夏目漱石「吾輩は猫である」の風景(その8)

迷亭の伯父や教え子らが訪問

「ダムダム弾事件(前回参照)」があってから1週間ほどたったある日、主人は「南向きの六畳」の書斎で見出しなみを整えています。そこに迷亭がちょん髷にフロックコートというユニークな恰好をした伯父を連れてやってきます。その次の日には中学校の教え子が相談しにきたり、寒月が外に誘いにきたりと賑やか。そんな雰囲気を追っていきましょう。

独逸皇帝のような髭

「痘痕面(あばたづら)である」ことが気になる主人は、鏡を見ながら「このくらい離れるとそんなでもない。やはり近過ぎるといかん。」などと独り言をいいます。そして「今度は髯ひげをねじり始め」、「独逸皇帝陛下のよう」にするため「上の方へ引っ張り上げる」ことに一生懸命です。

独逸皇帝陛下とは当時のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世です。下に引用させていただいたような立派な髭が有名で「カイゼル(皇帝)髭」と呼ばれていました。

出典:Studio of Thomas Heinrich Voigt, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kaiser_Wilhelm_II_of_Germany_-_1902.jpg

「主人が満腔の熱誠をもって髯を調練していると」下女が手紙を持ってきますが「八の字の尾に逆さか立だちを命じたような髯を見るや」台所に駆け込み、「ハハハハと御釜の蓋ふたへ身をもたして笑った」というシーンがあります。下に引用させていただいたような時代の漱石先生の髭をイメージするとよいかもしれません。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Soseki_Natsume_01.jpg

迷亭の伯父が訪問

下女の持ってきた手紙を読んでいると、迷亭が静岡に住んでいる(彼の)伯父を連れてやってきます。「宮様の御顔を拝」める赤十字の総会に出席するために東京にきたとのことで、フロックコートで正装しています。「白髪のチョン髷ははなはだ奇観である。評判の鉄扇はどうかと目を注けると膝の横にちゃんと引きつけている」という当時としても珍しい組み合わせでした。

明治4年に政府は「散髪脱刀令」を布告しますが、「散髪」はあくまで推奨で、このようにちょん髷にこだわる方も一定数いたのでしょう。下に引用させていただいたのは伯父が持っていたような鉄扇の写真です。ここでは「兜を割るので、――敵の目がくらむ所を撃ちとったものでがす」と使い方を説明し「建武時代の作かも知れない」と胸を張る伯父の姿を想像してみます。

出典:No machine-readable author provided. Mkill assumed (based on copyright claims)., Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tessen.jpg

苦手な朝の風景(伊藤博文の新聞)

ある朝、細君は「『あなた、もう七時ですよ』と襖越しに細君が声を掛けた」、さらに「九時までにいらっしゃるのでしょう。早くなさらないと間に合いませんよ」と追い打ちをかけると朝が弱い主人は「何だ騒々しい。起きると云えば起きるのだ」と大声を張り上げました。すると隣の車屋のおかみは(金田の差し金で)わざと子供を泣かせます。

眠りを妨げられた主人は朝からご機嫌斜めですが、起き上ると見える袋戸の「模様を置いた紙がところどころ破れて妙な腸(新聞紙や肉筆の紙などのこと)」に興味を持ちます。「第一に眼にとまったのが伊藤博文の逆立ちである。上を見ると明治十一年九月廿八日とある。・・・・・・少し左の方を見ると今度は大蔵卿(伊藤公のこと)横になって昼寝をしている。もっともだ。逆立ちではそう長く続く気遣はない」などと立腹したことも忘れてしまいます。

下に引用させていただいたのは襖の奥から出てきた新聞紙の画像です。ここでは当時(明治30年代)としても古い明治10年代の伊藤博文の記事が縦横に並んで貼られている風景を想像してみましょう。

日本堤分署へ出頭

実は細君が「九時」といったのは警察署へ出発する時間のこと。前日、泥棒がつかまったので盗品を受け取りにくるように連絡がありました。場所は「日本堤分署」で迷亭によると「吉原だよ」とのこと。下に引用させていただいたのは明治時代の吉原の入り口周辺の景色です。ここでは主人が「あの遊廓のある吉原か?」と不安気にいう姿をイメージしてみましょう。

出典:『東京名所写真帖』,美博堂,明35.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/764231 (参照 2023-11-16、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/764231/1/10

主人は何とか9時に「洋服を着て、車へ乗って、日本堤分署へ出頭」することになります。人力車の「格子をあけた時、車夫に日本堤という所を知ってるかと聞いたら、車夫はへへへと笑った」とあります。下に引用させていただいたのは明治時代の人力車の写真です。ここでは「あの遊廓のある吉原の近辺の日本堤だぜ」と主人が念を押すシーンを重ねてみます。

独仙の講演を主人の姪が語る&当時お金持ちで有名だったのは?

