宮本輝「地の星」の風景(その1)

不気味な男の登場

「地の星」は「流転の海」シリーズ(全9巻)の2巻目です。前作(流転の海の風景その1・参照)では熊吾が戦後の大阪で会社を再興し、妻や息子の静養のために会社をたたんで故郷に戻るところまでが描かれました。愛媛・南宇和郡に移住して約2年たったある日、静かな生活を送っていた熊吾の前に彼に恨みを持つという不気味な男が現れます。そして闘牛場を舞台にその因縁の男との最初の闘いが繰り広げられることに!

バスから降りると

前作「流転の海」から2年近くたった昭和26年が「地の星」の舞台になります。一本松(現・愛南町一本松)の停留所で木炭バスから降りる際に運転手が以下のように愛媛弁で語るところから始まります。
「この風呂釜みたいなバスに苦労させられましたなァし。戦争中からずっとよう頑張ってくれちょりましたけんど・・・・・・」

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Wood-gas-powered_bus_in_Japan_around_1940_No.02.jpg

上には石油不足の戦中・戦後に活躍した木炭バスの写真を引用しました。木炭バスは次週からディーゼルバスに置き換わる予定と運転手はうれしそうにいいます。

「地の星」の風景は乗り物酔いをした伸仁が、木炭バスから降りてほっとする姿から始めましょう。

増田伊佐男(いさお)

父の墓参りをしようと伸仁とともに商店街を歩く熊吾の前に
「いなかやくざといった風体の男たち」
が近づいてきます。
「そのうちのひとりは足が悪く、太い杖をついて、左足をひきずっていた」
とのこと。容姿や仕草は以下のように描かれています。
「熊吾より幾分背の低い、しかし猪首で、肩も胸も筋肉で盛りあがっているその男は、声を出さずに笑うと、指先で目やにを取りながら、浅黒い、肉厚の顔を熊吾に向かって突き出した」
更に物騒なことに、彼は以下に引用したような仕込み杖を手にしています。

出典:Museum Rotterdam, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Degenstok,_waarvan_houten_schede_en_houten_handvat_in_de_vorm_van_mannenkop_een_wandelstok_vormen,_objectnr_20992-A-B(1).JPG

そして熊吾に向かって、
「おおかた四十年前に、お前にこの左足をこわされた増田の伊佐男よ」
と名乗りました。

熊吾は上大道(わうどう)地区に住んでいた
「骨と皮だけみたいに痩せていたが、馬鹿力があるうえにすばしっこくて、近所の村々の干柿や、編んだばかりの藁草履を盗む、手癖の悪い少年」
を思い出しました。彼によれば、日枝神社の境内で熊吾と相撲をした時の怪我がもとで体が不自由になったとのことです。

上に引用したのはモデルとなった愛南町・日枝神社周辺のストリートビューです。ここでは写真の上の方に見える境内で相撲をとる少年時代の熊吾と押し出されて「三尺(1m弱)下の石の上」に転落する痩せた少年の姿をイメージしておきましょう。

恨み言は続きます。
伊佐男「二回の手術で、骨を二寸も削ってこのざまでなァし。兵隊になってお国の役に立ちたいと思うちょったが、兵隊になるどころか、百姓仕事もでけん体になってしもた。わしは松坂熊吾を恨んだものよ。去年、神戸に行って、やっとこさお前の居所をみつけたら、なんと一本松に帰ったっちゅう。じゃけんど、やっとみつけたぞ」
熊吾「わしは、あんたがそんな大怪我をしたとは、夢にも思うちょらんかった」
伊佐男「・・・・・・坊の親父さんを恨んどる人間は、この世にぎょうさんおんなはるみたいじゃ」
伸仁にそう言い残して、伊佐男は商店街にあった
「市松劇場の中に入って行った」
とあります。

