太宰治「津軽」の風景(その13)
実家にて
金木の実家(兄の家)に到着した(津軽の風景その12・参照)翌日はあいにくの天気。太宰は家の中で兄やその娘婿と、とりとめのない会話をします。テーマは応接間にあった日本画、太宰の徴兵検査や作家としての心構えなどでした。雨降る庭を散策中、蛙が池に飛び込む音を聞くと、初めて芭蕉の「古池や」の句が腑に落ちたとのことです。
出典:青空文庫、津軽、底本: 太宰治全集第六巻、出版社: 筑摩書房、入力: 八巻美恵氏
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html
本編・津軽平野(3)
応接間の屏風絵
「翌る日は、雨であつた。起きて二階の長兄の応接間へ行つてみたら、長兄はお婿さんに絵を見せてゐた。金屏風が二つあつて、一つには山桜、一つには田園の山水とでもいつた閑雅な風景が画かれてゐる。私は落款を見た。が、読めなかつた。
『誰です。』と顔を赤らめ、おどおどしながら聞いた。
『スイアン。』と兄は答へた。
『スイアン。』まだわからなかつた。
『知らないのか。』兄は別に叱りもせず、おだやかにさう言つて、『百穂(ひゃくすい)のお父さんです。』」
下には参考のため、平福穂庵の最晩年の代表作とされる「乳虎」の写真を引用いたしました。
出典:Hirafuku Suian (平福穂庵) (1844-1890), Public domain, via Wikimedia Commons、平福穂庵筆 乳虎
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nursing_Tigress_by_Hirafuku_Suian_(Akita_Museum_of_Modern_Art).jpg
「『へえ?』百穂のお父さんもやつぱり画家だつたといふ事は聞いて知つてゐたが、そのお父さんが穂庵(すいあん)といふ人で、こんないい絵をかくとは知らなかつた。私だつて、絵はきらひではないし、いや、きらひどころか、かなり通(つ)のつもりでゐたのだが、穂庵を知らなかつたとは、大失態であつた。屏風をひとめ見て、おや? 穂庵、と軽く言つたなら、長兄も少しは私を見直したかも知れなかつたのに、間抜けた声で、誰です、は情ない。取返しのつかぬ事になつてしまつた、と身悶えしたが、兄は、そんな私を問題にせず、
『秋田には、偉い人がゐます。』とお婿さんに向つて低く言つた。
『津軽の綾足(あやたり)はどうでせう。』名誉恢復と、それから、お世辞のつもりもあつて、私は、おつかなびつくり出しやばつてみた。津軽の画家といへば、まあ、綾足くらゐのものらしいが、実はこれも、この前に金木へ来た時、兄の持つてゐる綾足の画を見せてもらつて、はじめて、津軽にもこんな偉い画家がゐたといふ事を知つた次第なのである。」
建部綾足は江戸中期の弘前ゆかりの画家で、俳人や小説家としても活躍しました。以下には綾足の山水画の画像を引用いたします。
出典:建部稜岱 Takebe RyōTai, Public domain, via Wikimedia Commons、建部稜岱 山水図 金龍道人賛 絹本墨画淡彩 明和7年(1770)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Takebe_Ry%C5%8DTai_Landscape.jpg
「『あれは、また、べつのもので。』と兄は全く気乗りのしないやうな口調で呟いて、椅子に腰をおろした。私たちは皆、立つて屏風の絵を眺めてゐたのだが、兄が坐つたので、お婿さんもそれと向ひ合つた椅子に腰をかけ、私は少し離れて、入口の傍のソフアに腰をおろした。」
下には斜陽館の応接室の写真を引用しました。当時とは配置が変わっているかもしれませんが、ここでは手前テーブルの左右の椅子に兄とお婿さんを座らせ、左奥のソファに太宰の姿を置いてみましょう。
出典:Ippukucho, CC BY 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by/3.0, via Wikimedia Commons、太宰治記念館 「斜陽館」二階の様子 2F
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ShayokanIndoor4.JPG
「『この人などは、まあ、これで、ほんすぢでせうから。』とやはりお婿さんのはうを向いて言つた。兄は前から、私には、あまり直接話をしない。
さう言へば、綾足のぼつてりした重量感には、もう少しどうかするとゲテモノに落ちさうな不安もある。
『文化の伝統、といひますか、』兄は背中を丸めてお婿さんの顔を見つめ、『やつぱり、秋田には、根強いものがあると思ひます。』
『津軽は、だめか。』何を言つても、ぶざまな結果になるので、私はあきらめて、笑ひながらひとりごとを言つた。」
とりとめのない話
「『こんど、津軽の事を何か書くんだつて?』と兄は、突然、私に向つて話しかけた。
『ええ、でも、何も、津軽の事なんか知らないので、」と私はしどろもどろになり、『何か、いい参考書でも無いでせうか。』
『さあ、』と兄は笑ひ、『わたしも、どうも、郷土史にはあまり興味が無いので。』
『津軽名所案内といつたやうな極く大衆的な本でも無いでせうか。まるで、もう、何も知らないのですから。』
『無い、無い。』と兄は私のずぼらに呆れたやうに苦笑しながら首を振つて、それから立ち上つてお婿さんに、
