田中貢太郎「皿屋敷」の風景
皿屋敷とは
今回は「耳なし芳一」(小泉八雲「怪談」の風景その1・参照)などと並んで有名な怪談「皿屋敷」の世界をイメージしていきます。「皿屋敷」ゆかりの地は全国48か所にあるとされますが(伊藤篤「日本の皿屋敷伝説」などによる)、今回取り上げるのは江戸番町を舞台とした「番町皿屋敷」。新聞記者でもあった田中貢太郎作の簡潔な「皿屋敷」をベースにしつつも(青空文庫「皿屋敷」田中貢太郎)、全国の多彩なお菊さんを紹介していきましょう。
「番町皿屋敷」と「播州皿屋敷」
上でも述べたように「皿屋敷」には多彩なバージョンがありますが、特に有名なのが姫路城を舞台にした「播州皿屋敷」と江戸番町で繰り広げられる「番町皿屋敷」です。各伝説の地には実際のお菊の墓や井戸などが残っていて、実にたくさんのお菊さんがいたことがわかります。物語の多くは亡霊となって主人に復讐するという形で終わっています。家の主が侍女に対して日常的に行っていたパワハラに対する社会風刺ともいえるかもしれません。
出典:写真AC、お菊さんの井戸
https://www.photo-ac.com/main/detail/3061434&title=%E3%81%8A%E8%8F%8A%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%AE%E4%BA%95%E6%88%B8
上には姫路城に残る「お菊井戸」の写真を引用いたしました。こちらは「播州皿屋敷」でお菊が投げ入れられたとされる井戸です。なお、「番町皿屋敷」のお菊はあやまって皿を割ってしまいますが、「播州皿屋敷」では皿が隠され、紛失した責任をとらされました。また「番町」は青山主膳の家のなかで完結しているのに対し、「播州」は姫路城主のお家騒動が絡む複雑なストーリーになっています。
番町の風景
前置きが長くなりました。こちらから田中貢太郎の「皿屋敷」の風景を追っていきましょう。
「番町(ばんちょう)の青山主膳(あおやましゅぜん)の家の台所では、婢(げじ)ょのお菊(きく)が正月二日の昼の祝いの済んだ後の膳具(ぜんぐ)を始末していた。この壮(わか)い美しい婢は、粗相して冷酷な主人夫婦の折檻(せっかん)に逢(あ)わないようにとおずおず働いているのであった。」
「(番町)皿屋敷」の元ネタとされる馬場文耕「皿屋敷弁疑録」には青山主膳の家についてもう少し詳細に述べています。
牛込御門内五番町にかつて「吉田屋敷」と呼ばれる屋敷があり、これが赤坂に移転して空き地になった跡に千姫の御殿が造られたという。それも空き地になった後、その一角に火付盗賊改・青山播磨守主膳の屋敷があった。(中略)また千姫が姫路城主・本多忠刻と死別した後に移り住んだのは五番町から北東に離れた竹橋御殿であった。
出典:ウィキペディア・皿屋敷
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%BF%E5%B1%8B%E6%95%B7
江戸時代の番町(一~六)の区割りは現在と異なります。「阿房列車」などで知られる作家・内田百閒が住んでいた千代田区五番町は市ヶ谷駅から四ツ谷駅にかけての外堀内側のエリアですが(実歴阿房列車先生の風景その1・参照)、江戸時代の五番町はもう少し内堀よりの半蔵門近くにありました。下には五番町の文字が見える「江戸切絵図」を引用いたします。また「青山主膳」は架空の人物のため、もちろんその名前や苗字は地図上にはありません。
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』御江戸番町絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1286658 (参照 2025-05-29、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1286658
また、以下には幕末(1865年)に撮影された江戸の武家屋敷群の写真を引用いたしました。現在のような高層ビルはありませんが、上の地図や写真から江戸では住宅が密集していたことがわかります。このような写真のような風景のなかに青山主膳邸があったとイメージしておきましょう。
