太宰治「津軽」の風景(その5)

観瀾山の花見

蟹田に到着した次の日、N君やT君たちと観瀾山に登った太宰は、山頂からの景色を観察しながら蟹田の豊かさについて思いを馳せました。また、津軽名物としては比較的新しい林檎より藩の財政を担った扁柏(ヒバ)推しという持論を展開。穏やかな天気のもとで蟹やシャコの入ったお弁当を開き、花見を楽しみました。

出典:青空文庫、津軽、底本: 太宰治全集第六巻、出版社: 筑摩書房、入力: 八巻美恵氏
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html

本編・蟹田

観瀾山へ

「翌る朝、眼をさますと、青森市のT君の声が聞えた。約束どほり、朝の一番のバスでやつて来てくれたのだ。私はすぐにはね起きた。T君がゐてくれると、私は、何だか安心で、気強いのである。T君は、青森の病院の、小説の好きな同僚の人をひとり連れて来てゐた。また、その病院の蟹田分院の事務長をしてゐるSさんといふ人も一緒に来てゐた。私が顔を洗つてゐる間に、三厩の近くの今別から、Mさんといふ小説の好きな若い人も、私が蟹田に来る事をN君からでも聞いてゐたらしく、はにかんで笑ひながらやつて来られた。Mさんは、N君とも、またT君とも、Sさんとも旧知の間柄のやうである。これから、すぐ皆で、蟹田の山へ花見に行かうといふ相談が、まとまつた様子である。
 観瀾山(くわんらんざん)。私はれいのむらさきのジヤンパーを着て、緑色のゲートルをつけて出掛けたのであるが、そのやうなものものしい身支度をする必要は全然なかつた。その山は、蟹田の町はづれにあつて、高さが百メートルも無いほどの小山なのである。」
下には観瀾山付近のストリートビューを引用いたしました。赤い鳥居が登山口となっています。ここではむらさきのジヤンパーを着た太宰(津軽の風景その3・参照)がN君やT君、Mさん、Sさんとともに登っていく後ろ姿をイメージしてみましょう。

「けれども、この山からの見はらしは、悪くなかつた。その日は、まぶしいくらゐの上天気で、風は少しも無く、青森湾の向うに夏泊岬が見え、また、平館海峡をへだてて下北半島が、すぐ真近かに見えた。東北の海と言へば、南方の人たちは或いは、どす暗く険悪で、怒濤逆巻く海を想像するかも知れないが、この蟹田あたりの海は、ひどく温和でさうして水の色も淡く、塩分も薄いやうに感ぜられ、磯の香さへほのかである。雪の溶け込んだ海である。ほとんどそれは湖水に似てゐる。深さなどに就いては、国防上、言はぬはうがいいかも知れないが、浪は優しく砂浜を嬲つてゐる。」
下に引用したのは観瀾山海水浴場の写真です。太宰が見ていたのもこちらのような透明度の高い海だったでしょうか。

出典:写真AC、青森  津軽 外ヶ浜町 観瀾山海水浴場
https://www.photo-ac.com/main/detail/24326940?title=%E9%9D%92%E6%A3%AE%E3%80%80+%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E3%80%80%E5%A4%96%E3%83%B6%E6%B5%9C%E7%94%BA%E3%80%80%E8%A6%B3%E7%80%BE%E5%B1%B1%E6%B5%B7%E6%B0%B4%E6%B5%B4%E5%A0%B4

「さうして海浜のすぐ近くに網がいくつも立てられてゐて、蟹をはじめ、イカ、カレヒ、サバ、イワシ、鱈、アンカウ、さまざまの魚が四季を通じて容易に捕獲できる様子である。この町では、いまも昔と変らず、毎朝、さかなやがリヤカーにさかなを一ぱい積んで、イカにサバだぢやあ、アンカウにアオバだぢやあ、スズキにホツケだぢやあ、と怒つてゐるやうな大声で叫んで、売り歩いてゐるのである。さうして、この辺のさかなやは、その日にとれたさかなばかりを売り歩いて、前日の売れ残りは一さい取扱はないやうである。よそへ送つてしまふのかも知れない。だから、この町の人たちは、その日にとれた生きたさかなばかり食べてゐるわけであるが、しかし、海が荒れたりなどしてたつた一日でも漁の無かつた時には、町中に一尾のなまざかなも見当らず、町の人たちは、干物と山菜で食事をしてゐる。これは、蟹田に限らず、外ヶ浜一帯のどの漁村でも、また、外ヶ浜だけとも限らず、津軽の西海岸の漁村に於いても、全く同様である。蟹田はまた、頗る山菜にめぐまれてゐるところのやうである。蟹田は海岸の町ではあるが、また、平野もあれば、山もある。」

