太宰治「津軽」の風景(その8)

津軽の昔話

太宰とN君はバスで今別のMさん宅に向かいました。戦時中の津軽には軍事施設があったため、周辺の風景に触れることは避け、代わりに江戸時代の「東遊記」から津軽に関連する部分(義経北行、安寿と厨子王など)を引用します。Mさん宅を訪問しますが、奥さんは不機嫌なご様子。太宰は「僕の事で喧嘩をしたのでは?」と邪推します。

出典:青空文庫、津軽、底本: 太宰治全集第六巻、出版社: 筑摩書房、入力: 八巻美恵氏
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html

本編外ヶ浜(2)

バスで今別へ

「はじめは蟹田から船でまつすぐに竜飛まで行き、帰りは徒歩とバスといふ計画であつたのだが、その日は朝から東風が強く、荒天といつていいくらゐの天候で、乗つて行く筈の定期船は欠航になつてしまつたので、予定をかへて、バスで出発する事にしたのである。バスは案外、空(す)いてゐて、二人とも楽に腰かける事が出来た。」
他の記事(津軽の風景その4・参照)で紹介したように、蟹田のバス発着所は「七尾呉服店裏にあった社屋、車庫(蟹田町史、P1036)」でした。

下には昭和13年ごろの富山県のバス会社の駐車場やバスの写真を引用いたしました。こちらよりは小規模だったでしょうが、このような木炭バスが数台並んでいたかもしれません。太宰たちが乗り込む場面を想像してみましょう。

出典:『躍進富山県』,高岡新聞社,昭和13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1112077 (参照 2025-12-10)、写真は麻生外吉氏、車庫及び木炭自動車
https://dl.ndl.go.jp/pid/1112077/1/31

外ヶ浜街道を一時間ほど北上したら、次第に風も弱くなり、青空も見えて来て、このぶんならば定期船も出るのではなからうかと思はれた。とにかく、今別のMさんのお家へ立寄り、船が出るやうだつたら、お酒をもらつてすぐ今別の港から船に乗らうといふ事にした。往きも帰りも同じ陸路を通るのは、気がきかなくて、つまらない事のやうに思はれた。N君はバスの窓から、さまざまの風景を指差して説明してくれたが、もうそろそろ要塞地帯に近づいてゐるのだから、そのN君の親切な説明をここにいちいち書き記すのは慎しむべきであらう。とにかく、この辺には、昔の蝦夷の栖家(すみか)の面影は少しも見受けられず、お天気のよくなつて来たせゐか、どの村落も小綺麗に明るく見えた。」

「さまざまの風景」について詳細は不明ですが、例えば平舘(たいらだて)の黒松並木についても説明したのではないでしょうか。こちらは江戸時代に松前藩が利用した街道の一部で、約1㎞にわたり樹齢300年にもなる黒松が植えられています。上には周辺のストリートビューを掲載いたしました。

「東遊記」にみる津軽の風景

「津軽」では橘南谿(たちばななんけい)の著書「東遊記」から津軽地方の箇所を引用しています。橘南谿は江戸時代後期の医師です。医学の研鑽のために日本各地を旅し、その旅で得た各地の風俗や知見を「東遊記」や「西遊記」などの紀行文に書き残しました。(ウィキペディア・橘南谿)。下には橘南谿の肖像画を引用いたします。

出典:藤浪剛一, Public domain, via Wikimedia Commons、藤浪剛一『医家先哲肖像集』より橘南谿
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E6%A9%98%E5%8D%97%E8%B0%BF.jpg

