太宰治「津軽」の風景(その17)
深浦にて
五能線の車窓から景色を眺めていた太宰は、津軽平野を抜けたあたりから「津軽」らしさがなくなったと感じます。日本海に出て、港町・深浦に宿泊、料理屋では仲居さんの機嫌を損ねて一人さびしいお酒となりました。旅館の主人が兄の同級生という縁によりお酒をサービスされる場面も!兄たちの知名度に驚く一方で自分の無力さを思い知るのでした。
出典:青空文庫、津軽、底本: 太宰治全集第六巻、出版社: 筑摩書房、入力: 八巻美恵氏
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html
本編・西海岸(2)
ここは津軽ではない?
「木造から、五能線に依つて約三十分くらゐで鳴沢、鰺ヶ沢を過ぎ、その辺で津軽平野もおしまひになつて、それから列車は日本海岸に沿うて走り、右に海を眺め左にすぐ出羽丘陵北端の余波の山々を見ながら一時間ほど経つと、右の窓に大戸瀬の奇勝が展開する。この辺の岩石は、すべて角稜質凝灰岩とかいふものださうで、その海蝕を受けて平坦になつた斑緑色の岩盤が江戸時代の末期にお化けみたいに海上に露出して、数百人の宴会を海浜に於いて催す事が出来るほどのお座敷になつたので、これを千畳敷と名附け、またその岩盤のところどころが丸く窪んで海水を湛へ、あたかもお酒をなみなみと注いだ大盃みたいな形なので、これを盃沼(さかづきぬま)と称するのださうだけれど、直径一尺から二尺くらゐのたくさんの大穴をことごとく盃と見たてるなど、よつぽどの大酒飲みが名附けたものに違ひない。」
以下には昭和初期の千畳敷の写真を引用いたしました。
出典:『五能鉄道沿線案内 : 附・津軽鉄道沿線案内』,北辰日報社,昭和11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1057235 (参照 2026-01-19、一部抜粋)、千畳敷岩
https://dl.ndl.go.jp/pid/1057235/1/57
千畳敷海岸は1792年(寛政4年)の地震により隆起してできた地形とのこと。1993年に「千畳敷海岸隆起生誕200周年記念」の碑が建立され、そこには太宰治「津軽」の一部が刻まれています。
出典:写真AC、千畳敷海岸
https://www.photo-ac.com/main/detail/22648934&title=%E5%8D%83%E7%95%B3%E6%95%B7%E6%B5%B7%E5%B2%B8
「この辺の海岸には奇岩削立し、怒濤にその脚を絶えず洗はれてゐる、と、まあ、名所案内記ふうに書けば、さうもなるのだらうが、外ヶ浜北端の海浜のやうな異様な物凄さは無く、謂はば全国到るところにある普通の『風景』になつてしまつてゐて、津軽独得の佶屈とでもいふやうな他国の者にとつて特に難解の雰囲気は無い。つまり、ひらけてゐるのである。人の眼に、舐められて、明るく馴れてしまつてゐるのである。れいの竹内運平氏は『青森県通史』に於いて、この辺以南は、昔からの津軽領ではなく、秋田領であつたのを、慶長八年に隣藩佐竹氏と談合の上、これを津軽領に編入したといふやうな記録もあると言つてゐる。私などただ旅の風来坊の無責任な直感だけで言ふのだが、やはり、もうこの辺から、何だか、津軽ではないやうな気がするのである。津軽の不幸な宿命は、ここには無い。あの、津軽特有の『要領の悪さ』は、もはやこの辺には無い。山水を眺めただけでも、わかるやうな気がする。すべて、充分に聡明である。所謂、文化的である。ばかな傲慢な心は持つてゐない。大戸瀬から約四十分で、深浦へ着くのだが、この港町も、千葉の海岸あたりの漁村によく見受けられるやうな、決して出しやばらうとせぬつつましい温和な表情、悪く言へばお利巧なちやつかりした表情をして、旅人を無言で送迎してゐる。つまり、旅人に対しては全く無関心のふうを示してゐるのである。私は、深浦のこのやうな雰囲気を深浦の欠点として挙げて言つてゐるのでは決してない。そんな表情でもしなければ、人はこの世に生きて行き切れないのではないかとも思つてゐる。これは、成長してしまつた大人の表情なのかも知れない。何やら自信が、奥深く沈潜してゐる。津軽の北部に見受けられるやうな、子供つぽい悪あがきは無い。津軽の北部は、生煮えの野菜みたいだが、ここはもう透明に煮え切つてゐる。ああ、さうだ。かうして較べてみるとよくわかる。津軽の奥の人たちには、本当のところは、歴史の自信といふものがないのだ。まるつきりないのだ。だから、矢鱈に肩をいからして、『かれは賤しきものなるぞ。』