柳田国男「神を助けた話」の風景(その1)

磐次磐三郎

「柳田国男先生著作集第10冊(神を助けた話)」からいくつかのお話を選んで、その風景を追っていきましょう。「磐次磐三郎」とは山寺を開基した円仁に帰依し、土地を譲ったとされる有名な狩人です。ですがその実在性はあいまいで、磐司・磐三郎の兄弟であったとか「磐次磐三郎」という一人の人物であるとか、さらには山の名前が誤解されて伝わったとも!

*こちらの出典は以下となります
『柳田国男先生著作集』第10冊 (神を助けた話),実業之日本社,1950. 国立国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/pid/1159949

立石寺に伝わる磐司磐三郎伝説

「羽前山寺の立石寺にも、山立根元之巻と云ふ旧記がある。私はまだ見たことは無いが陸中のものと内容が又異なって居る。
(一)故角田浩々歌客君の漫遊人国記に、其大要を挙げて居る。同君も此問題に少なからぬ興味を持って居た。」

下には秋田県藤里町の歴史民俗資料館が所蔵する「山立根元之巻」の写真を引用させていただきました。代々マタギ一族の頭領に継承されてきたものとのこと。「日光山」や「萬治万三郎」の名前が記されています。

磐司磐三郎が味方した「二荒」とは「日光二荒山(男体山)」のことで、その昔、「戦場ヶ原」を舞台にして赤城山と戦ったとのことです。その時、二荒山は大蛇に赤城山は大ムカデに化けたと伝えられています。下には戦場ヶ原の写真を引用いたしました。

出典:写真AC、日光戦場ヶ原1
https://www.photo-ac.com/main/detail/5026237&title=%E6%97%A5%E5%85%89%E6%88%A6%E5%A0%B4%E3%83%B6%E5%8E%9F1

「土地の口碑には云ふ。磐司と磐三郎とは兄弟の樵夫であって、久しい前から此山に住んで居た。成和天皇の貞観年中に、慈覚大師が来って山寺を開いた時、兄弟は其教化を受けて、仏法に帰依し猟の業を止め、一山悉く殺生禁断の地と成った。猿どもは大に之を悦び、打揃うて大師の處へ御礼に来ると、慈覚申さるには、余よりは磐司に礼を云ふがよからうと。」
下には立石寺(山寺)を開山した慈覚大師円仁の像を引用させていただきました。

「之に因って今でも毎年七月七日の祭には、鹿子舞と称して猪に擬し、花やかな衣装を飾り、鉦と太鼓で踊る組が、先其祠の前へ来て踊り、其の次に開山大師の堂の前へは来ると云ふ(二)
(ニ)立石名勝誌に依る。」
今でも、立石寺境内では例年八月上旬(旧暦七月七日)に、磐司磐三郎を称える「磐司祭」を開催し、地元民と観光客でにぎわっています。以下には山寺観光協会が投稿した「シシ踊り」の動画を引用させていただきました。

「立石寺の周囲には磐司の遺跡が多い。山寺館の対岸に在る対面石は、慈覚大師が山王権現と対面せられた處と謂ひ、或は又磐司と対面の地とも謂ふ。」
下に掲載したストリートビューの中央にある巨岩が対面石と呼ばれる巨石です。右にある祠には慈覚大師と磐司の木像が安置されています。

出典:写真AC、磐司岩
https://www.photo-ac.com/main/detail/4294851&title=%E7%A3%90%E5%8F%B8%E5%B2%A9

磐司磐三郎は一人?

「さて此等の話の中で、合点の行かぬ点は、磐司の事ばかりで磐三郎を云はぬことである。現に猪が来て踊る境内の祠にも、閻魔見たような木像が一つ有るだけで、此は磐司のだと云ふことになって居る。」

出典:伊澤榮次 著『山寺名勝志』,寶[リュウ]堂,1925.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1910415 (参照 2025-08-06、一部抜粋)、磐司祠、五大堂、白山祠
https://dl.ndl.go.jp/pid/1910415/1/19

上に引用させていただいたのは立石寺境内の磐司祠の写真です。こちらの祠には以下のような「磐司」の像が祀られています。「閻魔見たような」とあるように厳しい表情をしています。

出典:伊澤榮次 著『山寺名勝志』,寶[リュウ]堂,1925.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1910415 (参照 2025-08-06、一部抜粋)、磐司像
https://dl.ndl.go.jp/pid/1910415/1/25

