宮本輝「花の回廊」の風景(その6最終回)

モータープールでの新生活

昭和33年の3月にシンエー・モータープールがオープンし、熊吾一家は元F女学院の校舎に移りました。国内には「団地」が次々と建設され、熊吾の家にも三種の神器の一つ洗濯機がやってくるなど戦後の経済復興の様子も描かれています。なお、蘭月ビルで警察が駆けつける事件が起き、伸仁が巻き込まれそうになりますが・・・・・・

モータープールの周辺

モータープール周辺の街並みについては房江が以下のように解説しています。
「シンエー・モータープールの南側には木造の二階屋がひしめいている。ほとんどは民家だが、戦前からそこで商売をしていたという金物屋や梱包用品店や自動車の中古部品屋が、曲がりくねった狭い路地にあり、その路地は別の路地と必ずどこかでつながり合って、浄正橋の天神さんの裏の通りに出るのだ。」

下には当時の福島西通り周辺をイメージできる資料として、昭和36年に大阪国税局が発行した「路線価設定地域図」を引用しました。左上には「福島西通」と記載されており、その右側のF女学院跡と思われる場所は「大阪工校」となっています。また、「浄正橋の天神さん」とは下図の天満宮(上之宮)でしょうか。房江の解説のとおり、その間はたくさんの細い路地でつながっています。

出典:『路線価設定地域図』昭和36年分 3の1,大阪国税局. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1697899 (参照 2024-08-21、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1697899/1/90

「シンエー・モータープールの南側と東側には、戦前の懐かしい風情がそのまま甦ったかのようで、入り組んだ路地の土の道では、女の子たちがゴム跳びをしたり、男の子たちが缶蹴りをして走り廻っている。」
とあります。

上には周辺のストリートビューを引用させていただきました。今も細い路地が残っていて、子供たちが遊んでいる姿をイメージできます。

防火水槽で金魚を飼う

伸仁は誕生日のお祝いとしてリューキンと出目金を5匹ずつ購入し、コンクリートの防水用水入れ(防火水槽)で飼うことにします。防火水槽とはコンクリート製の容器で、戦時の空襲などに備えて作られたものです。

下には1941年ごろの防火訓練の様子を引用しました。近所のグループ(隣組)が防火水槽からバケツリレーを行っています。

出典:梅本忠男 Umemoto, Tadao(ネガ番号: 416C), Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bucket_brigade_in_fire_drill_of_Tonarigumi,_The_neighborhood_mutual-aid_association,_1941_Japan.jpg

なお、戦時中につくられた防火水槽は現在でも全国各地に残っています。下に引用したのは倉敷美観地区で保存されている防火水槽の写真です。

出典:Nissy-KITAQ, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fire_pool_of_Kurashiki.jpg

伸仁が防火水槽に水道水を溜めて、金魚を入れようとすると、モータープールの常連がこのように言います。
F建設の運転手「まだそこに金魚を入れたらあかんで。カルキで死んでしまうがな・・・・・・それだけの量の水道の水からカルキが抜けるのには十日はかかるで」
伸仁「十日も金魚を入れられへんのん?」
F建設の運転手「きょうはそのビニール袋に入れとき。バケツに半分ほどの水道の水をいれて、明日の朝、そこに移してやるんや。水草はバケツに入れとき。それに、そのでっかい水槽の底に小石とか砂を敷いてやらんと、水草の根が張れへんがな」

管理人の仕事は大忙し

「弁当屋の富士乃屋の、箱型の荷台の後方が観音開きになる特別仕様のトラックは、朝の六時にモータープールを出て行く・・・・・・富士乃屋の次は、塗料の卸し店の二台のトラックで、七時前に運転手がやって来る。その次はW薬品の軽自動車が五台。メリヤスの卸し問屋のライトバンが二台。富士乃屋のトラックが市場から戻って来るころに、F建設の営業用の自動車が三台出て行く。」

