太宰治「津軽」の風景(その6)
他の小説家を罵倒
観瀾山での花見は最初は穏やかなものでしたが、太宰が「或る五十年配の作家」を罵倒すると重苦しい雰囲気になっていきました。地元のSさんが予約した「Eといふ旅館」に場所を変えて豪華な料理を堪能した後、太宰たちは彼の自宅に招待されます。Sさん宅では津軽人ならではの過剰な接待を受けることになり・・・・・・
出典:青空文庫、津軽、底本: 太宰治全集第六巻、出版社: 筑摩書房、入力: 八巻美恵氏
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html
本編・蟹田(その3)
観瀾山での花見(続き)
「その日、集つた人たちは、情熱の程度に於いてはそれぞれ少しづつ相違があつたやうであるが、何か小説に就いての述懐を私から聞き出したいやうな素振りを見せた。私は問はれただけの事は、ハツキリ答へた。『問に答へざるはよろしからず。』といふれいの芭蕉翁の行脚の掟にしたがつたわけであるが、しかし、他のもつと重大な箇条には見事にそむいてしまつた。一、他の短を挙げて、己が長を顕すことなかれ。人を譏りておのれに誇るは甚だいやし。私はその、甚だいやしい事を、やつちやつた。芭蕉だつて、他門の俳諸の悪口は、チクチク言つたに違ひないのであるが、けれども流石に私みたいに、たしなみも何も無く、眉をはね上げ口を曲げ、肩をいからして他の小説家を罵倒するなどといふあさましい事はしなかつたであらう。私は、にがにがしくも、そのあさましい振舞ひをしてしまつたのである。」
出典:Google Gemini 2.5 Flashにより生成された画像、「『昭和時代初期、5人の男性が高台の芝生に筵を敷き、お弁当を食べながら花見をしている。』などのキーワードで作成、生成日:2025年12月3日」
上には観瀾山での花見をイメージしたAI画像を掲載いたします。最初はこのように和やかに飲んでいましたが・・・。
「或る五十年配の作家」を批判・・・宴が荒れる
「日本の或る五十年配の作家の仕事に就いて問はれて、私は、そんなによくはない、とつい、うつかり答へてしまつたのである。最近、その作家の過去の仕事が、どういふわけか、畏敬に近いくらゐの感情で東京の読書人にも迎へられてゐる様子で、神様、といふ妙な呼び方をする者なども出て来て、その作家を好きだと告白する事は、その読書人の趣味の高尚を証明するたづきになるといふへんな風潮さへ瞥見せられて、それこそ、贔屓の引きだふしと言ふもので、その作家は大いに迷惑して苦笑してゐるのかも知れないが、しかし、私はかねてその作家の奇妙な勢威を望見して、れいの津軽人の愚昧なる心から、『かれは賤しきものなるぞ、ただ時の武運つよくして云々。』と、ひとりで興奮して、素直にその風潮に従ふ事は出来なかつた。」
「津軽」に登場する「五十年配の作家」とは志賀直哉とされています。対象を正確にとらえた無駄のない文章には定評があり「小説の神様」とも称されました。
出典:瀧井孝作 (Kōsaku TAKII, 1894-1984), Public domain, via Wikimedia Commons、志賀直哉。東京・諏訪町の自宅にて。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shiga_Naoya_1938.jpg
「さうして、このごろに到つて、その作家の作品の大半をまた読み直してみて、うまいなあ、とは思つたが、格別、趣味の高尚は感じなかつた。かへつて、エゲツナイところに、この作家の強みがあるのではあるまいかと思つたくらゐであつた。書かれてある世界もケチな小市民の意味も無く気取つた一喜一憂である。作品の主人公は、自分の生き方に就いてときどき『良心的』な反省をするが、そんな箇所は特に古くさく、こんなイヤミな反省ならば、しないはうがよいと思はれるくらゐで、『文学的』な青臭さから離れようとして、かへつて、それにはまつてしまつてゐるやうなミミツチイものが感ぜられた。ユウモアを心掛けてゐるらしい箇所も、意外なほどたくさんあつたが、自分を投げ出し切れないものがあるのか、つまらぬ神経が一本ビクビク生きてゐるので読者は素直に笑へない。貴族的、といふ幼い批評を耳にした事もあつたが、とんでもない事で、それこそ贔屓の引きたふしである。貴族といふものは、だらしないくらゐ闊達なものではないかと思はれる。フランス革命の際、暴徒たちが王の居室にまで乱入したが、その時、フランス国王ルイ十六世、暗愚なりと雖も、からから笑つて矢庭に暴徒のひとりから革命帽を奪ひとり、自分でそれをひよいとかぶつて、フランス万歳、と叫んだ。血に飢ゑたる暴徒たちも、この天衣無縫の不思議な気品に打たれて、思はず王と共に、フランス万歳を絶叫し、王の身体には一指も触れずにおとなしく王の居室から退去したのである。」