「又地方の人の話にも、萬事伴三郎と云ふ一人の如く云って居る者がある。例へば出羽風土略記にも、昔此名の一老翁、独山中に住んで居る處へ、慈覚大師登山致され、我此山を開いて仏法を弘めんと思ふに由り、願はくは貸与え玉へと云われた。老翁は得心して岩の闇へ引籠る。今其岩を伴三岩と謂ひ、岩石屏風を立てたる如しとあって、即ち峠の上の大岩を云ふらしく、又境内五大尊堂の岩間に、萬事伴三郎が木像ありとあって、此處の岩を萬事岩とは謂ふやうである。百二三十年前に秋田の学者が、最上の僧から聞いたと云って、奥院に住む萬事万三郎と云ふ旧家、山中一切の事を支配すと記したのは聞誤りであらうが(三)之を兄弟の名と認めなかったことは一つである。
(三)黒甜瑣語第三集巻二。人見蕉雨著。」
「岩石屏風を立てたる如し」と記されている「峠の上の大岩」とは上にも引用した「磐司岩」のことだったと思われます。

磐司・磐三郎は兄弟?

「處が一度二口峠を越えて、旧仙台領の言伝を訊ねて見ると、二人であったことは略確である。峠の路を下ること一里ばかり、二つの峰の間を通る。即ち名取川の水源である。北の峰は日向磐神、南は日陰磐神、頂上は櫛形の三つの名は有るが、合せて謂ふときは磐神山であって、萬二萬三郎の兄弟の猟人は、昔は此處に止住し、後には又神として祀られた。其二神の像は、峠の向この立石寺に於て、頂上の祠の中に安置してあると陸前の人は書いて居るが(四)少くとも今有る山寺の磐司の像は、一箇である上に木像で、久しく山中に在ったものと同じとは思はれぬ。
(四)色々の地誌に出て居るが、佐久間洞巌の観蹟聞老志などが古いであらう。」

引用文に登場した「二口峠」と2か所の磐司岩(日向磐神と日陰磐神)の位置関係が把握できるマップを下に掲載いたします。

「峠境の二子山の他の多くの例、及び二口と云ふ峠の名を考へても、両人は共に居たものと解すべき上に、雲居禅師の此地で作った詩の句に、人は伝ふ萬二萬三郎、兄弟曾て玆に鬼王を伐つともあるのに、どう云ふ訳か後世に為っては、磐神山に居たのは兄の萬二だけで、弟の萬三郎は名取川の遥の下流、宮城郡境の網木の磐山に居たと云ふ説が行はれた。磐山は地図に蕃山とあり、旧くは萬三とも書いて居る。」

下のマップでは名取川に沿って30㎞ほど離れている「磐神山(磐司岩)」と「蕃山」の位置関係を示しています。

磐司磐三郎が兄弟という説が発生したのは雲居禅師が蕃山の麓に大梅寺を開山した江戸時代になってからです。慈覚大師による立石寺開山(860年)とは大きく時代が異なるため、以下に引用させていただいたように、別人物のエピソードを付け加えたフィクションとの見解もあります。

※大梅寺に残る万二郎万三郎説は二口山塊のそれとは時代が大きく違っている。おそらく江戸初期既に発生していた磐司磐三郎(兄弟?)伝説を、巧みに使ったこの時代の人物が存在したと推察される。

出典:一般社団法人 秋保地域活性化協議会、秋保・里センター、磐司磐三郎物語
https://akiusato.jp/history/bansaburo10.html

盤二・磐三郎は山の名前?

「萬三郎の住むに因って、山の名が出来たと云ふ。其山中の枯華山大梅寺の開山堂に、素袍を著て弓矢を持った兄弟の像を安置し、之を仁王護国大権現と称して、当寺の鎮守として居る。而も此像は大に新しく、前に申した雲居和尚が、慶安三年に此地に隠退して、始めて座禅の室を構へた頃より祀ったので、今も現に兄弟を和尚の像の左右に立たせて居る(五)蓋し雲居は稀なる豪傑僧である故に、潜に自分を山寺の慈覚大師の地に處したものであらう。
(五)仙台封内風土記。」
以下には蕃山山頂にある大梅寺開山堂に安置されている磐司・磐三郎兄弟像の写真(左上)を引用させていただきます。なお、磐司・磐三郎の像の間には今も雲居和尚の像が鎮座しているとのことです。

