柳田国男「神を助けた話」の風景(その3)

会津の猿丸大夫

前回(神を助けた話の風景その2・参照)は主に近畿地方の猿丸大夫伝説について語られていましたが、今回は東北も含めた広い範囲に渡る伝説の地を追っていきましょう。金沢の猿丸大夫は「禁裡の御歌会」のために都に出向き、そのまま戻ってきませんでした。また、会津周辺の猿丸大夫は弓矢が得意で、「百人一首」の作者という人物像から離れていくのも興味深いところです。
『柳田国男先生著作集』第10冊 (神を助けた話),実業之日本社,1950. 国立国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/pid/1159949

信州や金沢の猿丸大夫

「猿丸大夫は弓削道鏡の変名だと云ふ説がある。或いは又いやさうで無い。聖徳太子の御孫弓削王と申す御方のことであるとも云ふ。どうして其様な話が始まったか、今では真偽を判断する材料すらも無いが、兎に角に伝などのさう明白な人ではあるまい。と云ふのは、一方には又丸々の田舎に於て、尚且同じ歌人の由緒を語伝へて居るからである。例へば信州戸隠の山の口の、猿丸という村では、大夫曾て此處に居住したと言ひ、或は此村の出身だとも伝へて居る。」

猿丸大夫宅跡
字猿丸城にあって、正徳の頃迄は残礎明かであったが其後、開拓されて今は畑と化して居る。

出典:長野商業会議所 編『善光寺案内』,金華堂書店,大正12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971977 (参照 2025-09-01)
https://dl.ndl.go.jp/pid/971977/1/96

下には長野県戸隠豊岡猿丸のストリートビューを引用させていただきました。
右側の細い道を進むと猿丸神社があり、その先に上に引用した「猿丸城跡」や「猿丸太夫宅跡」といった遺跡があるようです。「丸々の田舎」とあるように、自然豊かな場所でのどかな生活を送る猿丸大夫の姿を想像してみましょう。
*「猿丸神社」などの位置についてはインターネット情報などを参考にした推測も含んでいます。お出かけの際は長野市公式サイトなどで詳細情報をご確認ください。

「加賀の金沢の郊外、石川郡の笠舞村にも、一緒の猿丸宮があって、土地の名も猿丸と称へ、此へ来て久しく匿れ住んで居たのが、某年禁裡の御歌会に列するとて都に上り、其なり還って来なかった。」
下には笠舞にある猿丸神社の写真を引用いたしました。「禁裡の御歌会」に参加してそのまま戻らなかったとのこと。こちらの猿丸大夫は「奥山に紅葉踏みわけ・・・」をうたった雅な人物像が保たれているようです。

出典:自己, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons、石川県金沢市笠舞に存在する猿丸神社の写真。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sarumaru.JPG

「もと猿丸村の領主であった故に、猿丸大夫と名乗ったとも云ふが、他の一説では、赦免に遭って嬉しさの餘、衣服が破れて見苦しいのを、笠で隠して舞を舞った。其で笠舞村と謂ふともある。即ち頗(すこぶる)貧窮であったらしいのである。村民の村本伝右衛門氏は、大夫の家来筋の末で、色々の旧い事を家に伝へて居る。猿丸神社の祭神を誰と伝へて居るかは、言ふ迄も無い。」

なお、「笠舞」という地名については、猿丸大夫がこの辺りを通りかかったとき、かぶっていた笠が舞い上がったことが由来という別の説も伝えられています。

会津の猿丸大夫

「其よりも更に奇抜な話は、福島県南会津の奥、海抜四千尺もあらうかと云ふ山の上に昔猿丸太夫が牛に草を飼って居たと伝ふる、小野岪(へつり)と云ふ處がある。今の長江村の内、小野と云ふ小部落の上手、小野嶽の中腹になって居り、有名な観音堂がある。鎌房火山の爆発の時、一時低地が大沼になって、長根通りをしたことがあったものか、此高みに小野神社の社址、朝日長者の屋敷址などがある。」
以下には登山情報サイト「YAMAP」から小野岳の活動日記を引用させていただきました。写真の「8/79」が小野岳・中腹の「小野観音堂」、そして「34/79」の山頂にあるのが「小野神社の社址」、「朝日長者の屋敷址」とのことです。「小野観音堂」は江戸時代の創建で、それまで山頂に祀られていた十一面観世音菩薩を山麓にお遷しするためにつくられました。

うつくしま百名山第二十四番・小野岳〜小野観音堂から雪の山頂へ / うすら✖️かすらさんの活動データ | YAMAP / ヤマップ

「さうして猿丸大夫は、朝日長者の子であったと、此村では言ふのである。強力無双の人であった。牛を牽いて常に此辺を往来したとも伝へて居る。朝日は諸国の長者の名に、最数多く聞く所である。併しあの方面ばかりで何箇所も、小野と云へば朝日長者が曾て住み、必一人の猿丸が其家から出て居るのは、元は一つの話と見ねばならぬ。而も其話が、土地に由って僅かづつ違って伝はって居るのである。」

越後の猿丸大夫

「其一つは越後東蒲原郡實川村の小野、岩越線の日出谷駅に近い、越後と云っても国境の山村で、旧会津領の中であった。村から二十町ほど北に、山中には珍しい平地がある。朝日長者の屋敷跡は爰(ここ)で、今も長者清水の泉は流れ、在々にして石の樋、陶器などの破片が出た。猿丸大夫は此傍で生まれたと云ひ、或は又、餘に容貌が醜いので、奥小野郷に捨てられたとも云ふ。」

