内田百閒著「第二阿房列車」の風景(その4)

九州への旅(前編)

雨男のヒマラヤ山系君

「暦の上の入梅から10日計り過ぎた・・・・今日、6月22日も雨である。お午まえ、不世出の雨男ヒマラヤ山系君が面白くもなさそうな顔をしてやって来た」と始まります。今回の旅は「往きも帰りも鹿児島急行きりしまのコムパアト(寝台車)である」とあります。下に引用させていただいたのは先生が阿房列車を運転していたころの東京の写真です。ここでは「外へ出たらタクシイの空車が来た。だから乗った・・・」とあるように先生と山系君が雨を避けながらタクシーに乗り込む姿をイメージしてみます。

どうするのだろう。どうにかなりませんか

今回乗る急行は「きりしま」という名称の鹿児島行きの寝台です。昼の12:30を過ぎるといよいよ東京を出発。静岡駅を過ぎて日本坂隧道(トンネル)の周辺で印象的な場面があります。日本坂隧道について先生は「戦前の何年頃からか、頻りに出だした弾丸列車の計画に関連した新隧道」として憶えていました。弾丸列車とは今でいう新幹線のような高速鉄道のことです。この隧道ができたことにより今まで東海道線で利用されてきた「磯浜隧道」や「石部隧道」などが使われなくなります。

下に引用させていただいたのは今も廃墟として残る石部隧道の姿です。先生は往時のトンネルの姿を思いながら「さあ、私は気になりだした。・・・もとの所に不用になったトンネルが四本ころがっている。どうするのだろう。どうにかなりませんか。」と記します。

名古屋で機関車につけ換え

「きりしま」は名古屋でけん引車を電気機関車から蒸気機関車に変えて進みます。梅雨の季節だけあり「沿線の苗代や田植えの景色が・・・車窓から眺められる」とあります。下に引用させていただいたのは急行「きりしま」の在りし日の姿とのこと。この窓のどこかかから外を眺めている百閒先生の姿をイメージしてみます。

食堂車での風景

「窓の垂れた窓外を眺めながら、少少早目に食堂車の一献を始めた」とあります。始めたころはまだ外の景色を眺められる明るさでしたが山系君とともお酒を交わす間に時間が過ぎ「窓の外はもう暗かった。岐阜大垣を過ぎて・・・関ケ原、醒ケ井の辺りに今夜は雨が降っていたか、どうかも知らなかった」という時間までゆっくりと過ごします。

下に引用させていただいたのは新幹線の食堂車の写真です。前列の右側の方を先生と見立てて愉快に過ごす2人を想像してみましょう。

食堂車で鎌倉蝦(えび)を注文

食堂車で先生はボイに鎌倉蝦を二つ注文しますが食堂の都合で一つしか出てこないという場面があります(お酒を飲んでいるので機嫌は悪くなりません)。鎌倉蝦というのはあまり耳慣れませんが鎌倉の沖で採れた伊勢海老とのこと。当時は一般的な言い方だったのかもしれません。下に引用させていただいたのは今でも販売されている「鎌倉えび」の写真です。一尾の伊勢海老をお酒と一緒に美味しそうににつまむ先生たちの姿がありました。

寝台車の居心地は?

先生たちが搭乗した「きりしま」には「マイネ40」なる寝台車が付いていて下に引用させていただいたような構造になっていたとのこと。二人掛けの座席が夜になると2段ベッドに変形できるようになっています。いつものように上は山系君が下は先生の指定席です。先生は岡山で一度目を覚ましたきりぐっすりと就寝。山系君も良く寝た後、早々に起きて朝飯を食べに行きました。

外は雷

走行中はずっと雨が続き下関あたりでは雷鳴が響きます。下に引用させていただいたのは「碓氷峠鉄道文化むら」に保存されている「マイネ40」の車内写真です。今回の先生の旅行期間中、九州地方は豪雨に見舞われ「60何年来という災禍が襲い掛かろうとして」いました。その豪雨地帯に吸い込まれるように「私の汽車は関門の朝雨をついて、颯爽と走っていった」とあります。ここでは椅子に座る先生と山系君を想像し、窓から不安気に雨模様の空を見ている姿をイメージしてみます。

今回も九州での宿泊先は八代の旅館です。雨は相変わらずですが、おなじみの女中さんの出迎えを受けて先生一行はとりあえず宿に落ち着きます。

旅行の情報

碓氷峠鉄道文化むら

ここには先生が乗り込んだ「きりしま」の寝台車と同型といわれる「マイネ40」が展示されています。元は第二次大戦後の進駐軍の軍用列車として製造されたもの。小説内で先生が述べているように当時としては珍しく空調が設置されていた最新の列車でした。鉄道工事従事者の移動宿泊者などに流用された後に復元改造を経て現在に至っています。他にも碓氷峠で活躍したEF63形の車両を実際に運転するという貴重な体験ができることでも人気です。
【電話】027-380-4163
【アクセス】JR横川駅から徒歩約2分
【参考サイト】https://www.usuitouge.com/bunkamura/