柳田国男「神を助けた話」の風景(田原藤太)
田原藤太
田原藤太秀郷は平将門の乱を平定し下野国(栃木県)の国司や鎮守府将軍の地位を得た「武士のルーツ」ともいわれる人物です。そして、蛇に頼まれて蜈蚣と戦うという二荒山・赤城山の争い(神を助けた話の風景・蛇と蜈蚣・参照)に似た伝説の主役にもなっています。舞台は琵琶湖の南にある瀬田の唐橋、藤太の行く手をはばむように大蛇が横たわっていましたが・・・。
出典:『柳田国男先生著作集』第10冊 (神を助けた話),実業之日本社,1950. 国立国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/pid/1159949
蜈蚣(むかで)や大蛇の話の起源
「今昔物語には又海に棲む鰐(わに)が勢多河の流を上って来て、近江の湖水の鯉と闘った話がある。鰐は負けて山城国まで遁げて石に成ったと云ふ。此等の話が色々と混合したものであらう。」
上の今昔物語を意訳した文章を以下に引用いたします。なお、今昔物語の時代の「鰐」は現代の「鮫」とのことです。
それは昔近江の国志賀郡古市の郷の東南に心見の瀬といふのがあった。これは郷の南辺にある勢多河の瀬であつたが、その瀬に大海の鰐(わに)が上つて江の鯉と戦った。鰐が負けたので返り下つて山背の国に石と成ってゐた。鯉は勝つたので江に返り上つて竹生島を繞ってゐた。これに由って心見の瀬と云ふのである云々と云ふのである。つまり心見の瀬(勝負を試みた瀬といふ意味であらう)の説明伝説であるが(後略)
出典:志田義秀 著『日本の伝説と童話』,大東出版社,1941. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1453466 (参照 2025-09-18)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1453466/1/14
大日本地誌大系 第22巻P294 (南郷村)によると、「心見の瀬」はかつて「供御瀬」とも呼ばれた場所で、現在の黒津浜周辺と推測しています。以下には黒津浜周辺のストリートビューを引用いたしました。鯉は鰐(鮫)に勝つためにどのような策略を巡らしたのでしょうか。
「此附近に於ても蜈蚣が大蛇を責めた物語が、何時の頃からか発生した。其が二荒山神の庇護を受けた田原藤太秀郷の、弓矢の誉を現すべき機会になったと云ふのは、亦偶然ではあるまいと思ふ。瀬田の長橋の橋の下が、龍宮の表門ででもあったやうに謂ふのは、稍(やや)古くからのことで、是も此話の一分子を作って居る。秀郷の龍宮入の話を、例の前太平記の作り事のやうに、断定した学者もあるが、其は寃罪である(一)
(一)前太平記は早稲田の通俗日本全史でも識刻した。藤元元の著と称し、国書解題にも享和三年の自序ありとあるが、此は多分再版に誤られたのであらう。安齋隨筆に平山素閑の筆とある。此人は正徳二年に八十二で死んだ。二百三四十年前の著書である。」
出典:西田繁造 編『日本名勝旧蹟産業写真集』近畿地方之部,富田屋書店,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/967085 (参照 2025-09-18、一部抜粋)、近江八景 瀬田の唐橋
https://dl.ndl.go.jp/pid/967085/1/12
上には大正7年頃の「瀬田の長橋」の写真を引用いたしました。
なお、「神を助けた話」とは直接関係がありませんが、昭和29年、内田百閒が松江に行く途中にこちらに立ち寄ったことを松江阿房列車(第三阿房列車)に記しています。(第三阿房列車の風景その4・参照)。
「此よりも前に、又は少くとも同じ頃に、勢多橋の南の方、世に謂ふ龍神社及秀郷社の側の、浄土宗雲住寺の縁記一巻が、大同小異の内容で出来て居り(二)林鵞峰の詩も有り、又東海道名所記にも同じ話が書いてある。三井寺唐院の記録、寺門伝記補録には、秀郷龍窟に入る事、世人口実を成すと雖、奇怪の説だから取らぬと有る(三)
(二)天和元年の作、前大平記の著者の五十二の年。既に出来て居たとしても、受売には早過ぎる。
(三)近江国輿地誌略巻十一。雲住寺縁起は同書巻卅九に出て居る。」
ちなみに、注釈(一)の「正徳二年」は西暦1712年、注釈(二)の「天和元年」は1681年にあたります。以下には龍神社及秀郷社(龍王宮秀郷社)の鳥居からの写真を引用いたしました。
出典:写真AC、滋賀・大津市 勢多橋 龍王宮秀郷社 鳥居