下には「ルイ16世」の肖像画を引用いたしました。フランス革命により王権を奪われ、処刑された人物です。亡くなった時、「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八・・・」と同世代の38歳でした。
出典:Antoine-François Callet, Public domain, via Wikimedia Commons、ルイ16世(アントワーヌ=フランソワ・カレ画、1788年、ヴェルサイユ宮殿蔵)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Antoine-Fran%C3%A7ois_Callet_-_Louis_XVI,_roi_de_France_et_de_Navarre_(1754-1793),_rev%C3%AAtu_du_grand_costume_royal_en_1779_-_Google_Art_Project.jpg
「まことの貴族には、このやうな無邪気なつくろはぬ気品があるものだ。口をひきしめて襟元をかき合せてすましてゐるのは、あれは、貴族の下男によくある型だ。貴族的なんて、あはれな言葉を使つちやいけない。」
芭蕉の「行脚掟」を破ってしまい・・・
「その日、蟹田の観瀾山で一緒にビールを飲んだ人たちも、たいていその五十年配の作家の心酔者らしく、私に対して、その作家の事ばかり質問するので、たうとう私も芭蕉翁の行脚の掟を破つて、そのやうな悪口を言ひ、言ひはじめたら次第に興奮して来て、それこそ眉をはね上げ口を曲げる結果になつて、貴族的なんて、へんなところで脱線してしまつた。一座の人たちは、私の話に少しも同感の色を示さなかつた。『貴族的なんて、そんな馬鹿な事を私たちは言つてはゐません。』と今別から来たMさんは、当惑の面持で、ひとりごとのやうにして言つた。酔漢の放言に閉口し切つてゐるといふやうなふうに見えた。他の人たちも、互ひに顔を見合せてにやにや笑つてゐる。
『要するに、』私の声は悲鳴に似てゐた。ああ、先輩作家の悪口は言ふものでない。『男振りにだまされちやいかんといふ事だ。ルイ十六世は、史上まれに見る醜男だつたんだ。』いよいよ脱線するばかりである。
『でも、あの人の作品は、私は好きです。』とMさんは、イヤにはつきり宣言する。
『日本ぢや、あの人の作品など、いいはうなんでせう?』と青森の病院のHさんは、つつましく、取りなし顔に言ふ。
私の立場は、いけなくなるばかりだ。」
以下には大正11年に新潮社から出版された「新しき岸へ(水守亀之助著)」の巻末広告を引用いたしました。「暗夜行路」の宣伝文句には志賀直哉を「小説壇の第一人者」と評しています。「Hさん」のいうように、大正時代には日本を代表する小説家となっていました。
出典:水守亀之助 著『新しき岸へ』第1編,新潮社,大正11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/970314 (参照 2025-12-04、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/970314/1/290
『そりや、いいはうかも知れない。まあ、いいはうだらう。しかし、君たちは、僕を前に置きながら、僕の作品に就いて一言も言つてくれないのは、ひどいぢやないか。』私は笑ひながら本音(ほんね)を吐いた。
みんな微笑した。やはり、本音を吐くに限る、と私は図に乗り、
