平山三郎「実歴阿房列車先生」の風景(その4)
東北本線阿房列車・奥羽本線阿房列車
今回は「実歴阿房列車先生」の東北編です。盛岡の昔の学生と会うという「用事」を伴う、「阿房列車」としては異例の旅でした。用事を済ませた後、浅虫温泉・秋田・横手・山形・仙台の名旅館に宿泊、各地の鉄道関係者などと宴席を設けます。宿泊した旅館の写真や動画を参照しながら、先生や山系君の姿を追っていきましょう。
福島の駅前旅館(東北本線阿房列車)
「十月二十一日、お昼頃、先生と上野駅へ出掛けた。・・・・・・列車は、十二時五十分発二三等準急行仙臺行である。こんどの旅行の、最初の目的地は盛岡である。盛岡には法政の昔の学生で、金矢忠志さんがいる。盛岡へ行くために、なぜ、こんな中途半端な列車に乗るかといえば、先生の時計に朝の九時十時という時間はないのも同然であって、十二時五十分に乗るにも精一ぱいの努力なのである。」
なお、金矢忠志さんは「第一阿房列車・東北本線阿房列車」では「矢中懸念仏(やなかかけねんぶつ)」という名前で登場していました。
朝起きるのが苦手な百閒先生ですが、盛岡にはお酒を飲み始めるのにちょうどよい夕方に到着したいと考えます。そこで「毎晩のように時刻表を前にして、たのしく想を練りにねった」結果、福島で一泊し、次の日昼頃に福島から盛岡に向かうことにしました。
以下、「実歴阿房列車先生」から引用してみます。
「―――福島駅六時四十九分著。雨が降り止まぬ。駅長室で紹介をうけた駅前の辰巳旅館に案内される」
他の記事(第一阿房列車の風景その5・参照)では辰巳屋旅館の写真を引用しましたが、こちらには「福テレ公式チャンネル」の動画を引用させていただきました。動画の1:10~1:20の部分に辰巳屋旅館が映っています。動画からも旅館の広さがわかるように、「実歴」では「女中さんに先導されて長い廊下を渡って」、「第一阿房列車」では「大きな宿だが、少し大き過ぎる様で、無暗に沢山部屋があるらしく、長い廊下を伝って、曲がって、又曲がって・・・・・・」と表現されています。
黒い緋鯉(東北本線阿房列車)
福島で宿泊した次の日は大雨でした。宿で池に鯉が群れるのを眺めながら、山系君は先生から鯉についての講釈を聞きます。以下は「第一阿房列車・東北本線阿房列車」での記述です。
百閒先生「この池には、黒くない緋鯉と、黒い真鯉しかいない。ところが貴君、ここにはいないけれど、真黒な緋鯉がいるのだよ」
山系君「あれとは違うのですか」
百閒先生「違う。丸で違う。もっと、もっと黒い。色に光沢がある。あれは、ひとりでに黒いのだが、黒い緋鯉は人が丹精して黒くしたのだから、それだけ違う」
山系君「緋鯉を黒くして、どうするのです」
百閒先生「池に泳がして、見るのさ」
山系君「まあ、いいです」
下には全日本錦鯉振興会公式サイトから「ドイツ烏鯉」という錦鯉の写真を引用させていただきました。
出典:全日本錦鯉振興会公式サイト、錦鯉の品種、ドイツ烏鯉
https://jnpa.info/
「実歴阿房列車先生」では「黒い緋鯉」に関連して、先生と豊島與志雄氏との交流についての記述があります。
「先生に黒い緋鯉をおしえたのは、むかし、海軍機関学校のフランス語の教官をしていた豊島與志雄である。毎週一囘、豊島教官と内田教官とは横須賀線に乗って、嘱託教官として通っていたのだが、その頃、錦鯉の黒いのは五六寸の大きさで一匹二十円だったそうで、非常に高い。豊島與志雄の千駄木町の家の水槽には飼っているのを、先生は見に行って、しごいたような姿勢で泳ぎ廻っている黒い緋鯉に見惚れた。羨ましかったけれど、さすがに一匹二十円では、買えなかった。豊島與志雄は黒い緋鯉のほかに、まだ先生に教えたことがある。それは金貸しから金を借りることであって、百閒先生の借金修行の皮切りをつけたのは豊島陸軍教官であった・・・・・・」
下には小説家や児童文学作家、ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」の翻訳などでも知られる豊島與志雄氏の写真を引用いたしました。
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」、豊島与志雄、明治大正文学全集 第41卷、春陽堂 編 春陽堂 昭和6
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6258/
話は阿房列車の最初に「スイッチバック」してしまいますが、最初に「阿房列車(特別阿房列車)」を走らせたときにも、旅費を捻出するために借金を申し込みに行く場面があります。
