宮本輝「花の回廊」の風景(その1)

再び大阪での生活を開始

「流転の海シリーズ」の第五部「花の回廊」は昭和32年の3月半ばから始まります。シリーズ前作の「天の夜曲」には熊吾が息子の伸仁を富山の高瀬家に預け、房江とともに大阪で再起を図るところまでが描かれていました(天の夜曲の風景その6・参照)。今回は伸仁の引っ越し先「蘭月ビル」の様子や熊吾のエアー・ブローカーとして働くところを、その間のいきさつを交えながら追って行きましょう。

「天の夜曲」からの経緯

富山の商人宿でお別れ会をしてから(天の夜曲の風景その6・参照)5か月ほどたった頃、
「父と母に逢いたがって、食事も摂らなくなり、ひとりででも大阪へ帰ると泣いてばかりいる伸仁を仕方なく熊吾が豪雪の富山に迎えに行ったのは二月十日だった。・・・・・・伸仁を富山市立八人町小学校から中途転学させ、大阪へ連れ帰ったものの、親子三人で暮らせる家はなかった」
とあります。

下には雪の中を歩く昭和時代の子供たちの写真を引用しました。こちらを高瀬家の兄弟(ボブ・ミッキー・トム)に見立て、伸仁と別れを惜しんでいるところを想像してみましょう。

出典:パブリックドメインR、初雪の子供達 [斎田和夫, アサヒカメラ 1951年5月号より]
https://publicdomainr.net/photograpy-journal-asahicamera-may-1951-issue-0006876/

熊吾と房江は電気も水もない船津橋のビル(熊吾の中華料理店だった場所)で生活していました。いきさつは以下のように記されています。
「関西中古車業連合会の事務所を閉め、房江が新聞の求人広告で職を得て大阪の難波の宗右衛門町筋にある小料理屋で働き始めたのは去年の暮だった。ほとんど一文無しとなった松坂熊吾と房江は、福島天神裏の駄菓子屋の二階から再び持ち主も住人もいない船津橋のビルに移った」

蘭月ビル

伸仁は熊吾の妹・タネの家族が住んでいる蘭月ビルに預かってもらうことになりました。蘭月ビルの場所については「花の回廊」のなかに下のような記述があります。

「阪神電車の尼崎駅には歩いて五、六分で、大阪と神戸を結ぶ阪神バスの東難波の停留所の前という立地条件は、何か小商いをするには有利な上に、家賃が安い。・・・・・・」
「蘭月ビルとその東隣りにある映画館との間隔は五十センチほどしかなかった」

下には「消えた映画館の記憶」という映画館のデータベースから、昭和30年代、尼崎市東難波にあった映画館の情報を引用させていただきました。

(前略)
昭和30年代の尼崎市の映画館・劇場一覧
(中略)
香月劇場(グランドシネマ) 阪神国道東難波電停前
(中略)
尼崎第一劇場/尼崎名画劇場香月/香月劇場/グランドシネマ/尼崎グランド劇場/尼崎グランドシネマ/グランドシネマ1・2
所在地 : 兵庫県尼崎市昭和通り(1947年)、兵庫県尼崎市昭和通4丁目(1950年)、兵庫県尼崎市昭和通4-152(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、兵庫県尼崎市昭和南通4-152(1966年・1969年)、兵庫県尼崎市東難波町5-16-20(1980年・1990年)、兵庫県尼崎市東難波町5-16-20 ラ・ティエラ2階(2000年)
開館年 : 1946年10月
閉館年 : 1993年8月
『全国映画館総覧 1955』によると1946年10月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「尼崎第一劇場」。1950年の映画館名簿では「尼崎名画劇場香月」。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「香月劇場」。1959年の尼崎市全産業住宅案内図帳では「グランドシネマ劇場」。
(後略)