『僕の作品なんかは、滅茶苦茶だけれど、しかし僕は、大望を抱いてゐるんだ。その大望が重すぎて、よろめいてゐるのが僕の現在のこの姿だ。君たちには、だらしのない無智な薄汚い姿に見えるだらうが、しかし僕は本当の気品といふものを知つてゐる。松葉の形の干菓子(ひぐわし)を出したり、青磁の壺に水仙を投げ入れて見せたつて、僕はちつともそれを上品だとは思はない。成金趣味だよ、失敬だよ。本当の気品といふものは、真黒いどつしりした大きい岩に白菊一輪だ。土台に、むさい大きい岩が無くちや駄目なもんだ。それが本当の上品といふものだ。君たちなんか、まだ若いから、針金で支へられたカーネーシヨンをコツプに投げいれたみたいな女学生くさいを、芸術の気品だなんて思つてゐやがる。』
暴言であつた。『他の短を挙げて、己が長を顕すことなかれ。人を譏りておのれに誇るは甚だいやし。』この翁の行脚の掟は、厳粛の真理に似てゐる。じつさい、甚だいやしいものだ。私にはこのいやしい悪癖があるので、東京の文壇に於いても、皆に不愉快の感を与へ、薄汚い馬鹿者として遠ざけられてゐるのである。『まあ、仕様が無いや。』と私は、うしろに両手をついて仰向き、『僕の作品なんか、まつたく、ひどいんだからな。何を言つたつて、はじまらん。でも、君たちの好きなその作家の十分の一くらゐは、僕の仕事をみとめてくれてもいいぢやないか。君たちは、僕の仕事をさつぱりみとめてくれないから、僕だつて、あらぬ事を口走りたくなつて来るんだ。みとめてくれよ。二十分の一でもいいんだ。みとめろよ。』
みんな、ひどく笑つた。笑はれて、私も、気持がたすかつた。」
出典:写真AC、採荼庵跡の松尾芭蕉像
https://www.photo-ac.com/main/detail/24525637&title=%E6%8E%A1%E8%8D%BC%E5%BA%B5%E8%B7%A1%E3%81%AE%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89%E5%83%8F
このような太宰の態度には「行脚掟」の芭蕉もあきれていたかもしれません。上には「奥の細道」の出発地点とされる採荼庵跡に設置された芭蕉像の写真を引用させていただきました。
Eといふ旅館へ
「蟹田分院の事務長のSさんが、腰を浮かして、
『どうです。この辺で、席を変へませんか。』と、世慣れた人に特有の慈悲深くなだめるやうな口調で言つた。蟹田町で一ばん大きいEといふ旅館に、皆の昼飯の仕度をさせてあるといふ。いいのか、と私はT君に眼でたづねた。
『いいんです。ごちそうになりませう。』T君は立ち上つて上衣を着ながら、『僕たちが前から計画してゐたのです。Sさんが配給の上等酒をとつて置いたさうですから、これから皆で、それをごちそうになりに行きませう。Nさんのごちそうにばかりなつてゐては、いけません。』
私はT君の言ふ事におとなしく従つた。だから、T君が傍についてゐてくれると、心強いのである。」
青森県観光情報サイトにアップされている「太宰治と歩く現代の『津軽』の旅、発行・青森県東青地域県民局地域連携」というパンフレットによると、「Eという旅館(蝦田旅館)」はその後火事で焼失」とのこと。下には東奥年鑑(昭和15年版)から蝦田旅館が掲載されている部分を抜粋いたしました。
出典:東奥日報社 編『東奥年鑑』昭和15年,東奥日報社,昭和15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1073637 (参照 2025-12-04、一部抜粋
)https://dl.ndl.go.jp/pid/1073637/1/70
また、別の情報によれば、以下のストリートビューの右側の空き地が蝦田旅館の跡地とのことです。観瀾山のふもとからこちらまでは徒歩で10分ほど。太宰たちが酔い覚ましを兼ねて歩いている様子をイメージしてみましょう。
「Eといふ旅館は、なかなか綺麗だつた。部屋の床の間も、ちやんとしてゐたし、便所も清潔だつた。ひとりでやつて来て泊つても、わびしくない宿だと思つた。いつたいに、津軽半島の東海岸の旅館は、西海岸のそれと較べると上等である。昔から多くの他国の旅人を送り迎へした伝統のあらはれかも知れない。昔は北海道へ渡るのに、かならず三厩から船出する事になつてゐたので、この外ヶ浜街道はそのための全国の旅人を朝夕送迎してゐたのである。旅館のお膳にも蟹が附いてゐた。
