太宰治「津軽」の風景(その15)

鹿の子溜池へピクニック

「高流山」にいった(津軽の風景その14・参照)次の日は「鹿の子川溜池」に向かいます。森林鉄道の軌道などを通って溜池に到着すると、その畔でお弁当を広げました。太宰はビールを飲みながら、小学校のころの失敗談を披露して笑いを取ります。後から合流した兄とも久しぶりに一緒に歩きますが、過去の事件によるわだかまりはとれそうもありませんでした。

出典:青空文庫、津軽、底本: 太宰治全集第六巻、出版社: 筑摩書房、入力: 八巻美恵氏
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html

本編・津軽平野(4)

森林鉄道沿いを歩く

 「翌る日は前日の一行に、兄夫婦も加はつて、金木の東南方一里半くらゐの、鹿の子川溜池といふところへ出かけた。出発真際に、兄のところへお客さんが見えたので、私たちだけ一足さきに出かけた。モンペに白足袋に草履といふいでたちであつた。二里ちかくも遠くへ出歩くなどは、嫂にとつて、金木へお嫁に来てはじめての事かも知れない。その日も上天気で、前日よりさらに暖かかつた。私たちは、アヤに案内されて金木川に沿うて森林鉄道の軌道をてくてく歩いた。軌道の枕木の間隔が、一歩には狭く、半歩には広く、ひどく意地悪く出来てゐて、甚だ歩きにくかつた。私は疲れて、早くも無口になり、汗ばかり拭いてゐた。お天気がよすぎると、旅人はぐつたりなつて、かへつて意気があがらぬもののやうである。」
下には鉄道による木材運搬の写真を引用いたしました(秋田県北秋田郡)。森林鉄道の枕木間隔は60㎝前後とのことです。人の歩幅は身長×0.45が目安とされており、170㎝以上と当時としては長身であった太宰の歩幅(換算で75㎝以上)とは合わなかったのでしょう。

出典:農林省山林局 編『国有林』下巻,大日本山林会,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1219533 (参照 2026-01-12、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1219533/1/42

「『この辺が、大水の跡です。』アヤは、立ちどまつて説明した。川の附近の田畑数町歩一面に、激戦地の跡もかくやと思はせるほど、巨大の根株や、丸太が散乱してゐる。その前のとし、私の家の八十八歳の祖母も、とんと経験が無い、と言つてゐるほどの大洪水がこの金木町を襲つたのである。
『この木が、みんな山から流されて来たのです。』と言つて、アヤは悲しさうな顔をした。
『ひどいなあ。』私は汗を拭きながら、『まるで、海のやうだつたらうね。』
『海のやうでした。』」

鹿の子川

 「金木川にわかれて、こんどは鹿(か)の子川に沿うてしばらくのぼり、やつと森林鉄道の軌道から解放されて、ちよつと右へはひつたところに、周囲半里以上もあるかと思はれる大きい溜池が、それこそ一鳥啼いて更に静かな面持ちで、蒼々満々と水を湛へてゐる。この辺は、荘右衛門沢といふ深い谷間だつたさうであるが、谷間の底の鹿の子川をせきとめて、この大きい溜池を作つたのは、昭和十六年、つい最近の事である。溜池のほとりの大きい石碑には、兄の名前も彫り込まれてゐた。」
下に鹿の子ため池周辺のストリートビューを引用いたしました。「兄の名前が彫り込まれてゐた」のは画面右側の石碑と思われます。

「溜池の周囲に工事の跡の絶壁の赤土が、まだ生々しく露出してゐるので、所謂天然の荘厳を欠いてはゐるが、しかし、金木といふ一部落の力が感ぜられ、このやうな人為の成果といふものも、また、快適な風景とせざるを得ない、などと、おつちよこちよいの旅の批評家は、立ちどまつて煙草をふかし、四方八方を眺めながら、いい加減の感想をまとめてゐた。私は自信ありげに、一同を引率し、溜池のほとりを歩いて、
『ここがいい。この辺がいい。』と言つて池の岬の木蔭に腰をおろした。『アヤ、ちよつと調べてくれ。これは、ウルシの木ぢやないだらうな。』ウルシにかぶれては、私はこのさき旅をつづけるのに、憂鬱でたまらないだらう。ウルシの木ではないと言ふ。
『ぢやあ、その木は。なんだか、あやしい木だ。調べてくれ。』みんなは笑つてゐたが、私は真面目であつた。それも、ウルシの木ではないと言ふ。私は全く安心して、この場所で弁当をひらく事にきめた。」
以下は溜池を別の角度からみたストリートビューです。

