太宰治「津軽」の風景(その1)

少年の頃まで

「津軽」は故郷の思い出を語る「序編」と、初めての津軽旅行を記した「本編」とからなる小説です。今回は「序編」の途中までとなります。金木町や五所川原での幼年時代を経て中学へ入学。一世一代のおしゃれをして都会に乗り込みます。学校の成績は優秀でしたが、生意気であったため先生たちの受けは良くありませんでした。

出典:青空文庫、津軽、底本: 太宰治全集第六巻、出版社: 筑摩書房、入力: 八巻美恵氏
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html

津軽の積雪

「津軽」は下に引用したように昭和19年、太宰治が35歳の時に書かれた小説です。戦時下でしたが、昭和13年に結婚した石原美知子との間に長女が生まれ、精神的には安定した時期でした。

本書は小山書店の依頼を受け、「新風土記叢書」の第7編として書かれたものである。

1944年(昭和19年)5月12日から6月5日にかけて取材のため津軽地方を旅行する[3]。本書が完成したのは同年7月末である。

出典:ウィキペディア、津軽 (小説)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)

下には旅をしたころのころの太宰治の写真を引用いたしました。

出典:国立国会図書館、近代日本人の肖像、太宰治
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/4149/

「津軽」は以下のように「東奥年鑑」の引用から始まります。

「津軽の雪
 こな雪
 つぶ雪
 わた雪
 みづ雪
 かた雪
 ざらめ雪
 こほり雪
  (東奥年鑑より)」

なお、青森地方気象台によりますと、「津軽」では「東奥年鑑 」に併記されている説明文(下に引用させていただきました)が省略されているため、冬になると雪についての問い合わせがくるとのことです。

雪ノ種類
「積雪ノ種類ノ名称」
こなゆき 湿気ノ少ナイ軽イ雪デ息ヲ吹キカケルト粒子ガ容易ニ飛散スル
つぶゆき 粒状ノ雪(霰ヲ含ム)ノ積モツタモノ
わたゆき 根雪初頭及ビ最盛期ノ表層ニ最モ普通ニ見ラレル綿状ノ積雪デ余リ硬クナイモノ
みづゆき 水分ノ多イ雪ガ積ツタモノ又ハ日射暖気ノ為積雪ガ水分ヲ多ク含ム様ニナツタモノ
かたゆき 積雪ガ種々ノ原因ノ下ニ硬クナツタモノデ根雪最盛期以後下層ニ普通ニ見ラレルモノ
ざらめゆき 雪粒子ガ再結晶ヲ繰返シ肉眼デ認メラレル程度ニナツタモノ
こほりゆき みずゆき、ざらめゆきガ氷結シテ硬クナリ氷ニ近イ状態ニナツタモノ
「降雪ノ種類ノ名称」
こなゆき つぶゆき わたゆき みづゆき

出典:青森地方気象台、あおもりゆきだより2022 第3号 今号の話題②、津軽の七つの雪(東奥年鑑 1941 年、昭和 16 年)
https://www.data.jma.go.jp/aomori/https://dl.ndl.go.jp/pid/1070948/1/56

序編

「或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかつて一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件の一つであつた。私は津軽に生れ、さうして二十年間、津軽に於いて育ちながら、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけで、その他の町村に就いては少しも知るところが無かつたのである。」
以下には太宰治の生家の写真を引用いたしました。大地主であった太宰の父が建てた家で、現在は太宰記念館「斜陽館」として残されています。太宰は中学へ入学する13歳までの期間をこちらで過ごしました。

出典:写真AC、斜陽館
https://www.photo-ac.com/main/detail/22197030?title=%E6%96%9C%E9%99%BD%E9%A4%A8

下は10歳ころの太宰治の写真です。こちらは以前、「人間失格」の「第一葉の写真」としても取り上げました(人間失格の風景その1・参照)。こちらの家から彼らが楽しそうに話す声が聞こえるでしょうか。

出典:太宰治 著『太宰治』,文潮社,昭和23. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1069452 (参照 2025-11-13)、少年時代
https://dl.ndl.go.jp/pid/1069452/1/4