上のストリートビュー(一本松城辺道・県道299号線)のように、一本松町には、現在でも昭和を感じさせる建物が残されています。こちらに伊佐男が去ったあと
「県道に出た。牛車が車輪を軋ませて、でこぼこな道に土煙をあげながら行き過ぎた」
という風景を重ね、不気味な男の出現に不安な思いを抱く熊吾の姿を置いてみましょう。

田んぼ一面れんげの花

伊佐男の出現で不快な気持ちになった熊吾でしたが、一本松の美しい景色に目を奪われます。
「田園一面にれんげの花が咲いて紅一色に染まり、紋白蝶やアゲハ蝶が、熊吾と伸仁の頭上にあった」

下には熊吾の生家があった愛南町広見地区で撮影されたレンゲソウの写真を引用させていただきました。こちらの写真の中に虫取り網を片手に畑を左右に歩きまわる伸仁の姿を置いてみましょう。

法眼寺などの景色

さらに歩くと
「右手の山裾に法眼寺の山門がみえ、そこから何ほども離れていないところに日枝神社の石の鳥居が見えた」
とあります。

前述した日枝神社だけでなく法眼寺も実在し、下のストリートビューで右端の大きな屋根の建物が法眼寺、左側の電柱後方の森の中にあるのが日枝神社です。熊吾たちが見たのもこのような風景だったでしょうか。

また、周辺の風景描写では
「目前に広大な田園がひらけ、その周りを低い山が、丸い大きな輪のように巡っていた。熊吾は、若いころ、自分の生家の門前に立って、まるでここは巨大な土俵のようだとしばしば感じたものであった」
とあります。

上に引用したのは一本松町付近の航空写真です。当時からは若干変化しているかもしれませんが、今も山に囲まれた広大な田園が広がり、
「杉や檜の植林山は、土俵の俵であり、農家がちらほらと建つ田圃は、力士の代わりに、百姓と牛馬がのんびりと土を耕す土俵であった」
という風景を想像することができます。

長八じいさんの話

増田伊佐男のことが気になった熊吾は、彼についての情報を得ようと、墓参りの前に近くの集落の長老を訪ねることにしました。
「ことし八十六歳になる長八じいさんは、いまでも朝湯朝酒が好きで、頭もしっかりしている」
とのこと。
彼はこう語ります。
長八「戦争が終わってすぐのころに、伊佐男はわしんとこへ来て、松坂の熊吾のことを根掘り葉掘り訊きよった。人相の悪いごろつきを四人ほど引き連れちょった。なんで熊吾のことを知りたいのかっちゅうてわしが訊くと、十四歳のときの礼がしたいっちゅう・・・・・・広島で<増田組>っちゅう看板をあげて、人様に言えんような商売で縄張りを拡げたっちゅうわい」
そして、熊吾が伊佐男に呼び停められたことを知って以下のように助言をします。
長八「そりゃ用心したほうがええ。あいつは人間の格好をした蛭やっちゅう者が何人かおるけん」

出典:スカパー公式サイト、映画の空、観ないと損!な問答無用のバイオレンス・アクション
世界からリスペクトされる深作欣二監督のパワーに痺れろ!
https://www.skyperfectv.co.jp/program/st/eiganosora/article/detail.php?k=fukasakuk

上には「仁義なき戦い・代理戦争」のワンシーンを引用させていただきました。ここでは、こちらのような強面の方々の中に伊佐男の姿を置いてみましょう。

長八「しかし、思い切っていなかへ帰ってきたもんよ。うまいこといっちょる商売まで辞めてのうえじゃけん」
熊吾「松坂熊吾は何をしに戻って来たんじゃろと思うちょるようやが、わしには何をしようちゅう気もない。息子が、いなかの空気を吸い、いなかのお天道さまを浴びて、元気にそだってくれりゃあそれでええんじゃ。女房の体も弱いけん、南宇和の新しい魚を食うて、多少とも丈夫になってくれりゃあええ・・・・・・」

