Lanting_P3rd.jpg

また、空海が入唐したころには「顔真卿」の書も流行りつつありました。その書体について「空海の風景」では以下のように描かれています。
「かれは書の姿態の美しさを追いがちな王羲之流に反撥してあたらしい書風をひらいた。その剛健な書風は北魏の影響がつよいところから、正統の王羲之流をわざわざ南帖流といい、べつに北方人でもない顔真卿の書風を北魏流とよぶほどに、両者は対蹠的である。
 顔真卿の書法は、指掌をうごかすような小わざを用いず、ひじを張り、筆を垂直に立て、そのままひじでもって筆を垂直に圧しつつ筆画をつくるという肘腕法を専一としている。」

出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム、逍遥楼三大字(顔真卿)
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/TB-315?locale=ja

上には顔真卿の代表作「逍遥楼」の題字の写真を引用しました。勢いのあるは以下のようにも表現されています。
「『点は墜ちてくる石のごとく、画(かく)は夏の雲のごとく、鉤(こう)は屈金のごとく、戈(か)は発弩のごとく』」

最澄の書

空海の書にいく前に、最澄の真蹟についての記述を抜粋してみます。
「最澄の書は、変化することがない。・・・・・・いずれも気品に満ち、ながめていて心が洗われるような思いがする。しかし、書風はいかにも単純で、奈良朝以来の王羲之流からはずれることがなく、王羲之の模倣というよりも、ここまで堅牢に書風が確立すれば、こちらの文字は最澄その人というよりほかない。・・・・・・」

最澄の書は
「書を芸術とは見ず、表現の一手段とみていたし、まして書をもって自己顕示の一手段にしようという意識はなく、ともかくもその言葉どおり、一点一画もゆるがせにせず、字画に誤りなからんように心くばりし、ちょっとした消息文を書くにも、一字々々によほど長い時間をかけていたような気配がある。最澄の書における清雅さは、ひとつにはそういう態度からもきているのであろう。」

出典:出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム、最澄筆 尺牘(久隔帖)
https://colbase.nich.go.jp/collection_item_images/narahaku/648-0?locale=ja

上には冒頭の文をとって「久隔帖(きゅうかくじょう)」と名づけられた最澄肉筆の写真を引用しました。こちらは最澄から(泰範を通じて)空海へ送ったもので、空海から送られた詩の序文に書かれている書物の意味を教えてほしいという内容とのこと。
「その素直さが、いかにも最澄らしい。・・・・・・その書も、文章にはまことによく適合し、最澄がそこに生きてうずくまっているような感じさえする」
とあります。

空海の書

一方、空海の書については、司馬さんと交流のあった書家の榊莫山氏が以下のように表現されていたとのこと。
「空海の書は写真うつりがいい・・・・・・それに、空海というのは最澄とちがい、書くたびに書体も書風もかえていて、どこに不変の空海が在るのか、じつにわかりにくい」

「かれが最澄にあてた手紙は数多かったであろうが、その三通だけが現存して『風信帖』(東寺蔵)と名づけられている。この書風がどの流派に属するかは、見る人によって多少異る。・・・・・・が、むしろ王羲之風であるとするほうが素直であろう。」
下には風信帖の一部を引用させていただきました。

出典:尾上八郎 著『和様書道史』,下中彌三郎,1934. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1185337 (参照 2024-11-27、一部抜粋)、風信帖
https://dl.ndl.go.jp/pid/1185337/1/24

「空海の真蹟として『灌頂記』(高雄山神護寺蔵)も現存している。『灌頂記』は空海が・・・・・・高雄山寺で灌頂をさずけた人名簿で、最澄の名も入っている。・・・・・・その書風はあきらかに顔法である。」

下には前回(空海の風景の風景その11・参照)と同じ「灌頂記(灌頂歴名)」の写真を再度引用しました。

出典:中野楚渓 編『神護寺伽藍名宝帖』,神護寺,昭13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1262993 (参照 2024-11-25、一部を抜粋)、灌頂歴名の一部
https://dl.ndl.go.jp/pid/1262993/1/41