出典:消えた映画館の記憶、尼崎市の映画館
https://hekikaicinema.memo.wiki/d/%C6%F4%BA%EA%BB%D4%A4%CE%B1%C7%B2%E8%B4%DBaら

また、下には1945年から50年にかけての映画館付近の空中写真を引用しました。中央の十字マークが映画館付近(尼崎市東難波町5-16-20)です。十字マークの左(東難波バス停前)には縦に長い建物が二棟並んでいるように見えます。

「もともとはこのアパートは路地を挟んで向かい合う二棟の細長い長屋だった。それがどういういきさつからか、終戦から五年ほどたって、二棟の長屋をまたぐ格好で二階部分を増築したのだという」
とあるので、(実在のモデルとすれば)二階部分が増築される前の蘭月ビルの姿かもしれません。

出典:地理院地図
https://maps.gsi.go.jp/#18/34.721660/135.414492/&base=std&ls=std%7Cort_USA10%7Cnendophoto2023%7Cnendophoto2022%7Cnendophoto2021%7Cnendophoto2020%7Cnendophoto2019%7Cnendophoto2018%7Cnendophoto2016&blend=0&disp=111111111&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m

また
「蘭月ビルの北側のタネの住まいの前には、車が一台通れるほどの裏道に沿って、油膜に覆われた泥溝(どぶ)が流れていて、その泥溝をまたぐと有刺鉄線を四方に張り巡らした工務店の資材置き場だった。だが置かれている資材はほんの少しで、そこは近所の子供たちの遊び場と化していて、数人の子供たちが竹棒をバット代わりにゴムボールで野球をしたり、『缶蹴り』に興じていた」
ともあります。

映画館の左側の建物を蘭月ビルとすると、その北側(空中写真では上側)の灰色のエリアが資材置き場でしょうか。


上には昭和の町・豊後高田市のCM(缶けりバージョン)を引用させていただきました。ここでは、蘭月ビルの狭い通路から缶を蹴って出て行った子供たちが、有刺鉄線をくぐって資材の間に隠れるところを想像しておきましょう。

蘭月ビルのなかは?

「花の回廊」は蘭月ビルについての以下の記述から始まります。
「穴だらけの雨樋からの錆と、煤煙混じりの塵埃とで汚れたモルタル壁に『蘭月ビル』と赤いペンキで書かれてはいても、その中身は迷路とおぼしき構造の木造アパートであった」

熊吾は妻・房江と息子の伸仁とともに、タネの住む蘭月ビルを訪問します。タネは息子の明彦と娘の千佐子、愛人・寺田権次とともに住んでいました。

熊吾「ここには全部で何世帯の人間が住んじょるんじゃ?」
タネ「下には十三世帯、上には十二世帯」
熊吾「そのうちの十世帯が朝鮮人か・・・・・・」
タネ「朴さんて名前が二世帯。金さん、それに洪さん、李さん、張さん・・・・・・。あとは日本名の人が四世帯・・・・・・みんな戦前戦中に日本に来た人らで、子供らは日本で生まれたんや」

タネ「いまは朝鮮人て言い方はあかんねんそうやねん」
朝鮮戦争により北は朝鮮民主主義人民共和国、南は大韓民国と国名が変わったため、南出身の人たちは韓国人と呼ぶことになったとのこと。タネは蘭月ビル内でお好み焼き店を営業していて、そこにやってくる北出身の人と南出身の人は毎日のようにケンカをしているともいいます。

出典:大阪くらしの今昔館、企画展「大阪の長屋」、住吉区加賀屋の長屋(昭和10年)
https://www.osaka-angenet.jp/konjyakukan/exhibition_special/260000540