「ビールを飲みながら、私はいい機嫌で少しおしやべりをした。私は小学校二、三年の時、遠足で金木から三里半ばかり離れた西海岸の高山といふところへ行つて、はじめて海を見た時の興奮を話した。その時には引率の先生がまつさきに興奮して、私たちを海に向けて二列横隊にならばせ、『われは海の子』といふ唱歌を合唱させたが、生れてはじめて海を見たくせに、われは海の子白波の騒ぐ磯辺の松原に、とかいふ海岸生れの子供の歌をうたふのは、いかにも不自然で、私は子供心にも恥かしく落ちつかない気持であつた。」

出典:Google Gemini 3により生成された画像、『麦藁帽や袴を身に着け、長い靴下に編上の靴をはいて白木の杖をもった昭和初期の少年』などのキーワードをベースに生成、生成日:2026年1月13日

「さうして、私はその遠足の時には、奇妙に服装に凝つて、鍔のひろい麦藁帽に兄が富士登山の時に使つた神社の焼印の綺麗に幾つも押されてある白木の杖、先生から出来るだけ身軽にして草鞋、と言はれたのに私だけ不要の袴を着け、長い靴下に編上の靴をはいて、なよなよと媚を含んで出かけたのだが、一里も歩かぬうちに、もうへたばつて、まづ袴と靴をぬがせられ、草履、といつても片方は赤い緒の草履、片方は藁の緒の草履といふ、片ちんばの、すり切れたみじめな草履をあてがはれ、やがて帽子も取り上げられ、杖もおあづけ、たうとう病人用として学校で傭つて行つた荷車に載せられ、家へ帰つた時の恰好つたら、出て行く時の輝かしさの片影も無く、靴を片手にぶらさげ、杖にすがり、などと私は調子づいて話して皆を笑はせてゐると、
『おうい。』と呼ぶ声。兄だ。
『おうい。』と私たちも口々に呼んだ。アヤは走つて迎へに行つた。」
西海岸に出かけた少年・太宰は上の画像のような颯爽とした姿だったでしょうか。

兄と歩く

「やがて、兄は、ピツケルをさげて現はれた。私はありつたけのビールをみな飲んでしまつてゐたので、甚だ具合がわるかつた。兄は、すぐにごはんを食べ、それから皆で、溜池の奥の方へ歩いて行つた。バサツと大きい音がして、水鳥が池から飛び立つた。私とお婿さんとは顔を見合せ、意味も無く、うなづき合つた。雁だか鴨だか、口に出して言へるほどには、お互ひ自信がなかつたやうなふうなのだ。とにかく、野生の水鳥には違ひなかつた。深山幽谷の精気が、ふつと感ぜられた。兄は、背中を丸くして黙つて歩いてゐる。兄とかうして、一緒に外を歩くのも何年振りであらうか。十年ほど前、東京の郊外の或る野道を、兄はやはりこのやうに背中を丸くして黙つて歩いて、それから数歩はなれて私は兄のそのうしろ姿を眺めては、ひとりでめそめそ泣きながら歩いた事があつたけれど、あれ以来はじめての事かも知れない。私は兄から、あの事件に就いてまだ許されてゐるとは思はない。一生、だめかも知れない。ひびのはひつた茶碗は、どう仕様も無い。どうしたつて、もとのとほりにはならない。」
太宰は「十年ほど前」に以下に引用したような自殺未遂事件を起こしています。特に田部シメ子との心中事件は新聞に大きく取り上げられ、兄・文治氏に多大な迷惑をかけたとのことです。

1930年
11月-カフェの女給・田部シメ子と鎌倉の小動岬で心中未遂を起こす。田部のみ死亡したため、自殺幇助の容疑で検事から取り調べを受けたが、兄・文治たちの奔走が実って起訴猶予となった。
(中略)
1935年
3月 – 都新聞社の入社試験に落ち、鎌倉で縊死を企てるも失敗に終わる。

出典:ウィキペディア、太宰治、略年譜(抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E6%B2%BB

「津軽人は特に、心のひびを忘れない種族である。この後、もう、これつきりで、ふたたび兄と一緒に外を歩く機会は、無いのかも知れないとも思つた。水の落ちる音が、次第に高く聞えて来た。」
下には戦後すぐのころの文治氏の顔写真を引用いたしました。

出典:衆議院事務局, Public domain, via Wikimedia Commons、衆議院議員・津島 文治(つしま ぶんじ)、between 10 April 1946 and 15 April 1947
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bunji_Tsushima.jpg