大阪周辺では今でも「モータープール」と名乗る駐車場が多いようです。下にはそのことを示す株式会社ゼンリンさんの投稿を引用させていただきました。

モータープールの営業初日は特に大忙しでした。
「正門のところは交通渋滞の様相を呈して、交通整理をする人間がいなければ福島西通りの交差点を行き来する人や自動車に多大な迷惑をかけてしまう。」

特に「房江は、生まれてこのかた交通整理などやったことがないので、そのための手際も要領も皆目見当がつかず、モータープールから出て行く自動車を誘導することでかえって道路に混乱を生じさせて、通行人や自動車の運転手だけでなく、市電の乗客や運転手にまで怒鳴られる始末だった。」

出典:全日本駐車協会公式サイト、昭和27年某日夕刻、旧東京ビル屋上より眼下の 三叉交差点の交通カオスを俯瞰
http://japan-pa.or.jp/20150805/546

上に引用させていただいたのは、全日本駐車協会公式サイトに掲載されている昭和27年ごろの東京都心の渋滞の様子です。当時の福島西通りには東西方向と南方向に市電が走っていて、車の流れはこちらと似ていたと思われます。ここでは、シンエー・モータープールが右下にあると仮定して、交通整理に慣れない房江さんが渋滞を悪化させているシーンを想像してみましょう。

房江たちの一日

房江の一日のスケジュールは以下のようでした。
「七時過ぎには伸仁を起こし、朝食を食べさせるのだが、そのときは熊吾と交代する・・・・・・伸仁は七時四十分にやって来る阪神バスに乗り遅れると学校に遅刻する。だから房江は、ご飯を食べるのが遅い伸仁をせきたてて、まだすべてを食べていなくても、七時半には伸仁を送りださねばならない。」

下に引用させていただいたのは阪神電鉄西宮駅前バスターミナルから出発する阪神電鉄バスの写真です。写真からもわかるようにボディーが鱗模様で化粧されているのが特徴でした。
ここでは、房江にせきたてられた伸仁が、福島西通からこちらのようなバスに乗り込む姿を想像してみます。

出典:出典:にしのみやオープンデータサイト、阪神電鉄西宮駅前バスターミナル
https://archives.nishi.or.jp/04_entry.php?mkey=12426

校舎にはお風呂がないため、房江たちは銭湯を利用しなくてはなりません。
ところが
「三人で銭湯に行ってしまうとモータープールは無人になってしまう。・・・・・・親子三人で出かけるということなどは、これからは出来なくなる。」
さらに、
「モータープールの門を閉めて鍵をかけるのは夜の十一時。門をあけるのは朝の六時前。とはいっても、自分は五時半には起きなくてはならない。すぐに朝ご飯の用意をして、門をあけ、あのぐずの伸仁に歯を磨かせ洗顔させ、朝食をとらせ・・・・・・」

モータープールでの新生活の忙しさに戸惑いながらも
「らくな仕事なんて、この世にひとつもあれへんねんから、工夫をせなあかんわ」
と、房江はつぶやきます。

音吉からの手紙

そんなある日、熊吾の郷里・城辺町に住む中村音吉(血の星の風景その2・参照)から手紙が届きます。
「松坂の大将の勧めで始めた自転車屋は、この地域ではたった一軒きりということもあって思いのほか繁盛し、自分の本業である鍛冶屋の仕事に手が廻らないほどで、これも松坂熊吾さんのお陰と感謝している。自転車屋開業の際に立て替えて戴いた土地家屋代と開業資金などを早急にご返済すべく毎月の収入のなかから少しずつ松坂熊吾名義の郵便貯金に振り込んできて、その七割近くが貯まった。・・・・・・半端な金額ではあるが、とりあえず七割をご返却すべく書留郵便でお送りする」

「房江は、まだ七割だという金額の多さに驚いたが、音吉の達筆さにも見惚れた」
とのこと。
下には昭和初期のペン字のお手本を引用させていただきました。

出典:『技能修練書道教範』,社会教育会,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1092225 (参照 2024-08-22、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1092225/1/41