「東遊記」からは江戸時代の知識人の津軽に対する見解をうかがうことができます。
「寛政年間に出版せられた京の名医橘南谿の東遊記には、『天地(あめつち)ひらけしよりこのかた今の時ほど太平なる事はあらじ、西は鬼界屋玖の嶋より東は奥州の外ヶ浜まで号令の行届かざるもなし。往古は屋玖の島は屋玖国とて異国のやうに聞え、奥州も半ば蝦夷人の領地なりしにや、猶近き頃まで夷人の住所なりしと見えて南部、津軽辺の地名には変名多し。外ヶ浜通りの村の名にもタツピ、ホロヅキ、内マツペ、外マツペ、イマベツ、ウテツなどいふ所有り。是皆蝦夷詞なり。今にても、ウテツなどの辺は風俗もやや蝦夷に類して津軽の人も彼等はエゾ種といひて、いやしむるなり。余思ふにウテツ辺に限らず、南部、津軽辺の村民も大かたはエゾ種なるべし。只早く皇化に浴して風俗言語も改りたる所は、先祖より日本人のごとくいひなし居る事とぞ思はる。故に礼儀文華のいまだ開けざるはもつともの事なり。』と記されてあるが、それから約百五十年、地下の南谿を今日この坦々たるコンクリート道路をバスに乗せて通らせたならば、呆然たるさまにて首をひねり、或いは、こぞの雪いまいづこなどといふ嘆を発するかも知れない。」

「変名多し」という津軽の地名の多くは現在も残っています。
タツピ:東津軽郡外ヶ浜町字三厩龍浜字龍飛(たっぴ)

ホロヅキ:東津軽郡今別町袰月(ほろづき)

内マツペ:青森市内真部(うちまんべ)

内摩部郷は内真部と書き、ウチマッペと呼び、青森市の大字

出典:小井田幸哉 著 ほか『八戸根城と南部家文書 : 根城築城六百五十年記念誌』,八戸市,1986.6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9571700 (参照 2025-12-10)、P109、送信サービスで閲覧可能
https://dl.ndl.go.jp/pid/9571700/1/72

外マツペ:こちらについては情報を得られませんでしたが、内マッペ(内真部)の外側(海側)を表す地名であったかもしれません。
イマベツ:東津軽郡今別町

ウテツ:東津軽郡外ヶ浜町三厩宇鉄

続いて太宰は「東遊記」から津軽の荒唐無稽な伝説、逸話を引用します。

「南谿の東遊記西遊記は江戸時代の名著の一つに数へられてゐるやうであるが、その凡例にも、『予が漫遊もと医学の為なれば医事にかかれることは雑談といへども別に記録して同志の人にも示す。只此書は旅中見聞せる事を筆のついでにしるせるものにして、強て其事の虚実を正さず、誤りしるせる事も多かるべし。』とみづから告白してゐる如く、読者の好奇心を刺戟すれば足るといふやうな荒唐無稽に似た記事も少しとしないと言つてよい。他の地方の事は言はず、例をこの外ヶ浜近辺に就いての記事だけに限つて言つても、『奥州三馬屋(作者註。三厩の古称。)は、松前渡海の津にて、津軽領外ヶ浜にありて、日本東北の限りなり。むかし源義経、高館をのがれ蝦夷へ渡らんと此所迄来り給ひしに、渡るべき順風なかりしかば数日逗留し、あまりにたへかねて、所持の観音の像を海底の岩の上に置て順風を祈りしに、忽ち風かはり恙なく松前の地に渡り給ひぬ。其像今に此所の寺にありて義経の風祈りの観音といふ。又波打際に大なる岩ありて馬屋のごとく、穴三つ並べり。是義経の馬を立給ひし所となり。是によりて此地を三馬屋と称するなりとぞ。』と、何の疑ひもさしはさまずに記してあるし、」
下には「穴三つ並べり」と記された厩岩周辺のストリートビューを引用いたしました。こちらの穴に「三頭の神通力を備えた竜馬」が現れ、海峡を渡って、義経たちを北海道に導いたと伝わります。

「また、『奥州津軽の外ヶ浜に平館といふ所あり。此所の北にあたり巌石海に突出たる所あり、是を石崎の鼻といふ。其所を越えて暫く行けば朱谷(しゆだに)あり。山々高く聳えたる間より細き谷川流れ出て海に落る。此谷の土石皆朱色なり。水の色までいと赤く、ぬれたる石の朝日に映ずるいろ誠に花やかにして目さむる心地す。其落る所の海の小石までも多く朱色なり。北辺の海中の魚皆赤しと云。谷にある所の朱の気によりて、海中の魚、或は石までも朱色なること無情有情ともに是に感ずる事ふしぎなり。』と言つてすましてゐるかと思ふと、」
江戸時代の赤根沢(現在の青森県今別町の一部)は、良質なベンガラ(赤色顔料)の原料となる赤鉄鉱の一大産地でした。その優れた品質は高く評価され、幕府に献上されたものが日光東照宮の修復にも用いられた、という記録が残されています。下には青森県天然記念物に指定されている「赤根沢の赤岩」周辺のストリートビューを掲載いたしました。

