太宰治「津軽」の風景(その9)

酔いがまわって珍道中に!

船が欠航のため三厩に宿泊することにした太宰たちはMさん宅で飲み始めます。太宰はMさんの書斎にあった嫌いな作家の本が気になって拾い読みをしますが・・・。酔いがまわったせいか本覚寺参りは珍道中になります。大鯛を衝動買いした太宰は持ち運びに苦慮。N君がお寺のおかみさんの長話に調子を合わせていると日が落ちてきました。

出典:青空文庫、津軽、底本: 太宰治全集第六巻、出版社: 筑摩書房、入力: 八巻美恵氏
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html

本編外ヶ浜(3)

今別のMさん宅で一休み

「『どちらへ、いらつしやつたのですか?』とN君はのんびりしてゐる。リユツクサツクをおろして、『とにかく、ちよつと休ませていただきます。』玄関の式台に腰をおろした。
『呼んでまゐります。』
『はあ、すみませんですな。』N君は泰然たるものである。『病院のはうですか?』
『え、さうかと思ひます。』美しく内気さうな奥さんは、小さい声で言つて下駄をつつかけ外へ出て行つた。Mさんは、今別の或る病院に勤めてゐるのである。」
以下には奥さんが出ていったあと、家でMさんを待つ二人をイメージしたイラストを掲載いたしました。

出典:Google Gemini 2.5 Flashにより生成された画像、『旧Mさん宅(ストリートビュー)の玄関・式台に男性が座っているイラスト』などのキーワードをベースに生成、生成日:2025年12月13日」

 「私もN君と並んで式台に腰をおろし、Mさんを待つた。
『よく、打合せて置いたのかね。』
『うん、まあね。』N君は、落ちついて煙草をふかしてゐる。
『あいにく昼飯時で、いけなかつたね。』私は何かと気をもんでゐた。
『いや、僕たちもお弁当を持つて来たんだから。』と言つて澄ましてゐる。西郷隆盛もかくやと思はれるくらゐであつた。
 Mさんが来た。はにかんで笑ひながら、
『さ、どうぞ。』と言ふ。
『いや、さうしても居られないんです。』とN君は腰をあげて、『船が出るやうだつたら、すぐに船で竜飛まで行きたいと思つてゐるのです。』
『さう。』Mさんは軽く首肯き、『ぢやあ、出るかどうか、ちよつと聞いて来ます。』
 Mさんがわざわざ波止場まで聞きに行つてくれたのだが、船はやはり欠航といふ事であつた。
下の引用文のように今別の波止場(港)は正行寺(夫婦松)を目印にしたとあるので、現在の今別漁港のあたりにあったと思われます。

正行寺前には樹齢三〇〇年余の夫婦松が一〇数メートルの高さにそびえ、今別入港の漁船にとってよい目印となっている。

出展:幡原敦夫 編『下原重仲』,[幡原敦夫],1989.5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13144668 (参照 2025-12-13)、公開範囲:送信サービスで閲覧可能
https://dl.ndl.go.jp/pid/13144668/1/27

なお、今別町の公式サイトによると夫婦松は現存せず、かわりに「飛翔の松」が見どころになっているとのことです。

海沿いに佇む真宗大谷派の正行寺は、釈浄閑律師によって開創されました。境内には推定樹齢300年以上の松があり、龍が南天へ飛翔しているように見えることから「飛翔の松」と称されています。かつて存在していた「夫婦松」は、津軽海峡を航行する船舶にとって重要な航路の目印でした。

出展:blueimabetsu、今別町観光案内パンフレット
https://www.town.imabetsu.lg.jp/

下には正行寺の入り口から見た今別漁港方面のストリートビューを掲載しました。「わがふるさと : 新津軽風土記第一編第二編合本、陸奥新報社、P519」には1966年ごろの今別港の写真が掲載されています(国立国会図書館デジタルコレクションへのログインが必要です)。

