宮沢賢治「風の又三郎」の風景(その2)
上の野原への冒険
二学期の二日目、嘉助たちはまだ転校生(高田三郎)とは距離を置いていますが、興味をもって行動を眺めます。そして三日目、三郎を誘って「上の野原」に行くことになりました。そこで子供たちは放牧された馬を追って競争を始めます。ところが一匹の馬が放牧地から逃げ出し、嘉助と三郎はその馬を探すことに・・・・・・
小学校のモデル
「次の日一郎はあのおかしな子供が、きょうからほんとうに学校へ来て本を読んだりするかどうか早く見たいような気がして、いつもより早く嘉助をさそいました。ところが嘉助のほうは一郎よりもっとそう考えていたと見えて、とうにごはんもたべ、ふろしきに包んだ本ももって家の前へ出て一郎を待っていたのでした。」
子供たちは三郎のことが気になりますが恥ずかしくて声をかけられません。また、それに対して三郎も困惑した様子です。以下、その様子を抜粋してみます。
「(三郎は)どんどん正門をはいって来ると、『お早う。』とはっきり言いました。みんなはいっしょにそっちをふり向きましたが、一人も返事をしたものがありませんでした。」
「そのまっ黒な目でぐるっと運動場じゅうを見まわしました。そしてしばらくだれか遊ぶ相手がないかさがしているようでした。けれども・・・・・・三郎のほうへ行くものがありませんでした。」
「そのうち三郎は向こうの玄関の前まで行ってしまうと、こっちへ向いてしばらく暗算をするように少し首をまげて立っていました。・・・・・・みんなはやはりきろきろそっちを見ています。三郎は少し困ったように両手をうしろへ組むと向こう側の土手のほうへ職員室の前を通って歩きだしました。」
上には、小学校のモデルの一つ「木細工分教場跡(風の又三郎の風景その1・参照)」のストリートビューを、再度引用いたしました。
「その時風がざあっと吹いて来て土手の草はざわざわ波になり、運動場のまん中でさあっと塵(ちり)があがり、それが玄関の前まで行くと、きりきりとまわって小さなつむじ風になって、黄いろな塵は瓶(びん)をさかさまにしたような形になって屋根より高くのぼりました。」
嘉助「そうだ。やっぱりあいづ又三郎だぞ。あいづ何かするときっと風吹いてくるぞ。」
一郎「うん。」
そう応答したものの
「一郎はどうだかわからないと思いながらもだまってそっちを見ていました」
とあります。
授業風景
先生「ではみなさんきょうから勉強をはじめましょう。みなさんはちゃんとお道具をもってきましたね。では一年生(と二年生)の人はお習字のお手本と硯(すずり)と紙を出して、二年生と四年生の人は算術帳と雑記帳と鉛筆を出して、五年生と六年生の人は国語の本を出してください。」
こちらの学校は全生徒数が39名ほどのため、一つの教室に複数の学級が混在する「複式学級」でした。
なお、「風の又三郎」のころは、国が全国一律で発行する国定教科書(こくていきょうかしょ)(明治36年~昭和20年)が採用されていました。以下には国語の教科書(6年生用・大正12年発行)の目次と一頁目を引用させていただきます。六年生の一郎もこのような難解な漢字を読んでいたのでしょうか。
出典:文部科学省ウェブサイト、近代教科書デジタルアーカイブから抜粋、尋常小學國語讀本. 卷11 / 文部省著 — 日本書籍, 1923.1 【公開】
https://www.nier.go.jp/library/textbooks/
また、下には2学年用の習字の教科書からお手本の一部を引用いたしました。文字もゑ(現代かなづかいでは「え」)などの最近は使われなくなくなった文字が登場しています。
出典:文部科学省ウェブサイト、近代教科書デジタルアーカイブから抜粋、尋常小學國語書キ方手本. 第2學年用 : 上 / 文部省著 — 大阪書籍, 1919.7- 【公開】
https://www.nier.go.jp/library/textbooks/
授業が始まると教室が騒がしくなりました。鉛筆を失くした佐太郎が妹のかよから鉛筆を取りあげると、かよは泣きそうになります。三郎は佐太郎の隣に座っていましたが、その様子を見て自分の鉛筆を佐太郎に渡し、かよに鉛筆が戻るようにしました。