以下には明治時代に発行された「新編会津風土記」から朝日長者の屋敷跡の図を引用いたしました。なお「後川」とは阿賀野川水系・実川の支流「裏川」のことを指すようです。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ、新編会津風土記(部文抜粋)
https://www.digital.archives.go.jp/file/1214169.html

「越後東蒲原郡實川村」は現在、「新潟県東蒲原郡阿賀町」の一部となっています。阿賀町の観光案内によると「実川最大の支流である裏川には、猿丸大夫が住んでいたとされる『小野ヶ原』という地名があります。」とのこと。以下にはYAMAP(登山情報サイト)から裏川沿いの活動日記(ジッキラマツ)を引用させていただきました。「37/44」や「38/44」に裏川の写真が掲載されています。こちらのような川辺の広大な平地があり、そこに朝日長者の立派なお屋敷があったと想像してみましょう。

ジッキラマツ(じっきら松) / ところてんさんの活動データ | YAMAP / ヤマップ

「朝日長者は猿丸が祖母の父で、祖父は都の有宇中將、後に日光の男體權現と祀られた人である。此猿丸が力飽くまで強く、殊に弓矢の達人であったことは、どの本にも正しく書いて居るが、和歌はどうであったか明瞭で無い。」
このように、「三十六歌仙」の文人として有名な猿丸大夫ですが、地方に話が伝わる過程で武人としてのイメージが強くなっていきました。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons、「猿丸大夫」 百人一首のかるたより。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hyakuninisshu_005.jpg

「会津旧事雑考の著者などは、此村では生れたと云ふだけであるから、仮に近江の曾束で終ったとしても、不思議は無いと論じて居るが、而も實川村の口碑に残る一首の如きは、寧(むしろ)此の豪傑が、詩は不得手であったことを語るものである。
小野の原ふりさけ見れば曾々木山烈しき筆つけの松」

山形の猿丸

「第二の小野は山形県である。東田川の狩川村は、昔は小野里と呼び、今も其地名が小く遺って居る。朝日長者此村に住んで居たと云って、土人の間に斯云ふ話がある。」
以下には現在も残る「小野里」の地名が記されたグーグルマップを引用いたしました。

「有宇中将と云ふ殿上人、勅勘を蒙って東国に下り、奥州小野郷の朝日長者の家に客となり、長者の娘を容れて一子を儲け、其名を馬頭御前と謂ふ。中将は後に赦されて京に還ったのを、奥方其跡を慕うて上り、下野国二荒山の麓に於て夫に行逢うた。中将は百餘歳の齢を保ち、終に一社の神と顯れ、二荒山に蹤(あと)を垂れて、男体権現と仰がれたまう。朝日の姫君は女体権現、御子馬頭御前は太郎大明神、其又御子の小野猿丸太夫と云ふのは、後に宇都宮大明神と崇められた云々。」

有宇中将や朝日長者の娘、その子・猿丸大夫は現在も「日光三所権現」として祀られています。以下には日光輪王寺が所蔵する権現様(中央左が男体権現、中央右が女体権現、下左が太郎権現)の画像を引用させていただきました。

出典:栃木県生活文化スポーツ部文化振興課、板絵著色 日光三所権現像 附 絹本著色日光三所権現像
https://bunkazai.pref.tochigi.lg.jp/cultural/%E3%80%90%E6%9D%BF%E7%B5%B5%E8%91%97%E8%89%B2%E3%80%80%E6%97%A5%E5%85%89%E4%B8%89%E6%89%80%E6%A8%A9%E7%8F%BE%E5%83%8F%E3%80%80%E9%99%84%E3%80%80%E7%B5%B9%E6%9C%AC%E8%91%97%E8%89%B2%E6%97%A5%E5%85%89/

「此分は先づ以って百人一首との関係が切れたが、其代に日光山の因縁は何處までも続き、つまり或時代に、此山の信仰が弘く東北に及んで居たことを示して居る。但出羽の荘内には、右の外に更に別口らしい猿丸太夫もあった。同じ郡の本郷村川内明神の社人に、代々此名を名乗ること、恰(あたか)も蘆屋村の旧家の如き家があったさうである。」
以下に引用したのは山形県鶴岡市本郷上ノ平にある「河内神社(川内明神)」周辺のストリートビューです。ここでは、猿丸大夫の子孫の方がこちらで祈祷をしているところをイメージしてみましょう。

「狩川村の長者の系統では無かったやうで、此の祭神が猿田彦大神である点から、さらに加賀其他の猿丸宮と、類似のものらしく思はしめる。」

旅行などの情報

笠舞・猿丸神社

約1000年前、平安時代の創立と伝わる金沢でも最古級の神社です。下に引用したストリートビュー手前のケヤキなどの複数の巨木が残り、天保14年(1843年)につくられた石灯籠(写真中央)なども見どころです。御本尊は十一面観音で毎年8月の観音講などの際に拝観ができます。

また、こちらの神社は井上靖「北の海(北の海の風景その5・参照)」で主人公の洪作が柔道合宿に参加した四高(現・金沢大学)からも徒歩30分ほどの距離にあります。周辺には「兼六園」や「21世紀美術館」といった人気観光スポットもあるので併せて巡ってみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】石川県金沢市笠舞3丁目23-21
【アクセス】北陸鉄道路線バス「猿丸神社前」から徒歩2分ほど
【参考URL】https://www.ishikawa-jinjacho.or.jp/shrine/j0254/