「『仕方が無い。』たのもしい私の案内者は別に落胆した様子も見せず、『それぢや、ここでちよつと休ませてもらつて弁当を食べるか。』
『うん、ここで腰かけたままでいい。』私はいやらしく遠慮した。
『あがりませんか。』Mさんは気弱さうに言ふ。
『あがらしてもらはうぢやないか。』N君は平気でゲートルを解きはじめた。『ゆつくり、次の旅程を考へませう。』
 私たちはMさんの書斎に通された。小さい囲炉裏があつて、炭火がパチパチ言つておこつてゐた。書棚には本がぎつしりつまつてゐて、ヴアレリイ全集や鏡花全集も揃へられてあつた。『礼儀文華のいまだ開けざるはもつともの事なり。』と自信ありげに断案を下した南谿氏も、ここに到つて或いは失神するかも知れない。
『お酒は、あります。』上品なMさんは、かへつてご自分のはうで顔を赤くしてさう言つた。『飲みませう。』
『いやいや、ここで飲んでは、』と言ひかけて、N君は、うふふと笑つてごまかした。
『それは大丈夫。』とMさんは敏感に察して、『竜飛へお持ちになる酒は、また別に取つて置いてありますから。』
『ほほ、』とN君は、はしやいで、『いや、しかし、いまから飲んでは、けふのうちに竜飛に到着する事が出来なくなるかも、』などと言つてゐるうちに、奥さんが黙つてお銚子を持つて来た。この奥さんは、もとから無口な人なのであつて、別に僕たちに対して怒つてゐるのでは無いかも知れない、と私は自分に都合のいいやうに考へ直し、
『それぢや酔はない程度に、少し飲まうか。』とN君に向つて提案した。
『飲んだら酔ふよ。』N君は先輩顔で言つて、『けふは、これあ、三厩泊りかな?』
『それがいいでせう。けふは今別でゆつくり遊んで、三厩までだつたら歩いて、まあ、ぶらぶら歩いて一時間かな? どんなに酔つてたつて楽に行けます。』とMさんもすすめる。けふは三厩一泊ときめて、私たちは飲んだ。」

Mさんの愛読書・志賀直哉随筆集

 「私には、この部屋へはひつた時から、こだはつてゐたものが一つあつた。それは私が蟹田でつい悪口を言つてしまつたあの五十年配の作家の随筆集が、Mさんの机の上にきちんと置かれてゐる事であつた。愛読者といふものは偉いもので、私があの日、蟹田の観瀾山であれほど口汚くこの作家を罵倒しても、この作家に対するMさんの信頼はいささかも動揺しなかつたものと見える。」
「津軽」の風景その6(・・・参照)では太宰が「五十年配の作家(=志賀直哉)」をさんざんけなしても、Mさんは「でも、あの人の作品は、私は好きです。」と明言していました。志賀直哉の随筆集の詳細はわかりませんが、以下には昭和13年に発刊された改造社「志賀直哉全集第九巻(随筆書簡其外)」をイメージしたイラストを掲載いたします。

出典:Google Gemini 2.5 Flashにより生成された画像、『改造社版の志賀直哉全集が机に置いてある場面』などのキーワードをベースに生成、生成日:2025年12月15日」

「『ちよつと、その本を貸して。』どうも気になつて落ちつかないので、たうとう私は、Mさんからその本を借りて、いい加減にぱつと開いて、その箇所を鵜の目鷹の目で読みはじめた。何かアラを拾つて凱歌を挙げたかつたのであるが、私の読んだ箇所は、その作家も特別に緊張して書いたところらしく、さすがに打ち込むすきが無いのである。私は、黙つて読んだ。一ページ読み、二ページ読み、三ページ読み、たうとう五ページ読んで、それから、本を投げ出した。」
以下には昭和6(~7)年に発行された改造社「志賀直哉全集」第一巻の扉の部分を抜粋いたしました。こちらには「リズム」や「革文函」、「奈良」などといった随筆が収録されています。「その作家も特別に緊張して書いたところらしく」というのはどちらの随筆のどの部分だったのでしょうか。

出展:National Digital Library of Korea, Public domain, via Wikimedia Commons、志賀直哉全集、改造社
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:CNTS-00047728582_%E5%BF%97%E8%B3%80%E7%9B%B4%E5%93%89%E5%85%A8%E9%9B%86.pdf