金木町

「金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これといふ特徴もないが、どこやら都会ふうにちよつと気取つた町である。善く言へば、水のやうに淡泊であり、悪く言へば、底の浅い見栄坊の町といふ事になつてゐるやうである。それから三里ほど南下し、岩木川に沿うて五所川原といふ町が在る。この地方の産物の集散地で人口も一万以上あるやうだ。青森、弘前の両市を除いて、人口一万以上の町は、この辺には他に無い。善く言へば、活気のある町であり、悪く言へば、さわがしい町である。農村の匂ひは無く、都会特有の、あの孤独の戦慄がこれくらゐの小さい町にも既に幽かに忍びいつてゐる模様である。大袈裟な譬喩でわれながら閉口して申し上げるのであるが、かりに東京に例をとるならば、金木は小石川であり、五所川原は浅草、といつたやうなところでもあらうか。」

金木町は合併により五所川原市の一部になりました(2005年)。浅草は繁華街、金木は高級住宅地のイメージで語られていると思われます。

五所川原

上には「津軽」が執筆された時期から20年ほど経過した五所川原市中心街の動画を引用させていただきました。
大正時代とは違って着物を着ている人はほとんどいませんが、道が舗装されていなかったり、煙草を吸いながらバスに乗り込む人がいたりと、近年とも異なる風景が映っています。

「ここには、私の叔母がゐる。幼少の頃、私は生みの母よりも、この叔母を慕つてゐたので、実にしばしばこの五所川原の叔母の家へ遊びに来た。私は、中学校にはひるまでは、この五所川原と金木と、二つの町の他は、津軽の町に就いて、ほとんど何も知らなかつたと言つてよい。」

青森へ

「やがて、青森の中学校に入学試験を受けに行く時、それは、わづか三、四時間の旅であつた筈なのに、私にとつては非常な大旅行の感じで、その時の興奮を私は少し脚色して小説にも書いた事があつて、その描写は必ずしも事実そのままではなく、かなしいお道化の虚構に満ちてはゐるが、けれども、感じは、だいたいあんなものだつたと思つてゐる。」

「少し脚色して書いた小説」とは「おしゃれ童子」のことで「津軽」ではその部分を引用しています(以下)。
「すなはち、
『誰にも知られぬ、このやうな佗びしいおしやれは、年一年と工夫に富み、村の小学校を卒業して馬車にゆられ汽車に乗り十里はなれた県庁所在地の小都会へ、中学校の入学試験を受けるために出掛けたときの、そのときの少年の服装は、あはれに珍妙なものでありました。白いフランネルのシヤツは、よつぽど気に入つてゐたものとみえて、やはり、そのときも着てゐました。しかも、こんどのシヤツには蝶々の翅のやうな大きい襟がついてゐて、その襟を、夏の開襟シヤツの襟を背広の上衣の襟の外側に出してかぶせてゐるのと、そつくり同じ様式で、着物の襟の外側にひつぱり出し、着物の襟に覆ひかぶせてゐるのです。なんだか、よだれ掛けのやうにも見えます。でも、少年は悲しく緊張して、その風俗が、そつくり貴公子のやうに見えるだらうと思つてゐたのです。久留米絣に、白つぽい縞の、短い袴をはいて、それから長い靴下、編上のピカピカ光る黒い靴。それからマント。父はすでに歿し、母は病身ゆゑ、少年の身のまはり一切は、やさしい嫂の心づくしでした。少年は、嫂に怜悧に甘えて、むりやりシヤツの襟を大きくしてもらつて、嫂が笑ふと本気に怒り、少年の美学が誰にも解せられぬことを涙が出るほど口惜しく思ふのでした。『瀟洒、典雅。』少年の美学の一切は、それに尽きてゐました。いやいや、生きることのすべて、人生の目的全部がそれに尽きてゐました。マントは、わざとボタンを掛けず、小さい肩から今にも滑り落ちるやうに、あやふく羽織つて、さうしてそれを小粋な業(わざ)だと信じてゐました。どこから、そんなことを覚えたのでせう。おしやれの本能といふものは、手本がなくても、おのづから発明するものかも知れません。』
中学受験のため青森に出掛けたときの服装の記述(久留米絣に白い縞の短めの袴・・・)をもとに生成したAI画像が以下です。「貴公子のやう」にも少年漫画にでてくるヒーローのようにも見えます。多少の誇張はあったにしても、パーツの一つ一つが特徴的なため人目を引いたに違いありません。