「卒意で書く場合は手なれた顔法を用い、最澄に手紙を出す場合はあらたまって王羲之風にするというのは、最澄が王羲之流のいわば端整そのものの書き手だったからであろう。最澄に対し『自分は、あなたの書風である王羲之に準ってでもこれだけ書けるのである』というふうに、まさか衒ったということはないにせよ、すくなくとも相手を見、また書くべき場合によって、書風を変えたということは、『風信帖』によってもかすかながら想像できるのではないか。」

空海の書と密教

また、「飛白体」も空海が得意とした書体でした。
「飛白という奇抜な書体は、こんにちでは空海の書風についての一特徴とされるにいたっている・・・・・・」

嵯峨天皇は空海が献上した「飛白書一巻」をみて
「『これが、物の本に見える飛白というものか』と、ほとんど神秘の思いで眺めたにちがいない」
とあります。

下には空海作と伝わる飛白体の書「真言七祖像賛」のなかから龍猛の部分を引用します。

出典:陽明文庫 編『陽明文庫図録』第3輯,陽明文庫,昭和16.5-18.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1143270 (参照 2024-11-27、一部抜粋)、眞言七祖像梵漢名號
https://dl.ndl.go.jp/pid/1143270/1/19

書についての章は以下のように結ばれています。
「空海の書は、霊気を宿すといわれる。
 その書に空海がどこにもなく、機に臨んで応変していても、一すじの霊気が立ちのぼっているとすれば、密教者である空海にとってもっともその思想にふさわしいありかたであるかもしれない。・・・・・・空海の書にもし霊気があるとすれば、それだけが空海の本体なのであろう。」

高野山

「私事になるが、太平洋戦争中の夏、学生のまま兵隊にとられるというので、似た運命になった友人二人と徒歩旅行をした。計画というのは吉野からまっすぐに熊野の大山塊を突きぬけて潮ノ岬へ出、熊野灘を見ようということで、吉野の下市の小さな駅舎にあつまり、やがて山へ入った。友人の一人が、熊を追うための脇差をもってきたのは、滑稽というべきだった。・・・・・・吉野の黒滝村は、暗夜に通りすぎた。天川村へ出、天ノ川の渓流をさかのぼれば十津川に出られるはずと思い、幾夜かさねて大塔村にたどりつき寺にとめてもらった。」

上には下市口駅から大塔村(現・五條市)までの地図を引用させていだきました。旧道を中心にたどってみると、司馬さんたちが歩いたルートは青線のようだったかもしれません。予定では大塔村(道の駅・吉野路大塔の辺り)から天ノ川に沿って南下するはずでしたが、西方向に行ってしまったようです。
「そのあと、やはり川筋をたよりにさかのぼったが、途中、川筋をとりちがえたのか、ゆくほどに流れが細くなり、道もけものみちのようで、空木の木などがはびこり、歩くのに難渋した。」

例えば大塔村から高野山へは大峯道(高野天川線)という古道が通じていました。現在は大部分が舗装されていますが天狗木峠付近には下のストリートビューのような古道の雰囲気を感じられる場所もあります。

「それでも一晩中登りにのぼるうちに、不意に山上に都会が現出した。深いひさしの下にある門燈に寄って行ってきくと、ここは高野山だという。いまふりかえってみると、このときの驚きが、私にこの稿を書かせているようでもある。」

出典:国土地理院、金剛峯寺前駐車場付近(2022年)
https://maps.gsi.go.jp/#15/34.212956/135.583692/&ls=ort%7Cnendophoto2009%7Cnendophoto2010%7Cnendophoto2008%7Cnendophoto2012%7Cnendophoto2018%7Cnendophoto2017%7Cnendophoto2016%7Cnendophoto2015%7Cnendophoto2011%7Cnendophoto2023%7Cnendophoto2022%7Cnendophoto2021&disp=0000000100010&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m

天空の宗教都市ともよばれる高野山は上に引用させていただいた空中写真のように、周辺は山々に囲まれ、人家はほとんどありません。なお、司馬さんが大峯道を利用したとすると、写真の右側・中央より少し上の道から高野山に入ったと思われます。

なお「空海の風景」の別の箇所(中公文庫2012年版・P346)ではその時の高野山での感想を以下のように述べています。
「ここより山上がはじまるという西端の大門は、二層の楼を積みあげ、青みがかった硫化銀のようないらかが天空にそびえている。この楼門の柱の青丹がなおあざやかであったころ、長安の都城の門と、あるいはそっくりだったのではないかとう空想はゆるされていいかもしれない。」