出典:Felice Beato, Public domain, via Wikimedia Commons、江戸の武家町。幕末に愛宕山から撮影。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Panorama_of_Edo.jpg
南京古渡の皿
「その時お菊のしまつしているのは主人が秘蔵の南京古渡(なんきんこわたり)の皿であった。その皿は十枚あった。お菊はあらったその皿を一枚一枚大事に拭うて傍(そば)の箱へ入れていた。」
以下には明時代・17世紀の中国でつくられた南京赤絵皿の写真を引用しました。なお、「古渡」とは名前のとおり古い時代(この文脈では室町時代以前と思われる)に輸入されたことを示すとのことです。
出典:ColBase(国立博物館所蔵品統合検索システム)、五彩花卉文盤(南京赤絵)
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyohaku/G%E7%94%B2358?locale=ja
「と、一疋(いっぴき)の大きな猫がどこから来たのかつうつうと入って来て、前の膳の上に乗っけてあった焼肴(やきざかな)の残り肴を咥(くわ)えた。吝嗇(りんしょく)なその家ではそうした残り肴をとられても口ぎたなく罵(ののし)られるので、お菊は驚いて猫を追いのけようとした。その機(はずみ)に手にしていた皿が落ちて破(わ)れてしまった。お菊ははっと思ったがもうとりかえしがつかなかった。お菊は顔色を真青にして顫(ふる)えていた。
出典:先従隗始, CC0, via Wikimedia Commons、彦根市後三条町にある普門山常心院長久寺。法会の開催にともなって書院にて公開された「お菊の皿」。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fumonzan_J%C5%8Dshin-in_Ch%C5%8Dky%C5%AB-ji_Temple_20210809_03.jpg
上には彦根市の長久寺に伝わる「お菊の皿」を引用しました。但し、こちらのお菊さんのお話は「番町皿屋敷」とはだいぶ違うようです。以下に内容を簡単に記します。
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こちらのお皿はお菊が侍女として仕える孕石家が主君・井伊直政から下賜された家宝でした。当時(1664年)の孕石家当主・政之進はお菊と恋仲でしたが、親から決められた相手との結婚をせかされていました。お菊は政之進が自分と家のどちらを選ぶかを試そうと大事なお皿を意図的に割ったとのこと。お菊に愛情を疑われたことに腹を立てた正之進は残りの皿を自ら割って、お菊を手討ちにしたとされています。
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ここでは、このような皿を「誤って」割ってしまったお菊さんの姿を想像しておきましょう。引き続き「番町」に戻ります。
「『お菊さん、何か粗相したの』そこには主膳の妾(めかけ)の一人がいた。妾はそう云ってお菊の傍へ来て、『まあ大変なことをしなされたね』と云ったが、お菊が顫えているのを見ると気の毒になったので、『でも、いくら御秘蔵のものでも、たかが一枚の皿だもの、それほどのこともあるまいよ。あまり心配しなくてもいいよ』」
冷酷な主人夫婦
「と云っているところへ奥方が出て来たが、お菊の前の破れた皿を見るなり、お菊の髪をむずと掴つかんでこづきまわした。
『この大胆者、よくも殿様御秘蔵のお皿を破ってくれた、さあ云え、なぜ破った、なぜお皿を破った』
奥方は罵り罵りお菊をさいなんだ結句(あげく)主膳の室(へや)へ引摺(ひきず)って往った。濃い沢(つや)つやしたお菊の髪はこわれてばらばらになっていた。お菊は肩を波打たせて苦しんでいた。」
奥方の態度が随分きついようにも思えます。別バージョンでは青山主膳がお菊に懸想して言い寄っていたとのストーリーもあり、奥方のお菊に対するいやがらせとも考えられます。
「『殿様、大変なことをいたしました、この大胆者が御秘蔵のお皿を破りました』
『なにッ』主膳の隻手はもう刀架の刀にかかった。『ふとどき者奴(め)、斬(き)って捨てる、外へ伴(つ)れ出せ』
奥方は松のうちに血の穢(けがれ)を見ることは、いけないと思った。
『それでも、初春の松の内を、血でお穢しなさるのはよろしくないと思いますが』