https://www.photo-ac.com/main/detail/26711256/1
「即此時代に既に人口に膾灸した物語であって、前太平記は単に之を歴史らしく、書残したと云ふに過ぎぬのだと思ふ(四)
(四)伊勢貞丈の武器考証に依れば、秀郷草子又は秀郷絵巻と云ふものがある由。まだ見たことが無い。詞は甘露寺定成、活版本類聚名物考巻四十八に、甘露寺是成作として、一部分抄録してあるのが其であらう。又舞の本の中にも俵藤太物語がある。」
俵藤太の物語
「此話は私も子供の時から、耳で聞いて覚えて居る。又絵本でも読んだことがある。少しづつの相違は有るが、一々比べる迄もあるまいから、便宜上雲住寺の天和縁起に拠って話をして置かう。縁起に曰く、秀郷は江州栗田郡田原の人であるが、龍宮に行って俵を貰ったから、改めて俵藤田と呼ばれた。力強くして弓の上手であった。延喜十八年の十月二十一日、一説には承平年中の事とも謂ふ。秀郷勢多橋を渡らんとすると、大蛇眼を日月の如く光らせて、橋の上に蟠って居た。豪雄の秀郷些も之を怖れず、蛇を跨いで通った。」
下には「俵藤太秀郷絵巻」より瀬田の唐橋で蛇を跨いで通る場面を引用いたしました。大蛇(龍)を恐れずにまたいでいく藤太を見て、驚く大蛇の表情がリアルに描かれています。
出典:『俵藤太秀郷繪巻』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1288349 (参照 2025-09-18、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1288349/1/2
「一里ばかりも行く中に、青い着物を着た人、路に在って呼掛け、自分は今の大蛇である。あの橋の下に二千年から住んで居る。此頃我同類の者、多く百足馬蚊の為に害せられる。勇士を頼んで此寇を除かうと思ひ、通行の人を試すに御身の如き豪傑は無い。どうか来て助けられよとの話であった。」
下には俵藤太秀郷絵巻から同シーンを引用いたしました。こちらの大蛇の着物は青色でなくオレンジ色に描かれています。
出典:『俵藤太秀郷繪巻』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1288349 (参照 2025-09-1、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1288349/1/8
「秀郷之を諾して、相伴に水を分けて波路を行き、正しく龍宮の御殿と思はるる処に到着した。饗応を受けて敵の来る時刻を待って居ると、」
以下は俵藤太が龍宮で饗応を受ける場面です。
出典:『俵藤太秀郷繪巻』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1288349 (参照 2025-09-19、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1288349/1/13
「夜更けて風雨の音凄じく、炬火の如き物、光りはためくこと雷電の如く、龍宮に押寄せ来るは、是なん三上山を七卷半纒(ま)くと云ふ百足(ムカデ)であった。流石の強弓の射出す矢も、始は更に裏を搔くとも見えなかったが、ふと古老の言ったことを思ひ出して試に矢鏃に唾を塗って之を射れば、弦に応じて百足は斃(たお)れ、炬火は忽ち消え雷電は止んだ。」
出典:『俵藤太秀郷繪巻』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1288349 (参照 2025-09-19、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1288349/1/15
上には何度か矢を跳ね返された後、唾を塗った矢で百足を狙う俵藤太の図を引用いたしました。風雨や炬火。雷電のなかで藤太がムカデと戦う様子をイメージしてみましょう。
「嚮の青衣の人大に悦び且つ感謝して、十種の宝を以って礼物として贈った。」
以下に引用した絵巻の中央に描かれている「米俵」はどんなに食べてもなくならないとされ、「俵藤太」の名前の由来にもなっています(諸説あり)。
出典:『俵藤太秀郷繪巻』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1288349 (参照 2025-09-19、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1288349/1/17