主人の留守中に(主人の)姪が遊びに来ます。「折々日曜にやって来て、よく叔父さんと喧嘩をして帰って行く雪江とか云う奇麗な名のお嬢さんである。もっとも顔は名前ほどでもない、ちょっと表へ出て一二町あるけば必ず逢える人相である」とのことです。

彼女は、八木独仙の学校での招待演説の内容を「昔ある辻の真中に大きな石地蔵があったんですってね」と切り出します。町の人は邪魔になるため片付けようと考え、「一番強い男」や「一番利口な男」、「大きな法螺を吹く人」にやらせますが埒が明かず、最後に「何にも知らない、誰も相手にしない馬鹿」が解決したというお話でした。

下に引用させていただいたのは「大きな法螺を吹く人」がなりすました岩崎男爵(岩崎弥之助、三菱財閥2代目で岩崎弥太郎の弟)の写真です。姪が「今の世で云うと岩崎男爵のような顔をするんですとさ」というようにセレブといえばこの方、というような有名人だったと思われます。

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」,岩崎弥之助
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6405

教え子が相談にくるも

警察署から帰った主人のもとには「古井武右衛門」という文明中学の教え子が訪ねてきます。用件は彼を含む三人で、金田の娘に「艶書(恋文)を送ったんです」とのこと。理由を聞くと(彼は直接、金田娘のことは知らないが)「ハイカラで生意気だ」から「からかってやろうって」やったといいます。送った後に事の重大さに気付き、「どうでしょう退校になるでしょうか」と心配そうに主人に聞きます。

もったいぶって「そうさな」とばかりいっている主人をみて「見込がないと思い切った武右衛門君は・・・・・・無言の裡に暗に訣別の意を表し・・・・・・悄然として薩摩下駄を引きずって門を出た」とあります。そして帰ったあとに「可愛想に。打ちゃって置くと巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むかも知れない」と「吾輩」に言わせています。

下に引用させていただいたのは華厳の滝で投身自殺をした藤村操さんの遺書「厳頭之感」の絵葉書の写真です。この事件は社会に衝撃を与え、こちらの滝が一時は自殺の名所となってしまいます。ここでは一高の教え子でもあった藤村操さんに対して鎮魂の思いを抱きながら「巌頭の吟」の文章を書く漱石先生の姿をイメージしてみましょう。

寒月が里帰り前にやりたかったこととは?

古井武右衛門君の訪問中に入ってきた寒月君は「上野へ行って虎の鳴き声を聞こうと思うんです」と誘います。しかも「ええ、今じゃいけません、これから方々散歩して夜十一時頃になって、上野へ行くんです」と、夜の虎の鳴き声を聞くことにこだわります。

寒月君は「実は二三日中にちょっと帰国しなければならない事が出来ましたから、当分どこへも御伴は出来ませんから、今日は是非いっしょに散歩をしようと思って来たんです」とのことでした。

下に引用させていただいたのは上野動物園で飼育したいた虎の写真(大正時代)です。ここでは、夜の11時頃、こちらの虎が物凄い声で鳴いている姿を想像してみます。

出典:野田勘碧洋 編『教育写真画帖』第1輯 上野動物園之部 上巻,大正敬神会,大正11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/987204 (参照 2023-11-16、一部加工
)https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/987204/1/13

旅行などの情報

吉原大門

(新)吉原は主人が出頭した「日本堤分署」の近くにあった当時日本最大の遊郭で、その入り口になったのが吉原大門です。明治末期の吉原大火や大正の関東大震災などに見舞われたため明治時代からの建物はあまり残っていませんが、街の区画は江戸・明治とあまり変わっておらず、下に引用させていただいたメインストリートの仲之町通りの周辺では昭和レトロな建築を鑑賞することができます。

遊女たちが信仰した吉原神社や、吉原を名残り惜しく振り返った「6代目見返り柳」などの史跡が点在しているので当時の賑わいを想像しながら散策をしてみてはいかがでしょうか。

基本情報

住所:東京都台東区千束吉原大門交差点近く
アクセス:東京メトロ日比谷線・三ノ輪駅から徒歩約10分
参考サイト:https://4travel.jp/dm_shisetsu/11559653

上野動物園

故郷に帰る前に寒月君が主人を誘ったスポットです。明治15年に開業し、虎については明治20年に初来園との記述があります(下に引用)。

明治20年 イタリアのチャリネ曲馬団より、神田・秋葉原で興行中に生まれたトラを、ヒグマと交換で入手。初来園。

出典:上野動物園公式サイト・上野動物園の歴史
https://www.tokyo-zoo.net/zoo/ueno/history.html

現在では下に引用させていただいたようなかわいいパンダが暮らし、アジアゾウやキリン、シロクマといった人気の動物をたくさん見ることができます。毎年夏の指定日には「ナイトズー」を開催するので、迫力のあるトラの声を聴くことができるかもしれません。

基本情報

住所:東京都台東区上野公園9-83
アクセス:JR上野駅公園口から徒歩約5分
参考サイト:https://www.tokyo-zoo.net/zoo/ueno/

華厳の滝

「吾輩」が古井武右衛門のことが心配になって触れた「巌頭の吟」の関連スポットです。中禅寺湖からの高低差97mを岸壁に沿って流れ落ちる豪快な滝で、那智の滝などと並び日本三名瀑に数えられています。下に引用させていただいたような紅葉の風景はもちろん、冬の氷瀑も見事です。

観爆台まではエレベーターが通じているため、豪快な姿を気軽に楽しめるのもおすすめポイント。敷地内には売店やレストランなどの施設もあるのでドライブの休憩スポットとしても活用できます。

基本情報

住所:栃木県日光市中宮祠
アクセス:中禅寺温泉バス停から徒歩約5分
参考サイト:http://www.nikko-kankou.org/spot/5/