『やつぱり、蟹田だなあ。』と誰か言つた。
T君はお酒を飲めないので、ひとり、さきにごはんを食べたが、他の人たちは、皆、Sさんの上等酒を飲み、ごはんを後廻しにした。酔ふに従つてSさんは、上機嫌になつて来た。
『私はね、誰の小説でも、みな一様に好きなんです。読んでみると、みんな面白い。なかなか、どうして、上手なものです。だから私は、小説家つてやつを好きで仕様が無いんです。どんな小説家でも、好きで好きでたまらないんです。私は、子供を、男の子で三つになりましたがね、こいつを小説家にしようと思つてゐるんです。名前も、文男と附けました。文(ぶん)の男(をとこ)と書きます。頭の恰好が、どうも、あなたに似てゐるやうです。失礼ながら、そんな工合に、はちが開いてゐるやうな形なのです。』
私の頭が、鉢が開いてゐるとは初耳であつた。私は、自分の容貌のいろいろさまざまの欠点を残りくま無く知悉してゐるつもりであつたが、頭の形までへんだとは気がつかなかつた。自分で気の附かない欠点がまだまだたくさんあるのではあるまいかと、他の作家の悪口を言つた直後でもあつたし、ひどく不安になつて来た。」
1945年(昭和20年の疎開中)の太宰の写真です。「はちが開いている」髪型とはこちらのような感じだったでしょうか?
出典:太宰治 著『太宰治』,文潮社,昭和23. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1069452 (参照 2025-12-03、一部抜粋)、疎開中の著者
https://dl.ndl.go.jp/pid/1069452/1/4
「Sさんは、いよいよ上機嫌で、
『どうです。お酒もそろそろ無くなつたやうですし、これから私の家へみんなでいらつしやいませんか。ね。ちよつとでいいんです。うちの女房にも、文男にも、逢つてやつて下さい。たのみます。リンゴ酒なら、蟹田には、いくらでもありますから、家へ来て、リンゴ酒を、ね。』と、しきりに私を誘惑するのである。御好志はありがたかつたが、私は頭の鉢以来、とみに意気が沮喪して、早くN君の家へ引上げて、一寝入りしたかつた。Sさんのお家へ行つて、こんどは頭の鉢どころか、頭の内容まで見破られ、ののしられるやうな結果になるのではあるまいかと思へばなほさら気が重かつた。私は、れいに依つてT君の顔色を伺つた。T君が行けと言へば、これは、行かなくてはなるまいと覚悟してゐた。T君は、真面目な顔をしてちよつと考へ、
『行つておやりになつたら? Sさんは、けふは珍らしくひどく酔つてゐるやうですが、ずいぶん前から、あなたのおいでになるのを楽しみにして待つてゐたのです。』」
上記の青森県観光情報サイト「太宰治と歩く現代の『津軽』の旅」ではSさんを以下のように記しています。
「下山清次(東青病院蟹田分院事務長)観瀾山での花見の後、町内の自宅で疾風怒濤の接待を行う」
なお一緒にお酒を飲んでいるT君も「外崎勇三(東青病院の検査技師、元津島家使用人)」と東青病院の関係者です。
下には東奥年鑑に掲載された東青病院の広告を引用いたします。T君とSさんがこちらのような建物内で太宰との会食について話し合っているところを想像してみます。
出典:東奥日報社 編『東奥年鑑』昭和15年,東奥日報社,昭和15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1073637 (参照 2025-12-04、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1073637/1/61
「私は行く事にした。頭の鉢にこだはる事は、やめた。あれはSさんが、ユウモアのつもりでおつしやつたのに違ひないと思ひ直した。どうも、容貌に自信が無いと、こんなつまらぬ事にもくよくよしていけない。容貌に就いてばかりでなく、私にいま最も欠けてゐるものは『自信』かも知れない。」
Sさんの熱狂的な接待