上には昭和時代、大阪の住吉区にあった長屋の写真を引用させていただきました。こちらの建物は比較的新しく見えますが、蘭月ビルは相当老朽化していたようです。

なお、蘭月ビルに入ってタネの部屋に行きつくまでに、熊吾たちは以下のような風景を目にしました。
「東側が七世帯、西側が六世帯だった。・・・・・・西側の方が少ないのは、真ん中に共同便所があるからだった。・・・・・・共同便所の隣の部屋の前には、車輪の付いた支那そばの屋台が置いてあり、練炭のいこった大型の七輪に載せた一斗缶のなかではそばの出汁が煮られている。屋台のラーメン屋の隣は理髪屋で、度の強い眼鏡をかけた店主が新聞を読んでいる。だがよく目を凝らすと、共同便所と屋台のラーメン屋の家のあいだに細い階段があり、四、五歳くらいの女の子が小さな人形と話をしながら階段の中程に腰かけていた。」

蘭月ビルの二階も探検

房江が蘭月ビルから直接仕事に向かうと、
「大事な息子の仮の住まいじゃ。ちょっと二階の様子を見といたほうがええじゃろ」
といって
共同便所の隣の階段をのぼります。そこでは、まださっきの女の子が人形と遊んでいました。
熊吾「こんな寒いとこで遊んじょったら風邪をひくぞ」
熊吾はその女の子が盲目であることに気づきます。

「少女は・・・・・・不安を感じたのか、人形を抱いたまま立ちあがり、熊吾から逃げるようにして階段をのぼり二階へとあがった。熊吾はそのあとをついて行き、二階の細長い廊下に立つと、左右につづくそれぞれの部屋の様子に目をやった・・・・・・盲目の少女は、熊吾の存在が気になるのか、自分の住まいらしき部屋のドアに片方の手を添えたまま、首をかしげて気配をうかがっていた。」

上に引用させていただいたのは昭和時代のアパート中廊下の写真です。ここではこちらを見ている少女を盲目の少女(=津久田香根)に置き換えてみましょう。

また蘭月ビルの二階では、香根の姉でもうすぐ中学二年になる津久田咲子とも会います。咲子を見た熊吾の感想は以下のようでした。
「六十のこのわしが、その子のあまりの美貌に気圧されて、しどろもどろになっしもうた。あんな美しい女の子を見たのは、わしは初めてじゃ」

ビリヤード場に拠点を置くエアー・ブローカーに

このころの熊吾は磯辺富雄(天の夜曲の風景その3・参照)のビリヤード場を仕事の連絡先にしていました。熊吾自身が現状について以下のように語っています。

「わしは万策尽きて、このビリヤード場を事務所代わりにする中古車のエアー・ブローカーに落ちぶれ果てるとは夢にもおもわんかった」

「この数年、とにかくこれでもかと人に騙されて、まともな中古車業者からも匙を投げられて、関西中古車業連合会の看板も外すしかのうなって、女房にはミナミの小料理屋の賄い婦をさせ、一人息子はきょう尼崎のスラム街の、なんとも奇妙な汚いアパートに住む妹に預けてきた。」

ビリヤード場では四十五歳になる上野栄吉という専属コーチや地方から大阪に出て来た坂田康代という店員が働いていました。

上野は胸ポケットから三枚のメモ用紙を渡します。
メモの一つには
「<ダットサン31年型。走行距離二万から三万。価格連絡乞う。>」
と書いてありました。

下には日産公式サイトから昭和31年型のダットサンの写真を引用させていただきます。

ダットサンセダン(110 型)は、日産自動車が戦後初めての新設計を行い、1955(昭和30)年1 月に発表した4 人乗り乗用車です。(中略)この113 型は、翌1956(昭和31)年6 月のマイナーチェンジ車で、特徴的なハーモニカ型のグリルはそのままに、トランスミッションをフロアシフトからコラムシフトへ変更しています。

