宮本輝「血脈の火」の風景(その3)

ヨネや麻衣子は金沢へ&ヒサは行方不明に

熊吾のところに増田伊佐男の子を産んだ浦辺ヨネが現れ、仕事の斡旋を依頼します。熊吾は城崎にある千代麿の愛人(故人)のお店を小料理屋として活用することを勧め、軌道に乗ってくると、離婚により心がすさんでいた麻衣子も彼女の下に送り込みました。なお、熊吾の母・ヒサが失踪し警察に捜索願を出しますが・・・・・・

浦辺ヨネ

熊吾の妹・タネの同級生・浦辺ヨネは「わうどうの伊佐男」との子を妊娠した後、大阪で暮らしていました。中華料理店を開店した日にそのヨネが熊吾を訪ねてきます。

伊佐男とヨネの子供の名前は「正澄(まさずみ)」と命名されていました。訪問の用件は
「南宇和から大阪へ来て、それまでのたくわえで生活し、子を産んだが、そろそろ働かねばならなくなり、職を世話してもらおうと、熊吾を頼って訪れた」
とのこと。

熊吾の頭には
「千代麿の愛人だった喜代が残したままの、城崎のおでん屋のことが脳裏をよぎった」
とあります(血脈の火の風景その1・参照)。

下には平安時代から有名な温泉地・城崎の昭和初期の駅前通りの写真を引用させていただきました。

出典:ヒョーゴアーカイブス、城崎温泉名所
https://web.pref.hyogo.lg.jp/archives/c616.html

熊吾とヨネの会話を以下に抜粋してみます。
熊吾「お前に一軒の店をやる。そこで、小料理屋をやれ・・・・・・場所は城崎よ」
ヨネ「うちは、この子と二人で、どこで暮らしてもええねんけど、うますぎる話には気をつけんとな」
熊吾「そうなんじゃ。うますぎる話には裏がある。お前は、城崎で小料理屋をやりながら、この子以外に、一歳三ヵ月の女の子と、八十六歳の婆さんの面倒も見にゃいけんのじゃ」

千代麿のお金で女中を雇ってもいいという熊吾の提案に
ヨネ「よっしゃ。引き受けた。店で儲けたお金は、みんな私のものになるんやな」
と即答しました。

城崎温泉には浦辺ヨネだけでなく周栄文の忘れ形見・麻衣子も移り住むことになり、「流転の海」シリーズの主要な舞台の一つになります。

天神様

伸仁は、呉明華の娘でほのかな慕情を抱く芳梅(梅子)と一緒に、みこし行列を見にいくことを約束していましたが
「伸仁は、天神祭りのみこし行列をあさってにひかえて楽しみにしていたのに、きのう扁桃腺を腫らして三十九度も熱を出した」
とのこと。

房江が
「せっかく楽しみにしてたけど、こんなに熱があったら、お薬を服んで寝てるしかないやろ?梅子ちゃんも残念そうにしてたって、呉さんが言うてはった」
というと
「伸仁は駄々をこねて泣きだした」
とあります。

出典:大阪市立図書館デジタルアーカイブ、天神祭御迎船/天満宮御本社/天神祭御迎船
https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?page_id=1635

「天神祭り」とは夏に大阪天満宮を中心にして開催されるイベントです。陸渡御(りくとぎょ)と呼ばれるみこし行列のほか、神様をお迎えする船渡御(上に写真を引用)も水都・大阪らしい風景として人気があります。

妹家族が大阪へ

熊吾は愛媛から上阪したタネ(熊吾の妹)やヒサ(熊吾の母)たちのために尼崎・杭瀬付近の二階屋を借ります。数ヵ月したころ房江は熊吾が作り過ぎたきんつばを持ってタネの家を訪問しました。
房江「心斎橋で、おいしいきんつばを食べはって、それがえらい気に入って、作り方を教えてもらいはったんや」
タネ「おいしいわ。近所の市場の入口に、きんつば専門の店があるけど、そこよりもおいしいなァ」

「近所の市場」とは杭瀬市場かと思われますが、下には尼崎の台所と呼ばれた三和市場に隣接する「三和本町商店街」の写真を引用させていただきました。引用元の三和本通商店街公式サイトによると、昭和26年には写真のような「すずらん灯」が点灯したとのこと。ハイカラ好きのタネはこちらの商店街も利用していたかもしれません。