出典:Google Gemini 2.5 Flashにより生成された画像、『久留米絣に白い縞の短めの袴、長い靴下、編み上げのピカピカ光る黒い靴、そして危うく肩掛けでマントを羽織った大正時代の少年』、生成日:2025年11月17日」

『(おしゃれ童子からの引用続き)ほとんど生れてはじめて都会らしい都会に足を踏みこむのでしたから、少年にとつては一世一代の凝つた身なりであつたわけです。興奮のあまり、その本州北端の一小都会に着いたとたんに少年の言葉つきまで一変してしまつてゐたほどでした。かねて少年雑誌で習ひ覚えてあつた東京弁を使ひました。けれども宿に落ちつき、その宿の女中たちの言葉を聞くと、ここもやつぱり少年の生れ故郷と全く同じ、津軽弁でありましたので、少年はすこし拍子抜けがしました。生れ故郷と、その小都会とは、十里も離れてゐないのでした。』」
以下には周辺では最も栄えていた青森市街の写真(大正4年頃)を引用いたしました。ここでは上の写真のような少年が東京弁を話しながら歩いているところを想像してみましょう。

出典:青森県 編『青森県写真帖』,青森県,大正4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/966069 (参照 2025-11-17)、青森市街
https://dl.ndl.go.jp/pid/966069/1/23

「この海岸の小都会は、青森市である。津軽第一の海港にしようとして、外ヶ浜奉行がその経営に着手したのは寛永元年である。ざつと三百二十年ほど前である。当時、すでに人家が千軒くらゐあつたといふ。それから近江、越前、越後、加賀、能登、若狭などとさかんに船で交通をはじめて次第に栄え、外ヶ浜に於いて最も殷賑の要港となり、明治四年の廃藩置県に依つて青森県の誕生すると共に、県庁所在地となつていまは本州の北門を守り、北海道函館との間の鉄道連絡船などの事に到つては知らぬ人もあるまい。現在戸数は二万以上、人口十万を越えてゐる様子であるが、旅人にとつては、あまり感じのいい町では無いやうである。たびたびの大火のために家屋が貧弱になつてしまつたのは致し方が無いとしても、旅人にとつて、市の中心部はどこか、さつぱり見当がつかない様子である。奇妙にすすけた無表情の家々が立ち並び、何事も旅人に呼びかけようとはしないやうである。旅人は、落ちつかぬ気持で、そそくさとこの町を通り抜ける。けれども私は、この青森市に四年ゐた。さうして、その四箇年は、私の生涯に於いて、たいへん重大な時期でもあつたやうである。その頃の私の生活に就いては、「思ひ出」といふ私の初期の小説にかなり克明に書かれてある。」
下には昭和4年頃の青森駅前繁華街(新町通り)の写真を引用いたしました。太宰が住んだのは大正12年~昭和1年頃。新町は寺町から青森駅に通じる通り沿いにあるため、太宰もこちらのような風景を見ていたのではないでしょうか。

出典:『青森』,青森市,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1105032 (参照 2025-11-17)、青森市新町通り
https://dl.ndl.go.jp/pid/1105032/1/12

「思ひ出」からの引用が続きます。
「『いい成績ではなかつたが、私はその春、中学校へ受験して合格した。私は、新しい袴と黒い沓下とあみあげの靴をはき、いままでの毛布をよして羅紗のマントを洒落者らしくボタンをかけずに前をあけたまま羽織つて、その海のある小都会へ出た。そして私のうちと遠い親戚にあたるそのまちの呉服店で旅装を解いた。入口にちぎれた古いのれんのさげてあるその家へ、私はずつと世話になることになつてゐたのである。
 私は何ごとにも有頂天になり易い性質を持つてゐるが、入学当時は銭湯へ行くのにも学校の制帽を被り、袴をつけた。そんな私の姿が往来の窓硝子にでも映ると、私は笑ひながらそれへ軽く会釈をしたものである。