上の航空写真で東西を流れているのが蟹田川です。このように川の両岸には平地となっていて、農作物を収穫することができました。
「津軽半島の東海岸は、山がすぐ海岸に迫つてゐるので、平野は乏しく、山の斜面に田や畑を開墾してゐるところも少くない状態なので、山を越えて津軽半島西部の広い津軽平野に住んでゐる人たちは、この外ヶ浜地方を、カゲ(山の陰かげの意)と呼んで、多少、あはれんでゐる傾向が無いわけでもないやうに思はれる。けれども、この蟹田地方だけは、決して西部に劣らぬ見事な沃野を持つてゐるのだ。西部の人たちに、あはれまれてゐると知つたら、蟹田の人たちは、くすぐつたく思ふだらう。蟹田地方には、蟹田川といふ水量ゆたかな温和な川がゆるゆると流れてゐて、その流域に田畑が広く展開してゐるのである。ただこの地方には、東風も、西風も強く当るので不作のとしも少くないやうであるが、しかし、西部の人たちが想像してゐるほど、土地が痩せてはゐないのである。観瀾山から見下すと、水量たつぷりの蟹田川が長蛇の如くうねつて、その両側に一番打のすんだ水田が落ちつき払つて控へてゐて、ゆたかな、たのもしい景観をなしてゐる。」

林檎と扁柏(ひば)

「山は奥羽山脈の支脈の梵珠(ぼんじゆ)山脈である。この山脈は津軽半島の根元(ねもと)から起つてまつすぐに北進して半島の突端の竜飛岬まで走つて海にころげ落ちる。二百メートルから三、四百メートルくらゐの低い山々が並んで、観瀾山からほぼまつすぐ西に青く聳えてゐる大倉岳は、この山脈に於いて増川岳などと共に最高の山の一つなのであるが、それとて、七百メートルあるかないかくらゐのものなのである。けれども、山高きが故に貴からず、樹木あるが故に貴し、とか、いやに興覚めなハツキリした事を断言してはばからぬ実利主義者もあるのだから、津軽の人たちは、敢へてその山脈の低きを恥ぢる必要もあるまい。」
「梵珠山脈」は近年の地図では「津軽山地」と記述されることが多いようです。下には昭和10年発行「青森市研究」に掲載された地形図の抜粋の引用いたしました。

出典:青森市 編『青森市研究』,青森市,昭和10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1258438 (参照 2025-12-02)、青森市付近地形図
https://dl.ndl.go.jp/pid/1258438/1/24

「この山脈は、全国有数の扁柏(ひば)の産地である。その古い伝統を誇つてよい津軽の産物は、扁柏である。林檎なんかぢやないんだ。林檎なんてのは、明治初年にアメリカ人から種をもらつて試植し、それから明治二十年代に到つてフランスの宣教師からフランス流の剪定法を教はつて、俄然、成績を挙げ、それから地方の人たちもこの林檎栽培にむきになりはじめて、青森名産として全国に知られたのは、大正にはひつてからの事で、まさか、東京の雷おこし、桑名の焼はまぐりほど軽薄な『産物』でも無いが、紀州の蜜柑などに較べると、はるかに歴史は浅いのである。」
津軽がりんごの名産地となったのは、明治8年に菊池楯衛氏が津軽の旧士族などに西洋りんごの苗木を配布し栽培技術を広めたのがきっかけとされています。下には「青森りんごの始祖」とも呼ばれる菊池楯衛氏の写真を引用いたしました。

出典:菊池秋雄 編『陸奥弘前後凋園主菊池楯衛遺稿』,菊池秋雄,昭和13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1143113 (参照 2025-12-01)、菊池楯衛肖像と署名
https://dl.ndl.go.jp/pid/1143113/1/3

「関東、関西の人たちは、津軽と言へばすぐに林檎を思ひ出し、さうしてこの扁柏林に就いては、あまり知らないやうに見受けられる。青森県といふ名もそこから起つたのではないかと思はれるほど、津軽の山々には樹木が枝々をからませ合つて冬もなほ青く繁つてゐる。」