「Sさんのお家へ行つて、その津軽人の本性を暴露した熱狂的な接待振りには、同じ津軽人の私でさへ少しめんくらつた。Sさんは、お家へはひるなり、たてつづけに奥さんに用事を言ひつけるのである。『おい、東京のお客さんを連れて来たぞ。たうとう連れて来たぞ。これが、そのれいの太宰つて人なんだ。挨拶をせんかい。早く出て来て拝んだらよからう。ついでに、酒だ。いや、酒はもう飲んぢやつたんだ。リンゴ酒を持つて来い。なんだ、一升しか無いのか。少い!もう二升買つて来い。待て。その縁側にかけてある干鱈(ひだら)をむしつて、待て、それは金槌(かなづち)でたたいてやはらかくしてから、むしらなくちや駄目なものなんだ。待て、そんな手つきぢやいけない、僕がやる。干鱈をたたくには、こんな工合ひに、こんな工合ひに、あ、痛え、まあ、こんな工合ひだ。おい、醤油を持つて来い。干鱈には醤油をつけなくちや駄目だ。』」
ウィキペディア・棒鱈にも「非常に硬いため、そのままでは食べることが出来ないが、金槌等で叩いて身をほぐし、酒の肴にすることはできる。」とあります。
出典:Sakurai Midori, CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/, via Wikimedia Commons、大阪の市場で販売される棒鱈
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Preserved_Codfish_Bodara.jpg
「『コツプが一つ、いや二つ足りない。早く持つて来い、待て、この茶飲茶碗でもいいか。さあ、乾盃、乾盃。おうい、もう二升買つて来い、待て、坊やを連れて来い。小説家になれるかどうか、太宰に見てもらふんだ。どうです、この頭の形は、こんなのを、鉢がひらいてゐるといふんでせう。あなたの頭の形に似てゐると思ふんですがね。しめたものです。おい、坊やをあつちへ連れて行け。うるさくてかなはない。お客さんの前に、こんな汚い子を連れて来るなんて、失敬ぢやないか。成金趣味だぞ。』」
以下はS君が息子を太宰に紹介する場面をイメージしたAI画像です。
出典:Google Gemini 2.5 Flashにより生成された画像、「『男性Aの友人・男性Bの家で、Bがその息子をにAに紹介するところ。ある人は国民服を着てちゃぶ台の前に座っている。』などのキーワードで作成、生成日:2025年12月4日」
「『早くリンゴ酒を、もう二升。お客さんが逃げてしまふぢやないか。待て、お前はここにゐてサアヴイスをしろ。さあ、みんなにお酌。リンゴ酒は隣りのをばさんに頼んで買つて来てもらへ。をばさんは、砂糖をほしがつてゐたから少しわけてやれ。待て、をばさんにやつちやいかん。東京のお客さんに、うちの砂糖全部お土産に差し上げろ。いいか、忘れちやいけないよ。全部、差し上げろ。新聞紙で包んでそれから油紙で包んで紐でゆはへて差し上げろ。子供を泣かせちや、いかん。失敬ぢやないか。成金趣味だぞ。貴族つてのはそんなものぢやないんだ。待て。砂糖はお客さんがお帰りの時でいいんだつてば。音楽、音楽。レコードをはじめろ。シユーベルト、シヨパン、バツハ、なんでもいい。音楽を始めろ。待て。なんだ、それは、バツハか。やめろ。うるさくてかなはん。話も何も出来やしない。もつと静かなレコードを掛けろ、』」
第二次大戦中であってもバッハやベートーベン、ワーグナーといったドイツ人のほか、モーツァルトやハイドンといったドイツ語圏の作曲家の曲は許可されていました。以下は昭和17年の「文部省推薦紹介蓄音機レコード目録」から抜粋したクラシック音楽のリストです。例えばモーツァルト交響曲40番ト短調、ベートーベン交響曲5番ハ短調(運命)などが推薦されています。
出典:『文部省推薦紹介蓄音機レコード目録』,文部省社会教育局,昭和17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1125203 (参照 2025-12-04)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1125203/1/17
なお、昭和初期に販売されていた蓄音機の例を下に引用いたしました。お客さんのいる間はSさんの無茶な指示におとなしく従っていた奥さんですが、内心は穏やかではありませんでした(きっと)。