「溜池の端に、鹿の子滝といふ、この地方の名所がある。ほどなく、その五丈ばかりの細い滝が、私たちの脚下に見えた。つまり私たちは、荘右衛門沢の縁へりに沿うた幅一尺くらゐの心細い小路を歩いてゐるのであつて、右手はすぐ屏風を立てたやうな山、左手は足もとから断崖になつてゐて、その谷底に滝壺がいかにも深さうな青い色でとぐろを巻いてゐるのである。」

上には鹿の子滝が見える角度のストリートビューを掲載いたしました。滝つぼの様子については「日本文学アルバム第15」などに写真が掲載されていますので、そちらをチェックしてみてください。なお、こちらの書籍では「アヤ」と呼ばれていた小林才助さんの写真も見ることができます。
「『これは、どうも、目まひの気味です。』と嫂は、冗談めかして言つて、陽子の手にすがりついて、おつかなさうに歩いてゐる。
 右手の山腹には、ツツジが美しく咲いてゐる。兄はピツケルを肩にかついで、ツツジの見事に咲き誇つてゐる箇所に来るたんびに、少し歩調をゆるめる。藤の花も、そろそろ咲きかけてゐる。路は次第に下り坂になつて、私たちは滝口に降りた。一間ほどの幅の小さい谷川で、流れのまんなかあたりに、木の根株が置かれてあり、それを足がかりにして、ひよいひよいと二歩で飛び越せるやうになつてゐる。ひとりひとり、ひよいひよいと飛び越した。嫂が、ひとり残つた。
『だめです。』空言つて笑ふばかりで飛び越さうとしない。足がすくんで、前に出ない様子である。
『おぶつてやりなさい。』と兄は、アヤに言ひつけた。アヤが傍へ寄つても、嫂は、ただ笑つて、だめだめと手を振るばかりだ。この時、アヤは怪力を発揮し、巨大の根つこを抱きかかへて来て、ざんぶとばかり滝口に投じた。まあ、どうやら、橋が出来た。嫂は、ちよつと渡りかけたが、やはり足が前にすすまないらしい。アヤの肩に手を置いて、やつと半分くらゐ渡りかけて、あとは川も浅いので、即席の橋から川へ飛び降りて、じやぶじやぶと水の中を歩いて渡つてしまつた。モンペの裾も白足袋も草履も、びしよ濡れになつた様子である。
『まるで、もう、高山帰りの姿です。』嫂は、私のさつきの高山へ遠足してみじめな姿で帰つた話をふと思ひ出したらしく、笑ひながらさう言つて、陽子もお婿さんも、どつと笑つたら、兄は振りかへつて、
『え? 何?』と聞いた。みんな笑ふのをやめた。兄がへんな顔をしてゐるので、説明してあげようかな、とも思つたが、あまり馬鹿々々しい話なので、あらたまつて『高山帰り』の由来を説き起す勇気は私にも無かつた。兄は黙つて歩き出した。兄は、いつでも孤独である。」

旅行などの情報

青森市森林博物館

ピクニックに行く途中、軌道を利用した「津軽森林鉄道」は下に引用するように日本初の森林鉄道でした。現在も一部の軌道や史跡が残っており「奥津軽トレイル」として楽しむことができます。

青森県の津軽半島一帯に路線を持っていた、日本初の森林鉄道である。1906年に着工され、1908年に蟹田 – 今泉の一部が開業。翌1909年に青森貯木場から喜良市(きらいち)までの幹線67kmが完成した。支線を含めた総延長は283kmに及んだ。2017年度に林業遺産に認定された。

出典:ウィキペディア、津軽森林鉄道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E6%A3%AE%E6%9E%97%E9%89%84%E9%81%93

「青森市森林博物館」も「森林鉄道」関連の情報を得られるスポットの一つです。明治41年に完成した青森営林局の旧庁舎を利用しており、下の写真のようなレトロな佇まいも魅力となっています。

出典:Angaurits, CC BY 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by/3.0, via Wikimedia Commons、青森市森林博物館
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Aomori_city_forestry_museum.jpg

館内には森林鉄道の説明パネルを設置し、レールなどの実物が展示しています。また、同館別棟には実際に使用されたディーゼル機関車や運材貨車、客車を保管しているのでこちらもお見逃しなく!ほかにも青森ヒバなどの森林資源や山スキーといったこの土地ならではの文化や風物も紹介しています。

基本情報

【住所】青森県青森市柳川2-4-37
【アクセス】青森駅から徒歩約10分
【参考URL】https://aomori-tourism.com/spot/detail_6.html