太宰治「津軽」の風景(その12)

実家へ

蟹田でN君と別れた太宰は、船と鉄道を乗り継ぎ金木の実家へと向かいました。実家では長兄や次兄たちが宴を囲む中、太宰は久しぶりの再会を果たします。小説「津軽」ではこの道中が簡潔に語られていますが、ここでは当時の交通手段や駅のようすをたどりながら、太宰が歩んだ旅路を詳しく追っていきましょう。
出典:青空文庫、津軽、底本: 太宰治全集第六巻、出版社: 筑摩書房、入力: 八巻美恵氏
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html

本編・津軽平野(2)

蟹田から実家まで

「その翌々日の昼頃、私は定期船でひとり蟹田を発ち、青森の港に着いたのは午後の三時、それから奥羽線で川部まで行き、川部で五能線に乗りかへて五時頃五所川原に着き、それからすぐ津軽鉄道で津軽平野を北上し、私の生れた土地の金木町に着いた時には、もう薄暗くなつてゐた。」
下には昭和初期に上磯線(青森・竜飛航路)を運営していた青森商船の広告を引用いたしました。太宰が乗ったのも下のような船だったと思われます。

出典:東北通信社 編『青森市誌』,東北通信社,昭15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1046668 (参照 2025-12-12、一部抜粋)、株式会社青森商船
https://dl.ndl.go.jp/pid/1046668/1/131

青森商船は下に引用したように東北商船・奥佐運輸・駒谷船舶部・下北運輸の4社が昭和12年に合併してできました。所有していた客船は20トンから60トン程度と比較的小型なものでした。

昭和十二年二月県の斡旋の下に、東北商船株式会社、奥佐運輸株式会社、駒谷船舶部、下北運輸株式会社の四社の合併が実現し、資本金十五万円の青森商船株式会社が設立した。
同会社の継承した蒸気船東北丸、陸奥湾丸は老朽船で燃料を大量に要する関係から、廃船として左の如き発動機船を建造就航今日にいたっている。
初代社長は鈴木友吉、二代社長は駒谷勝太郎、現社長は田中敬三である。
同社の下北、上磯、外南部の就航船は
第三千代丸(六〇噸)八千代丸(五八噸)
南津丸(四〇噸)大徳丸(三六噸)
鈴谷丸(二〇噸)八幡丸(三〇噸)
寄港地は(中略)
上磯線
青森起点、後潟、蟹田、二ツ谷、平舘、宇田、奥平部、袰月、今別、三厩、釜の沢、宇鉄、梹榔、龍飛

出典:青森市 編『青森市史』第3巻,国書刊行会,1982. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9570632 (参照 2025-12-12)、公開範囲:送信サービスで閲覧可能
https://dl.ndl.go.jp/pid/9570632/1/97

次に青森の東北商船(青森商船の全身)乗り場の写真を下に引用いたしました。こちらの写真の中に紫のジャンパーで歩く太宰の姿を置いてみましょう。

出典:『青森商工案内』,青森商工会議所,昭和11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1032982 (参照 2025-12-15、一部抜粋)、東北商船株式会社の広告
https://dl.ndl.go.jp/pid/1032982/1/10

下の写真は「川部で五能線に乗りかへて」とある川部駅のものです(昭和11年)。

出典:『五能鉄道沿線案内 : 附・津軽鉄道沿線案内』,北辰日報社,昭和11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1057235 (参照 2025-12-25、一部抜粋)、駅
https://dl.ndl.go.jp/pid/1057235/1/19

下の文献によると、駅舎は昭和11年に建てられたということですので、太宰が乗り換えた時もまだきれいな状態だったのではないでしょうか。こちらでも紫のジャンパーは目を引いたことでしょう。

奧羽本線の中継駅にして黒石線、五能線の乗替駅である。駅は南津軽郡光田寺大字川部にあり、明治二十七年十二月一日奧羽線の一部開通と共に開業し大正元年八月黒石線開通と共に其の乗替駅となり昭和二年六月陸奥鉄道会社の川部、五所川原間が開通するや又も其の乗替駅となり、之等両線の乗降客が同駅を通過する結果として断然駅勢の発達を見るに至つた。昭和十一年四月庁舍の新築と共に構内の模様替を為し操車上に萬遺憾なきを期して五能線全通に備へた。