「別れて還って来ると、則ち勢多橋の側に出たと云ふ。秀郷が下野の押領使に任じたのは、朝廷此手柄を感ぜられた為で、後更に将門治罰の功を以て、鎮守府将軍には進んだのである。
百足を射た矢根は今は京の妙心寺に納めてある。俵と鎧と鑑とは蒲生家に伝へ、蒲生家が断絶してから、親戚の浅野侯の家に蔵して居る、太刀は竹生島の御社に奉納し、鐘は三井寺に之を寄進した。」
下には俵藤太が寄進したとされる鐘の写真を引用いたします。その後の出来事となりますが、三井寺と比叡山との争いが起きたとき、武蔵坊弁慶がこちらの鐘を奪って比叡山まで引き摺り上げました。ところが鐘を撞いてみると三井寺に帰りたいと響いたため谷底へ投げ捨ててしまったといいます。こちらは今でも三井寺に残っていて「弁慶の引き摺り鐘」、「弁慶鐘」などと呼ばれています。
出典:写真AC、梵鐘
https://www.photo-ac.com/main/detail/29279109&title=%E6%A2%B5%E9%90%98
「勢多橋の側には二つの社がある。其一つは龍神、他の一つは秀郷を祀って居る。以上が縁起の大要である。」
以下には「伊勢参宮名所図会」より勢田橋の図を引用いたしました。
出典:蔀関月 編・画 ほか『伊勢参宮名所図会 5巻』[2],塩屋忠兵衛[ほか],寛政9 [1797]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2555626 (参照 2025-09-19、一部抜粋)、勢多橋
https://dl.ndl.go.jp/pid/2555626/1/4
中央部上にある龍神祠と俵藤太祠の部分を拡大した図が以下になります。
出典:蔀関月 編・画 ほか『伊勢参宮名所図会 5巻』[2],塩屋忠兵衛[ほか],寛政9 [1797]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2555626 (参照 2025-09-19、一部抜粋)、勢多橋
https://dl.ndl.go.jp/pid/2555626/1/4
「もとは短いばつとした話であったのを、殊に漢文に書綴ったので、大分苦しかったらうと思ふ所がある。其上に普通の縁起と違ふ点は、人の信心を誘ふ為に、所謂我仏の尊いことを述べたのでは無くて、言はば旅の者の興を催す迄に書いたのだから、素より真実を保証するだけの熱心が無い。
前太平記は読本のことだから、調子は之よりもずっと花やかである。併し虚誕らしい点にかけては変わりは無い。唯一つ合点の行かぬことは、縁起の方には三上山を七巻半とあるのに、前太平記には比良の高峰の方よりとある。而も私共の記憶では、三上山だと覚えて居る。蒲生の先祖と何か関係があるのでは無いか。七巻半も弘く世間で云ふことである。」
上には琵琶湖の南側・近江大橋からのストリートビューを引用しました。左側に見えるのが比良山系で最高峰は武奈ヶ岳(約1214m)、右端の円錐形の山が近江富士として知られる三上山(標高432m)です。雲住寺の「天和縁起」と「前太平記」とでは、蜈蚣が琵琶湖を挟んで異なる方向からやってきたと伝えています。
旅行などの情報
瀬田の唐橋
俵藤太物語で大蛇が待ち伏せし、龍宮の入口ともなっている場所です。こちらの橋は京都への交通の要で「壬申の乱(西暦672年)」や「承久の乱(1221年)」といった主要の戦の舞台になりました。
出典:写真AC、瀬田の唐橋と桜
https://www.photo-ac.com/main/detail/25950527?title=%E7%80%AC%E7%94%B0%E3%81%AE%E5%94%90%E6%A9%8B%E3%81%A8%E6%A1%9C
現在の橋は昭和54年に架け替えられていますが、旧橋の擬宝珠を使用するなど昔の雰囲気を残していて、今でも近江八景「瀬田の夕照(せたのせきしょう)」の絶景を満喫できます。他にも上の写真のような桜や紅葉とのコラボレーションも見どころです。大蛇が横たわる(?)橋を渡りながら景色を楽しんでみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】滋賀県大津市唐橋町
【アクセス】京阪石山坂本線・唐橋前駅から徒歩約5分
【参考URL】https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/23046/
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