『そうか、さらば十五日過ぎてからにする』
そう云うかと思うと主膳は小柄(こづか)を脱(ぬ)いて起ちあがり、いきなりお菊の右の手首を掴んで縁側に出て、その手を縁側に押しつけて中指を斬り落した。お菊は気絶してしまった。主膳はその態を見て心地よさそうに笑った。
『この女をどこかへ押し込めておけ』」
以下には青山主膳邸をイメージするために、福岡県朝倉市の「武家屋敷久野邸」の画像を引用いたしました。縁側で中指を斬られたお菊は、奥にある台所脇の空室に運ばれます。
出典:写真AC、武家屋敷久野邸
https://www.photo-ac.com/main/detail/4479682&title=%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%B1%8B%E6%95%B7%E4%B9%85%E9%87%8E%E9%82%B8
「お菊の身体は若侍の一人に軽がると抱かれて台所の隅の空室(あきべや)に運ばれた。朋輩の婢達は遠くのほうからはらはらして見ているばかりでどうすることもできなかったが、お菊が空室の中へ入れられるとともに、皆でそっと往って介抱した。傷口をしばってやる者、水を汲んでやる者、食事を運んでやる者、それは哀れな女に対する心からの同情であったが、お菊は水も飲まなければ食事もしないで死んだ人のようになって考え込んでいた。そのお菊は数日して姿を消してしまった。主膳はお菊が逃げたと思ったので、酷(ひど)く怒って部下の与力同心を走らせて探さした。主膳はその時火付盗賊改め方をしていたのであった。」
青山主膳は「火付盗賊改」の役人とありますが、実在の火付盗賊改長官として有名だったのが鬼平こと長谷川宣以(平蔵)です。下にはドラマや映画でもおなじみの鬼平犯科帳の予告動画を引用させていただきました。二代目中村吉右衛門さんが鬼平(火付盗賊改長官)、脇を固めているのが「与力同心」です。
侍女(お菊)の行方を探すのに公的機関を使うことに対しては少し違和感を覚えますが・・・。
「しかし、お菊の行方は判らなかった。そのうちに家の者の一人が裏の古井戸の傍から、お菊の履いていた草履を見つけて持って来た。主膳は結局己(じぶん)の手で殺生しないですんだことを喜んで、公儀へはお菊が病死したことにして届け出た。」
お菊のたたり
「哀れな女はそうして主膳の家から存在を消してそのままになったが、その年の五月になって奥方が男の子を生んだところが、右の中指が一本無かった。奥方はそれを見るとお菊の指のことを思い出して血があがった。そして、その夜からその産処(うぶや)の屋根の棟に夜よる女の声がした。また、古井戸の辺では、「一つ、二つ、三つ」と物を数える声がして、それが四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つまで往くと泣き声になった。その古井戸からは青い鬼火も出た。黒い長い髪をふり乱した痩(や)せた女の姿がその古井戸の上に浮いていたと云う者があった。」
出典:Tsukioka Yoshitoshi, Okiku,, Public domain, via Wikimedia Commons、『新形三十六怪撰』より「新形三十六怪撰 皿やしき於菊乃霊」(月岡芳年画、1890年)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yoshitoshi_Ogiku.jpg
上には幕末から明治中期にかけての浮世絵師・月岡芳年画による「皿やしき於菊乃霊」を引用いたしました。
ここではもう一度、他のバージョンでお菊さんの声を聴かせてもらいましょう。
「いちま~い、にま~い、さんまーい・・・・・・きゅうまい、いちまい足りなーい」
その後のお菊さん
「主膳の家では恐れて諸寺諸山へ参を立てて守札をもらって貼り、加持祈祷をし、また法印山伏の類を頼んで祈祷さしたが怪異は治まらなかった。そんなことで主膳は家事不取締と云うことで役儀を免ぜられて、親類へ永預となったので家は忽ち断絶し、邸(やしき)はとりこぼたれて草原となった。」
このように主膳の家は滅び、お菊は報復を果たしました。
「このお菊の霊は伝通院(でんづういん)の了誉上人(りょうよしょうにん)が解脱(げだつ)さしたのであった。」
さらにお菊は浄土宗中興の祖とされる「了誉上人(南北朝時代~室町時代初期)」が以下のようにはからい、成仏できたとされています(時代設定に矛盾があります)。