出典:三和本通商店街公式サイト、尼崎三和本通商店街について
https://sanwahondori.com/about/

房江とタネが話していると、上階から物音が聞こえてきました。タネが声をかけると男が階段を降りてきます。
「手の親指など、房江の手首ほどもあろうかと思える、六尺近い坊主頭の大男は、脂ぎった顔と、幾分つりあがった目が異様に光っていた」
と描写される男は以下のような挨拶をしました。
「寺田権次と申します。・・・・・・わては、昔は道楽な家業についとりましたけど、十年ほど前に足を洗うて、いまは小さいながらも工務店をやっとりまんねん。」
タネの家の修繕にきたのが縁で、そのまま転がりこんでしまったとのこと。

大阪に引っ越してすぐに男をつくってしまったタネに対し
「どうして、何度も何度も同じことを繰り返すのであろうか・・・・・・」
と房江はあっけにとられます。

出典:尼崎市 編『尼崎市勢要覧』第19回(昭和12年版),尼崎市,昭13至15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1451388 (参照 2024-06-20、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1451388/1/8

尼崎は当時から阪神工業地帯の中核都市の一つで、鉄鋼や金属関係の重工業が盛んでした。上に引用したのは昭和初期の尼崎の工場地帯の写真です。
周辺の風景は以下のように描かれています。
「もうじき十二月になる阪神間の、貧しい家の並ぶ一角は、屋根も板壁も道も、何もかもが鉄錆色だった」
「工場街を通るうちに、風が強くなり、鉄粉の混じった砂塵が足許を吹き流れた」

こちらの写真のなかにタネと房江の姿を置き、以下のような会話がされているところをイメージしてみます。

タネ「熊兄さんには、もうちょっとのあいだ、内緒にしててな」
房江「タネちゃん、あんたはアホや。いったい何を考えてるのん?」
タネ「あの人は見た目は、あんなんやけど、根はええ人や・・・・・・私に尼崎で何か店を出せて、勧めてくれはんねん・・・・・・お金はまかせとけって・・・・・・」

給食を無理やり・・・

伸仁の小学校での評価は必ずしもよくありません。以下、房江と熊吾の会話を抜粋します。
房江「授業参観のあとの、担任の先生との話では、伸仁はとにかく落ち着きがあれへんそうや・・・・・・冬休みに入る二、三日前、担任の先生から電話があって、残した肉を食べるまで帰しませんので、遅くなっても心配しないようにてしらせてくれはった・・・・・・」

下に引用させていただいたのは昭和20~30年代の小学校の給食の様子です。

出典:文部科学省公式サイト、給食の取組
https://www.mext.go.jp/syokuiku/what/kyusyoku.html


上の写真では皆が笑顔で食事をしていますが、当時からアレルギーなどの理由で残してしまう子もいたかと思われます。
熊吾「なんで、わしの息子に、そんなことをするんじゃ・・・・・・まだ小学校一年生の子に、昼から夜まで、七時間も、食えん肉を食わせるのが教育か・・・・・・教育ではのうて拷問じゃ・・・・・・そいつの家はどこじゃ」
房江「家を捜して、どないするのん?」
熊吾「何の肉かわからん、腐りかけた肉を持って行って、貴様も食えと言うてやる」

そういって熊吾はタクシーに乗り込みますが・・・・・・

力道山の活躍

昭和20年代のテレビはまだ高価で、力道山の試合などのイベント時には街頭や飲食店に集まって見るのが一般的でした。以下は熊吾が事前に席取りをしてもらっていた喫茶店の様子です。

「プロレスの中継は八時からだったが、喫茶店には、その二、三時間ほど前から客が押し寄せて、なかには席に坐れず、立ったままコーヒーを飲んでいる者もいた」

「プロレスの中継が始まり、前座の試合が終わって、力道山がリングに登場すると、客たちは拍手をしたり、喚声をあげたりした。喫茶店の前では、窓の隙間からテレビの画面をのぞき見する男たちが道をふさいでしまい、それを立ち去らせようとしてやって来た警官までがテレビを盗み見ていた」

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rikidozan_and_karate-chop.jpg

上には空手チョップをする力道山の写真を引用しました。
熊吾「日本中が熱狂するはずじゃのお。空手チョップがアメリカ人をぶっとばす。戦争に負けてから、日本人は自信がなくなっとったからのお」

力道山の額から血が流れると伸仁は右手で両目を覆い
伸仁「お父ちゃん、もう、血ィ止まったァ?」

血を怖がる伸仁でしたが、喫茶店まで伸仁を小型トラックに乗せてきた千代麿によると、
「自分が力道山になったつもりで、空手チョップをやったのはええんやけど、勢い余って、トラックのバンパーに手ェぶつけはったんですわ」
というように、力道山のファンでした。

