村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」の風景(その2)
新いるかホテルへ
前回(ダンス・ダンス・ダンスの風景その1・参照)、函館での取材を終えた「僕」は札幌の「いるかホテル」に向かいます。1983年の函館・札幌間の電車旅は現在より長い時間を要しましたが、食堂車を備えていたり車内販売があったりして、また違った楽しみ方がありました。そして、札幌に到着した「僕」が見たのは昔の姿とは似ても似つかない「いるかホテル」の姿でした。
特急列車に乗車
函館でグルメ記事のための取材を終えた次の日、「僕」は札幌に向かう「昼前のちょうどいい時間」の特急に乗り込みました。当時の函館・札幌間には今も残る「特急北斗」などが運行していました。下にはクリーム色と赤色の国鉄カラーが施された「特急北斗」の写真を引用しました。
出典:Atsasebo, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:JRHokkaido_LtdExp_Hokuto_1993.jpg
ここでは左側の特急の窓側に「僕」の姿を置き、「特急列車の窓からは雪しか見えなかった。よく晴れた日で、しばらく外を見ていると目がちくちくと痛んだ」というシーンをイメージしてみましょう。
食堂車で一服
特急に乗り込むと「僕は朝食を抜かしたので十二時前に食堂車に行って昼食を食べた。ビールを飲み、オムレツを食べた」とあります。
下には北海道を運行していた「オホーツク」という特急の食堂車の写真を引用させていただきました。ここではテーブル席のどこかに「ポケットがいっぱいついたタフなズボンをはき、雪道を歩くための頑丈なワーク・ブーツを履いていた」という「僕」の姿を置いてみます。
なお、「羊をめぐる冒険(・・・の風景その2・参照)」では「良いバーはうまいオムレツとサンドウィッチを出すものなんだ」と「僕」にいわせているなど、オムレツは村上春樹氏の小説にたびたび登場する食べ物です。
「僕」が食べていたのは下に引用させていただいたような美味しそうなオムレツだったでしょうか。
ジャック・ロンドンの小説を読む
食事を済ませても札幌到着までにはまだ時間がありました。「僕は三十分ほど眠り、函館の駅近くの書店で買ったジャック・ロンドンの伝記を読んだ」とのこと。
ジャック・ロンドンは1876年生まれ(~1916年)のアメリカの作家です。少年時代は貧困のために進学もままならず、牡蠣の密漁団に加わるなど荒れた生活を送ります。その後もアザラシ狩り船に搭乗して日本に立ち寄ったり、カナダのゴールドラッシュに参加したりと多彩な経験をしました。
そのような体験を生かした小説がヒットし流行作家になりますが、最後はモルヒネで自殺、といった激動の人生を送った人物です。
「僕」が読んでいたのは自伝的小説の「マーティン・エデン」と思われます。上には映画化された作品の予告編を引用させていただきました。
「僕」はいいます。
「ジャック・ロンドンの波瀾万丈の生涯に比べれば、僕の人生なんて樫の木のてっぺんのほらで胡桃を枕にうとうとと春をまっているリスみたいに平穏そのものに見えた」
下に引用させていただいた写真のような風景を思い浮かべるとよいかもしれません。
知らない街での孤独感
札幌駅に到着した「僕」は「いるかホテル」に徒歩で向かうことにしました。途中でコーヒー・ハウスに立ち寄り「ブランディーの入った熱くて濃いコーヒー」を注文します。そこには「ビジネス・マンが二人で書類を広げて数字を検討し、大学生が何人かで集まってスキー旅行やらポリスの新しいLPやらについて話していた」とあります。
下にはポリスが1983年にリリースしたヒットアルバム「シンクロニシティ」から「Message In A Bottle(邦題:孤独のメッセージ)」という曲の動画を引用させていただきました。
こちらの曲を聴きながら以下のような「僕」の心情を想像してみましょう。
「この札幌の街で、僕はまるで極地の島に一人で取り残されてしまったような激しい孤独を感じた、・・・・・・何かひとつしくじれば、僕が別の惑星の人間だということはみんなにばれてしまう。・・・・・・お前は違うお前は違うお前は違う」
二十六階建ての「いるかホテル」?
