小泉八雲「怪談」の風景(その4最終回)

ろくろ首

昭和時代までの見世物小屋では「ろくろ首」が「蛇女」や「蜘蛛娘」などとともに人気の出し物でした(第一阿房列車の風景その3・参照)。今回登場する妖怪はその「ろくろ首」です。「囘龍」という僧が甲斐の山中で野宿をしようとしていると、近くに住む木こりが通りがかり、家に泊まらないかと声をかけてきます。厚意に応えてついて行った家で囘龍が見たものとは・・・・・・。

出家までの経緯

「五百年ほど前に、九州菊池の侍臣に磯貝平太左衞門武連(たけつら)と云う人がいた。この人は代々武勇にすぐれた祖先からの遺伝で、生れながら弓馬の道に精しく非凡の力量をもっていた。未だ子供の時から劒道、弓術、槍術では先生よりもすぐれて、大胆で熟練な勇士の腕前を充分にあらわしていた。その後、永享年間(西暦一四二九―一四四一)の乱に武功をあらわして、ほまれを授かった事たびたびであった。しかし菊池家が滅亡に陥った時、磯貝は主家を失った。外の大名に使われる事も容易にできたのであったが、自分一身のために立身出世を求めようとは思わず、また以前の主人に心が残っていたので、彼は浮世を捨てる事にした。そして剃髪して僧となり――囘龍(かいりゅう)と名のって――諸国行脚に出かけた。」
菊池家とは平安時代後期から室町時代にかけて、現在の熊本県菊池市で勢力をもっていた一族です。歴代の菊池氏は源平合戦や元寇、南北朝動乱といった歴史的な戦いに参加し、勇名を馳せました。下には南北朝時代、九州で最大の合戦といわれる「筑後川合戦」の図を引用いたします。この合戦で南朝の懐良親王を奉じた菊池武光は、少弐頼尚・直資父子を中心とする北朝・足利勢を破り、九州を南朝の勢力下に置くことに成功しました。

出典:Musuketeer.3, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons、筑後川合戦絵巻
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tikugogawagassen.jpg

「しかし僧衣の下には、いつでも囘龍の武士の魂が生きていた。昔、危険をものともしなかったと同じく、今はまた難苦を顧みなかった。それで天気や季節に頓着なく、外の僧侶達のあえて行こうとしない処へ、聖い仏の道を説くために出かけた。その時代は暴戻(ぼうれい)乱雑の時代であった。それでたとえ僧侶の身でも、一人旅は安全ではなかった。」
「永享の乱」のあと、さらに「応仁の乱(1467年から1477年)」などが起こって世の中が乱れ、野盗や山賊も増えていました。

甲斐の国にて

「始めての長い旅のうちに、囘龍は折があって、甲斐の国を訪れた。ある夕方の事、その国の山間を旅しているうちに、村から数理を離れた、はなはだ淋しい処で暗くなってしまった。そこで星の下で夜をあかす覚悟をして、路傍の適当な草地を見つけて、そこに臥して眠りにつこうとした。彼はいつも喜んで不自由を忍んだ。それで何も得られない時には、裸の岩は彼にとってはよい寝床になり、松の根はこの上もない枕となった。彼の肉体は鉄であった。露、雨、霜、雪になやんだ事は決してなかった。」
山梨といえば富士山の絶景スポットが数多くある場所です。苦しい旅でしたが、下の写真のような美しい景色も楽しめたのではないでしょうか。なお、小泉八雲自身、富士山登山を経験しています(明治日本の面影)。こちらのような風景を思い出しながら「ろくろ首」を執筆していたかもしれません。

出典:『富士裾野めぐり』,鐵道省運輸局,1925.6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1917114 (参照 2025-05-26、一部抜粋)、本栖湖の富士
https://dl.ndl.go.jp/pid/1917114/1/7