 それなのに、学校はちつとも面白くなかつた。校舎は、まちの端れにあつて、しろいペンキで塗られ、すぐ裏は海峡に面したひらたい公園で、浪の音や松のざわめきが授業中でも聞えて来て、廊下も広く教室の天井も高くて、私はすべてにいい感じを受けたのだが、そこにゐる教師たちは私をひどく迫害したのである。
 私は入学式の日から、或る体操の教師にぶたれた。私が生意気だといふのであつた。この教師は入学試験のとき私の口答試問の係りであつたが、お父さんがなくなつてよく勉強もできなかつたらう、と私に情ふかい言葉をかけて呉れ、私もうなだれて見せたその人であつただけに、私のこころはいつそう傷つけられた。そののちも私は色んな教師にぶたれた。にやにやしてゐるとか、あくびをしたとか、さまざまな理由から罰せられた。授業中の私のあくびは大きいので職員室で評判である、とも言はれた。私はそんな莫迦げたことを話し合つてゐる職員室を、をかしく思つた。
 私と同じ町から来てゐる一人の生徒が、或る日、私を校庭の砂山の陰に呼んで、君の態度はじつさい生意気さうに見える、あんなに殴られてばかりゐると落第するにちがひない、と忠告して呉れた。私は愕然とした。その日の放課後、私は海岸づたひにひとり家路を急いだ。靴底を浪になめられつつ溜息ついて歩いた。洋服の袖で額の汗を拭いてゐたら、鼠色のびつくりするほど大きい帆がすぐ眼の前をよろよろととほつて行つた。』」
太宰治が通った青森中学校は下に引用したようなモダンな姿でした。

出典:青森県 編『青森県写真帖』,青森県,大正4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/966069 (参照 2025-11-15、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/pid/966069/1/45

現在はこちらの跡地は青森市営野球場となっていて、以下のストリートビューのように正門跡のみから当時の様子を想像することができます。

「この中学校は、いまも昔と変らず青森市の東端にある。ひらたい公園といふのは、合浦(がつぽ)公園の事である。さうしてこの公園は、ほとんど中学校の裏庭と言つてもいいほど、中学校と密着してゐた。私は冬の吹雪の時以外は、学校の行き帰り、この公園を通り抜け、海岸づたひに歩いた。謂はば裏路である。あまり生徒が歩いてゐない。」
下に引用したのは合浦公園の写真です。写真の奥側が海岸と思われます。ここでは橋を渡って海岸に向かう太宰少年の姿をイメージしておきます。

出典:青森県 編『青森県写真帖』,青森県,大正4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/966069 (参照 2025-11-13)、合浦公園
https://dl.ndl.go.jp/pid/966069/1/27

「私には、この裏路が、すがすがしく思はれた。初夏の朝は、殊によかつた。なほまた、私の世話になつた呉服店といふのは、寺町の豊田家である。二十代ちかく続いた青森市屈指の老舗である。ここのお父さんは先年なくなられたが、私はこのお父さんに実の子以上に大事にされた。忘れる事が出来ない。この二、三年来、私は青森市へ二、三度行つたが、その度毎に、このお父さんのお墓へおまゐりして、さうして必ず豊田家に宿泊させてもらふならはしである。」
「寺町の豊田家」の跡地には以下のストリートビューのような案内板が立っています。

参考のため、現在の合浦公園から豊田呉服店までの徒歩ルートを地図上に記しました(下図)。こちらでは最短の所要時間が36分になっていますが、海沿いを歩くと10分ほど長くなります。ここでは「靴底を浪になめられつつ」歩く太宰少年の姿をイメージしておきましょう。