ミッキーの映画も

伸仁の子供時代はアメリカの文化が急速に広まった時代です。「血脈の火」では、杉野の妻・加根子が伸仁たちを映画に誘う場面があります。
「アメリカのウォルト・ディズニーという人が創った漫画映画だ」
という加根子に対し、伸仁は
「ミッキー・マウスやろ?」
と嬉しそうにいいます。

「小学校の講堂に映写技師が来て、写してくれた」
とのこと。

上にはアメリカで1940年に製作され1955年に日本で公開になった「ファンタジア」の劇場公開の予告編(2021年)を引用しました。伸仁が見たのはこちらのような映画だったかもしれません。

ヒサの失踪

ある日、房江が家に戻ると、タネたちがヒサを連れて待っていました。
「母さんが、やっぱり房江さんのとこへ行きたいて言うもんやから・・・・・・」
とのこと。

房江は預かることを引き受けますが、帰りが遅い伸仁を捜すため家を空けたすきに、ヒサが出て行ってしまいます。

「小走りで市電のレールに沿って玉川町を過ぎ、国電の踏み切りを渡った。野田阪神の市場の近くは、人通りが多く、やっと阪神電車の前に来たときには、眩暈がするほどに、房江の心臓は速く打っていた。・・・・・・房江は阪神電車の駅員に事情を話し、プラットホームに入った。けれども、ヒサはどこにも見当たらなかった・・・・・・」

出典:「輸送奉仕の五十年」(1955年4月、阪神電気鉄道), Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hanshin_Noda_old_panorama.jpg

上には1954年の阪神野田駅周辺の写真を引用しました。ここでは駅舎(右側)の周辺で必死にヒサを探す房江の姿を想像してみましょう。

次の日、野田阪神の交番所に捜索願を提出すると、交番の警官が家までやってきて新しい情報を教えてくれます。彼によれば
「きのうの夜、淀川大橋を神戸方向に渡っている老婆を見たという人」がいたとのこと。
警官「橋の上で魚釣りをやってた人が、そのおばあさんに、四国へ行く道を訊かれたそうです」

出典:大阪市立図書館デジタルアーカイブ、(大阪)阪神国道淀川大橋
http://image.oml.city.osaka.lg.jp/archive/detail?cls=ancient&pkey=c0254001

上には大正末から昭和初期にかけての淀川大橋の写真を引用させていただきました。
警官「四国に行くには、大阪の天保山か神戸港から船に乗るんやて、その人が教えたら、礼を言うて、神戸のほうへ歩いて行ったっちゅうことです」

ここでは、暗いなか
「淀川大橋をとぼとぼ渡って行くヒサ」
の姿を置いてみましょう。

旅行などの情報

城崎温泉

城崎温泉には、こちらで商売を始めた浦辺ヨネをはじめとして、「流転の海」シリーズの主要な人物が何度も訪れることになります。約1300年前に開湯した名湯で、志賀直哉などの小説の舞台としても有名になりました。

現在も残る7つの共同浴場の湯巡りをしたり、おしゃれなカフェやかわいいグッズを販売するお土産屋に立ち寄ったり楽しみ方もさまざまです。

出典:城崎温泉公式サイト、センター遊技場
https://kinosaki-spa.gr.jp/directory/center-yugijo/

また、上に引用させていただいた「センター競技場」のようにスマートボールや射的といったレトロな遊びができるお店で昭和へのタイムスリップをしてみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】兵庫県豊岡市城崎町湯島
【アクセス】JR城崎温泉駅で下車
【参考URL】https://kinosaki-spa.gr.jp/

カフェ&バー・ブルヴァール

伸仁が学校に居残りになった場面で話題になった学校給食を再現しているお店です。「昭和の町」として知られる大分県豊後高田市にあり、下に引用させていただいたような懐かしい雰囲気のなかで食事ができます。

学校給食メニューには鯨の竜田揚げや揚げパン、ソフト麺、ナポリタンなどの懐かしい食べ物から、チキン南蛮やとり天といった地元グルメまでメニューが豊富にあるので、好き嫌いのある方でも心配ありません。また、小学校時代にはたしなむことが出来なかったアルコール類との組み合わせもお試しください。

基本情報

【住所】大分県豊後高田市新町3-992-23
【アクセス】宇佐駅から車を利用
【参考URL】https://www.showanomachi.com/