太宰治「人間失格」の風景(その4) 

第三の手記(前半)

事件の取調べを受けた葉蔵は「父の東京の別荘に出入りしていた書画骨董商の渋田」の保護下に置かれます。その後、渋田のもとから逃げた葉蔵は堀木の家に向かい、そこで出会ったシングルマザーのシヅ子の家に転がり込みました。いくつかの連載漫画の仕事を得、シヅ子の子・シゲ子も葉蔵になつきますが、葉蔵の飲酒癖は悪化していきます。

ヒラメの家に滞在

渋田の姿については第二の手記(人間失格の風景その3・参照)や第三の手記内でさらに詳細な表現があります。「父のたいこ持ちみたいな役も勤めていたずんぐりした独身の四十男」で「顔が、殊に眼つきが、ヒラメに似ているというので、父はいつもその男をヒラメと呼び、自分も、そう呼びなれていました」とのこと。ヒラメの葉蔵に接する態度は事件前とは急変し、「出ちゃいけませんよ。とにかく、出ないで下さいよ」と「ヒラメの家の二階の、三畳の部屋」に閉じ込められます。

そんなある日、ヒラメは葉蔵を「珍らしくお銚子など附いている食卓に招いて、ヒラメならぬマグロの刺身に、ごちそうの主人みずから感服し・・・・・・お酒をすすめ」ます。マグロは遠慮したのでしょうか、葉蔵がこの時食べたのは下に引用したような畳鰯(たたみいわし)でした。ここでは久しぶりにお酒を飲んだ葉蔵が「その小魚たちの銀の眼玉を眺め」ながら「自由」が欲しいと願う姿を想像してみましょう。

出典:User:Freetrashbox, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tatami-iwashi.JPG

ヒラメ宅から逃走

ヒラメの家は「大久保の医専の近く」にありました。「大久保」とは昭和7年まで存在した「東京市豊多摩郡大久保町」と思われます。とすると、医専とは東京医科専門学校(現・東京医科大学)のことでしょう。ちなみに、当時の大久保町は現在の新宿区大久保に加えて百人町や新宿5・6丁目も含んでいました。

ヒラメ宅から抜け出した葉蔵は新宿駅まで歩いていきます。下には昭和初期の新宿駅前の風景を引用させていただきました。この街のどこかに「懐中の本を売り、そうして、やっぱり途方にくれて」いる葉蔵の姿を置いてみます。

出典:『大東京寫眞帖』,[出版者不明],[1930]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3459985 (参照 2023-11-10、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/3459985/1/120

堀木家を訪問

「他人の家の門は、自分にとって、あの神曲の地獄の門以上に薄気味わるく、その門の奥には、おそろしい竜みたいな生臭い奇獣がうごめいている気配を、誇張でなしに、実感せられていた」葉蔵ですが、どこに行くあてもなく、浅草にある堀木の家を訪問します。

「二階家で、堀木は二階のたった一部屋の六畳を使い、下では、堀木の老父母と、それから若い職人と三人、下駄の鼻緒を縫ったり叩いたりして製造しているのでした」とあります。下には大正初期の下駄職人の作業風景の写真を引用させていただきました。ここではトントンという下駄をつくる音のなか、おどおどしながら堀木のもとを訪ねる葉蔵の姿をイメージしてみましょう。

出典:Elstner Hilton, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Geta_makers.jpg

シヅ子の家へ

堀木のもとにヒラメから、葉蔵を帰らせるようにとの電報が届くと「とにかく、すぐに帰ってくれ。おれが、お前を送りとどけるといいんだろうが、おれにはいま、そんなひまは、無えや」といいます。そこには堀木のカットイラストを取りにきた「痩せて、脊の高い」「雑誌社のひと」が居合わせ、ヒラメ宅の近くに社があるとのことで付き添ってくれることに・・・・・・

葉蔵はヒラメの家には帰るはずでしたが、実際は雑誌社のシヅ子の家に転がりこみ、「男めかけみたいな生活」をすることになります。シヅ子は「甲州の生れで二十八歳でした。五つになる女児と、高円寺のアパートに住んでいました」という設定です。シヅ子の明確なモデルはいませんが、下には太宰治氏の妻・石原(津島)美知子さんの写真を引用させていただきました。

出典:http://vmugiv.exblog.jp/20712663/, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Michiko_Ishihara.jpg

漫画で飲み代を稼ぐ

堀木との会話を通して「世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました」とあります。また「シヅ子の言葉を借りて言えば、自分は少しわがままになり、おどおどしなくなりました。また、堀木の言葉を借りて言えば、へんにケチになりました。また、シゲ子の言葉を借りて言えば、あまりシゲ子を可愛がらなくなりました」とのことです。

そして「『キンタさんとオタさんの冒険』やら、またノンキなトウサンの歴然たる亜流の「『ノンキ和尚』やら、また、『セッカチピンチャン』という自分ながらわけのわからぬヤケクソの題の連載漫画やら」で収入を得るようになります。下に引用させていただいたのは「ノンキなトウサン・昼寝の巻」からの抜粋です。子供が置いて行った飴に髪の毛が貼りつき、悪い夢をみるというもの。ここではトウサンを和尚に置き換えたパロディーを書いている葉蔵の姿をイメージしてみましょう。