「青森ヒバ」は秋田スギや木曽ヒノキと並んで日本三大美林の一つとされています。こちらは日本の古くから自生する品種で、湿気に強くシロアリやカビなどの被害も少ないため建材として利用されてきました。江戸時代になると津軽藩の財源として保護され、一時期は民家の建築用材としての使用は許されなかったようです。

「昔から、日本三大森林地の一つとして数へられてゐるやうであつて、昭和四年版の日本地理風俗大系にも、『そもそも、この津軽の大森林は遠く津軽藩祖為信の遺業に因し、爾来、厳然たる制度の下に今日なほその鬱蒼をつづけ、さうしてわが国の模範林制と呼ばれてゐる。はじめ天和、貞享の頃、津軽半島地方に於いて、日本海岸の砂丘数里の間に植林を行ひ、もつて潮風を防ぎ、またもつて岩木川下流地方の荒蕪開拓に資した。爾来、藩にてはこの方針を襲ひ、鋭意植林に努めた結果、寛永年間にはいはゆる屏風樹林の成木を見て、またこれに依つて耕地八千三百余町歩の開墾を見るに到つた。それより、藩内の各地は頻りに造林につとめ、百有余所の大藩有林を設けるに及んだ。かくて明治時代に到つても、官庁は大いに林政に注意し、青森県扁柏林の好評は世に嘖々として聞える。けだしこの地方の材質は、よく各種の建築土木の用途に適し、殊に水湿に耐へる特性を有すると、材木の産出の豊富なると、またその運搬に比較的便利なるとをもつて重宝がられ、年産額八十万石。』と記されてあるが、これは昭和四年版であるから、現在の産額はその三倍くらゐになつてゐると思はれる。」
明治時代になると青森ヒバは裕福な家の建材として盛んに使われました。太宰治の生家(斜陽館)もその一つですが、こちらには米蔵にまで青森ヒバが使われているとのことです。下には斜陽館の内部の写真を引用いたしました。

出典:Ippukucho, CC BY 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by/3.0, via Wikimedia Commons、太宰治記念館 「斜陽館」室内の様子、1階東側の板の間(2012年5月)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ShayokanIndoor1.JPG

「けれども、以上は、津軽地方全体の扁柏林に就いての記述であつて、これを以つて特別に蟹田地方だけの自慢となす事は出来ないが、しかし、この観瀾山から眺められるこんもり繁つた山々は、津軽地方に於いても最もすぐれた森林地帯で、れいの日本地理風俗大系にも、蟹田川の河口の大きな写真が出てゐて、さうして、その写真には、『この蟹田川附近には日本三美林の称ある扁柏の国有林があり、蟹田町はその積出港としてなかなか盛んな港で、ここから森林鉄道が海岸を離れて山に入り、毎日多くの材木を積んでここに運び来るのである。この地方の木材は良質でしかも安価なので知られてゐる。』といふ説明が附せられてある。蟹田の人たちは誇らじと欲するも得べけんやである。しかも、この津軽半島の脊梁をなす梵珠山脈は、扁柏ばかりでなく、杉、山毛欅ぶな、楢、桂、橡、カラ松などの木材も産し、また、山菜の豊富を以て知られてゐるのである。半島の西部の金木地方も、山菜はなかなか豊富であるが、この蟹田地方も、ワラビ、ゼンマイ、ウド、タケノコ、フキ、アザミ、キノコの類が、町のすぐ近くの山麓から実に容易にとれるのである。」

日本地理風俗大系の「蟹田川の河口の大きな写真」は国会図書館デジタルコレクション(日本地理風俗大系第2改訂版、誠文堂新光社、P232)で見ることができます。中央に写っているのは蟹田橋で、こちらまでは以下に引用したような津軽森林鉄道が運んでいました。

出典:森林鉄道、林野庁(農林水産省) (https://www.rinya.maff.go.jp/j/kouhou/eizou/sinrin_tetsudou.html) (25年12月2日に利用)