出典:『五能鉄道沿線案内 : 附・津軽鉄道沿線案内』,北辰日報社,昭和11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1057235 (参照 2025-12-25)、川部駅
https://dl.ndl.go.jp/pid/1057235/1/19

「蟹田と金木と相隔たる事、四角形の一辺に過ぎないのだが、その間に梵珠山脈があつて山中には路らしい路も無いやうな有様らしいので、仕方なく四角形の他の三辺を大迂回して行かなければならぬのである。」
以下は蟹田から金木駅までのおおまかなルートです。確かに遠回りをしているように見えます。

「金木の生家に着いて、まづ仏間へ行き、嫂がついて来て仏間の扉を一ぱいに開いてくれて、私は仏壇の中の父母の写真をしばらく眺め、ていねいにお辞儀をした。それから、常居(じよゐ)といふ家族の居間にさがつて、改めて嫂に挨拶した。」
以下は太宰の生家(斜陽館)に残る仏壇の写真です。こちらの前で太宰がお祈りをしているところをイメージしてみましょう。

出典:663highland, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons、太宰治記念館 「斜陽館」。所在地は青森県五所川原市。、仏壇(2014年9月)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:140914_Shayokan_Goshogawara_Aomori_pref_Japan11s3.jpg

また、下写真の右側 の部屋が「常居」とのこと。こちらは津島家の団らんの場所でした。

出典:Ippukucho, CC BY 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by/3.0, via Wikimedia Commons、太宰治記念館 「斜陽館」室内の様子、1階内部、手前の室は「常居」(2012年5月)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ShayokanIndoor2.JPG

「『いつ、東京を?』と嫂は聞いた。
 私は東京を出発する数日前、こんど津軽地方を一周してみたいと思つてゐますが、ついでに金木にも立寄り、父母の墓参をさせていただきたいと思つてゐますから、その折にはよろしくお願ひします、といふやうな葉書を嫂に差上げてゐたのである。
『一週間ほど前です。東海岸で、手間どつてしまひました。蟹田のN君には、ずいぶんお世話になりました。』N君の事は、嫂も知つてゐる筈だつた。
『さう。こちらではまた、お葉書が来ても、なかなかご本人がお見えにならないので、どうしたのかと心配してゐました。陽子や光(みつ)ちやんなどは、とても待つて、毎日交代に停車場へ出張してゐたのですよ。おしまひには、怒つて、もう来たつて知らない、と言つてゐた人もありました。』
 陽子といふのは長兄の長女で、半年ほど前に弘前の近くの地主の家へお嫁に行き、その新郎と一緒にちよいちよい金木へ遊びに来るらしく、その時も、お二人でやつて来てゐたのである。光ちやんといふのは、私たちの一ばん上の姉の末娘で、まだ嫁がず金木の家へいつも手伝ひに来てゐる素直な子である。その二人の姪が、からみ合ひながら、えへへ、なんておどけた笑ひ方をして出て来て、酒飲みのだらしない叔父さんに挨拶した。陽子は女学生みたいで、まだ少しも奥さんらしくない。
『をかしい恰好。』と私の服装をすぐに笑つた。
『ばか。これが、東京のはやりさ。』
 嫂に手をひかれて、祖母も出て来た。八十八歳である。
『よく来た。ああ、よく来た。』と大声で言ふ。元気な人だつたが、でも、さすがに少し弱つて来てゐるやうにも見えた。」

『どうしますか。』と嫂は私に向つて、『ごはんは、ここで食べますか。二階に、みんなゐるんですけど。』
 陽子のお婿さんを中心に、長兄や次兄が二階で飲みはじめてゐる様子である。
 兄弟の間では、どの程度に礼儀を保ち、またどれくらゐ打ち解けて無遠慮にしたらいいものか、私にはまだよくわかつてゐない。
『お差支へなかつたら、二階へ行きませうか。』ここでひとりで、ビールなど飲んでゐるのも、いぢけてゐるみたいで、いやらしい事だと思つた。
『どちらだつて、かまひませんよ。』嫂は笑ひながら、『それぢや、二階へお膳を。』と光ちやんたちに言ひつけた。」