出典:NISSAN公式サイト、ダットサン セダン
https://www.nissan.co.jp/HERITAGE/DETAIL/15.html


熊吾「みんながいまいちばん欲しがる車じゃ。車はなんぼでもあるが、たいていはタクシーあがりか事故車じゃ。それを程度のええ車じゃとだまして売るのがエアー・ブローカーじゃが、この松坂熊吾は、そんないんちきはせん。客の希望にできるだけ近いええ中古車を捜して、大阪や神戸を駆けずり廻る。戦前の商売仲間が、こんなときに助けてくれるとはのお。この松坂熊吾のあまりの落ちぶれ果て方にびっくりして、助けてやるしかしょうがないと思うてくれとるんじゃろう」

上野栄吉

ビリヤード場の従業員についても詳細に描かれています。まずは上野栄吉についての描写を抜粋してみましょう。
「戦前にはビリヤードの選手権で何度も優勝経験のある上野が、抑留されていたシベリアから帰国したのは三年前の初夏だった。上野はその前年の十二月に凍傷で右の人差し指すべてと中指の第二関節から先を喪った。ブリッジを作る左の指だったら、ビリヤードの選手としては復帰できなかったであろう・・・・・・。喪ったのが右の指だったお陰で、それまでの上野栄吉にはなかった柔らかさが突如奇蹟のようにそのキューさばきにもたらされて、人間業とは思えない触れるか触れないかの絶妙なタッチで球を自在に操れる一種の『遊び』の間合いを習得できたのだ・・・・・・。」

出典:『撞球場日記』,撞球普及会,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1030348 (参照 2024-08-01、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1030348/1/2

上には戦前、プロビリヤードプレイヤーとして活躍した鈴木亀吉氏の写真を引用しました。ほかにも同引用元(昭和3年、撞球場日記)の選手列伝によると、アメリカの世界選手権で三位になった山田浩二氏や現在の日本ビリヤード協会設立にかかわった森政吉氏などがレジェンドとなっていました。

「磯辺富雄が自分の営むビリヤード場『ラッキー』に上野栄吉を専属のコーチとして雇ったのは、戦後沈滞してしまっていたビリヤードというゲームが二年ほど前からにわかにブームとなり、とりわけ京都を中心にしてそこから西の各沿線、京阪電鉄の枚方や寝屋川といった町のビリヤード場には、かつて名の知られた玉突き師が戻って来て、裏では高額の金を賭けた内緒の競技会が催されるようになり、そんな玉突き師に憧れる若者たちが本物の技術を求めて腕を磨こうと『ラッキー』に日参しはじめたからだった」

ここでは鈴木亀吉氏のように黒い蝶ネクタイをした上野栄吉が、若者たちに丁寧に指導を行っているところを想像しておきましょう。

坂田康代

「康代は去年、石川県七尾市からバスで三十分かかるという日本海沿いの村の中学校を卒業して、同級生三人と一緒に大阪に働きに出て来たという。彼女たちはみな大阪市郊外の電器部品の下請け工場に就職した。だが康代は手元が無器用で単純な作業にも失敗を重ね、たちまち工場で厄介者となり、誰かの口ききで『ラッキー』で働くようになった。」

坂田康代が働いていた電気部品工場について詳細は分かりませんが、この頃、量産が始まったラジオの組み立て工場で働いていたかもしれません。下には2017年のNHK朝ドラ「ひよっこ」から、ヒロインのみね子(有村架純さん)が皆と同じペースで組み立てられず悩んでいるシーンを引用させていただきました。

出典:NHKオンデマンド、ひよっこ (28)「乙女たち、ご安全に!」
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2017077720SA000/?spg=P201600146800000

そんな康代がビリヤード場に転職したのは成功だったようです。
「工場での手仕事とは違って、『ラッキー』での仕事は康代に合ったらしく、忙しいときでも何人もの客の代金の計算は迅速だったし、甲高くて大きな声は場を明るくさせ、ビリヤード台の掃除も手抜きをしないのに要領良くて、磯辺に命じられたわけでもないのに一日に三度も便所の掃除をやってしまう。そして営業時間が終わり、客がすべていなくなってから、上野にビリヤードを教えてもらうのを楽しみにしている。」