出典:『ノンキナトウサン文庫』昼寝の巻,田村書店,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/915163 (参照 2023-11-09、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/915163/1/5

連日のバー通い

葉蔵の「飲酒は、次第に量がふえて来ました。高円寺駅附近だけでなく、新宿、銀座のほうにまで出かけて飲み、外泊する事さえあり・・・・・・バアで無頼漢の振りをしたり、片端からキスしたり」する毎日。事件を起こした「あの頃よりさらに荒んで野卑な酒飲みになり、金に窮して、シヅ子の衣類を持ち出す」ようになります。

下に引用させていただいたのは銀座のバー・ルパンで1946年に撮影された太宰治氏の写真です。ここでは、酔いながら「水の流れと、人の身はあサ。何をくよくよ川端やなあぎいサ」と歌う葉蔵の姿に重ねてみましょう。

出典:Tadahiko Hayashi, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Osamu_Dazai1946.jpg

幸せそうな姿を見て

銀座で飲んで二晩つづけて外泊して帰った晩、家の中からシヅ子と娘のシゲ子の声が聞こえてきます。シゲ子が「なぜ、お酒を飲むの?」というとシヅ子は「お父ちゃんはね、お酒を好きで飲んでいるのでは、ないんですよ。あんまりいいひとだから」と答えます。

そして、下に引用したような白兎が跳ね回る姿を見ながら「ほら、ほら、箱から飛び出した」とシヅ子がいうと「セッカチピンチャンみたいね」というシゲ子が返し、「シヅ子の、しんから幸福そうな低い笑い声が聞えました」とあります。

出典:Sarbast.T.Hameed, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rabbit_in_the_farm-3.jpg



「ドアを細くあけて中をのぞいて」いた葉蔵は「幸福なんだ、この人たちは。自分という馬鹿者が、この二人のあいだにはいって、いまに二人を滅茶苦茶にするのだ」と考えた葉蔵は、「そっと、ドアを閉め、自分は、また銀座に行き、それっきり、そのアパートには帰りませんでした」とあります。

下に引用させていただいたのは太宰治氏と長女の津島園子さんの写真です。ここでは「お父ちゃん。お祈りをすると、神様が、何でも下さるって、ほんとう?」と聞くシゲ子の姿と重ねてみましょう。

出典:Daderot, CC0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Exhibit_in_Dazai_Osamu_Literary_Salon_-_Mitaka,_Tokyo_-_DSC09495.JPG

旅行などの情報

碧雲荘

東京都杉並区天沼にあった建物で太宰治が昭和11年(太宰27歳)から昭和12年まで住んでいました。2017年に東京から大分県の湯布院町ある「ゆふいん文学の森」の中に移築。現在でも太宰が最初の妻・小山初代と暮らした頃の姿をとどめています。

こちらで「人間失格」の原型となる「HUMAN LOST」などを執筆し、「富嶽百景」のもととなる悲しい体験をしました。下に引用させていただいたように窓からは由布岳(豊後富士)の美しい姿を眺めることもできます。

基本情報

住所:大分県由布市湯布院町川北1354-26
アクセス:大分自動車道・由布院ICから5分
関連URL:https://bungaku-mori.jp/bungakunomori/

銀座・ルパン

銀座のルパンは「連日のバー通い」のところで引用した写真が撮影された場所です。こちらの写真は太宰が37歳のときの写真で、昭和を代表する写真家・林忠彦氏が撮影したもの。店内には太宰をはじめ織田作之助や坂口安吾の写真も飾られています。

昭和3年開店の老舗で、建物は新しくなっていますが、下に引用させていただいたようにカウンターなどの内装は創業当初の状態で保存されています。レトロな雰囲気のなかでマティーニやモスコミュールなどの美味しいお酒をご堪能ください。

基本情報

住所:東京都中央区銀座5-5-11塚本不動産ビルB1階
アクセス:東京メトロ銀座駅から徒歩2分
関連URL:http://www.lupin.co.jp/

筋子納豆

ヒラメ宅でのお呼ばれで葉蔵は畳鰯を食べていましたが、太宰治氏の好物として有名なのが筋子納豆です。下に引用させていただいたように納豆の上に筋子をトッピングしたシンプルな食べ物。碧雲荘にて執筆された「HUMAN LOST」には「私は、筋子に味の素の雪きらきら降らせ、納豆に、青のり、と、からし、添えて在れば、他には何も不足なかった」とあるように、太宰流のアレンジを加えていました。

ちなみに太宰はなんにでも味の素をかけて食べていたことでも有名です。下には味の素の公式サイトから一部抜粋させていただきました。

とくに”大の味の素®好き”というのがいいですね。実際に「HUMAN LOST」以外にも太宰の作品の多くで味の素®が登場しますし、檀一雄の著作「小説 太宰治」のなかで太宰は「僕がね、絶対、確信を持てるのは味の素だけなんだ」と語るほどです。「好き」どころではなく「絶対」の「確信」というほどです。

いまでも太宰の墓前にはファンの方々によって味の素®が供えられているそうです。

出典:味の素公式サイト
https://story.ajinomoto.co.jp/series/person/001.html