『それぢやあ、わたしは農会へちよつと行つて来ますから、そこらにある本でも御覧になつて、どうも、けふはお天気がわるくて。』と言つて出かけて行つた。
『農会も、いま、いそがしいのでせうね。』と私はお婿さんに尋ねた。
『ええ、いま、ちやうど米の供出割当の決定があるので、たいへんなのです。』とお婿さんは若くても、地主だから、その方面の事はよく知つてゐる。いろいろこまかい数字を挙げて説明してくれたが、私には、半分もわからなかつた。
『僕などは、いままで米の事などむきになつて考へた事は無かつたやうなものなのですが、でも、こんな時代になつて来ると、やはり汽車の窓から水田をそれこそ、わが事のやうに一喜一憂して眺めてゐるのですね。ことしは、いつまでも、こんなにうすら寒くて、田植ゑもおくれるんぢやないでせうか。』私は、れいに依つて専門家に向ひ、半可通を振りまはした。
『大丈夫でせう。このごろは寒ければ寒いで、対策も考へて居りますから。苗の発育も、まあ、普通のやうです。』
『さうですか。』と私は、もつともらしい顔をして首肯き、『僕の知識は、きのふ汽車の窓からこの津軽平野を眺めて得ただけのものなのですが、馬耕といふんですか、あの馬に挽かせて田を打ちかへすあれを、牛に挽かせてやつてゐるのがずいぶん多いやうですね。僕たちの子供の頃には、馬耕に限らず、荷車を挽かせるのでも何でも、全部、馬で、牛を使役するといふ事は、ほとんど無かつたんですがね。僕なんか、はじめて東京へ行つた時、牛が荷車を挽いてゐるのを見て、奇怪に感じた程です。』
『さうでせう。馬はめつきり少くなりました。たいてい、出征したのです。それから、牛は飼養するのに手数がかからないといふ関係もあるでせうね。でも、仕事の能率の点では、牛は馬の半分、いや、もつともつと駄目かも知れません。』
下の引用文のように馬にも徴兵検査があったとのこと。合格した馬は国に買い上げられ、出征していきました。また農耕に使用している馬であっても「赤紙」が届けば軍部に提供せざるを得ませんでした。
二十四 馬の徴兵検査
男子と生れて徴兵検査に合格して、大君の御楯となり、お召しにあづかるのは光栄でありますが、同じやうに馬では軍馬に買上げられるのは買主にとつて名誉なこととせられてゐます。(中略)体格検査は個々の馬について,体高(馬の背の高さ)、胸囲(胸の囲り)、管囲(肢の膝と繫との間の管の太さ)等をはかります。なほその際、眼はよく見えるか、歯は悪くないか、蹄は曲つたり歪でないかをよく検査するのです。
出典:市川収 著『馬の生物学』,創元社,昭和19. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1717739 (参照 2026-01-05)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1717739/1/63
なお、下の表のように体格検査の結果によって、向いた役割に振り分けられるしくみになっていました。
出典:市川収 著『馬の生物学』,創元社,昭和19. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1717739 (参照 2026-01-05、表を抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1717739/1/63
「『出征といへば、もう、――』
『僕ですか? もう、二度も令状をいただきましたが、二度とも途中でかへされて、面目ないんです。』健康な青年の、くつたくない笑顔はいいものだ。『こんどは、かへされたくないと思つてゐるんですが。』自然な口調で、軽く言つた。」
下に引用したのは「徴兵検査通達書」の例です。昭和16年ごろ、太宰(津島修治)にもこちらのような通達書が届いたと思われます。
出典:北極熊, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons、徴兵検査通達書
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E5%BE%B4%E5%85%B5%E6%A4%9C%E6%9F%BB%E9%80%9A%E9%81%94%E6%9B%B8.jpg
下には実際の徴兵検査の写真を引用いたしました。写真の詳細コメントも引用しておきます。
非常時局下明日の日本を背負ふ荘丁の体格はどうかと廿一日午前十時廣瀬厚相が佐々木体力局長を伴ひ京橋区役所の徴兵検査を訪れた。写真は診察中の中山少将(胸に手を当てる)その左廣瀬厚相そのほか一行
出典:『同盟通信社写真ニュース』1939年6月,同盟通信社,1939-06. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12306234 (参照 2026-01-05)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12306234/1/64
太宰も昭和16年の11月にこちらのような徴兵検査を受けますが、結核の既往があるとの理由で不合格になりました。
出典:『同盟通信社写真ニュース』1939年6月,同盟通信社,1939-06. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12306234 (参照 2026-01-05、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12306234/1/65