再び、「思ひ出」からの引用となります。
「『私が三年生になつて、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかつて、私はしばらくぼんやりしてゐた。橋の下には隅田川に似た広い川がゆるゆると流れてゐた。全くぼんやりしてゐる経験など、それまでの私にはなかつたのである。うしろで誰か見てゐるやうな気がして、私はいつでも何かの態度をつくつてゐたのである。私のいちいちのこまかい仕草にも、彼は当惑して掌を眺めた、彼は耳の裏を掻きながら呟いた、などと傍から傍から説明句をつけてゐたのであるから、私にとつて、ふと、とか、われしらず、とかいふ動作はあり得なかつたのである。橋の上での放心から覚めたのち、私は寂しさにわくわくした。そんな気持のときには、私もまた、自分の来しかた行末を考へた。橋をかたかた渡りながら、いろんな事を思ひ出し、また夢想した。そして、おしまひに溜息ついてかう考へた。えらくなれるかしら。
 (中略)
 なにはさてお前は衆にすぐれてゐなければいけないのだ、といふ脅迫めいた考へからであつたが、じじつ私は勉強してゐたのである。三年生になつてからは、いつもクラスの首席であつた。てんとりむしと言はれずに首席となることは困難であつたが、私はそのやうな嘲りを受けなかつた許りか、級友を手ならす術まで心得てゐた。蛸といふあだなの柔道の主将さへ私には従順であつた。教室の隅に紙屑入の大きな壺があつて、私はときたまそれを指さして、蛸、つぼへはひらないかと言へば、蛸はその壺へ頭をいれて笑ふのだ。笑ひ声が壺に響いて異様な音をたてた。クラスの美少年たちもたいてい私になついてゐた。私が顔の吹出物へ、三角形や六角形や花の形に切つた絆創膏をてんてんと貼り散らしても誰も可笑しがらなかつた程なのである。
 私はこの吹出物には心をなやまされた。そのじぶんにはいよいよ数も殖えて、毎朝、眼をさますたびに掌で顔を撫でまはしてその有様をしらべた。いろいろな薬を買つてつけたが、ききめがないのである。私はそれを薬屋へ買ひに行くときには、紙きれへその薬の名を書いて、こんな薬がありますかつて、と他人から頼まれたふうにして言はなければいけなかつたのである。私はその吹出物を欲情の象徴と考へて眼の先が暗くなるほど恥しかつた。いつそ死んでやつたらと思ふことさへあつた。私の顔に就いてのうちの人たちの不評判も絶頂に達してゐた。他家へとついでゐた私のいちばん上の姉は、治のところへは嫁に来るひとがあるまい、とまで言つてゐたさうである。私はせつせと薬をつけた。』」
以下には「夏草冬濤」で増田も常用していた「にきびとり美顔水」の広告を引用しました(夏草冬濤の風景その6・参照)。太宰もこちらの薬を試していたかもしれません。

出典:『[大阪朝日新聞関東大震災記事集]』第14989至15018号(大正12年9月),大阪朝日新聞,大正12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1014322 (参照 2025-11-18)、にきびとり美顔水
https://dl.ndl.go.jp/pid/1014322/1/48

「『弟も私の吹出物を心配して、なんべんとなく私の代りに薬を買ひに行つて呉れた。私と弟とは子供のときから仲がわるくて、弟が中学へ受験する折にも、私は彼の失敗を願つたほどであつたけれど、かうしてふたりで故郷から離れて見ると、私にも弟のよい気質がだんだん判つて来たのである。弟は大きくなるにつれて無口で内気になつてゐた。私たちの同人雑誌にもときどき小品文を出してゐたが、みんな気の弱々した文章であつた。私にくらべて学校の成績がよくないのを絶えず苦にしてゐて、私がなぐさめでもするとかへつて不気嫌になつた。また、自分の額の生えぎはが富士のかたちになつて女みたいなのをいまいましがつてゐた。額がせまいから頭がこんなに悪いのだと固く信じてゐたのである。私はこの弟にだけはなにもかも許した。私はその頃、人と対するときには、みんな押し隠して了ふか、みんなさらけ出して了ふか、どちらかであつたのである。私たちはなんでも打ち明けて話した。』」
下には中学に入学した年(1923年)の太宰治の写真(右上)を引用いたします。また、その左に写っているのは3歳下の弟・礼治です。礼治は太宰と同じく「寺町の豊田家」から青森中学に通い、太宰の同人誌(蜃気楼)にも参加しました。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons、津島家の兄弟たち(左から、圭治、礼治、文治、修治(後の太宰治)、英治)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tsushimabrothers1923.png