下には近年の高野山・大門の写真を引用させていだきました。

出典:写真AC、高野山・大門1
https://www.photo-ac.com/main/detail/454972?title=%E9%AB%98%E9%87%8E%E5%B1%B1%E3%83%BB%E5%A4%A7%E9%96%80%EF%BC%91

「大門を入れば、長安でいえばすでに城内である。長安の特徴であるひろやかな街路がひとすじにとおっている。・・・・・・宿坊といわれる僧たちの邸宅が塀をつらねている光景も、長安にさも似ているのではないかと思われる。」

高野山の成り立ち

「空海が高野山を発見するにいたる伝説は、幾種類かある。『二十五箇条御遺告』の第一条に、かれがある年、高野山に登ったとき、このあたりの地主神である丹生都比売(にゅうつひめ)命が、土地の司祭者に憑いて、―――自分は菩薩(あなた)を待つことが久しかった。と言い、この山をあげて空海にあたえると信託したという。・・・・・・」

以下には「高野大師行状絵巻」に描かれる丹生託宣の場面を引用させていただきました。
なお、こちらのような伝説があるにしても、空海は修行時代から
「山上が平らで広やかな山をさがしていたのではないかと思われる。」
ともあります。

出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム、高野大師行状絵巻(模本)、丹生託宣事
https://colbase.nich.go.jp/collection_item_images/tnm/A-6912?locale=ja

都から離れた場所に本拠地を置いた理由の一つとして、以下のような空海の思いがあったのではと記しています。
「かれが多能であればあるほど、さらにはその中国的教養が比類のないものであればそうであるほどに、ともに語るべき相手のないことに淋しみを感じつづけたのではないかと思われる。かれが長安に在った日々は、そうではなかった。」
「空海がこの地を卜するや、実慧や泰範をやって地を拓き、一、二の建造仏を建てさせた。空海はおそらく実慧には、高野山についてのかれの大構想のようなものをひそかに語っていたのではないかと思える。『長安を偲びたいのだ』と洩らしたかどうかについては、あくまで空想である」

上には高野山で最初に開拓された壇上伽藍(金堂や根本大塔などがあるエリア)周辺の空中写真を引用させていただきました。なお、中央部の龍光院は空海が住んだ場所とされています。

「空海は、天皇にも倦き、京の田舎くさい貴族たちにも倦き、あるいは南都の泥くさい長老たちを相手にしていることにも倦いたであろう。・・・・・・かれにとって必要な山林は、権力の諸階級の住む場所から離れ、その隔絶された場所において別の王国をつくるということであったかと思える・・・・・・空海が、都人士の知らない所に別天地を築き、都と同様の華麗な街衢をつくり、そこで悠々と四季をながめたいという気分は、模範としては兜率天があるであろう。しかし現実の造形イメージとしては、長安の街衢であったろうか。」

東寺の立体曼荼羅

高野山を修禅の道場とすることは国から許可が出ましたが、支援金などは一切ない私寺であるため施設の建設はなかなか進みません。そんな時、国が管轄する京都・東寺を密教道場として利用してはとの誘いがあります。

「空海は東寺に講堂を建立し、そこにおさめた二十一尊の仏像(五仏、五菩薩、五大明王、六天)は、わが国最初の密教の正規の法則(儀軌)による彫像であった。仏像のまわりの装飾的な装置も、祈念するに必要な法具も正密によるすべてであり、密教の造形上の法則とシステムは、高野山に先んじて東寺において大完成した。」

出典:Zairon, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kyoto_To-ji_Kodo_Innen_8.jpg

上には近年の東寺講堂内の立体曼茶羅の写真を引用しました。ここでは見慣れない密教仏の造形について仏師たちに指示を出す空海の姿をイメージしてみましょう。

空海の死

空海は八三五年に六十二歳で亡くなります。
「しかし死んだのではなく入定したのだという事実もしくは思想が、高野山にはある。この事実は千余年このかた継承されてきた。こんにちもなお高野山の奥之院の廟所の下の石室において定にあることを続け、黙然とすわっていると信ぜられているし、すくなくとも表面立ってこれを否定する空気は、二十世紀になっても、高野山にはない」
下には御廟所の拝殿となっている燈籠堂・御影堂の写真を引用させていただきました。御影の向こう側にある御廟の地下石室には空海が印を結んで入定しているとされています。