「『この地方に、これは偉い、としんから敬服出来るやうな、隠れた大人物がゐないものでせうか。』
『さあ、僕なんかには、よくわかりませんけど、篤農家などと言はれてゐる人の中に、ひよつとしたら、あるんぢやないでせうか。』
『さうでせうね。』私は大いに同感だつた。『僕なんかも、理窟は下手だし、まあ篤文家とでもいつたやうな痴(こけ)の一念で生きて行きたいと思つてゐるのですが、どうも、つまらぬ虚栄などもあつて、常識的な、きざつたらしい事になつてしまつて、ものになりません。しかし、篤農家も、篤農家としてあまり大きいレツテルをはられると、だめになりはしませんか。』
『さう。さうです。新聞社などが無責任に矢鱈に騒ぎ立て、ひつぱり出して講演をさせたり何かするので、せつかくの篤農家も妙な男になつてしまふのです。有名になつてしまふと、駄目になります。』
『まつたくですね。』私はそれにも同感だつた。『男つて、あはれなものですからね。名声には、もろいものです。ジヤアナリズムなんて、もとをただせば、アメリカあたりの資本家の発明したもので、いい加減なものですからね。毒薬ですよ。有名になつたとたんに、たいてい腑抜けになつてゐますからね。』私は、へんなところで自分の一身上の鬱憤をはらした。こんな不平家は、しかし、さうは言つても、内心では有名になりたがつてゐるといふやうな傾向があるから、注意を要する。」
芭蕉の句
「ひるすぎ、私は傘さして、雨の庭をひとりで眺めて歩いた。一木一草も変つてゐない感じであつた。かうして、古い家をそのまま保持してゐる兄の努力も並たいていではなからうと察した。池のほとりに立つてゐたら、チヤボリと小さい音がした。見ると、蛙が飛び込んだのである。つまらない、あさはかな音である。とたんに私は、あの、芭蕉翁の古池の句を理解できた。」
下には斜陽館の庭にある池の写真を引用いたしました。蛙が飛び込んだのはこちらの池と思われます。池のほとりに佇む太宰の姿をイメージしてみましょう。
出典:写真AC、斜陽館
https://www.photo-ac.com/main/detail/32574920&title=%E6%96%9C%E9%99%BD%E9%A4%A8
「私には、あの句がわからなかつた。どこがいいのか、さつぱり見当もつかなかつた。名物にうまいものなし、と断じてゐたが、それは私の受けた教育が悪かつたせゐであつた。あの古池の句に就いて、私たちは学校で、どんな説明を与へられてゐたか。森閑たる昼なほ暗きところに蒼然たる古池があつて、そこに、どぶうんと(大川へ身投げぢやあるまいし)蛙が飛び込み、ああ、余韻嫋々、一鳥蹄きて山さらに静かなりとはこの事だ、と教へられてゐたのである。なんといふ、思はせぶりたつぷりの、月並(つきなみ)な駄句であらう。いやみつたらしくて、ぞくぞくするわい。鼻持ちならん、と永い間、私はこの句を敬遠してゐたのだが、いま、いや、さうぢやないと思ひ直した。どぶうん、なんて説明をするから、わからなくなつてしまふのだ。余韻も何も無い。ただの、チヤボリだ。謂はば世の中のほんの片隅の、実にまづしい音なのだ。貧弱な音なのだ。芭蕉はそれを聞き、わが身につまされるものがあつたのだ。
出典:Google Gemini3により生成された画像、『池に佇む傘をさした男性』などのキーワードをベースに生成、生成日:2026年1月6日
古池や蛙飛び込む水の音。さう思つてこの句を見直すと、わるくない。いい句だ。当時の檀林派のにやけたマンネリズムを見事に蹴飛ばしてゐる。謂はば破格の着想である。月も雪も花も無い。風流もない。ただ、まづしいものの、まづしい命だけだ。当時の風流宗匠たちが、この句に愕然としたわけも、それでよくわかる。在来の風流の概念の破壊である。革新である。いい芸術家は、かう来なくつちや嘘だ、とひとりで興奮して、その夜、旅の手帖にかう書いた
『山吹や蛙飛び込む水の音。其角、ものかは。なんにも知らない。われと来て遊べや親の無い雀。すこし近い。でも、あけすけでいや味(み)。古池や、無類なり。』」
旅行などの情報
平福記念美術館
上で兄・文治がお婿さんに見せたのはスイアン(平福穂庵)の絵でした。こちらは秋田県角館出身の平福穂庵とその子・百穂を記念する美術館です。ほかにも平賀源内から蘭画を学んだ小田野直武や平福門下の作品を展示し、洋画や写真、工芸なども扱う企画展も開催しています。
出典:掬茶, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons、仙北市立角館町平福記念美術館
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hirafuku_Memorial_Art_Museum_in_Kakunodate_20221025b.jpg
国立能楽堂を設計した大江宏氏が手掛けたデザインは、上に引用したようにイスラムの聖堂のような色使いや造形が特徴です。周辺の武家屋敷は桜や紅葉の名所としても知られています。落ち着いて散策できる穴場スポットとして、旅行プランに加えてみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】秋田県仙北市角館町表町上丁4-4
【アクセス】JR角館駅より徒歩25分
【参考URL】https://www.city.semboku.akita.jp/sightseeing/hirafuku/index.html