「このやうに蟹田町は、田あり畑あり、海の幸、山の幸にも恵まれて、それこそ鼓腹撃壌の別天地のやうに読者には思はれるだらうが、しかし、この観瀾山から見下した蟹田の町の気配は、何か物憂い。活気が無いのだ。いままで私は蟹田をほめ過ぎるほど、ほめて書いて来たのであるから、ここらで少し、悪口を言つたつて、蟹田の人たちはまさか私を殴りやしないだらうと思はれる。蟹田の人たちは温和である。温和といふのは美徳であるが、町をもの憂くさせるほど町民が無気力なのも、旅人にとつては心細い。天然の恵みが多いといふ事は、町勢にとつて、かへつて悪い事ではあるまいかと思はせるほど、蟹田の町は、おとなしく、しんと静まりかへつてゐる。河口の防波堤も半分つくりかけて投げ出したやうな形に見える。家を建てようとして地ならしをして、それつきり、家を建てようともせずその赤土の空地にかぼちやなどを植ゑてゐる。観瀾山から、それが全部見えるといふわけではないが、蟹田には、どうも建設の途中で投げ出した工事が多すぎるやうに思はれる。」

国会図書館デジタルコレクション(日本地理風俗大系第2改訂版、誠文堂新光社、P232)の蟹田川の写真の下には外ヶ浜街道の俯瞰写真も掲載されています。こちらから「蟹田には、どうも建設の途中で投げ出した工事が多すぎるやうに思はれる。」という風景を想像してみましょう。

観瀾山についてはさらに、登山情報サイト「YAMAP」の活動日記を引用させていだきました。

観瀾山&TORIP🐦 / スローライフ!さんの活動データ | YAMAP / ヤマップ

写真(7/25)は観瀾山から見た蟹田の町の様子です。また、写真(11/25)に写っている「太宰治文学碑」はN君(中村貞次郎氏)の尽力により昭和31年に建立されました。碑文には太宰の作品「正義と微笑」から「かれは人を喜ばせるのが何よりも好きであった!」という一文が引用されています。

なお、文学碑が建立されたころ(昭和31年)の観瀾山からの風景も国立国会図書館デジタルコレクション(太宰治文学アルバム、広論社、P170)で見ることができます(こちらもログインが必要となります)。

文士の政談

「町政の溌剌たる推進をさまたげる妙な古陋の策動屋みたいなものがゐるんぢやないか、と私はN君に尋ねたら、この若い町会議員は苦笑して、よせ、よせ、と言つた。つつしむべきは士族の商法、文士の政談。私の蟹田町政に就いての出しやばりの質問は、くろうとの町会議員の憫笑を招来しただけの馬鹿らしい結果に終つた。それに就いて、すぐ思ひ出される話はドガの失敗談である。フランス画壇の名匠エドガア・ドガは、かつてパリーの或る舞踊劇場の廊下で、偶然、大政治家クレマンソオと同じ長椅子に腰をおろした。」

出典:Nadar, Public domain, via Wikimedia Commons、ジョルジュ・クレマンソー (ナダールによる撮影)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Georges_Clemenceau_Nadar.jpg

「ドガは遠慮も無く、かねて自己の抱懐してゐた高邁の政治談をこの大政治家に向つて開陳した。『私が、もし、宰相となつたならば、ですね、その責任の重大を思ひ、あらゆる恩愛のきづなを断ち切り、苦行者の如く簡易質素の生活を選び、役所のすぐ近くのアパートの五階あたりに極めて小さい一室を借り、そこには一脚のテーブルと粗末な鉄の寝台があるだけで、役所から帰ると深夜までそのテーブルに於いて残務の整理をし、睡魔の襲ふと共に、服も靴もぬがずに、そのままベツドにごろ寝をして、翌る朝、眼が覚めると直ちに立つて、立つたまま鶏卵とスープを喫し、鞄をかかへて役所へ行くといふ工合の生活をするに違ひない!』と情熱をこめて語つたのであるが、クレマンソオは一言も答へず、ただ、なんだか全く呆れはてたやうな軽蔑の眼つきで、この画壇の巨匠の顔を、しげしげと見ただけであつたといふ。ドガ氏も、その眼つきには参つたらしい。よつぽど恥かしかつたと見えて、その失敗談は誰にも知らせず、十五年経つてから、彼の少数の友人の中でも一ばんのお気に入りだつたらしいヴアレリイ氏にだけ、こつそり打ち明けたのである。十五年といふひどく永い年月、ひた隠しに隠してゐたところを見ると、さすが傲慢不遜の名匠も、くろうと政治家の無意識な軽蔑の眼つきにやられて、それこそ骨のずいまでこたへたものがあつたのであらうと、そぞろ同情の念の胸にせまり来るを覚えるのである。とかく芸術家の政治談は、怪我のもとである。ドガ氏がよいお手本である。」
下にはドガの名作「バレエのレッスン」を引用いたしました。彼の性格についてウィキペディア(エドガー・ドガ)では「ひどく気難しく皮肉屋な性格のため、画家仲間との衝突が絶えなかった」と記しています。