出典:写真AC、赤岩
https://www.photo-ac.com/main/detail/30753732&title=%E8%B5%A4%E5%B2%A9

「また、おきなと称する怪魚が北海に住んでゐて、『其大きさ二里三里にも及べるにや、つひに其魚の全身を見たる人はなし。稀れに海上に浮たるを見るに大なる島いくつも出来たるごとくなり、是おきなの背中尾鰭などの少しづつ見ゆるなりとぞ。二十尋三十尋の鯨を呑む事、鯨の鰯を呑むがごとくなるゆゑ、此魚来れば鯨東西に逃走るなり。』などと言つておどかしたり、また、『此三馬屋に逗留せし頃、一夜、此家の近きあたりの老人来りぬれば、家内の祖父祖母(ぢぢばば)など打集り、囲炉裏にまとゐして四方山の物語せしに彼者共語りしは、扨も此二三十年以前松前の津波程おそろしかりしことはあらず、其頃風も静に雨も遠かりしが、只何となく空の気色打くもりたるやうなりしに、夜々折々光り物して東西に虚空を飛行するものあり、漸々に甚敷、其四五日前に到れば白昼にもいろいろの神々虚空を飛行し給ふ。衣冠にて馬上に見ゆるもあり、或は竜に乗り雲に乗り、或は犀象のたぐひに打乗り、白き装束なるもあり、赤き青き色々の出立にて、其姿も亦大なるもあり小きもあり、異類異形の仏神空中にみちみちて東西に飛行し玉ふ。我々も皆外へ出て毎日々々いと有難くをがみたり。不思議なる事にてまのあたり拝み奉ることよと四五日が程もいひくらすうちに、ある夕暮、沖の方を見やりたるに、真白にして雪の山の如きもの遥に見ゆ。あれ見よ、又ふしぎなるものの海中に出来たれといふうちに、だんだんに近く寄り来りて、近く見えし嶋山の上を打越して来るを見るに大浪の打来るなり。すは津波こそ、はや逃げよ、と老若男女われさきにと逃迷ひしかど、しばしが間に打寄て、民屋田畑草木禽獣まで少しも残らず海底のみくづと成れば、生残る人民、海辺の村里には一人もなし、扨こそ初に神々の雲中を飛行し給ひけるは此大変ある事をしろしめして此地を逃去り給ひしなるべしといひ合て恐れ侍りぬと語りぬ。』などといふ、もつたいないやうな、また夢のやうな事も、平易の文章でさらさらと書き記されてゐるのである。」

安寿と厨子王の物語

「現在のこの辺の風景に就いては、この際、あまり具体的に書かぬはうがよいと思はれるし、荒唐無稽とは言つても、せめて古人の旅行記など書き写し、そのお伽噺みたいな雰囲気にひたつてみるのも一興と思はれて、実は、東遊記の二三の記事をここに抜書きしたといふわけでもあつたのだが、ついでにもう一つ、小説の好きな人には殊にも面白く感ぜられるのではあるまいかと思はれる記事があるから紹介しよう。」
以下のように津軽人が丹後(京都北部)の人を嫌うのは、安寿と厨子王(山椒大夫)の物語が原因とのことです。