「是で先明白に為ったのは、神を助けた猿王の子を磐次磐三郎と謂ふことは、本来は其止住の地の磐神山から出たことである。始は単に磐神山の神と呼んだのが、人の名らしい為に萬二又は磐司かと思ったのである。磐神は即ち磐の神で、恐くは峠の頂上の巨石を意味したのであらう。珍しい形の岩に依って、山の神を祀るは常のことで、殊に奥州には延喜式を見ても、古くから何箇所と無く石神又は磐神の社があった。山の神なるが故に狩人が祭り、又神様も狩人だと信じたのである。然らば萬三郎はどうかと云ふと山の神が二柱であるときに、兄が萬二ならば弟は萬三郎と云ふ風に、口拍子で出来た迄であらう。是も幾らも例のあることで、昔から兄弟は似た名を附いて居た。保元物語の伊藤五伊藤六、義経記の吉次吉六吉内などは、最記憶し易いから人が知って居る。又山の名としても、峰が二つあるときに兄弟のやうな名を附けぬとも限らぬ。猿丸大夫が生れたと云ふ越後境の山にも、銀太郎銀次郎の二峰あり、此名の兄弟が始めて踏分けたと伝え(六)今では高倉宮以仁王の臣下、清銀太郎と云ふ勇士などを説き、其後裔と云ふ旧家もある。
(六)新篇会津風土記。」

出典:白河市公式サイト、(伝)金売吉次兄弟の墓
https://www.city.shirakawa.fukushima.jp/page/page001405.html

上には「義経記の吉次吉六吉内」に関するお墓の写真を引用いたしました。(金売り)吉次は源義経を奥州に伴い、藤原秀衡に引き合わせた伝説的な人物です。その後も金の行商で京と奥州を往復しますが、福島県白河市にて強盗にあい、命を落としたとされています。

「但し山神を人の姿にして拝みたい心持がある以上は、何處へ行っても此類の誤解は有得るのみならず、或時代は此考が弘がって、山の名の僅の変化を見たかも知れぬ。萬三萬蔵萬次郎と云ふ嶺は、諸国に随分数が多い。西の方では駿州愛鷹山の伴次郎、一名を鋸嶽とも謂ふ。伊豆の天城にも峰が二つあって、千三百メートルが萬二郎岳、千四百メートルが萬三郎、一名大嶽である。別本伊豆志には蠻治郎ヶ嶽ともあれば、萬の字をバンと訓んだことがわかる。」

万二郎岳(天城山)・万三郎岳(天城山) / テトラさんの活動データ | YAMAP / ヤマップ

萬二郎岳や萬三郎岳は日本百名山・天城山の一部(表記は万次郎岳と万三郎岳)となっていて、以下(YAMAP・活動日記)に引用させていただいたように登山スポットとしても人気があります。なお、天城山周辺は井上靖「しろばんば」で、主人公の洪作が幼い日を過ごす舞台ともなっています(しろばんばの風景その1・参照)。

「萬次郎と云ふ山は、名取郡の磐神山の西南十数里の県境にも一つある。又の名を萬上山或は磐城山と謂ふ。前の磐神山も一名磐上山、此等はイハカミを磐上と書いて、僧侶などが音で読んだ結果だろうと云ふ人がある。さうすれば萬三の名も、磐座山の音読であったかも知れぬ。いづれにしても、山を何々サンと謂っても、早既に人のやうな感じがするから、此名の起りには大な不思議は無い。不思議は唯陸羽の境の狩の祖神に、神を助けた話をどうして取附けるに至ったかといふ事である。」

旅行などの情報

立石寺

「磐司磐三郎」が霊場を探していた慈覚大師円仁に帰依し、自分の縄張りを譲ったのが立石寺の始まりと伝わっています。奥之院までは1015段もの石段が続きますが、1356年に初代山形城主・斯波兼頼が再建した「根本中堂」や、松尾芭蕉の句「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を体感できる「せみ塚」、山頂近くの絶景スポット「五大堂」などがあるので、観光をしながら巡ってみてください。下には「五大堂」からの絶景動画を引用させていただきました。

なお、「シシ踊り」などが奉納される「磐司祭」は例年、8月上旬に根本中堂前広場で開催されます。夏以外にも秋には紅葉、春の桜、冬の積雪と季節ごとに景色も変化しそれぞれの味わいを楽しめます。

基本情報

【住所】山形県山形市山寺4456-1
【アクセス】JR仙山線・山寺駅から徒歩約10分
【参考URL】https://rissyakuji.jp/

柳田国男「神を助けた話」の風景(その1)” に対して1件のコメントがあります。

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