「いるかホテルの場所を僕ははっきりと覚えていなかったので、それがすぐにみつかるかどうかもいささか心配だったのだけれど、心配する必要なんて何もなかった」とのこと。「それば二十六階建ての巨大なビルディングに変貌を遂げていた」とあります。
以下に引用させていただいたのは、いるかホテルのモデルの候補とされる「ノボテル札幌(現プレミアホテル・中島公園札幌)」の写真です。地下1階・地上25階の現代的なホテルで、規模感もよく似ています。
ここでは五階建てで、二階に羊の資料館があった「旧いるかホテル」とは全く異なる佇まいに、「僕は二十秒ばかりそこに立ちすくんで、口を半分開けて、そのホテルをただじっと見上げていた」というシーンを想像してみましょう。
いるかホテルの中に!
「僕」はホテルのなかに入ります。
「ロビーは体育館みたいに広く、天井は吹き抜けになっていた。ずっと上の方までガラスの壁が続き、そこから陽光が燦々と降り注いでいた。フロアには大きなサイズのいかにも高価そうなソファが並び、その間に観葉植物の鉢が気前よくたっぷりと配されていた」とのことです。
出典:J o, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kobe_Portopia_Hotel_atrium_lobby_20120809-003.jpg
上には、あるホテルの豪華なロビーの写真を引用しました。
こちらのようなホテルの雰囲気をみて
「(旧いるかホテルと違って)新・いるかホテルは繁盛しているホテルだった。きちんと資本を投下し、きちんとそれを回収しているホテルなのだ」
との感想を抱きますが
「正直なところ、僕の好みのホテルとは言えなかった。少なくとも、普通の状況であれば僕は自分の金を出してこんなホテルには泊まらない」
ともいっています。
眼鏡が似合う女の子
「僕はカウンターに行って名前を告げた。ライト・ブルーの揃いのブレザー・コートを着た女の子たちが歯磨きの宣伝みたいににっこりと笑って僕を迎えてくれた」とのこと。下に引用させていただいたような笑顔だったでしょうか?
「女の子は三人いたが、僕のところに来た子だけが眼鏡をかけていた。眼鏡がよく似合う感じの良い女の子だった」とのこと。
「彼女の笑顔の中にはなにかしら僕の心をひきつけるものがあった。まるでホテルのあるべき姿を具現化したホテルの精みたいだ」
ともいっています。
ところが「僕」と以下のような会話を交わす間にその笑顔は消えていきます。
僕「昔ここの同じ場所に同じ名前の『ドルフィン・ホテル』という小さなホテルがあったでしょう?それがどうなったか知っている?」
彼女「なにぶん開業前のことですので、私どもはちょっとそういうことは・・・・・・」
僕「じゃあ、誰に聞けばわかるだろう、その辺の経緯が?」
彼女「申しわけございません。少々お待ちください」
そう言って彼女はロビーの奥に行ってしまいました。
旧いるかホテルの情報は得られず
彼女が連れてきたのは「四十歳前後の黒服の男」で「見るからにホテル・ビジネスのプロという雰囲気の男」でした。以下、ホテルマンと「僕」との会話を抜粋してみます。
ホテルマン「いらっしゃいませ・・・・・・何か手前どものホテルに関してご質問がおありということですが」
ちなみに黒服のホテルマンの笑顔には、そのグラデーションに「ナンバー1からナンバー25まで」の番号が振ってあり、「状況に応じてゴルフクラブを選ぶみたいに使いわける」とのこと。
「僕」はこの時、「裏に毛皮のついた温かいハンティング用のハーフコート(胸にキース・へリングのバッジをつけている)に毛糸の帽子(オーストリア陸軍のアルプス部隊がかぶっているやつ)をかぶり・・・・・・」といったヘビーデューティーな姿でした。
下にはキース・へリングのバッジの写真を引用させていただきました。ここでは、このような「僕」の服装を見て、笑顔が中間的なグラデーションから「三段階ほど下降した」というホテルマンの表情を想像しておきます。
「何年か前に以前のドルフィン・ホテルに泊まって、そこの主人と親しくなった。今回久し振りに訪ねてみたら、このとおりがらりと変わってしまっていた。それで彼がどうなったのか知りたい」と「僕」が説明すると