「『秋のはじめの或る月のない夜に、私たちは港の桟橋へ出て、海峡を渡つてくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い糸について話合つた。それはいつか学校の国語の教師が授業中に生徒へ語つて聞かせたことであつて、私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い糸がむすばれてゐて、それがするすると長く伸びて一方の端がきつと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられてゐるのである。ふたりがどんなに離れてゐてもその糸は切れない、どんなに近づいても、たとひ往来で逢つても、その糸はこんぐらかることがない、さうして私たちはその女の子を嫁にもらふことにきまつてゐるのである。私はこの話をはじめて聞いたときには、かなり興奮して、うちへ帰つてからもすぐ弟に物語つてやつたほどであつた。私たちはその夜も、波の音や、かもめの声に耳傾けつつ、その話をした。お前のワイフは今ごろどうしてるべなあ、と弟に聞いたら、弟は桟橋のらんかんを二三度両手でゆりうごかしてから、庭あるいてる、ときまり悪げに言つた。大きい庭下駄をはいて、団扇をもつて、月見草を眺めてゐる少女は、いかにも弟と似つかはしく思はれた。私のを語る番であつたが、私は真暗い海に眼をやつたまま、赤い帯しめての、とだけ言つて口を噤んだ。海峡を渡つて来る連絡船が、大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部屋へ黄色いあかりをともして、ゆらゆらと水平線から浮んで出た。』」
以下には青森港の桟橋周辺の写真を引用いたしました。
ここではこちらの桟橋の上にいる人たちに連絡船を眺める兄弟の姿を重ねてみましょう。

出典:西田繁造 編『日本名勝旧蹟産業写真集』奥羽・中部地方之部,富田屋書店,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/967083 (参照 2025-11-17)、青森港桟橋
https://dl.ndl.go.jp/pid/967083/1/25

「この弟は、それから二、三年後に死んだが、当時、私たちは、この桟橋に行く事を好んだ。冬、雪の降る夜も、傘をさして弟と二人でこの桟橋に行つた。深い港の海に、雪がひそひそ降つてゐるのはいいものだ。最近は青森港も船舶輻湊して、この桟橋も船で埋つて景色どころではない。
それから、隅田川に似た広い川といふのは、青森市の東部を流れる堤川の事である。すぐに青森湾に注ぐ。川といふものは、海に流れ込む直前の一箇所で、奇妙に躊躇して逆流するかのやうに流れが鈍くなるものである。私はその鈍い流れを眺めて放心した。きざな譬へ方をすれば、私の青春も川から海へ流れ込む直前であつたのであらう。青森に於ける四年間は、その故に、私にとつて忘れがたい期間であつたとも言へるであらう。」

浅虫温泉

「青森に就いての思ひ出は、だいたいそんなものだが、この青森市から三里ほど東の浅虫といふ海岸の温泉も、私には忘れられない土地である。やはりその「思ひ出」といふ小説の中に次のやうな一節がある。」
以下には昭和初期の浅虫温泉街の全景写真を引用します。
海に浮かんでいるのは浅虫のシンボル・湯の島です。
なお、内田百閒も「第一阿房列車」でこちらに立ち寄っています、島のことが気になった先生は、仲居さんに「あの島は動くかい」などと質問していました(阿房列車の風景1その6・参照)。

出典:鉄道省 編『景観を尋ねて』,鉄道省,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1209902 (参照 2025-11-14)、浅虫温泉
https://dl.ndl.go.jp/pid/1209902/1/56

「『秋になつて、私はその都会から汽車で三十分くらゐかかつて行ける海岸の温泉地へ、弟をつれて出掛けた。そこには、私の母と病後の末の姉とが家を借りて湯治してゐたのだ。私はずつとそこへ寝泊りして、受験勉強をつづけた。私は秀才といふぬきさしならぬ名誉のために、どうしても、中学四年から高等学校へはひつて見せなければならなかつたのである。私の学校ぎらひはその頃になつて、いつそうひどかつたのであるが、何かに追はれてゐる私は、それでも一途に勉強してゐた。私はそこから汽車で学校へかよつた。日曜毎に友人たちが遊びに来るのだ。私は友人たちと必ずピクニツクにでかけた。海岸のひらたい岩の上で、肉鍋をこさへ、葡萄酒をのんだ。弟は声もよくて多くのあたらしい歌を知つてゐたから、私たちはそれらを弟に教へてもらつて、声をそろへて歌つた。遊びつかれてその岩の上で眠つて、眼がさめると潮が満ちて陸つづきだつた筈のその岩が、いつか離れ島になつてゐるので、私たちはまだ夢から醒めないでゐるやうな気がするのである。』」
下は昭和6年ころの浅虫海岸の写真です。奥の島の近くには岩場が多くあり、もしかしたら太宰たちがピクニックをした「ひらたい岩」も写っているかもしれません。