当時の鉛筆は輸入が多く、高価なものでしたが、徐々に国産メーカーも参入するようになってきます。下には国産の例として月星印の鉛筆の写真を引用いたしました。各商品にはイーグル社やインターナショナル、オリエンタルなど海外メーカーの鉛筆と「同等品ナリ」や「充分に代用ス」などの文言が付記されていて、出典のタイトルのように「外国製品ニ対抗スベキ」ことを目指していたことがわかります。
出典:東京文具卸商同業組合 [編]『東京製文具目録 : 東京文具卸商同業組合ニ於テ優良ト認メタル外国製品ニ対抗スベキ』,東京文具卸商同業組合,大正3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/947061 (参照 2025-03-17、一部抜粋)、舶来品に対抗すべきウィング(羽車印)及び月星印鉛筆
https://dl.ndl.go.jp/pid/947061/1/8
「二時間目は一年生から六年生までみんな唱歌でした。そして先生がマンドリンを持って出て来て、みんなはいままでに習ったのを先生のマンドリンについて五つもうたいました。
三郎もみんな知っていて、みんなどんどん歌いました。そしてこの時間はたいへん早くたってしまいました。」
出典:文部科学省ウェブサイト、近代教科書デジタルアーカイブから抜粋、尋常小學唱歌. 第4學年用 / 文部省 [編] — 國定教科書共同販賣所, 1912.12 【公開】
https://www.nier.go.jp/library/textbooks/
上には大正時代ごろの尋常小學唱歌(4年生)の教科書の目次を引用させていただきました。「春の小川」のように現在も音楽の教科書に掲載されるような歌もありますが、「櫻井のわかれ」や「八幡太郎」など歴史上の人物を題材にした歌が目立ちます。
また、先生の伴奏がオルガンやピアノではなくマンドリンというのもハイカラな感じです。上にはマンドリンによる童謡「かたつむり」の演奏を引用させていただきました。子供たちがこのような少し哀愁を帯びた音色に合わせて歌う様子を想像してみましょう。
「上の野原」での冒険
「次の朝、空はよく晴れて谷川はさらさら鳴りました。一郎は途中で嘉助と佐太郎と悦治をさそっていっしょに三郎のうちのほうへ行きました。
学校の少し下流で谷川をわたって、それから岸で楊の枝をみんなで一本ずつ折って、青い皮をくるくるはいで鞭(むち)をこしらえて手でひゅうひゅう振りながら、上の野原への道をだんだんのぼって行きました。みんなは早くも登りながら息をはあはあしました。」
以下には「猫山鉱山」と並んで「上の野原」のモデルとされる「種山高原(種山ヶ原)」の写真を引用しました。5人の小学生が息をはずませながら登っていく様子を想像してみます。
出典:Mildseven10mg (Edited by 663h), Public domain, via Wikimedia Commons、種山ヶ原
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Taneyama010-b.jpg
一郎のにいさん「「善(ゆ)ぐ来たな。みんなも連れで来たのが。善ぐ来た。戻りに馬こ連れでてけろな。きょうあ午(ひる)まがらきっと曇る。おらもう少し草集めて仕舞(しむ)がらな、うなだ遊ばばあの土手の中さはいってろ。まだ牧馬の馬二十匹ばかりはいるがらな。」
種山高原は明治31年に「旧陸軍省軍馬補充部六原支部」が開設されて以来、夏の放牧地として利用されていました。育成されていた軍馬の数は多い時で1000頭にも上ったとのこと、「風の又三郎」に登場する馬も厳しく訓練された軍馬の子孫だったかもしれません。下には六原支部の官舎を利用した「軍馬の郷六原資料館」における、再現イベントの写真を引用させていただきました。」
出典:軍馬の郷六原資料館(旧陸軍省軍馬補充部六原支部官舎)公式FACEBOOK、胆江日日新聞 2018.11.11
旧陸軍省軍馬補充部六原支部開設120周年記念行事が紹介されました!