「横になるや否や、斧と大きな薪の束を脊負うて道をたどって来る人があった。この木こりは横になっている囘龍を見て立ち止まって、しばらく眺めていたあとで、驚きの調子で云った。
『こんなところで独りでねておられる方はそもそもどんな方でしょうか。・・・・・・このあたりには変化(へんげ)のものが出ます――たくさんに出ます。あなたは魔物を恐れませんか』
囘龍は快活に答えた、『わが友、わしはただの雲水じゃ。それゆえ少しも魔物を恐れない、――たとえ化け狐であれ、化け狸であれ、その外何の化けであれ。淋しい処は、かえって好む処、そん処は黙想をするのによい。わしは大空のうちに眠る事に慣れておる、それから、わしのいのちについて心配しないように修業を積んで来た』
『こんな処に、お休みになる貴僧は、全く大胆な方に相違ない。ここは評判のよくない――はなはだよくない処です。『君子危うきに近よらず』と申します。実際こんな処でお休みになる事ははなはだ危険です。私の家はひどいあばらやですが、御願です、一緒に来て下さい。喰べるものと云っては、さし上げるようなものはありません。が、とにかく屋根がありますから安心してねられます』
熱心に云うので、囘龍はこの男の親切な調子が気に入って、この謙遜な申出を受けた。きこりは往来から分れて、山の森の間の狭い道を案内して上って行った。凸凹の危険な道で、――時々断崖の縁を通ったり、――時々足の踏み場処としては、滑りやすい木の根のからんだものだけであったり、――時々尖った大きな岩の上、または間をうねりくねったりして行った。しかし、ようやく囘龍はある山の頂きの平らな場所へ来た。」
以下には下に引用する仙娥滝の近くにある富士山遙拝・金峰山遙拝所付近のストリートビューを掲載いたしました。囘龍が木こりに従って、こちらのような山道を進んでいくところをイメージしてみましょう。

「満月が頭上を照らしていた。見ると自分の前に小さな草ふき屋根の小屋があって、中からは陽気な光がもれていた。きこりは裏口から案内したが、そこへは近処の流れから、竹の筧で水を取ってあった。それから二人は足を洗った。小屋の向うは野菜畠につづいて、竹藪と杉の森になっていた。それからその森の向うに、どこか遥かに高い処から落ちている滝が微かに光って、長い白い着物のように、月光のうちに動いているのが見えた。」

山梨県には風光明媚な滝が多くありますが、以下にはなかでも有名な仙娥滝の写真(大正時代)を引用いたしました。囘龍がこちらのような滝を遠くから望んでいるところを想像してみます。時間設定が夜というのも怪しげな美しさを感じられます。

出典:『富士裾野めぐり』,鐵道省運輸局,1925.6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1917114 (参照 2025-05-26、一部抜粋)、仙娥滝
https://dl.ndl.go.jp/pid/1917114/1/10

親切な木こりの正体

「囘龍が案内者と共に小屋に入った時、四人の男女が炉にもやした小さな火で手を暖めているのを見た。僧に向って丁寧にお辞儀をして、最も恭しき態度で挨拶を云った。囘龍はこんな淋しい処に住んでいるこんな貧しい人々が、上品な挨拶の言葉を知っている事を不思議に思った。『これはよい人々だ』彼は考えた『誰かよく礼儀を知っている人から習ったに相違ない』それから外のものが『あるじ』と云っているその主人に向って云った。
『その親切な言葉や、皆さんから受けたはなはだ丁寧なもてなしから、私はあなたを初めからのきこりとは思われない。たぶん以前は身分のある方でしたろう』

きこりは微笑しながら答えた。
『はい、その通りでございます。ただ今は御覧の通りのくらしをしていますが、昔は相当の身分でした。私の一代記は、自業自得で零落したものの一代記です。私はある大名に仕えて、重もい役を務めていました。しかし余りに酒色に耽って、心が狂ったために悪い行をいたしました。自分の我儘から家の破滅を招いて、たくさんの生命を亡ぼす原因をつくりました。その罸があたって、私は長い間この土地に亡命者となっていました。今では何か私の罪ほろぼしができて、祖先の家名を再興する事のできるようにと、祈っています。しかしそう云う事もできそうにありません。ただ、真面目な懺悔をして、できるだけ不幸な人々を助けて、私の悪業の償いをしたいと思っております』
囘龍はこのよい決心の告白をきいて喜んで主人に云った、
『若い時につまらぬ事をした人が、後になって非常に熱心に正しい行をするようになる事を、これまでわしは見ています。悪に強い人は、決心の力で、また、善にも強くなる事は御経にも書いてあります。御身は善い心の方である事は疑わない。それでどうかよい運を御身の方へ向わせたい。今夜は御身のために読経をして、これまでの悪業に打ち勝つ力を得られる事を祈りましょう』

