内田百閒「第二阿房列車」の風景(その4)
雷九州阿房列車(前章)
今回の阿房列車は「鹿児島急行『きりしま』のコムパアト(寝台車)」で、前回(第二阿房列車の風景その3・参照)と同じく八代に宿泊、熊本、別府と九州各地を巡ります。先生たちは行く先々で美味しいお酒や地元の食べ物を楽しみますが、九州では何十年に一度という大雨が待ち受けていました。先ずは八代に到着するまでの比較的平和な旅路を追っていきましょう。
梅雨の東京
「暦の上の入梅から十日計り過ぎた」、「今日、六月二十二日も雨である。お午(ひる)まえ、不世出の雨男ヒマラヤ山系君が面白くもなさそうな顔をして」迎えにきます。先生はいつものように昔の学生・交趾君の立派な鞄を借りて、準備も万端です。
下には引用させていただいたのは先生が阿房列車を運転して昭和20年代後半の東京の写真です。ここでは「外へ出たらタクシイの空車が来た。だから乗った」とあるように先生と山系君が雨の中、タクシーに急いで乗り込む姿をイメージしてみます。
使わなくなったトンネルが心配
昼の12:30過ぎに(いつものとおり)夢袋さんに見送られて東京を出発、静岡駅を過ぎて日本坂隧道(トンネル)の周辺で印象的な場面があります。日本坂隧道は「戦前の何年頃からか、頻りに出だした弾丸列車の計画に関連した新隧道」でしたが弾丸列車(今の新幹線)の計画中止により東海道本線のトンネルとして流用されました(現在は東海道新幹線が使用)。
その後、弾丸列車計画全体は中止となったが、当トンネルの工事は在来線用に流用するため継続し、1944年(昭和19年)完成。前後に東海道本線を横取りするような線路が追加され、在来線用に1962年(昭和37年)まで利用された。1962年以降は東海道新幹線のトンネルとして整備され、1964年(昭和39年)の開業と同時に供用開始(再開)。
出典:ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9D%82%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB
今まで東海道線で利用されてきた「石部隧道」や「磯浜隧道」の2本(上下計4本)が使われなくなったことに対し「さあ、私は気になりだした。・・・もとの所に不用になったトンネルが四本ころがっている。どうするのだろう。どうにかなりませんか」と記します。
ちなみに、昭和37年に磯浜隧道・東京側坑口と石部隧道・神戸側坑口間を接続し、東海道本線・(新)石部トンネルとして再利用されています。ただ、下に引用させていただいた写真のように石部隧道の神戸側坑口は台風などで崩落し、廃墟写真の有名なスポットに!こちらは先生が心配していた通りになりました。
出典:栗原 岳 (Gaku Kurihara), CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Old.tokaido.line.sekibe.tunnel.jpg
名古屋で機関車につけ換え
「きりしま」は名古屋でけん引車を電気機関車から蒸気機関車に変えて進みます。梅雨の季節だけあり「沿線の苗代や田植えの景色が・・・車窓から眺められる」とあります。
下に引用させていただいたのは急行「きりしま」の在りし日の姿です。この窓のどこかに外を眺めている百閒先生の姿を置いてみましょう。
食堂車での風景
先生たちは「雲の垂れた窓外を眺めながら、少少早目に食堂車の一献を」開始。始めたころはまだ外の景色を眺められる明るさでしたが山系君とともお酒を交わすうちに「窓の外はもう暗かった。岐阜大垣を過ぎて・・・関ケ原、醒ケ井の辺りに今夜は雨が降っていたか、どうかも知らなかった」というように夜まで宴は続きました。
下には0系新幹線の食堂車の写真を引用させていただきます。前列の右側の方を先生と見立ててコース料理を食べながら愉快に過ごす2人を想像してみましょう。
食堂車で鎌倉蝦(えび)を注文
コースの途中で先生はボイに鎌倉蝦(えび)なる食べ物を注文するシーンがあります。あまり耳慣れませんが伊勢海老と同種の大型エビで、鎌倉沖で獲れたものの名称です。江戸時代には伊勢海老と並ぶブランド海老だったとのこと。昭和30~40年代に漁獲高が激減し「鎌倉海老」の名前が姿を消していったようです。
なお、下に引用させていただいたように今でも「鎌倉海老」のメニューを食べられるお店もあります。ここでは一尾の伊勢海老をお酒と一緒に美味しそうにつまむ先生たちの姿を想像してみましょう。
寝台車の居心地は?
先生たちが搭乗した「きりしま」には「マイネ40」という寝台車が連結されていました。寝台は下に引用させていただいたような構造になっていたとのこと。二人掛けの座席が夜になると2段ベッドに変形できるようになっています。
いつものように上は山系君が下は先生の指定席です。先生は故郷の岡山で一度目を覚ましただけで、ぐっすりと就寝します。次の日起きてみると、山系君は早々に起きて食堂車に朝飯を食べに行った後でした。ここでは、先生が一人で「ぼんやりしたなり一服した」シーンをイメージしてみます。
外は雷
走行中はずっと雨が続き下関あたりでは雷鳴が響きます。今回の先生の旅行期間中、九州地方は豪雨に見舞われ「六十何年来という災禍が襲い掛かろうとして」いました。その豪雨地帯に吸い込まれるように「私の汽車は関門の朝雨をついて、颯爽と走っていった」とあります。
下に引用させていただいたのは「碓氷峠鉄道文化むら」に保存されている「マイネ40」の車内の写真です。ここでは座席に先生と山系君を配し、「水田に走った稲妻」を不安気に眺める姿を想像してみましょう。
旅行などの情報
碓氷峠鉄道文化むら
こちらには先生が乗り込んだ「きりしま」の寝台車と同型の「マイネ40」が展示されています。元は第二次大戦後の進駐軍の軍用列車として製造されたもので、先生が述べているように当時としては珍しく空調が設置された最新の列車でした。その後、鉄道工事従事者の移動宿泊者などに流用されますが、復元改造を経て現在に至っています。
ほかにも碓氷峠で活躍したEF63形の鉄道シミュレーターや、下に引用させていただいたような廃線路を利用したトロッコ列車などもあり、子供から大人まで楽しめるでしょう。
基本情報
【住所】群馬県安中市松井田町横川407-16
【アクセス】JR横川駅から徒歩約2分
【参考URL】https://www.usuitouge.com/bunkamura/