出典:『イーグルレコード・ヒコーキレコード』[昭和 5年] 10月新譜,[日本蓄音器商会],[1930]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11126125 (参照 2025-12-04、一部抜粋)、イーグル蓄音機
https://dl.ndl.go.jp/pid/11126125/1/9
「『待て、食ふものが無くなつた。アンコーのフライを作れ。ソースがわが家の自慢と来てゐる。果してお客さんのお気に召すかどうか、待て、アンコーのフライとそれから、卵味噌のカヤキを差し上げろ。これは津軽で無ければ食へないものだ。さうだ。卵味噌だ。卵味噌に限る。卵味噌だ。卵味噌だ。』
私は決して誇張法を用みて描写してゐるのではない。この疾風怒濤の如き接待は、津軽人の愛情の表現なのである。干鱈(ひだら)といふのは、大きい鱈を吹雪にさらして凍らせて干したもので、芭蕉翁などのよろこびさうな軽い閑雅な味のものであるが、Sさんの家の縁側には、それが五、六本つるされてあつて、Sさんは、よろよろと立ち上り、それを二、三本ひつたくつて、滅多矢鱈に鉄槌で乱打し、左の親指を負傷して、それから、ころんで、這ふやうにして皆にリンゴ酒を注いで廻り、頭の鉢の一件も、決してSさんは私をからかふつもりで言つたのではなく、また、ユウモアのつもりで言つたのでもなかつたのだといふ事が私にはつきりわかつて来た。Sさんは、鉢のひらいた頭といふものを、真剣に尊敬してゐるらしいのである。いいものだと思つてゐるらしいのである。津軽人の愚直可憐、見るべしである。さうして、つひには、卵味噌、卵味噌と連呼するに到つたのであるが、この卵味噌のカヤキなるものに就いては、一般の読者には少しく説明が要るやうに思はれる。津軽に於いては、牛鍋、鳥鍋の事をそれぞれ、牛のカヤキ、鳥のカヤキといふ工合に呼ぶのである。貝焼(かひやき)の訛りであらうと思はれる。いまはさうでもないやうだけれど、私の幼少の頃には、津軽に於いては、肉を煮るのに、帆立貝の大きい貝殻を用ゐてゐた。貝殻から幾分ダシが出ると盲信してゐるところも無いわけではないやうであるが、とにかく、これは先住民族アイヌの遺風ではなからうかと思はれる。私たちは皆、このカヤキを食べて育つたのである。」
出典:Mozzucu, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons、青森県青森市「丸青食堂」の帆立の貝焼き味噌
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kaiyakimiso_hotate.jpg
上にはSさんが連呼した「卵味噌のカヤキ」を引用いたしました。以下と重複しますが、ホタテの貝殻の上にホタテやネギをのせて味噌で煮込み、卵でとじた郷土料理です。
「卵味噌のカヤキといふのは、その貝の鍋を使ひ、味噌に鰹節をけづつて入れて煮て、それに鶏卵を落して食べる原始的な料理であるが、実は、これは病人の食べるものなのである。病気になつて食がすすまなくなつた時、このカヤキの卵味噌をお粥に載せて食べるのである。けれども、これもまた津軽特有の料理の一つにはちがひなかつた。Sさんは、それを思ひつき、私に食べさせようとして連呼してゐるのだ。私は奥さんに、もうたくさんですから、と拝むやうに頼んでSさんの家を辞去した。」
Sさん後日譚
「読者もここに注目をしていただきたい。その日のSさんの接待こそ、津軽人の愛情の表現なのである。しかも、生粋(きつすい)の津軽人のそれである。これは私に於いても、Sさんと全く同様な事がしばしばあるので、遠慮なく言ふ事が出来るのであるが、友あり遠方より来た場合には、どうしたらいいかわからなくなつてしまふのである。ただ胸がわくわくして意味も無く右往左往し、さうして電燈に頭をぶつけて電燈の笠を割つたりなどした経験さへ私にはある。食事中に珍客があらはれた場合に、私はすぐに箸を投げ出し、口をもぐもぐさせながら玄関に出るので、かへつてお客に顔をしかめられる事がある。お客を待たせて、心静かに食事をつづけるなどといふ芸当は私には出来ないのである。