こう云ってから囘龍は主人に『お休みなさい』を云った。主人は極めて小さな部屋へ案内した。そこには寝床がのべてあった。それから一同眠りについたが、囘龍だけは行燈のあかりのわきで読経を始めた。おそくまで読経勤行に余念はなかった。それからこの小さな寝室の窓をあけて、床につく前に、最後に風景を眺めようとした。夜は美しかった。空には雲もなく、風もなかった。強い月光は樹木のはっきりした黒影を投げて、庭の露の上に輝いていた。きりぎりすや鈴虫の鳴き声は、騒がしい音楽となっていた。」

小泉八雲は虫やその鳴き声に興味を示し、上に引用させていただいたような虫かごで松虫や鈴虫などを飼っていました。ここでは庭の月あかりを眺めながら、しばし虫の声に聴き入る囘龍の姿をイメージしてみましょう。

「近所の滝の音は夜のふけるに随って深くなった。囘龍は水の音を聴いていると、渇きを覚えた。それで家の裏の筧を想い出して、眠っている家人の邪魔をしないで、そこへ出て水を飲もうとした。襖をそっとあけた。そうして、行燈のあかりで、五人の横臥したからだを見たが、それにはいずれも頭がなかった。」
下には、江戸時代中期の浮世絵師で妖怪画を得意とした「鳥山石燕(とりやませきえん)」作の「飛頭蛮(ろくろ首)」を引用いたしました。囘龍の見たのは、こちらの首がどこかに飛んでしまった後の胴体(5人分)でした。

出典:Toriyama Sekien, Public domain, via Wikimedia Commons、鳥山石燕『画図百鬼夜行』より「飛頭蛮」。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:SekienRokurokubi.jpg

「直ちに――何か犯罪を想像しながら――彼はびっくりして立った。しかし、つぎに彼はそこに血の流れていない事と、頭は斬られたようには見えない事に気がついた。それから彼は考えた。『これは妖怪に魅(ばか)されたか、あるいは自分はろくろ首の家におびきよせられたのだ。・・・・・・「捜神記」に、もし首のない胴だけのろくろ首を見つけて、その胴を別の処にうつしておけば、首は決して再びもとの胴へは帰らないと書いてある。それから更にその書物に、首が帰って来て、胴が移してある事をさとれば、その首は毬のようにはねかえりながら三度地を打って、――非常に恐れて喘ぎながら、やがて死ぬと書いてある。ところで、もしこれがろくろ首なら、禍をなすものゆえ、――その書物の教え通りにしても差支はなかろう』・・・・・・
彼は主人の足をつかんで、窓まで引いて来て、からだを押し出した。

それから裏口に来てみると戸が締っていた。それで彼は首は開いていた屋根の煙出しから出て行った事を察した。静かに戸を開けて庭に出て、向うの森の方へできるだけ用心して進んだ。森の中で話し声が聞えた、それでよい隠れ場所を見つけるまで影から影へと忍びながら――声の方向へ行った。」
下には小泉八雲「ろくろ首」の元ネタとして知られる「怪物輿論」の挿絵を引用いたしました。囘龍(右ページ)が森の中で会話をする「抜け首(左ページ)」を目撃しています。

出典:人文学オープンデータ共同利用センター、日本古典籍データセット、怪物輿論P53(一部抜粋)
https://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/200020593/

「そこで、一本の樹の幹のうしろから首が――五つとも――飛び廻って、そして飛び廻りながら談笑しているのを見た。首は地の上や樹の間で見つけた虫類を喰べていた。やがて主人の首が喰べる事を止めて云った、
『ああ、今夜来たあの旅の僧、――全身よく肥えているじゃないか、あれを皆で喰べたら、さぞ満腹する事であろう。・・・・・・あんな事を云って、つまらない事をした、――だからおれの魂のために、読経をさせる事になってしまった。経をよんでいるうちは近よる事がむつかしい。称名を唱えている間は手を下す事はできない。しかしもう今は朝に近いから、たぶん眠ったろう。・・・・・・誰かうちへ行って、あれが何をしているか見届けて来てくれないか』