「『いま読んだところは、少しよかつた。しかし、他の作品には悪いところもある。』と私は負け惜しみを言つた。
 Mさんは、うれしさうにしてゐた。
『装釘が豪華だからなあ。』と私は小さい声で、さらに負け惜しみを言つた。『こんな上等の紙に、こんな大きな活字で印刷されたら、たいていの文章は、立派に見えるよ。』
 Mさんは相手にせず、ただ黙つて笑つてゐる。勝利者の微笑である。けれども私は本心は、そんなに口惜しくもなかつたのである。いい文章を読んで、ほつとしてゐたのである。アラを拾つて凱歌などを奏するよりは、どんなに、いい気持のものかわからない。ウソぢやない。私は、いい文章を読みたい。」

本覚寺へ

 「今別には本覚寺といふ有名なお寺がある。貞伝和尚といふ偉い坊主が、ここの住職だつたので知られてゐるのである。貞伝和尚の事は、竹内運平氏著の青森県通史にも記載せられてある。すなはち、『貞伝和尚は、今別の新山甚左衛門の子で、早く弘前誓願寺に弟子入して、のち磐城平、専称寺に修業する事十五年、二十九歳の時より津軽今別、本覚寺の住職となつて、享保十六年四十二歳に到る間、其教化する処、津軽地方のみならず近隣の国々にも及び、享保十二年、金銅塔婆建立の供養の時の如きは、領内は勿論、南部、秋田、松前地方の善男善女の雲集参詣を見た。』といふやうな事が記されてある。そのお寺を、これから一つ見に行かうぢやないか、と外ヶ浜の案内者N町会議員は言ひ出した。」
以下には今別町の公式サイトより、享保12年に建立された「青銅塔婆(上では金銅塔婆)」の写真を引用させていただきました。

出典:青森県今別町公式サイト、青銅塔婆
https://www.town.imabetsu.lg.jp/

「『文学談もいいが、どうも、君の文学談は一般向きでないね。ヘンテコなところがある。だから、いつまで経つても有名にならん。貞伝和尚なんかはね、』とN君は、かなり酔つてゐた。『貞伝和尚なんかはね、仏の教へを説くのは後まはしにして、まづ民衆の生活の福利増進を図つてやつた。さうでもなくちや、民衆なんか、仏の教へも何も聞きやしないんだ。貞伝和尚は、或いは産業を興し、或いは、』と言ひかけて、ひとりで噴き出し、『まあ、とにかく行つて見よう。今別へ来て本覚寺を見なくちや恥です。貞伝和尚は、外ヶ浜の誇りなんだ。さう言ひながら、実は、僕もまだ見てゐないんだ。いい機会だから、けふは見に行きたい。みんなで一緒に見に行かうぢやないか。』」
津軽旅行をした1944年には短編小説「佳日(同年1月発行)」が映画化(タイトルは「四つの結婚」、同年9月)されていました。下には映画のポスターの写真を引用いたします。N君も太宰がすでに注目の作家であったことは認識していたはずです。太宰がさらに有名(人気作家)になるには、貞伝和尚のように大衆受けすることが早道と言いたかったのかもしれません。

出典:『新映画』1944年8月号。発行所:新映画社。, Public domain, via Wikimedia Commons、『四つの結婚』(1944年)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shin-Eiga-1944-August-1.png

 「私は、ここで飲みながらMさんと、所謂ヘンテコなところのある文学談をしてゐたかつた。Mさんも、さうらしかつた。けれども、N君の貞伝和尚に対する情熱はなかなかのもので、たうとう私たちの重い尻を上げさせてしまつた。
『それぢや、その本覚寺に立寄つて、それからまつすぐに三厩まで歩いて行つてしまはう。』私は玄関の式台に腰かけてゲートルを巻き附けながら、『どうです、あなたも。』と、Mさんを誘つた。
『はあ、三厩までお供させていただきます。』
『そいつあ有難い。この勢ひぢや、町会議員は今夜あたり、三厩の宿で蟹田町政に就いて長講一席やらかすんぢやないかと思つて、実は、憂鬱だつたんです。あなたが附合つてくれると、心強い。奥さん、御主人を今夜、お借りします。』
『はあ。』とだけ言つて、微笑する。少しは慣れた様子であつた。いや、あきらめたのかも知れない。私たちはお酒をそれぞれの水筒につめてもらつて、大陽気で出発した。さうして途中も、N君は、テイデン和尚、テイデン和尚、と言ひ、頗るうるさかつたのである。」