出典:Edgar Degas, Public domain, via Wikimedia Commons、バレエのレッスン(1874年頃、オルセー美術館所蔵)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Degas-_La_classe_de_danse_1874.jpg

「一個の貧乏文士に過ぎない私は、観瀾山の桜の花や、また津軽の友人たちの愛情に就いてだけ語つてゐるはうが、どうやら無難のやうである。」

風の町・蟹田

「その前日には西風が強く吹いて、N君の家の戸障子をゆすぶり、『蟹田つてのは、風の町だね。』と私は、れいの独り合点の卓説を吐いたりなどしてゐたものだが、けふの蟹田町は、前夜の私の暴論を忍び笑ふかのやうな、おだやかな上天気である。そよとの風も無い。」

こちらのエリアは春から夏にかけて、ヤマセ(偏東風)という冷たくて湿った風が吹くことがあり、冷害の原因となることもあるそうです。なお、太宰が何気なく言った(?)「風の町」は現在も蟹田のキャッチコピーになっていて、蟹田駅の太宰の記念碑にも記されています。

出典:Bakkai, CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/, via Wikimedia Commons、海峡線開通を記念し、蟹田駅2・3番線に立てられたボード。蟹田を舞台の一つとする太宰治の小説『津軽』の一節「蟹田ってのは風の町だね」を刻んである。なお、太宰が『津軽』を執筆した時点では、当駅のある津軽線は未開通。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kanita_stn_Dazai-Tsugaru-Kb.jpg

「観瀾山の桜は、いまが最盛期らしい。静かに、淡く咲いてゐる。爛漫といふ形容は、当つてゐない。花弁も薄くすきとほるやうで、心細く、いかにも雪に洗はれて咲いたといふ感じである。違つた種類の桜かも知れないと思はせる程である。ノヴアリスの青い花も、こんな花を空想して言つたのではあるまいかと思はせるほど、幽かな花だ。私たちは桜花の下の芝生にあぐらをかいて坐つて、重箱をひろげた。」
下には観瀾山の桜の写真を引用させていただきました。太宰がこちらのような可憐な花を眺めながら食事をする様子を想像してみましょう。

「これは、やはり、N君の奥さんのお料理である。他に、蟹とシヤコが、大きい竹の籠に一ぱい。それから、ビール。私はいやしく見られない程度に、シヤコの皮をむき、蟹の脚をしやぶり、重箱のお料理にも箸をつけた。重箱のお料理の中では、ヤリイカの胴にヤリイカの透明な卵をぎゆうぎゆうつめ込んで、そのままお醤油の附焼きにして輪切りにしてあつたのが、私にはひどくおいしかつた。」

出典:https://www.bbc.com/burmese/in-depth-54963883, Public domain, via Wikimedia Commons、バー・モウとキンママモウ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ba_Maw_and_Khin_Ma_Ma_Maw.jpg

「帰還兵のT君は、暑い暑いと言つて上衣を脱ぎ半裸体になつて立ち上り、軍隊式の体操をはじめた。タオルの手拭ひで向う鉢巻きをしたその黒い顔は、ちよつとビルマのバーモオ長官に似てゐた。」
T君は上に引用したバーモオ長官のような雰囲気だったでしょうか。

旅行などの情報

観瀾山公園

太宰たちが花見をした「観瀾山」は、1923年(大正12年)に久邇宮邦久殿下がこちらを訪問されたときに、その眺望を称賛して名付けられたとのことです。標高40mほどの低山のため、階段を上ると数分で山頂に到着できます。途中には中師稲荷神社が鎮座し山頂付近には太宰治文学碑や蟹田台場跡、久邇宮殿下お手植えの松などが点在しています。

登山口の近くには上のストリートビューのような風の町交流プラザ「トップマスト」があります。こちらは下北半島へ渡る「むつ湾フェリー」のターミナルで食事処も併設、地上30mの展望台からのむつ湾の景色も必見です。売店では地元の特産物はもちろん津軽や下北の名物も扱っているので覗いてみてください。

基本情報

【住所】青森県東津軽郡外ヶ浜町蟹田中師舘ノ沢
【アクセス】蟹田駅から徒歩で約20分
【参考URL】https://www.town.sotogahama.lg.jp/kanko/spot/spot_kanita.html