一つの首――若い女の首――が直ちに立ち上って蝙蝠のように軽く、家の方へ飛んで行った。数分の後、帰って来て、大驚愕の調子で、しゃがれ声で叫んだ、
『あの旅僧はうちにいません、――行ってしまいました。それだけではありません。もっとひどい事には、主人の体を取って行きました。どこへ置いて行ったか分りません』
この報告を聞いて、主人の首が恐ろしい様子になった事は月の光で判然と分った。眼は大きく開いた、髪は逆立った、歯は軋(きし)った。それから一つの叫びが唇から破裂した、忿怒の涙を流しながらどなった、
『からだを動かされた以上、再びもと通りになる事はできない。死なねばならない。・・・・・・皆これがあの僧の仕業だ。死ぬ前にあの僧に飛びついてやろう、――引き裂いてやろう、――喰いつくしてやろう。・・・・・・ああ、あすこに居る――あの樹のうしろ――あの樹のうしろに隠れている。あれ、――あの肥(ふと)た臆病者』・・・・・・

出典:Katsushika Hokusai, Public domain, via Wikimedia Commons、葛飾北斎『北斎漫画』より「轆轤首」
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hokusai_rokurokubi.jpg

上には葛飾北斎による「ろくろ首」の絵を引用いたしました。森にはこちらのような首が5体浮かんでいます。そして・・・・・・
「同時に主人の首は他の四つの首を随えて、囘龍に飛びかかった。しかし強い僧は手ごろの若木を引きぬいて武器とし、それを打ちふって首をなぐりつけ、恐ろしい力でなぎたててよせつけなかった。四つの首は逃げ去った。しかし、主人の首だけは、いかに乱打されても、必死となって僧に飛びついて、最後に衣の左の袖に喰いついた。しかし囘龍の方でも素早くまげをつかんでその首を散々になぐった。どうしても袖からは離れなかったが、しかし長い呻きをあげて、それからもがくことを止めた。死んだのであった。しかしその歯はやはり袖に喰いついていた。そして囘龍のありたけの力をもってしても、その顎を開かせる事はできなかった。
彼はその袖に首をつけたままで、家へ戻った。そこには、傷だらけ、血だらけの頭が胴に帰って、四人のろくろ首が坐っているのを見た。裏の戸口に僧を認めて一同は『僧が来た、僧が』と叫んで反対の戸口から森の方へ逃げ出した。
東の方が白んで来て夜は明けかかった。囘龍は化物の力も暗い時だけに限られている事を知っていた。袖についている首を見た――顔は血と泡と泥とで汚れていた。そこで『化物の首とは――何と云うみやげだろう』と考えて大声に笑った。それからわずかの所持品をまとめて、行脚をつづけるために、徐ろに山を下った。」

ろくろ首の見分

「直ちに旅をつづけて、やがて信州諏訪へ来た。諏訪の大通りを、肘に首をぶら下げたまま、堂々と濶歩していた。女は気絶し、子供は叫んで逃げ出した。余りに人だかりがして騒ぎになったので、捕吏(とりて)が来て、僧を捕えて牢へ連れて行った。その首は殺された人の首で、殺される時、相手の袖に喰いついたものと考えたからであった。」
首をぶらさげた囘龍の姿は下に引用した「怪物輿論」の挿絵・右ページのようでした。左ページにはその姿に驚く女と子供の姿が描かれています。

出典:人文学オープンデータ共同利用センター、日本古典籍データセット、怪物輿論P58(一部抜粋)
https://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/200020593/

「囘龍の方では問われた時に微笑ばかりして何にも云わなかった。それから一夜を牢屋ですごしてから、その土地の役人の前に引き出された。それから、どうして僧侶の身分として袖に人の首をつけているか、なぜ衆人の前で厚顔にも自分の罪悪の見せびらかしをあえてするか、説明するように命ぜられた。」