江戸の「皿屋敷」ものとして最も広く知られているのは、1758年(宝暦8年)の講釈士・馬場文耕の『皿屋敷弁疑録』が元となった怪談芝居の『番町皿屋敷』である。
(中略)公儀は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の読経を依頼した。ある夜、上人が読経しているところに皿を数える声が「八つ……九つ……」、そこですかさず上人は「十」と付け加えると、菊の亡霊は「あらうれしや」と言って消え失せたという。
出典:ウィキペディア・皿屋敷
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%BF%E5%B1%8B%E6%95%B7
お菊伝説の地のなかには史跡が存在するところもあります。例えば番町に近い東京都杉並区・栖岸院(せいがんいん)にはお菊の墓が、上でも紹介した滋賀県・長久寺にはお菊の法名が書かれたお墓、姫路市・十二所神社境内の「お菊神社」、尼崎市・深正院(じんしょういん)のお菊の井戸跡など。下には平塚市・紅谷町公園内にある「お菊塚」の写真を引用いたしました。
出典:撮影者, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons、お菊塚 平塚市紅谷町公園内
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E3%81%8A%E8%8F%8A%E5%A1%9A.jpg
「お菊塚」のお菊は平塚宿の役人・真壁源右衛門の娘で、江戸の旗本・青山主膳の屋敷に行儀見習いに出たとされます。ところがある日、皿を失くしたという疑いがかけられたお菊は井戸に投げ込まれてしまいました(ウィキペディア・お菊塚によると本当は皿を隠されたとも)。罪人扱いで平塚に送り返されたお菊の遺骸を丁重に葬ったのがこちらの「お菊塚」、遠方からお参りにくる人もあるようです。子供たちの遊ぶ声が聞こえるのどかな公園でお菊さんは穏やかに眠っているのではないでしょうか。
旅行などの情報
桐生稲荷神社
明治から昭和にかけての江戸文化風俗研究家・三田村鳶魚は著書「足の向く儘」のなかで、お菊井戸の跡が皿明神として祀られていると述べています(以下に引用)。
享保十七年版の江戸砂子に、皿屋敷、牛込御門内、むかし物語に云、下女あやまって皿を一ツ、井におとす、その科により殺害せられたり、その念此所の井に残りて、夜ごとに彼の女の聲して、一ツより九ツまで、十をいはで泣さけぶ、聲のみありてかたちなしとなり、よって皿屋敷とよびつたへたり、牛込御門臺のかたはらにやしろあり、俗に皿明神と云うとぞ、かの女の霊をまつりたりといふ、それよりして其の事なしと也、此社は稲荷の社也、とある。牛込見附を這入って左側の廣(広)場に續(続)いた一構、曾(かつ)て英国公使サトウ氏の家族の住んだ屋敷、其の邸内の古井の傍に、お菊稲荷の社があって、例の狂言をする時には、座方の者や俳優が参詣をしたといふ。
出典:三田村鳶魚 著『足の向く儘』,国史講習会,大正10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/964414 (参照 2025-05-31)、P433
https://dl.ndl.go.jp/pid/964414/1/225
なお、「日本の皿屋敷伝説」によると、「サトウ氏の家族」の移転などに伴い、こちらの稲荷社も移動し現在の地(牛込見附跡近く)に鎮座しているとのことです。
上には桐生稲荷周辺のストリートビューを引用いたしました。お社前の石や岩で固められた部分が井戸の跡を象徴しているのでしょうか???
ほかにも、「番町皿屋敷」関連の史跡としては、お菊が帯をひきずりながら走ったという「帯坂(上にストリートビューを掲載)」も徒歩圏内(約20分)にありますので、併せて散策してみてください。
基本情報
【住所】東京都千代田区富士見2丁目3-7(桐生稲荷神社)
【アクセス】JR飯田橋駅から徒歩約4分
【参考URL】https://visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/250
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