https://www.facebook.com/profile.php?id=100063859571845
一郎のにいさんは(馬を放牧している)土手からは外に出るなといって他の場所に行ってしまいます。
「向こうの少し小高いところにてかてか光る茶いろの馬が七匹ばかり集まって、しっぽをゆるやかにばしゃばしゃふっているのです。・・・・・・馬はみんないままでさびしくってしようなかったというように一郎たちのほうへ寄ってきました。そして鼻づらをずうっとのばして何かほしそうにするのです。・・・・・・『ははあ、塩をけろづのだな。』みんなは言いながら手を出して馬になめさせたりしましたが、三郎だけは馬になれていないらしく気味わるそうに手をポケットへ入れてしまいました。」
馬に直接触れるのには抵抗がある三郎でしたが、以下のような提案をします。
三郎「そんなら、みんなで競馬やるか。・・・・・・ぼく競馬何べんも見たぞ。けれどもこの馬みんな鞍(くら)がないから乗れないや。みんなで一匹ずつ馬を追って、はじめに向こうの、そら、あの大きな木のところに着いたものを一等にしよう。」
嘉助「そいづおもしろいな。」
皆は三郎の提案に乗り、自分の馬を決めて追い始めます。
下にはこのようなシーンをイメージできそうな牧場の写真を引用いたしました。
出典:写真AC、牧場の馬
https://www.photo-ac.com/main/detail/5117043?title=%E7%89%A7%E5%A0%B4%E3%81%AE%E9%A6%AC
「ところが馬はちっともびくともしませんでした。やはり下へ首をたれて草をかいだり、首をのばしてそこらのけしきをもっとよく見るというようにしているのです。一郎がそこで両手をぴしゃんと打ち合わせて、だあ、と言いました。するとにわかに七匹ともまるでたてがみをそろえてかけ出したのです。・・・・・するといつか馬はぐるっとさっきの小高いところをまわって、さっき五人ではいって来たどての切れた所へ来たのです。」
一郎はにいさんから危ないから土手の外には出るなといわれたのを思い出します。
「一郎はまるであわてて、
『どう、どう、どうどう。』と言いながら一生けん命走って行って、やっとそこへ着いてまるでころぶようにしながら手をひろげたときは、そのときはもう二匹は柵の外へ出ていたのです。」
一郎はなんとか一匹を確保しますが、嘉助と三郎が押えようとしたもう一匹は「まるでおどろいたようにどてへ沿って一目散に南のほうへ走ってしまいました。」
さあ、大変です。
「三郎と嘉助は一生けん命馬を追いました。・・・・・まるで丈たけぐらいある草をわけて高みになったり低くなったり、どこまでも走りました。嘉助はもう足がしびれてしまって、どこをどう走っているのかわからなくなりました。それからまわりがまっ蒼になって、ぐるぐる回り、とうとう深い草の中に倒れてしまいました。」
下には種山高原の森の写真を引用させていただきます。こちらの写真はのどかな感じですが、「風の又三郎」での森の中は、日差しが少なく薄暗い雰囲気でした。馬を追っている嘉助たちには見通しの悪い不気味な場所と感じられたことでしょう。
「馬の赤いたてがみと、あとを追って行く三郎の白いシャッポが終わりにちらっと見えました。」
嘉助は再び立ち上がり、馬と(馬を追っていった)三郎を探しますが、いっこうに見つけることができません。あいにく天候も悪くなってきました。
風が強くなり、
「草がからだを曲げて、パチパチ言ったり、さらさら鳴ったりしました。」
霧雨も降ってきます。
「黒板から降る白墨の粉のような、暗い冷たい霧の粒が、そこら一面踊りまわり、あたりがにわかにシインとして、陰気に陰気になりました。草からは、もうしずくの音がポタリポタリと聞こえて来ます。」
嘉助の耳には、風の音が人の声に聞こえることも!