出典:写真AC、土の牢
https://www.photo-ac.com/main/detail/24119506/

上には日蓮の弟子・日朗上人が幽閉された土牢(鎌倉の光則寺内)の写真を引用いたしました。このような牢屋から引き出された囘龍は以下のように語ります。
「囘龍はこの問に対して長く大声で笑った、それから云った、
『皆様、愚僧が袖に首をつけたのではなく、首の方から来てそこへついたので――愚僧迷惑至極に存じております。それから愚僧は何の罪をも犯しません。これは人間の首でなく、化物の首でございます、――それから化物が死んだのは、愚僧が自分の安全を計るために必要な用心をしただけのことからで、血を流して殺したのではございません』・・・・・・それから彼は更に、全部の冒険談を物語って、五つの首との会戦の話に及んだ時、また一つ大笑いをした。
しかし、役人達は笑わなかった。これは剛腹頑固な罪人で、この話は人を侮辱したものと考えた。それでそれ以上詮索しないで、一同は直ちに死刑の処分をする事にきめたが、一人の老人だけは反対した。この老いた役人は審問の間には何も云わなかったが、同僚の意見を聞いてから、立ち上って云った、『まず首をよく調べましょう、これが未だすんでいないようだから。もしこの僧の云う事が本当なら、首を見れば分る。・・・・・・首をここへ持って来い』
「ろくろ首」の起源は中国の「飛頭蛮(ひとうばん)」という妖怪とされていて(下に図を引用)、「首が抜けるろくろ首」が一般的でした。ですが、首と体をむすぶ「霊的な糸」が首と見間違えられ「首が伸びるろくろ首」が描かれるようになったともいわれています。

出典:Terajima Ryōan (寺島良安, Japanese, *1654, †?), Public domain, via Wikimedia Commons、『和漢三才図会』より「飛頭蛮」。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Wakan_Sansai_Zue_-_Hitoban.jpg

「囘龍の背中からぬき取った衣にかみついている首は、裁判官達の前に置かれた。老人はそれを幾度も廻して、注意深くそれを調べた。そして頸の項(うなじ)にいくつかの妙な赤い記号らしいものを発見した。その点へ同僚の注意を促した。それから頸の一端がどこにも武器で斬られたらしい跡のない事を見せた。かえって落葉が軸から自然に離れたように、その頸の断面は滑らかであった。・・・・・・そこで老人は云った、
『僧の云った事は全く本当としか思われない。これはろくろ首だ。「南方異物志」に、本当のろくろ首の項(うなじ)の上には、いつでも一種の赤い文字が見られると書いてある。そこに文字がある。それはあとで書いたのではない事が分る。その上甲斐の国の山中にはよほど昔から、こんな怪物が住んでおる事はよく知られておる。・・・・・・しかし』」
関連してウィキペディアから「飛頭蛮」についての説明を引用いたしました。上で「老いた役人」が語ったことが書かれています。

唐代の書『南方異物誌』によれば、嶺南(中国南部からベトナムにかけての地方)の洞穴の中にいる飛頭蛮は、首に赤い傷跡があることが特徴で、夜には耳を翼のように使って飛び回り、虫を食べ、夜が明けると元の体に戻ってくるという。

出典:ウィキペディア・飛頭蛮
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%A0%AD%E8%9B%AE

「囘龍の方へ向いて、老人は叫んだ――『あなたは何と強勇なお坊さんでしょう。たしかにあなたは坊さんには珍らしい勇気を示しました。あなたは坊さんよりは、武士の風がありますな。たぶんあなたの前身は武士でしょう』

『いかにもお察しの通り』と囘龍は答えた。『剃髪の前は、久しく弓矢取る身分であったが、その頃は人間も悪魔も恐れませんでした。当時は九州磯貝平太左衞門武連と名のっていましたが、その名を御記憶の方もあるいはございましょう』
 その名前を名のられて、感嘆のささやきが、その法廷に満ちた。その名を覚えている人が多数居合せたからであった。それからこれまでの裁判官達は、たちまち友人となって、兄弟のような親切をつくして感嘆を表わそうとした。恭しく国守の屋敷まで護衛して行った。そこでさまざまの歓待饗応をうけ、褒賞を賜わった後、ようやく退出を許された。面目身に余った囘龍が諏訪を出た時は、このはかない娑婆世界でこの僧ほど、幸福な僧はないと思われた。首はやはり携えて行った――みやげにすると戯れながら。」