「あの鍛冶屋の音吉が、こんなに流麗な崩し文字が書けるのか・・・・・・。音吉も戦前の尋常小学校を出ただけだというのに・・・・・・」
と感銘を受けた房江は
「ことしは思いがけないお金が入ってくる年だなと思った。そして、新聞広告に載っていたペン習字の通信教育を受けようと決めた」
とあります。

下には昭和10年ごろのペン習字の通信教育の広告を引用しました。なお、提供元の「日本ペン習字研究会」は昭和7年に創立されたペン習字通信教育の先駆け的な存在です。

出典:『女性文章読本 : 附・新らしい女子手紙文範』,中央公論社,昭和10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1034489 (参照 2024-08-21、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1034489/1/11

ちなみに「日本ペン習字研究会」は、現在も「日ペンの美子ちゃん」をキャラクターとして事業を続けています。「美子ちゃん」は手書き文字の需要が減ったことなどで一時姿を消していましたが、今では6代目美子ちゃんがX(旧Twitter)を中心に活動中です。下には最近の公式Xの投稿を引用させていただきました。

伸仁は夕刊売りで人生経験

伸仁は友人の月村敏夫に誘われて尼崎駅前で夕刊売りのアルバイトを始めますが・・・・・・
「どこかの居酒屋では、うるさがられてコップの酒を浴びせられ、別の屋台では共産党員らしい男に資本主義の誤謬について延々と講釈され、路地裏のバーでは南京豆の殻を投げつけられ、暗がりで立ったまま客を取っている娼婦に『夕刊、いかがですか』と声をかけて蹴り飛ばされ、おでん屋では不機嫌な老人に何度も酌をさせられ・・・・・・」
などさんざんな目に会ったにもかかわらず、売れたのはたった1刊だけでした。

出典:English: Kimura Ihei日本語: 木村伊兵衛, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:A_news_vendor_-_Ry%C5%8Dgoku_T%C5%8Dky%C5%8D_-_1948_-_Kimura_Ihei.png

上には昭和23年ごろの東京・両国の新聞売りの少女の写真を引用しました。こちらの少女を伸仁に見立てて、
「僕はもう帰りたい」
と月村に泣きごとをいうシーンを想像してみます。

伸仁が事件に巻き込まれる!?

力道山似の甲田憲道に仕事のアドバイスをもらった熊吾は、そのお礼をするため蘭月ビルのお好み焼き屋で待ち合わせをします。
蘭月ビルの前で熊吾は以下のような光景を目にしました。
「中古のキャデラックが蘭月ビルの前に停まるのを見た。助手席から降りて来たのは、中学の制服を着た津久田咲子だった。・・・・・・キャデラックの前を通って、運転している若い男の人相を窺った。もみあげを長く伸ばし、花柄のアロハシャツを着た、目つきは鋭いが貧相な青年だった。」

下には昭和31年型のキャデラックの写真を引用しました。ここでは黙って部屋に戻ろうとする咲子に対し
「なんや、ここでバイバイか?俺は三日でも四日でも、ここで待つで」
としつこくつきまとう青年の姿をイメージしてみましょう。

出典:Sicnag, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1956_Cadillac_Series_62_Convertible_(24776929690).jpg

遅れてお好み焼き屋にやってきた甲田に、熊吾が仕事のお礼をした後、店を出ようとすると
甲田「もうちょっとここにいてはったほうがよろしおまっせ・・・・・・松坂さんが自動車を停めてはる近くで、もめごとが起こってますねん」
熊吾「キャデラックの若造か?」
キャデラックの青年のもめごとの相手は咲子の父・津久田精一とのこと。

しばらくすると蘭月ビルの周りにはパトカーが五台停まり、制服警官が十数人、私服警官が十人近くが取り囲んでいました。
そして二階からは津久田精一の怒鳴り声が聞こえてきます。
「松坂のチビはどこにおんのや」

この時点の熊吾には、なぜ津久田が伸仁を捜しているのかは全く分かりませんでした・・・・・・

電気洗濯機を購入?