百閒先生「大阪へ行って来ようと思うのですが」
借金相手「それはそれは・・・・・・急な御用ですか」
百閒先生「用事はありませんが、行って来ようと思うのですが」
借金相手「御逗留ですか」
百閒先生「いや、すぐ帰ります。事によったら著いた晩の夜行ですぐ帰って来ます」
借金相手「事によったらと仰しゃると」
百閒先生「旅費の都合です。お金が十分なら帰って来ます。足りなそうなら一晩ぐらい泊まってもいいです」
借金相手「解りませんなあ」
百閒先生「いや、それでよく解っていのです。慎重な考慮の結果ですから」
借金相手「ほう」
百閒先生「それで、お金を貸して下さいませんか」
「気をもたせない為に、すぐに云っておくが、この話のお金は貸して貰う事が出来た。あんまり用のない金なので貸す方も気がらくだろうと云う事は、借りる側に起っていても解る。・・・・・・」
また、その後には先生の借金に対する考え方が記されています。
「一番いけないのは、必要なお金を借りようとする事である。借りられなければ困るし、貸さなければ腹が立つ。・・・・・・私が若い時暮らしに困り、借金しようとしている時、友人がこう云った。だれが君に金を貸すものか。放蕩したと云うではなし、月給が少くて生活費がかさんだと云うのでは、そんな金を借りたって返せる見込は初めから有りゃせん。」
盛岡で二泊(東北本線阿房列車)
「盛岡へ著いた夕は、鉄道局手配の旅館で、金矢さんと金矢夫人と長唄のお師匠で諫子さんと会食した。最初の杯をあげて、一杯だけで、先生は金矢さんの盃を取り上げて自分の前のお膳の上に伏せてしまった。金矢夫人が、少しぐらいならよろしいんですョ、と云ったが、先生は頑として金矢さんにはお酌をしなかった。それで金矢さんはにこにこして嬉しそうである。」
なお、金矢氏や百閒先生が宿泊した旅館についての情報を「Σtoica」公式サイトより引用させていただきました。なお、こちらのサイトでは当時の新聞に「教え子たずねて」という題名で掲載された百閒先生と金矢氏の写しや、山系君(平山三郎氏)の友人で詩人でもあった大坪孝二氏の写真も見ることができます。
金矢は昭和2年に法政大学経済学部を卒業、鉄道省に入省し、のちに満洲に渡ったが、終戦とともに郷里の盛岡に戻り、水産会社の支配人となる。盛岡中学時代に、中等学校野球大会で甲子園出場を果たしたこともあって、彼の地の名士だったのだろう。
小田島別館に旅装を解くと、ただちに宴となる。
出典:Σtoica [ストイカ]公式サイト、百間外伝 第14話 阿房列車の人模様【戦後/下】
https://stoica.jp/stoica/109
こちらに記されているように、先生たちは鉄道局に手配してもらった宿(小田島別館)に宿泊しました。昭和18年の「大日本商工録」には小田島旅館とともに系列旅館である「小田島別館」も掲載されています。
出典:大日本商工会 編纂『大日本商工録』,大日本商工会,昭和18. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1026095 (参照 2024-12-24、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1026095/1/103
小田島旅館は現在も「ホテル小田島」として営業を続けていますが、公式サイトによると百閒先生たちが宿泊した小田島別館は既に姿を消しているとのことです。以下には小田島旅館が所有する昭和初期の8ミリフィルムの映像を引用いたしました。
第一阿房列車・東北本線阿房列車には二日目の朝の記述には
「それでその晩は済んで、寝て朝起きたら、廊下の硝子戸の向うに、雪をかぶった円い山が見える。岩手山だろう」
とあります。
上の動画によると小田島旅館を定宿とした橋本八百ニ画伯は、旅館の廊下から見える岩手山を描いたとのことです。近くにあった小田島別館からも同じ様な景色が見えたかもしれません。
先生が訪問した頃(昭和26年)の盛岡市内や老舗旅館の様子を想像してみましょう。
浅虫温泉での粗相(奥羽本線阿房列車・前章)
「入浴はきらいではないが、いやしくも『温泉』に這入った経験は、浅蟲へ行くまで、生涯に二度しかない。一度は、漱石先生にお金を仮に、湯河原の天野屋旅館へ行った時で、二度目は昭和十四年秋、臺湾旅行の折、臺北郊外の草山の温泉に入った。・・・・・・温泉を好かない訳は、温泉には人がいるから行きたくない、温泉の宿屋は、人が来るのを待っている。向うがそのつもりでいる所へ、誰が行ってやるものか、と云うのである。―――浅蟲駅に降りたのは、旅程のかんけいで、観念したのである。駅のまん前の東奥館旅館に落ち着いた」