「『奥州津軽の外ヶ浜に在りし頃、所の役人より丹後の人は居ずやと頻りに吟味せし事あり。いかなるゆゑぞと尋ぬるに、津軽岩城山(いはきやま)の神はなはだ丹後の人を忌嫌ふ、もし忍びても丹後の人此地に入る時は天気大きに損じて風雨打続き船の出入無く、津軽領はなはだ難儀に及ぶとなり。余が遊びし頃も打続き風悪しかりければ、丹後の人の入りて居るにやと吟味せしこととぞ。天気あしければ、いつにても役人よりきびしく吟味して、もし入込み居る時は急に送り出すこととなり。丹後の人、津軽領の界を出れば、天気たちまち晴て風静に成なり。土俗の、いひならはしにて忌嫌ふのみならず、役人よりも毎度改むる事、珍らしき事なり。青森、三馬屋、そのほか外ヶ浜通り港々、最も甚敷丹後の人を忌嫌ふ。あまりあやしければ、いかなるわけのありてかくはいふ事ぞと委敷尋ね問ふに、当国岩城山の神と云ふは、安寿姫(あんじゆひめ)出生の地なればとて安寿姫を祭る。此姫は丹後の国にさまよひて、三庄(さんしやう)太夫にくるしめられしゆゑ、今に至り、其国の人といへば忌嫌ひて風雨を起し岩城の神荒れ玉ふとなり。外ヶ浜通り九十里余、皆多くは漁猟又は船の通行にて世渡ることなれば、常々最も順風を願ふ。然るに、差当りたる天気にさはりあることなれば、一国こぞつて丹後の人を忌嫌ふ事にはなりぬ。此説、隣境にも及びて松前南部等にても港々にては多くは丹後人を忌みて送り出す事なり。かばかり人の恨は深きものにや。』」

山椒大夫のあらすじは以下のようになります。
奥羽五十六郡の太守であった岩城判官正氏は讒言により筑紫に流されます。妻や子(姉が安寿、弟が厨子王)が正氏を訪ね求めていく途中、人買いの手にかかり、妻は佐渡に、姉弟は丹後(京都府北部)の由良湊の長者・山椒太夫に売り渡されてしまいます。
下には船で売り渡されていく姉弟(左上)と妻(右中)の図を引用いたしました。

出典:『さんせう太夫』,刊,刊年不明. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2533023 (参照 2025-12-10、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2533023/1/9

山椒大夫に酷使されていたある日、安寿は弟・厨子王を逃亡させ、自分は沼に入水してしまいます。のちに出世した厨子王は正氏の名誉を回復し、山椒大夫などの人買いたちを処罰しました。

「へんな話である。丹後の人こそ、いい迷惑である。丹後の国は、いまの京都府の北部であるが、あの辺の人は、この時代に津軽へ来たら、ひどいめに遭はなければならなかつたわけである。安寿姫と厨子王(づしわう)の話は、私たちも子供の頃から絵本などで知らされてゐるし、また鴎外の傑作『山椒大夫』の事は、小説の好きな人なら誰でも知つてゐる。けれども、あの哀話の美しい姉弟が津軽の生れで、さうして死後岩木山に祭られてゐるといふ事は、あまり知られてゐないやうであるが、実は、私はこれも何だか、あやしい話だと思つてゐるのである。」
以下は童話からの引用で、安寿が厨子王に丹後の山椒大夫の家からの逃亡をもちかける場面になります。太宰もこちらのような絵を見ていたかもしれません。

出典:三浦藤作 著『少年日本お伽噺読本』,大同館書店,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1741355 (参照 2025-12-10、一部抜粋)、由良港に於ける安寿姫と厨子王丸
https://dl.ndl.go.jp/pid/1741355/1/68