出典:忠誠堂編輯部 編『日本名勝風俗大写真帖』,忠誠堂,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12984526 (参照 2025-11-18)、浅虫海岸
https://dl.ndl.go.jp/pid/12984526/1/46

こちらで太宰たちはどんな歌を歌っていたのでしょうか。以下には大正時代に流行した「東京節」を引用させていただきました。

「いよいよ青春が海に注ぎ込んだね、と冗談を言つてやりたいところでもあらうか。この浅虫の海は清冽で悪くは無いが、しかし、旅館は、必ずしもよいとは言へない。寒々した東北の漁村の趣は、それは当然の事で、決してとがむべきではないが、それでゐて、井の中の蛙が大海を知らないみたいな小さい妙な高慢を感じて閉口したのは私だけであらうか。」
下には太宰が宿泊したとされる「椿館」のインスタグラムを引用させていただきました。こちらは温泉だけでなく、棟方志功の作品が数多く展示されている旅館としても有名です。

「自分の故郷の温泉であるから、思ひ切つて悪口を言ふのであるが、田舎のくせに、どこか、すれてゐるやうな、妙な不安が感ぜられてならない。私は最近、この温泉地に泊つた事はないけれども、宿賃が、おやと思ふほど高くなかつたら幸ひである。これは明らかに私の言ひすぎで、私は最近に於いてここに宿泊した事は無く、ただ汽車の窓からこの温泉町の家々を眺め、さうして貧しい芸術家の小さい勘(かん)でものを言つてゐるだけで、他には何の根拠も無いのであるから、私は自分のこの直覚を読者に押しつけたくはないのである。むしろ読者は、私の直覚など信じないはうがいいかも知れない。」
以下には、もう一軒、太宰が宿泊したとされる「つるの湯(鶴の湯)」周辺のストリートビューを引用いたしました。

「浅虫も、いまは、つつましい保養の町として出発し直してゐるに違ひないと思はれる。ただ、青森市の血気さかんな粋客たちが、或る時期に於いて、この寒々した温泉地を奇怪に高ぶらせ、宿の女将をして、熱海、湯河原の宿もまたまさにかくの如きかと、茅屋にゐて浅墓の幻影に酔はせた事があるのではあるまいかといふ疑惑がちらと脳裡をかすめて、旅のひねくれた貧乏文士は、最近たびたび、この思ひ出の温泉地を汽車で通過しながら、敢へて下車しなかつたといふだけの話なのである。」

旅行などの情報

斜陽館

太宰治の生家は現在、太宰治記念館「斜陽館」として公開されています。明治40年(1907年)に太宰の父・津島源右衛門が建てた和洋折衷の豪邸で、いたるところに青森ひばが使用された頑丈なつくりが特徴です。館内には蔵を利用した展示室が設けられ、太宰が着用したマントや筆記用具などの愛用品、原稿や初版本といった貴重な品々を鑑賞できます。

また、上に引用させていただいたような庭園もあり、季節ごとに変わる景色も魅力の一つです。また、斜陽館向かいの金木観光物産館では名物グルメやお土産探しをお楽しみください。

基本情報

【住所】青森県五所川原市金木町朝日山412-1
【アクセス】津軽鉄道金木駅から徒歩約7分
【参考URL】https://www.city.goshogawara.lg.jp/kyouiku/bunka/syayokan.html

浅虫温泉・椿館

太宰治が宿泊したとされる浅虫温泉の旅館です。板画家の棟方志功が家族で宿泊し、貴重な肉筆画をこちらの旅館に残したとのこと。菩薩や鯉などの迫力のある肉筆画が飾られた立派なギャラリーがあります。以下には公式SNSからギャラリーの写真を引用させていただきました。

こちらの源泉は肌の弱い人にも安心の単純温泉で湯冷めしにくいのが特徴です。浴槽も広い内湯と露天風呂、サウナを完備しているので、ゆったりと過ごすことができます。夕食のメニューは地元の海鮮や黒毛和牛の焼きしゃぶなど、地酒の種類も豊富で贅沢な気分を味わえるでしょう。

基本情報

【住所】青森県青森市浅虫内野14
【アクセス】青い森鉄道浅虫温泉駅から徒歩約6分
【参考URL】https://www.aomori-tsubakikan.com/