とあります。
こちらも旅館名が明らかにされています。
以下には先生が阿房列車を走らせる以前(大正期)の東奥館の絵葉書を引用させていただきました。
出典:青森県史デジタルアーカイブスシステム、「青森県所蔵県史編さん資料」、絵ハガキ(陸奥浅虫温泉旅舘東奥舘海面・正面・湯の島)、大正期、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス表示4.0国際(CC BY 4.0)
https://kenshi-archives.pref.aomori.lg.jp/il/meta_pub/G0000004pic
先生たちが宿泊したのは上の写真の「海面」の部屋だったと思われます。その日の晩餐について「実歴阿房列車先生」では、以下のように簡単に書かれています。
「洋室の硝子戸の下はすぐ陸奥湾で浪の音が高い。暗い時雨が海風にまじって厚い硝子戸を打つ。遠い岬の端へ夜行列車の光の列が狐火のように遠退いてゆく。夜は少し飲みすぎた。わたしは、居眠りして、またお酒を飲み出したりしてお膳をひっくり返したそうである。」
以下には、平山氏よりも酔いが回っていなかった百閒先生からみた同場面を「第一阿房列車・奥羽本線阿房列車(前章)」から抜粋してみましょう。
「山系君の方が先に廻ったらしい。それでますます飲み出した。・・・・・・山系は酔うと云う事を聴かない。もうよそうよと云うと、口答えはしない。はいと云って、しかし手は止めない。そうかと思うと、珍しく御飯を食べると云い出した。・・・・・・山系君は自分でよそって、よそった茶碗を前に置いて一寸居眠りをして、すぐに目を覚ましたと思ったら、その途端に御飯を引っ繰り返した。床に敷いた籐(と)の目の間に白い飯粒が散らばって、壮大なる景観を展開した。」
青森を経由して秋田へ(奥羽本線阿房列車・前章)
「翌日の十二時浅蟲を発って青森へ向う。青森までは丁度三十分かかる。青森から奥羽本線に乗り換えるには、二時間の待合わせ時間がある。」
その待ち時間に先生たちは床屋へ行き、中華料理屋でラアメンを食べます。
「秋田、午後七時四十九分著。わたしの友人の萩原長雄君ら三人が迎えに来ていた。石橋旅館に案内されて、三君をお客にして一献を始めた。先生が歌をうたい出した。」
こちらにも旅館名が明記されています。
出典:秋田鉱山専門学校 編『小花冬吉先生』,北光会,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1210564 (参照 2024-12-24、一部抜粋)、石橋旅館の先生居室
https://dl.ndl.go.jp/pid/1210564/1/236
上には石橋旅館の一室(明治-大正時代の製鉄技術者・小花冬吉が滞在した部屋)の写真を引用しました。
ここでは、こちらのような客室に平山氏の友人三人を迎えた先生が昔の軍歌をうたうところを想像してみましょう。「咽喉から血が出る程にどならないと気が済まない」という大声に「女中」が飛んで来ることに・・・・・・
横手の宿は先生のお気に入りに(奥羽本線阿房列車・後章)
次の日、先生たちは横手泊。
「横手駅長鈴木さんの案内で平源旅館についたのは夕六時過ぎていた。駅長さんを請じて一献をはじめる。」
「平源旅館」の建物は現在も保存され、結婚式場・レストランとして利用されています。下には「平源」公式アカウントによる近年の建物の投稿を引用させていただきました。
「横手の宿ではお膳に出た日本海の小鯛が先生にはめずらしいらしかった。瀬戸内海の鯛も冷凍の鯛もわたしなどにはその時その場だけの味で、取り立てて後に残るようなことはないが、先生は魚を賞味することには微妙な識別感があるらしい。
先生日常のお膳の上のことを云っては失礼かもしれないが、比目魚(ひらめ)なら比目魚、さわらならさわらの刺身が、毎日、十日でも一ト月でも、いや、一年中、同じ物がお膳の上に並んでいないと気がすまない。・・・・・・うなぎに凝り出して、毎日毎日、同じ店のうなぎを註文する。大の三十一日の月に二十九本、うなぎを連続したこともある。・・・・・・」
下には先生がひいきにしていた「うなぎ秋本」さんのうな重の写真を引用させていただきます。