「義経が津軽に来たとか、三里の大魚が泳いでゐるとか、石の色が溶けて川の水も魚の鱗も赤いとかといふことを、平気で書いてゐる南谿氏の事だから、これも或いはれいの『強ひて其事の虚実を正さず』式の無責任な記事かも知れない。もつとも、この安寿厨子王津軽人説は、和漢三才図会の岩城山権現(いはきさんごんげん)の条にも出てゐる。三才図会は漢文で少し読みにくいが、『相伝ふ、昔、当国(津軽)の領主、岩城判官正氏といふ者あり。永保元年の冬、在京中、讒者の為に西海に謫せらる。本国に二子あり。姉を安寿と名づく。弟を津志王丸と名づく。母と共にさまよひ、出羽を過ぎ、越後に到り直江の浦云々。』などと自信ありげに書き出してゐるが、おしまひのはうに到つて、『岩城と津軽の岩城山とは南北百余里を隔て之を祭るはいぶかし。』とおのづから語るに落ちるやうな工合になつてしまつてゐる。鴎外の『山椒大夫』には、『岩代の信夫郡の住家を出て』と書いてゐる。つまりこれは、岩城といふ字を、「いはき」と読んだり「いはしろ」と読んだりして、ごちやまぜになつて、たうとう津軽の岩木山がその伝説を引受ける事になつたのではないかと思はれる。」
下には福島県いわき市金山町朝日台に建立された「安寿姫と厨子王の母子像」付近のストリートビューを掲載いたしました。また、「岩代の信夫郡の住家」に関連して、いわき市には正氏が築いたとされる「住吉館跡」という史跡があります。確かにいわき市と岩木山は「南北百余里を隔て」という位置関係です。

「しかし、昔の津軽の人たちは、安寿厨子王が津軽の子供である事を堅く信じ、につくき山椒大夫を呪ふあまりに、丹後の人が入込めば津軽の天候が悪化するとまで思ひつめてゐたとは、私たち安寿厨子王の同情者にとつては、痛快でない事もないのである。」

Mさんの家に到着

 「外ヶ浜の昔噺は、これ位にしてやめて、さて、私たちのバスはお昼頃、Mさんのゐる今別に着いた。今別は前にも言つたやうに、明るく、近代的とさへ言ひたいくらゐの港町である。人口も、四千に近いやうである。N君に案内されて、Mさんのお家を訪れたが、奥さんが出て来られて、留守です、とおつしやる。ちよつとお元気が無いやうに見受けられた。よその家庭のこのやうな様子を見ると、私はすぐに、ああ、これは、僕の事で喧嘩をしたんぢやないかな?と思つてしまふ癖がある。当つてゐる事もあるし、当つてゐない事もある。作家や新聞記者等の出現は、善良の家庭に、とかく不安の感を起させ易いものである。その事は、作家にとつても、かなりの苦痛になつてゐる筈である。この苦痛を体験した事のない作家は、馬鹿である。」

Mさんについては以下のような情報があります。

松尾清照(今別の病院のレントゲン技師)

観瀾山での花見に参加、今別の自宅に迎え、三厩まで同行している。

出典:太宰治と歩く現代の「津軽」の旅、青森県観光情報サイト
https://aomori-tourism.com/

また、同じパンフレットに掲載されている「旧Mさん宅」と思われる家付近のストリートビューを下に引用いたしました。

玄関の手前に太宰とN君を、家の中には「ちよつとお元気が無いやうな」Mさんの奥さんの姿を置いてみましょう。太宰は奥さんの様子に「不機嫌さ」も感じたようです。

旅行などの情報

赤根沢の赤岩

橘南谿の紀行文『東遊記』に「朱谷」として記された場所は、現在の青森県今別町赤根沢の一帯です。この地で採れる赤鉄鉱を原料とするベンガラ(赤色顔料)は、縄文時代にはすでに土器の彩色に利用されていました。江戸時代になるとその高品質さから藩の重要な財源とされ、盗掘者を処刑するほどの厳しい管理下に置かれました。

出典:あおもりくま, CC BY-SA 3.0、青森県東津軽郡今別町にある弁柄の採掘跡。赤根沢の赤岩より南に60メートル。
https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commonshttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:Red_Iron_Oxide_Akanesawa_Imabetsu_Aomori_Japan_P3090038.JPG

上に引用した写真のように現在も当時の採掘坑道跡が残り、朱色の岩塊が露出する一部のエリアは天然記念物として保護されています。

なお、赤岩の裏側に立つと、上のストリートビューのようなオーシャンビューを楽しめます。「津軽」に記された「小綺麗に明るく見えた」というのはこちらのような風景だったかもしれません。

基本情報

【住所】今別町大字砂ヶ森字赤根沢
【アクセス】今別駅から車で約15分
【参考URL】https://www.town.imabetsu.lg.jp/education/bunka/akaiwa.html