兄たち

「私はジヤンパー姿のままで二階に上つて行つた。金襖の一ばんいい日本間(にほんま)で、兄たちは、ひつそりお酒を飲んでゐた。私はどたばたとはひり、
『修治です。はじめて。』と言つて、まづお婿さんに挨拶して、それから長兄と次兄に、ごぶさたのお詫びをした。長兄も次兄も、あ、と言つて、ちよつと首肯いたきりだつた。わが家の流儀である。いや、津軽の流儀と言つていいかも知れない。私は慣れてゐるので平気でお膳について、光ちやんと嫂のお酌で、黙つてお酒を飲んでゐた。お婿さんは、床柱をうしろにして坐つて、もうだいぶお顔が赤くなつてゐる。兄たちも、昔はお酒に強かつたやうだが、このごろは、めつきり弱くなつたやうで、さ、どうぞ、もうひとつ、いいえ、いけません、そちらさんこそ、どうぞ、などと上品にお互ひゆづり合つてゐる。外ヶ浜で荒つぽく飲んで来た私には、まるで竜宮か何か別天地のやうで、兄たちと私の生活の雰囲気の差異に今更のごとく愕然とし、緊張した。」
以下は奥側に太宰を配置したイメージ図です。久しぶりの兄たちとの再会で、少し緊張気味の姿を想像してみましょう。

出典:Google Gemini 3.0 Flashにより生成された画像、『宴会のイラスト』などのキーワードをベースに生成、生成日:2025年12月26日

「『蟹は、どうしませう。あとで?』と嫂は小声で私に言つた。私は蟹田の蟹を少しお土産に持つて来たのだ。
『さあ。』蟹といふものは、どうも野趣がありすぎて上品のお膳をいやしくする傾きがあるので私はちよつと躊躇した。嫂も同じ気持だつたのかも知れない。
『蟹?』と長兄は聞きとがめて、『かまひませんよ。持つて来なさい。ナプキンも一緒に。』
 今夜は、長兄もお婿さんがゐるせゐか、機嫌がいいやうだ。
 蟹が出た。
『おあがり、なさいませんか。』と長兄はお婿さんにもすすめて、自身まつさきに蟹の甲羅をむいた。
 私は、ほつとした。
『失礼ですが、どなたです。』お婿さんは、無邪気さうな笑顔で私に言つた。はつと思つた。無理もないとすぐに思ひ直して、
『はあ、あのう、英治さん(次兄の名)の弟です。』と笑ひながら答へたが、しよげてしまつて、これあ、英治さんの名前を出してもいけなかつたかしら、と卑屈に気を使つて、次兄の顔色を伺つたが、次兄は知らん顔をしてゐるので、取りつく島も無かつた。ま、いいや、と私は膝を崩して、光ちやんに、こんどはビールをお酌させた。」
以下は1923年(大正12年)ごろの津島家の写真です。太宰(右上、14歳ごろ)と一緒にいたのはこちらの写真から約20年後の文治(下列中央)と英治(下列右)でした。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons、津島家の兄弟たち(左から、圭治、礼治、文治、修治(後の太宰治)、英治)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tsushimabrothers1923.png

 「金木の生家では、気疲れがする。また、私は後で、かうして書くからいけないのだ。肉親を書いて、さうしてその原稿を売らなければ生きて行けないといふ悪い宿業を背負つてゐる男は、神様から、そのふるさとを取りあげられる。所詮、私は、東京のあばらやで仮寝して、生家のなつかしい夢を見て慕ひ、あちこちうろつき、さうして死ぬのかも知れない。」

旅行などの情報

太宰治疎開の家

太宰治の生家「斜陽館」は、現在記念館として公開されています。小説『津軽』に登場する「常居」や「仏間」、「金襖の日本間」が当時のまま残されており、作品の世界観を肌で感じることができます(津軽の風景その1・参照)。そこから徒歩数分の場所にあるのが「太宰治疎開の家」です。ここは太宰の居宅として唯一現存する貴重な建物です。

出典::クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植、旧津島家新座敷 (太宰治疎開の家)。青森県五所川原市。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:140914_House_of_Dazai_Osamu_evacuation_Goshogawara_Aomori_pref_Japan01n.jpg

長兄・文治の婚礼を機に新築された赤い屋根が目印で、太宰は1945年から約1年半ここに身を寄せ、「パンドラの匣」など数多くの名作を執筆しました。館主による分かりやすいガイドも評判ですので、ぜひ「斜陽館」と併せてお立ち寄りください。

基本情報

【住所】青森県五所川原市金木町朝日山317-9
【アクセス】津軽鉄道・金木駅から徒歩で約4分
【参考URL】https://hsmoji.wixsite.com/dazai