「横手平源の炉辺で聞いた話のうち雪国の変った風習は、暖国生れの先生の興味をひいたらしい。・・・・・・軒毎に雪の室をつくって子供達が火神様をおまつりして遊ぶかまくらは、横手の町だけでも三千くらい出来ると話されても、ぴんと来ない。・・・・・・冬になったら、もう一ぺん来て、その雪の深いとこを見に来よう、と先生が云う。・・・・・・実際にはこの時から一ト冬隔(お)いた二年目、雪の横手に、もう一度出掛けて来た。雪に埋まったところだけではなく、雄物川のせせらぎが聞こえる横手の宿がどうやら気に入ったらしい。」
二年後の横手への鉄道旅のお話は「第二阿房列車・雪解横手阿房列車」(第二阿房列車の風景その2・参照)に描かれています。
山形・松島でもお酒を満喫(奥羽本線阿房列車・後章)
「山形駅、夕六時と五十九分著。
山形には、誰も知り合いがない。秋田からお土産にもらったお酒を車にのせて、『豊臣時代の豪傑の様な名前の大きな宿』後藤又兵衛旅館へ著いた」
こちらの旅館はすでに廃業し、建物も解体されていますが、旅館経営者のお孫さんに当たる登山家・小倉董子さんのWebサイト(http://www.tees.ne.jp/~oriental/ogura/profile/index.htm)にて後藤又兵衛旅館の建物や庭園の写真を見ることができます。
次の日は仙山線に乗り、山寺(立石寺)や面白山周辺の紅葉を楽しみながら、仙台駅へ。
「三時半ごろ仙臺駅へ著く。仙臺鉄道管理局の誰何さん(タレカ、という仮名)に案内されて、松島の白鴎楼へ這入った。誰何さん(鈴木肆郎)を夕の宴に招待して、東北旅行の第八日目かの晩、明日は東京へ帰るというので、それで度を過ごしたかもしれない」
下には昭和初期の松島海岸通りの写真を引用いたしました。右側の▲の下に建つのが百閒先生が宿泊した「白鴎楼」とのこと。大観山の上に建てられていて、眺望がよいことで知られていました。
出典:月の家 著『東北日記』7之巻,天声社,昭和3.8-4.2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1138139 (参照 2024-12-26、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1138139/1/49
「楣間にこの宿の名を題した伊藤博文の扁額が掲げてある。その額の大字が酔っ佛って動き出した頃、誰何君は電車がなくなると云ふので、帰って行った。」
とのこと。翌日はどんよりとした空から雨が降ってきます。
「飲み過ぎた翌日の重っくるしい気分である。・・・・・・先生もわたしも、九日間の長旅で、これという目的や用事のない、あてのない長旅で、いささかくたびれた。八泊九日の八泊を、すべて長夜の宴とはいえないが、とにかくお酒をのみつづけたのだから、疲れるのは無理もない。」
とあります。
出典:今昔写語公式サイト、仙台駅/東北本線・仙石線、1958年
https://konjaku-photo.com/?p_mode=view&p_photo=5129
松島湾の遊覧などを先生たちは、「仙臺駅一時三十六分発上り急行青葉号」に乗車します。上には昭和33年頃の仙台駅の写真を引用させていただきました。
「列車が郡山構内に這入ったから、直ぐ食堂車に出掛けた。あらかじめ食堂車の給仕に・・・・・・上野著の手前のどの辺で切り上げればいいだろうと聞いたら、片づけは上野に著いてから致しますから、上野に著くまでどうぞ御ゆっくりと云う。まさか、それまで御ゆっくりしてもいられない。」
ですが、結局は御ゆっくりしてしまうことになります。
旅行などの情報
うなぎ秋本
百間先生がうなぎを気に入り、一月(三十一日)のうち二十九日も食べたというエピソードのもとになったお店です。東京麹町で明治四十二年に創業、数寄屋造りの建物は老舗の風格が感じられます。以下に引用させていただいたような個室もあり、お祝いの席にもぴったりです。
創業以来の秘伝のタレを時代に合わせて微調整し、近年も2011年から4年連続でミシュラン1つ星を獲得しました。また、天然うなぎに勝るとも劣らない静岡「共水うなぎ」を提供する貴重なお店としても知られています。うなぎの質と大きさの異なる松・竹・梅・鶴の四グレード、蒲焼・白焼のバリエーションがあるので、お好きな組み合わせでお楽しみください。
基本情報
【住所】東京都千代田区麹町3-4-4
【アクセス】東京メトロ有楽町線・麹町駅から徒歩1分
【参考URL】https://www.unagi-akimoto.com/