突き合い駄馬

熊吾と長八が話をしていると
「若い衆が長八じいさんの家の前を横切って、県道のほうへ急ぎ足で向かっていった」
とのこと。

長八「中田牛と魚茂牛が、内緒の勝負をやるっちゅうわい。中田は家と田圃を賭けちょる。中田牛が勝ったら、新しいエンジンの付いた鰹船を二隻貰うが、負けたら丸裸になっしまう」

また、勢子(せこ)を務めるのは熊吾の妹の愛人・野沢政夫でした。自ら買って出たわけでなく、魚茂の連中との賭博に負けて無理やり引き受けることになったとのことです。

出典:.flickr、Bullfighting in Uwajima
https://www.flickr.com/photos/cotaro70s/9397500977/in/photostream/

勢子とは上の写真のように牛に寄り添って闘いを補助する役で、時には興奮した牛の犠牲になることもありました。特に「魚茂牛」は勢子を何人も殺した過去があり、素人の野沢政夫の手に負える相手ではありません。熊吾は闘いを止めようと闘牛場(突き合い駄馬)に向かいました。

闘牛に伊佐男が関与

付き合い駄馬(闘牛場)に行ってみると
「伊佐男は、意味不明の笑みを熊吾に向け、中田牛の持ち主に何やら話しかけた」
とあります。

この闘牛に何か裏があると考えた熊吾は、魚茂こと和田茂十に向かって下のように話しかけます。
熊吾「あいつは、一本松出身の男で、いまは広島でやくざの看板をあげちょる。やくざが勝ち目のないほうにつくか?あいつが、そんな仁侠道の侠客に見えるか?この勝負、なんか裏があるぞ。ここは恥をかいても、あの男のまいた餌に食いつかんほうがええ」

「激しい突き合いの戦歴で平らになった額に幾つもの固い瘤を盛り上がらせている二頭の牛は、人々のざわめきによってさらに興奮し、前脚で土をかいて唸り声をあげた」
とあります。

下には宇和島闘牛で勝利した牛の写真を引用させていただきました。魚茂牛は「二百六十貫(975kg)」とありますが、写真の「西建純護」という牛は1000kgとのこと。こちらのような立派な牛が闘志を燃やしている姿をイメージしてみましょう。

出典:宇和島市観光物産協会公式サイト、宇和島闘牛、勝利牛たちのカオ、平成25年 定期闘牛大会秋場所 横綱戦勝利牛、西建純護
https://www.tougyu.com/champion-h25-main/

闘牛をやめさせるために熊吾はある秘策を考えます。序盤ですが「地の星」の見どころの一つとなりますので詳細は本文でお楽しみください。

南宇和の星空

突き合い駄馬の一件の夜、熊吾は長八じいさんの家に泊めてもらいました。そして、夕食後の夜十時近くになると、伸仁に狸の毛皮を着せて田園の道を散歩をします。強い風が吹いていましたが空はくっきりと晴れていて
「空には、闇よりも星の光のほうが多いと思われた」
とあるほどでした。
熊吾「どうじゃ、このお星さまの数は」

上には愛南町で撮影された星空の写真を引用させていただきました。
こちらのような美しい空の下、伸仁を肩車しながら
「この、目鼻立ちも体質も母親にそっくりな子は、精神のどこかに、父と相通じるものを蔵している。妙に向こう見ずなところがある」
と考える熊吾の姿を置いてみます。

旅行などの情報

うわじま闘牛

宇和島の闘牛は江戸時代に始まった歴史のあるものです。今でも正月や春、お盆、秋など複数回開催されていて、下に引用させていただいたような勢子の活躍や牛たちの迫力のある角の付き合いを観戦できます。

オーソドックスな「押し」や回りこんで脇を突く「横掛け」などの基本技があり、逃げると負けという分かりやすいルールです。鯛めし丼や闘牛丼などのお弁当や、宇和島名産・じゃこ天の販売もあるので、地元の味も楽しんでみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】宇和島市弁天町1丁目318-16
【アクセス】JR宇和島駅から無料シャトルバスを利用
【参考URL】https://www.tougyu.com