大きな鯛

「お寺の屋根が見えて来た頃、私たちは、魚売の小母さんに出逢つた。曳いてゐるリヤカーには、さまざまのさかなが一ぱい積まれてゐる。私は二尺くらゐの鯛を見つけて、
『その鯛は、いくらです。』まるつきり見当が、つかなかつた。
『一円七十銭です。』安いものだと思つた。
 私は、つい、買つてしまつた。けれども、買つてしまつてから、仕末に窮した。これからお寺へ行くのである。二尺の鯛をさげてお寺へ行くのは奇怪の図である。私は途方にくれた。」

本覚寺はMさん宅に面した道路(国道)を西に10分ほど歩き、陸(南)側へ路地を入ったところにあります。上のストリートビューの奥側の赤い屋根の建物が本覚寺です。太宰が魚を購入したのはこのあたりだったかもしれません。

『つまらんものを買つたねえ。』とN君は、口をゆがめて私を軽蔑した。『そんなものを買つてどうするの?』
『いや、三厩の宿へ行つて、これを一枚のままで塩焼きにしてもらつて、大きいお皿に載せて三人でつつかうと思つてね。』
『どうも、君は、ヘンテコな事を考へる。それでは、まるでお祝言か何かみたいだ。』
『でも、一円七十銭で、ちよつと豪華な気分にひたる事も出来るんだから、有難いぢやないか。』
『有難かないよ。一円七十銭なんて、この辺では高い。実に君は下手な買ひ物をした。』
『さうかねえ。』私は、しよげた。
 たうとう私は二尺の鯛をぶらさげたまま、お寺の境内にはひつてしまつた。
『どうしませう。』と私は小声でMさんに相談した。『弱りました。』
『さうですね。』Mさんは真面目な顔して考へて、『お寺へ行つて新聞紙か何かもらつて来ませう。ちよつと、ここで待つてゐて下さい。』」
下には鯛を手に下げたまま、本堂前で「どうしませう」と途方に暮れる太宰の姿をイメージしてみました。

出典:Google Gemini 2.5 Flashにより生成された画像、『本覚寺本堂前で鯛を持って佇む青年』などのキーワードをベースに生成、生成日:2025年12月15日」

 「Mさんはお寺の庫裏のはうに行き、やがて新聞紙と紐を持つて来て、問題の鯛を包んで私のリユツクサツクにいれてくれた。私は、ほつとして、お寺の山門を見上げたりなどしたが、別段すぐれた建築とも見えなかつた。」
下は本覚寺山門周辺のストリートビューです。立派な彫刻が施されているように見えますが・・・

「『たいしたお寺でもないぢやないか。』と私は小声でN君に言つた。
『いやいや、いやいや。外観よりも内容がいいんだ。とにかく、お寺へはひつて坊さんの説明でも聞きませう。』」

おかみさんの「貞伝和尚」講義

 「私は気が重かつた。しぶしぶN君の後について行つたが、それから、実にひどいめに逢つた。お寺の坊さんはお留守のやうで、五十年配のおかみさんらしいひとが出て来て、私たちを本堂に案内してくれて、それから、長い長い説明がはじまつた。私たちは、きちんと膝を折つて、かしこまつて拝聴してゐなければならぬのである。説明がちよつと一区切ついて、やれうれしやと立上らうとすると、N君は膝をすすめて、
『しからば、さらにもう一つお尋ねいたしますが、』と言ふのである。『いつたい、このお寺はテイデン和尚が、いつごろお作りになつたものなのでせうか。』
『何をおつしやつてゐるのです。貞伝上人様はこのお寺を御草創なさつたのではございませんよ。貞伝上人様は、このお寺の中興開山、五代目の上人様でございまして、――』と、またもや長い説明が続く。
『さうでしたかな。」とN君は、きよとんとして、『しからば、さらにお尋ねいたしますが、このテイザン和尚は、』テイザン和尚と言つた。まつたく滅茶苦茶である。」

出典:本覚寺公式サイト、旧大佛殿
https://imabetu-hongakuji.com/

上に引用させていただいたのは明治時代に落慶開眼した本覚寺大仏殿です。昭和29年の大火で堂宇ごと焼失してしまいますが、太宰が訪問した頃は健在でした。N君たちはこちらの大仏殿についても一通り説明を受けたのではないでしょうか。