ホテルマン「以前のそのドルフィン・ホテルがございました土地を手前どもが買い上げまして、その跡に新しくホテルを建てたということです。名前は同じですが、経営的にはまったく別のホテルでございまして・・・・・・」
僕「どうして名前が一緒なんだろう?」
ホテルマン「申しわけございませんが、その辺の事情まではちょっと・・・・・・」
僕「以前の主人がどこに行ったかもわからないでしょうね?」
ホテルマン「申し訳ございません」
新いるかホテルの謎
以下はホテルに対する「僕」の感想です。
「1523号室はなかなか立派な部屋だった。シングル・ルームにしてはベッドも風呂もひろびろとしていた。・・・・・・パンフレットを読んでみると、ここはたしかにいろんなものが実によく揃ったホテルだった。地下には大きなショッピング・センターがあった。室内プールもあれば、サウナもあれば、日焼け室もあった。・・・・・・」
「でも経営母体についてはどこにも何も書いてなかった。どう考えても変な話だった。これだけのスーパーAクラスの豪華ホテルを建てて経営することはホテル・チェーンを持っているプロの企業にしか不可能だし、そういう企業なら必ず社名を入れて、自社の他のホテルの宣伝もするはずだからだ。たとえば、プリンスホテルに泊まれば、そのパンフレットに全国のプリンスホテルの住所と電話番号が印刷してある」
上には「新いるかホテル」にも引けをとらないと思われる「札幌プリンスホテル」のスイートルールの写真を引用させていただきました。こちらの写真から以下の風景をイメージしてみましょう。
「僕はパンフレットをテーブルの上に放り投げ、ソファにゆったりともたれて足を投げ出し、十五階の窓の外に広がる空を眺めた。窓の外には真っ青な空しか見えなかった。じっと空を眺めていると自分がとんびになったような気がした」
旅行などの情報
特急北斗
「特急北斗」は現在も運行を続けていて、車両は下に引用させていただいたような近代的な姿になっています。
出典:MaedaAkihiko, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Series_Kiha261-1000_Hokuto-4.jpg
残念ながら食堂車は廃止され車内販売も実施していないので、お弁当を食べる場合は駅などで調達しておきましょう。函館・札幌の所要時間は3時間30分前後に短縮されましたが、景色を見ながら電車旅を楽しむ時間は十分にあります。
【住所】北海道函館市若松町12-11(函館駅)
【参考URL】https://www.jrhokkaido.co.jp/
プレミアホテル・中島公園札幌
新いるかホテルの候補として登場してもらった高級ホテルです。下に引用させていただいたように、窓の外には中島公園の自然が広がり、季節ごとのきれいな景色を見せてくれます。
また、日替わりのメインプレート(3種類)とビュッフェからなる名物の朝食は、バラエティーが豊かと評判です。ランチのみの利用も可能なので気軽に立ち寄ってみてください。
基本情報
【住所】北海道札幌市中央区南10条西6丁目1-21
【アクセス】地下鉄南北線・中島公園駅から徒歩約3分
【参考URL】https://premier.premierhotel-group.com/nakajimaparksapporo/
中村キース・へリング美術館
「僕」がコートに着けていたキース・へリングの作品が気になった方は、山梨県にある「中村キース・ヘリング美術館」に足を運んでみてはいかがでしょうか。バッジのデザインにも取り入れられた「イコンズ」というシルクスクリーン作品のほか、新たな大型作品やアルミニウムにペイントを施したユニークな作品など多彩なアートを展示しています。
館内には下に引用させていただいたようなおしゃれなミュージアムショップがあり、ピンバッジやTシャツ、エコバッグなどのグッズが満載です。館外には遊歩道も整備されていて、八ヶ岳の自然を満喫することもできるでしょう。
基本情報
【住所】山梨県北杜市小淵沢町10249-7
【アクセス】JR小淵沢駅より車で約8分
【参考URL】https://www.nakamura-haring.com/