「生を終えるにあたって、かれが、いまから兜率天にのぼり、弥勒菩薩の御前に侍るつもりだ、といったことは、いかにも論理家らしく若年のときの言葉とみごとに照合しているのである。かれは『御遺告』においていま一つ付け加えた。
『兜率天にあって自分は微雲のあいだから地上をのぞき、そなたたちのあり方をよく観察している。さらには五十六億七千万年ののち、自分はかならず弥勒菩薩とともに下生し、わが跡を訪うであろう。そのときよく勤めている者は祐(すく)いをうけるであろう。不信の者は不幸になるはずである』
 この言葉は紛れもなく空海の肉声であるかと思える。」
とあります。

上には奥之院とならび高野山の二大聖地とされる壇上伽藍の根本大塔・立体曼荼羅の動画を引用させていただきました。胎蔵界の大日如来のまわりを金剛界の四仏が囲み、「金胎不二(胎蔵界と金剛界は表裏一体)」という空海の思想が極彩色で表現されています。

旅行などの情報

東寺

正式名称を教王護国寺といい空海が密教寺院として管理を任されたお寺です。五重塔は木造建築としては日本一の約55mの高さがあり、新幹線の車窓からも見えるシンボル的な存在になっています。また、境内には瓢箪池という大きな池があり、下に引用させていただいたような紅葉や新緑のライトアップも見どころです。

「講堂」には如来・菩薩・明王・天部の二十一尊からなる立体曼荼羅が展示され、密教の世界の迫力を感じられるでしょう。春と秋には国宝や重要文化財を多数所蔵する宝物館も開館しますので、SNSなどで最新情報をチェックしてお出かけください。

基本情報

【住所】京都府京都市南区九条町1
【アクセス】近鉄東寺駅から徒歩約10分
【参考URL】https://toji.or.jp/

金剛峰寺・壇上伽藍

金剛峰寺は空海が開山した真言宗の総本山です。「紀伊山地の霊場と参詣道」という世界遺産にも選定され観光客でも賑わっています。なかでも「壇上伽藍」は空海が高野開山のときに最初に開拓した場所とされ高野山のなかでも見どころが多い場所です。

出典:I, KENPEI, CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/, via Wikimedia Commons、高野山・三鈷の松
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Koyasan-sankonomatsu.jpg

「西塔」は上でご紹介した「根本大塔」とセットで設計されたとのこと。根本大塔の本尊が胎蔵界大日如来であるのに対し、金剛界大日如来が祀られていて「金胎不二」を表現しています。また、空海の投げた三鈷杵がかかったという伝わる「三鈷の松」はご利益のあるスポットとして有名です。珍しい三葉の松を拾ってお守りにすると運気が上がるとされているので、探してみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】和歌山県伊都郡高野町高野山132
【アクセス】高野山ケーブル高野山駅からバスを利用。金剛峯寺前で下車
【参考URL】https://www.koyasan.or.jp/

金剛峯寺・奥の院

「奥の院」は空海の御廟がある場所で「壇上伽藍」と並んで高野山の聖地です。廟所の手前にある燈籠堂(とうろうどう)という参拝所があるので、こちらで弘法大師にお参りをしましょう。また、入口からの2kmほどの参道に織田信長や武田信玄・勝頼父子、石田三成や明智光秀といった戦国武将たちのお墓を含め、約20万基のお墓が老杉に囲まれてならふ姿は壮観です。

春と秋の「奥之院萬燈会」や夏の「萬燈供養会」では燈籠やろうそくで辺り一面が荘厳な雰囲気になります。上には萬燈供養会(2023年8月)に竹細工で製作された「種字曼荼羅」の写真を引用させていただきました。日程などの詳細は公式サイトにてご確認ください。

基本情報

【住所】和歌山県伊都郡高野町高野山550
【アクセス】高野山ケーブル高野山駅からバスを利用。奥の院で下車
【参考URL】https://www.koyasan.or.jp/