シャンソンの流れる喫茶店で人生相談

熊吾は街中で偶然出会った磯辺(ビリヤード場の主人)から相談事がある、とシャンソンが流れる喫茶店に誘われました。昭和32年には下に引用させていただいたようなブームを受けて、大阪にも多くのシャンソン喫茶が開店していたと思われます。

昭和20年代後半から、大々的にシャンソンブームが起きる。シャンソン喫茶「銀巴里」の開店(昭和26(1951)年)、ダミア(1889-1978)やイヴェット・ジロー(1916-2014)などの有名歌手の来日、イブ・モンタン(1921-1991)の《枯葉》のヒットなど、トピックには事欠かない。日本人歌手が活躍し、日本人の創作によるシャンソンも数多く誕生した。

出典:国立国会図書館、近代日本とフランス、レビューとシャンソン
https://www.ndl.go.jp/france/jp/column/s2_4.html

以下にはイブ・モンタン「枯葉」のYouTube動画を引用させていたきました。熊吾が入った喫茶店でもこちらのような切ない曲が流れていたかもしれません。

磯辺「厄介なことに巻き込まれて身に危険を感じてますんや」
祖父母が韓国出身の磯辺は在日韓国人の「梅田周辺の責任者」を引き受けたものの、北朝鮮出身者とのいがみあいが激化し困っているとのことでした。
磯辺「兄貴は南支持、弟は北を支持なんて兄弟がいる一家は大変です。家の中で南北に分れて戦争ですわ」
熊吾「その騒ぎが、お前にまで及んできたっちゅうわけか」
磯辺「そうですねん。それもはっきりと暴力的にねェ。私、暴力は怖いんです」

旅行などの情報

蘭月ビルがあった東難波バス停は尼崎駅から徒歩で10分以内、伸仁が通うことになる尼崎市立難波小学校も5・6分の道のりです。ここでは、「花の回廊」巡りに立ち寄れる尼崎駅近の観光地を2か所ご紹介します。

尼崎城

1617年に江戸幕府から尼崎藩主に任じられた戸田氏鉄が築いた城です。明治維新で廃城になりましたが、有志者や市民の活動により一部が復元され、2019年から一般公開が始まりました。

出典:KishujiRapid, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Amagasaki_Castle_Tenshu_20181125.jpg

尼崎駅を出るとすぐに上に引用したような5階建ての天守が見えます。エレベーターで最上階まで上がった後に、階段を下りながら観光するスタイルです。5階展望ゾーンではタブレットに映し出された江戸時代の城下町の様子と比較しながら街を一望できます。こちらから「花の回廊」の舞台の位置関係を把握しておくのもよいでしょう。

ほかにも忍者や武将の衣装で写真をとったり、VRシアターで江戸時代の尼崎城や城下町の再現動画を見たりと多彩な楽しみ方があります。城址公園内には芝生広場や遊具も備えていて家族みんなで楽しめるスポットです。

基本情報

【住所】兵庫県尼崎市北城内27番地
【アクセス】尼崎駅から徒歩で約6分
【参考URL】尼崎城公式サイト

尼崎えびす神社

地元では「尼のえべっさん」として親しまれている神社です。尼崎は昔は「海崎」とも記述された漁業が盛んなエリアでしたが、その後、現在の商工業も発展し、現在は商売繁盛全般にご利益があるとされています。

入口には上に引用させていただいたような高さ17mの大鳥居があり、この神社のシンボルになっています。また、「月像石(つきいし)」や「招きうさぎさん」はなでると運気が上がるパワースポット。月替りやイベント時のかわいい御朱印も好評ですので事前にホームページにてチェックしてみてください。

基本情報

【住所】兵庫県尼崎市神田中通3丁目82
【アクセス】尼崎駅から徒歩で約4分
【参考URL】https://www.amaebisu.com/