「風が来ると、すすきの穂は細いたくさんの手をいっぱいのばして、忙しく振って、
『あ、西さん、あ、東さん、あ、西さん、あ、南さん、あ、西さん。』なんて言っているようでした。」
「空が光ってキインキインと鳴っています。」
雷まで鳴り始めます。
「それからすぐ目の前の霧の中に、家の形の大きな黒いものがあらわれました。嘉助はしばらく自分の目を疑って立ちどまっていましたが、やはりどうしても家らしかったので、こわごわもっと近寄って見ますと、それは冷たい大きな黒い岩でした。」
上には種山高原のモナドノック(残丘)と呼ばれる地形の写真を引用させていただきました。太古の断層運動や浸食作用の際に取り残された地形で、さまざまな形状をしています。嘉助が見たのもこちらのような大きな岩だったかもしれません。
「『伊佐戸(いさど)の町の、電気工夫の童(わらす)あ、山男に手足いしばらえてたふだ。』といつかだれかの話した言葉が、はっきり耳に聞こえて来ます。」
そして「嘉助はとうとう草の中に倒れてねむってしまいました。」
以下は嘉助の夢の中でしょうか?「風の又三郎」には幻想的な場面が描かれています。
「もう又三郎がすぐ目の前に足を投げだしてだまって空を見あげているのです。いつかいつものねずみいろの上着の上にガラスのマントを着ているのです。それから光るガラスの靴をはいているのです。
又三郎の肩には栗の木の影が青く落ちています。又三郎の影は、また青く草に落ちています。そして風がどんどんどんどん吹いているのです。
又三郎は笑いもしなければ物も言いません。ただ小さなくちびるを強そうにきっと結んだまま黙ってそらを見ています。いきなり又三郎はひらっとそらへ飛びあがりました。ガラスのマントがギラギラ光りました。」
下には「種山高原星座の森」の中に建つ「風の又三郎」像の写真を引用させていただきました。
「ふと嘉助は目をひらきました。灰いろの霧が速く速く飛んでいます。そして馬がすぐ目の前にのっそりと立っていたのです。その目は嘉助を恐れて横のほうを向いていました。嘉助ははね上がって馬の名札を押えました。そのうしろから三郎がまるで色のなくなったくちびるをきっと結んでこっちへ出てきました。」
子供たちは一郎のおじいさんの家で体を暖めさせてもらったあと、上の野原をあとにします。
「みんなはもう疲れて一郎をさきに野原をおりました。わき水のところで三郎はやっぱりだまって、きっと口を結んだままみんなに別れて、じぶんだけおとうさんの小屋のほうへ帰って行きました。
嘉助「あいづやっぱり風の神だぞ。風の神の子っ子だぞ。あそごさ二人して巣食ってるんだぞ。」
一郎「そだないよ。」
旅行などの情報
種山高原
岩手県の奥州市と遠野市、気仙郡住田町にまたがる標高900メートルほどの高原です。賢治は何度こちらも訪れ、「種山ヶ原」や「五輪峠」といった詩の題材にしました。「種山ヶ原森林公園」にはトレッキングコースが整備され、展望室・休憩所を備えた「遊林ランド種山」を拠点にして散策を楽しむことができます。
特に5月下旬から6月上旬はレンゲツツジが咲き、観光客で賑わいます。また「種山高原牧野」では例年5月ごろから牛の放牧がおこなわれ(~10月)、「風の又三郎」の馬追いの場面をイメージできそうです。
ほかにも種山高原エリアは空気が澄み、星がきれいに見える場所としても知られています。「風の又三郎」像のあるキャンプ場「種山高原星座の森」などで星空観測をしてみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】岩手県気仙郡住田町世田米字子飼沢 30-193
【アクセス】JR東北新幹線の水沢・江刺駅から車で約25分
【参考URL】https://www.town.sumita.iwate.jp/kanko/yurinland.html
軍馬の郷六原資料館(旧陸軍省軍馬補充部六原支部官舎)
又三郎たちが「上の野原」で競馬をする場面で登場してもらいました。明治時代につくられた「旧陸軍省軍馬補充部六原支部官」の一部を資料館として再利用した施設です。建物は明治時代の典型的な洋風木造建築で国登録有形文化財に指定されています。
出典:軍馬の郷六原資料館(旧陸軍省軍馬補充部六原支部官舎)公式FACEBOOK
https://www.facebook.com/profile.php?id=100063859571845
館内は入場が無料となっていて、明治時代に撮影された貴重な写真や軍馬に関する資料を見ることができます。上に引用させていただいたようなかわいいグッズも販売しているのでお土産にしてみてください。
基本情報
【住所】岩手県胆沢郡金ケ崎町六原蟹子沢17番地1
【アクセス】JR金ケ崎駅から車で10分
【参考URL】https://www.town.kanegasaki.iwate.jp/docs/2017122800027/