さうしてSさんの如く、実質に於いては、到れりつくせりの心づかひをして、さうして何やらかやら、家中のもの一切合切持ち出して饗応しても、ただ、お客に閉口させるだけの結果になつて、かへつて後でそのお客に自分の非礼をお詫びしなければならぬなどといふ事になるのである。ちぎつては投げ、むしつては投げ、取つて投げ、果ては自分の命までも、といふ愛情の表現は、関東、関西の人たちにはかへつて無礼な暴力的なもののやうに思はれ、つひには敬遠といふ事になるのではあるまいか、と私はSさんに依つて私自身の宿命を知らされたやうな気がして、帰る途々、Sさんがなつかしく気の毒でならなかつた。津軽人の愛情の表現は、少し水で薄めて服用しなければ、他国の人には無理なところがあるかも知れない。東京の人は、ただ妙にもつたいぶつて、チヨツピリづつ料理を出すからなあ。ぶえんの平茸(ひらたけ)ではないけれど、私も木曾殿みたいに、この愛情の過度の露出のゆゑに、どんなにいままで東京の高慢な風流人たちに蔑視せられて来た事か。『かい給へ、かい給へや。』とぞ責めたりける、である。」
「ぶえんの平茸」のくだりは平家物語の巻八「猫間の事」からの引用です。舞台は木曽殿(源義仲)の館。相談事があって訪れた猫間中納言(藤原光隆)に木曽殿は「ぶえん(無塩)の平茸(の汁)」をすすめました。当時、塩漬けをしない鮮魚を「無塩」と呼びましたが、木曽殿は「無塩」を「新鮮」という意味に解釈していたとのこと。さらに汚れた茶碗に米を大盛にし、「かい給へ、かい給へや」とせかします。木曽殿の粗野なふるまいに興ざめした猫間中納言は何も話さずに退去しました。下に引用させていただいた投稿によると、このとき猫間中納言が食べ残したお膳は食器ごと馬に与えられたそうです。
軍紀の乱れなどにより京での評判を落とした義仲は、鎌倉(源頼朝)軍と争い粟津ケ原で討ち死にします。下は義仲のお墓がある義仲寺周辺のストリートビューです。
なお、「津軽」でたびたび引用される「行脚掟」の芭蕉のお墓もこちらにあるとのこと。芭蕉は義仲を深く尊敬していたといわれています。
「後で聞いたが、Sさんはそれから一週間、その日の卵味噌の事を思ひ出すと恥づかしくて酒を飲まずには居られなかつたといふ。ふだんは人一倍はにかみやの、神経の繊細な人らしい。これもまた津軽人の特徴である。生粋の津軽人といふものは、ふだんは、決して粗野な野蛮人ではない。なまなかの都会人よりも、はるかに優雅な、こまかい思ひやりを持つてゐる。その抑制が、事情に依つて、どつと堰を破つて奔騰する時、どうしたらいいかわからなくなつて、「ぶえんの平茸ここにあり、とうとう。」といそがす形になつてしまつて、軽薄の都会人に顰蹙せられるくやしい結果になるのである。Sさんはその翌日、小さくなつて酒を飲み、そこへ一友人がたづねて行つて、
『どう? あれから奥さんに叱られたでせう?」と笑ひながら尋ねたら、Sさんは、処女の如くはにかんで、「いいえ、まだ。』と答へたといふ。
叱られるつもりでゐるらしい。」
やはり・・・・・・
旅行などの情報
義仲寺
津軽地方からはだいぶ遠いですが、「ぶえんの平茸」のところで登場してもらった義仲寺を紹介いたします。粟津ヶ原で討ち死にした義仲を側室であった巴御前が供養したのがこちらのお寺の由来です。義仲の墓や巴御前の塚のほか、上でも述べたように松尾芭蕉の墓もあります。
出典:写真AC、滋賀県・義仲寺
https://www.photo-ac.com/main/detail/22151322&title=%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C%E3%83%BB%E7%BE%A9%E4%BB%B2%E5%AF%BA
芭蕉は境内にある「無名庵」に滞在し、月見の宴なども開催しました。上に引用した写真の奥に見えるのが「無名庵」です。庭園も整備され紅葉も見どころとなっています。芭蕉の記念館や句碑があり、俳句愛好家の聖地の一つです。近くにある琵琶湖の観光も組み合わせて旅行プランを立ててみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】滋賀県大津市馬場1-5-12
【アクセス】JR膳所駅から徒歩約7分
【参考URL】https://otsu.or.jp/thingstodo/spot110