大きな事件があった次の日
「洗濯石鹸で泡だらけの手をエプロンで拭きながら事務所にやって来た房江に、熊吾は、電気洗濯機を買ってやると言った」
房江「えっ、ほんま?嬉しいわァ。そやけど、ものすごう高いんですやろ?」

出典:日本語:投稿者によるスキャン, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Washing_machine_by_Hitachi_%26_Mitsubishi_1956.jpg

上には昭和30年初期に発売された洗濯機のカタログの写真を引用させていただきました。洗いは電気式でしたが、手動脱水用のハンドルが付いているのが一般的だったようです。

熊吾「ぎょうさんの洗濯物を洗剤と一緒に放り込んでスイッチを入れるだけで、きれいに洗濯ができてしまうんじゃぞ。洗濯板の上でごしごしやる労力を考えてみィ。安いもんじゃ。・・・・・・」

新しき庶民「ダンチ族」とは

「花の回廊の風景」を締めくくるのは「三種の神機」とならんで高度経済成長のシンボルとされた「団地」の写真です。下には日本住宅公団が昭和31年に竣工させた金岡団地の投稿を引用させていただきました。

モータープールの事務所で熊吾が読んでいた週刊誌には「新しき庶民『団地族』」という特集が組まれていました。記事の内容は以下のようでした。
「鳩山内閣が資本金六十億円で誕生させた日本住宅公団が建設した団地という名の鉄筋コンクリートの集合住宅が、大都市のあちこちに建設されたことによって、戦後の我が国における衣食住のなかでも最も遅れていた住が大きく改善された・・・・・・水洗便所、ガスで沸かす風呂、日当たりのいいベランダ等は日本の主婦層に夢の生活をもたらした・・・・・・」

熊吾は焼け残った校舎跡に住み込みで働く自分とは別世界だなと独り言をいいながらも、このままでは終われないと考えていたことでしょう。

旅行などの情報

大阪ぼてぢゅう本店

熊吾の妹のタネは「蘭月ビル」でお好み焼き店を営んでいました。店にやってきた客がタネに向かって
「おばはん、いつまでもこんなしょぼくれたお好み焼きを出しとったらあかんで。大阪の心斎橋になァ、うまいお好み焼きの店がでけたんや・・・・・・」
という場面があります。

「花の回廊」にはそのお店の名前は明記されていませんが「大阪ぼてぢゅう本店」も昭和28年に創業したお好み焼きの名店です。大阪で初めてお店にカウンター方式を採用し、お好み焼きに初めてマヨネーズやからしのトッピングをしたお店としても知られています。また、上に引用させていただいた名物「すき焼き風焼きそば」も美味しいと評判なので、ぜひお試しください。

基本情報

【住所】大阪府大阪市中央区難波3-7-20
【アクセス】御堂筋線なんば駅から徒歩約2分
【関連URL】https://www.osaka-botejyu.com/

三和本通商店街

尼崎の「三和商店街」は房江が伸仁を連れていったうなぎ屋や、熊吾と伸仁が入った洋食屋などがあったところです。モデルとなっているのは現在の「三和本通商店街」やその周辺のエリアと思われます。現在でもこちらには100店程度の専門店が集まり、キャッチフレーズは「三和に行けば何でも揃う」です。

周辺には「三和市場」や上に引用させていただいた「ナイス市場」といった昭和時代の雰囲気を色濃く残すエリアもあるので、探検しながら買い物や食事を楽しんでみてください。

基本情報

【住所】兵庫県尼崎市神田北通6丁目153
【アクセス】阪神尼崎駅から徒歩約10分
【関連URL】あまがさき公式観光サイト(ジョーのある町 尼崎)