後日譚

「さて、首はその後どうなったか、その話だけ残っている。
 諏訪を出て一両日のあと、囘龍は淋しい処で一人の盗賊に止められて、衣類を脱ぐ事を命ぜられた。囘龍は直ちに衣(ころも)を脱して盗賊に渡した。盗賊はその時、始めて袖にかかっているものに気がついた。さすがの追剥ぎも驚いて、衣(ころも)を取り落して、飛び退いた。それから叫んだ、『やあ、こりゃとんでもない坊さんだ。おれよりもっと悪党だね。おれも実際これまで人を殺した事はある、しかし袖に人の首をつけて歩いた事はない。・・・・・・よし、お坊さん、こりゃおれ達は同じ商売仲間だぜ、どうしてもおれは感心せずには居られない。ところで、その首はおれの役に立ちそうだ。おれはそれで人をおどかすんだね。売ってくれないか。おれのきものと、この衣(ころも)と取り替えよう、それから首の方は五両出す』
 囘龍は答えた、
『お前が是非と云うなら、首も衣も上げるが、実はこれは人間の首じゃない。化物の首だ。それで、これを買って、そのために困っても、わしのために欺かれたと思ってはいけない』
『面白い坊さんだね』追剥ぎが叫んだ。『人を殺してそれを冗談にしているのだから、・・・・・・しかし、おれは全く本気なんだ。さあ、きものはここ、それからお金はここにある。――それから首を下さい。・・・・・・何もふざけなくってもよかろう』
『さあ、受け取るがよい』囘龍は云った。『わしは少しもふざけていない。何かおかしい事でももしあれば、それはお前がお化けの首を、大金で買うのが馬鹿げていてはおかしいと云う事だけさ』それから囘龍は大笑をして去った。」

囘龍がどこで盗賊に遭ったからは不明ですが、甲斐、諏訪から東山道(中山道が開通する以前の官道の一つ)に沿って東へ向かったとすると、「保福寺峠」あたりだったかもしれません。ここでは、保福寺峠のストリートビューの右側にある森から盗賊が現れたと想像してみます。

「こんなにして盗賊は首と、衣を手に入れてしばらく、お化の僧となって追剥ぎをして歩るいた。しかし諏訪の近傍へ来て、彼は首の本当の話を聞いた。それからろくろ首の亡霊の祟りが恐ろしくなって来た。そこでもとの場所へ、その首をかえして、体と一緒に葬ろうと決心した。彼は甲斐の山中の淋しい小屋へ行く道を見つけたが、そこには誰もいなかった。体も見つからなかった。そこで首だけを小屋のうしろの森に埋めた。それからこのろくろ首の亡霊のために施餓鬼を行った。そしてろくろ首の塚として知られている塚は今日もなお見られる。(とにかく、日本の作者はそう公言する)」

旅行などの情報

仙娥滝・昇仙峡

小泉八雲「怪談」の「ろくろ首」の舞台は甲斐の国ですが、詳細な場所の記述はありません。ここでは、「ろくろ首」の木こりたちが住んでいた場所を想像するために登場してもらった「仙娥滝」と周辺の有名スポット「昇仙峡」をご紹介しましょう。

昇仙峡は山梨県甲府市北部にある渓谷です。僧侶の覚円がその上で修行したとされる覚円坊(昇仙峡観光協会の投稿を引用いたしました)や天狗岩、古代人面石などといったユニークな造形の断崖・絶壁が見どころです。周辺には1kⅿ~6㎞までの散策コースが整備されているので、体力や目的に合わせたコースを選びましょう。途中には落差30ⅿの「仙娥滝」があり、新緑や紅葉、雪景色との季節ごとのコラボレーションを楽しめます。

基本情報

【住所】山梨県甲府市秩父多摩甲斐国立公園(昇仙峡)
【アクセス】JR甲府駅から昇仙峡行きのバスに乗車、昇仙峡口まで約30分
【参考URL】https://www.shosenkyo-kankoukyokai.com