 「N君は、ひとり熱狂して膝をすすめ膝をすすめ、つひにはその老婦人の膝との間隔が紙一重くらゐのところまで進出して、一問一答をつづけるのである。そろそろ、あたりが暗くなつて来て、これから三厩まで行けるかどうか、心細くなつて来た。
『あそこにありまする大きな見事な額(がく)は、その大野九郎兵衛様のお書きになつた額でございます。』
『さやうでございますか。』とN君は感服し、『大野九郎兵衛様と申しますと、――』
『ご存じでございませう。忠臣義士のひとりでございます。』忠臣義士と言つたやうである。」
大野九郎兵衛は赤穂藩の経理係をつとめた家老でした。「忠臣蔵」では浅野内匠頭の刃傷事件後、籠城・仇討ちを主張する筆頭家老・大石内蔵助たちと対立し、お金を持って逐電した悪役とされています。以下の引用文のように近年は評価が見直されているようですが、昭和初期には「不忠臣の代表格」でした。

近年は大野について「武弁ではないが有能な官僚であり、その能力で彼なりの忠義を果たした」という趣旨の描かれ方をされることも多い。

出典:ウィキペディア・大野知房
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E7%9F%A5%E6%88%BF

そんな大野九郎兵衛でしたが、おかみさんは「忠臣義士」と認め、以下のように話を続けます。
「『あのお方は、この土地でおなくなりになりまして、おなくなりになつたのは、四十二歳、たいへん御信仰の厚いお方でございましたさうで、このお寺にもたびたび莫大の御寄進をなされ、――』
 Mさんはこの時たうとう立ち上り、おかみさんの前に行つて、内ポケツトから白紙に包んだものを差出し、黙つて丁寧にお辞儀をしてそれからN君に向つて、
『そろそろ、おいとまを。』と小さい声で言つた。」

出典:Google Gemini 2.5 Flashにより生成された画像、『お寺の本堂で男性が住職の奥さんから説明を聴くイラスト』などのキーワードをベースに生成、生成日:2025年12月16日」

N君は上のイラストのように真面目に聴いているように見えましたが・・・・・・
「『はあ、いや、帰りませう。』とN君は鷹揚に言ひ、『結構なお話を承りました。』とおかみさんにおあいそを言つて、やうやく立ち上つたのであるが、あとで聞いてみると、おかみさんの話を一つも記憶してゐないといふ。私たちは呆れて、
『あんなに情熱的にいろんな質問を発してゐたぢやないか。』と言ふと、
『いや、すべて、うはのそらだつた。何せ、ひどく酔つてたんだ。僕は君たちがいろいろ知りたいだらうと思つて、がまんして、あのおかみの話相手になつてやつてゐたんだ。僕は犠牲者だ。』つまらない犠牲心を発揮したものである。」

旅行などの情報

今別・本覚寺

今回のメインの舞台となった本覚寺は慶安4年(1651年)に創建された古刹です。「貞伝上人」は昆布の養殖技術を広めるなどして地域住民の生活を向上させ、本覚寺の中興と祖として慕われました。お寺の山門横には「津軽」での太宰の様子が描かれた案内板が設置されています。

リヤカー行商の魚売りから二尺の大鯛を一円七十銭で買った太宰。N君(中村貞次郎)に高い買い物をしたなとたしなめられてしょげる。お寺から新聞紙をもらって、その鯛をぐるぐる包み、そのままリュックに押し込んで酔いのまわりにまかせ、境内に入って行くのである。

出典:本覚寺の山門横の案内板より引用

本堂玄関は明治21年に再建され、庫裏は明治30年代に旧一本木村大泊の網元であった木村家宅を移築したものです。境内には他にも上で紹介した青銅塔婆や昭和49年に再建された青銅の大仏なども見どころとなっています。
徒歩圏内には「飛翔の松」のある正行寺や旧Mさん宅などが点在しています。レトロな街並みを眺めながらめぐってみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】青森県東津軽郡今別町今別119
【アクセス】今別駅から徒歩で約20分
【参考URL】https://imabetu-hongakuji.com/