などと人の悪口ばかり言つて、傲慢な姿勢を執らざるを得なくなるのだ。あれが、津軽人の反骨となり、剛情となり、佶屈となり、さうして悲しい孤独の宿命を形成するといふ事になつたのかも知れない。津軽の人よ、顔を挙げて笑へよ。ルネツサンス直前の鬱勃たる擡頭力をこの地に認めると断言してはばからぬ人さへあつたではないか。日本の文華が小さく完成して行きづまつてゐる時、この津軽地方の大きい未完成が、どれだけ日本の希望になつてゐるか、一夜しづかに考へて、などといふとすぐ、それそれそんなに不自然に肩を張る。人からおだてられて得た自信なんてなんにもならない。知らん振りして、信じて、しばらく努力を続けて行かうではないか。」
秋田屋旅館に宿泊
「深浦町は、現在人口五千くらゐ、旧津軽領西海岸の南端の港である。江戸時代、青森、鯵ヶ沢、十三などと共に四浦の町奉行の置かれたところで、津軽藩の最も重要な港の一つであつた。丘間に一小湾をなし、水深く波穏やか、吾妻浜の奇巌、弁天嶋、行合岬など一とほり海岸の名勝がそろつてゐる。しづかな町だ。漁師の家の庭には、大きい立派な潜水服が、さかさに吊されて干されてゐる。何かあきらめた、底落ちつきに落ちついてゐる感じがする。」
以下には昭和初期のガイドブックから深浦弁天島の写真を引用いたしました。
出典:青森県医師会 編『青森県遊覧指針』,青森県医師会,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1173954 (参照 2026-01-19、一部抜粋)、深浦弁天島
https://dl.ndl.go.jp/pid/1173954/1/54
こちらの島は近年でも夕日の美しく見えるスポットとして有名です。下には「深浦町観光協会」による投稿画像を引用させていただきました。
「駅からまつすぐに一本路をとほつて、町のはづれに、円覚寺の仁王門がある。この寺の薬師堂は、国宝に指定せられてゐるといふ。私は、それにおまゐりして、もうこれで、この深浦から引上げようかと思つた。」
以下も弁天島と同じく、昭和3年の「青森県遊覧指針」から引用した深浦円覚寺の写真です。こちらの門を入っていく太宰の姿をイメージしてみましょう。
出典:青森県医師会 編『青森県遊覧指針』,青森県医師会,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1173954 (参照 2026-01-19、一部抜粋)、深浦円覚寺
https://dl.ndl.go.jp/pid/1173954/1/57
「完成されてゐる町は、また旅人に、わびしい感じを与へるものだ。私は海浜に降りて、岩に腰をかけ、どうしようかと大いに迷つた。まだ日は高い。東京の草屋の子供の事など、ふと思つた。なるべく思ひ出さないやうにしてゐるのだが、心の空虚の隙(すき)をねらつて、ひよいと子供の面影が胸に飛び込む。私は立ち上つて町の郵便局へ行き、葉書を一枚買つて、東京の留守宅へ短いたよりを認(したた)めた。子供は百日咳をやつてゐるのである。さうして、その母は、二番目の子供を近く生むのである。たまらない気持がして私は行きあたりばつたりの宿屋へ這入り、汚い部屋に案内され、ゲートルを解きながら、お酒を、と言つた。すぐにお膳とお酒が出た。」
下にはこの時太宰が宿泊した「秋田屋旅館」を改装して保存する「ふかうら文学館」の写真を引用いたしました。太宰治の宿泊した部屋は「太宰宿泊の間」として再現し、婦人との書簡なども展示されています。ちなみに左側にあるレトロなポストは婦人への「短いたより」を投函したポストを再現しているとのことです(青森観光情報サイト・太宰と歩く現代の「津軽」の旅)。
出典:掬茶, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons、ふかうら文学館(青森県西津軽郡深浦町)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fukaura_Literature_Museum_20200607b.jpg
「意外なほど早かつた。私はその早さに、少し救はれた。部屋は汚いが、お膳の上には鯛と鮑の二種類の材料でいろいろに料理されたものが豊富に載せられてある。鯛と鮑がこの港の特産物のやうである。お酒を二本飲んだが、まだ寝るには早い。津軽へやつてきて以来、人のごちそうにばかりなつてゐたが、けふは一つ、自力で、うんとお酒を飲んで見ようかしら、とつまらぬ考へを起し、さつきお膳を持つて来た十二、三歳の娘さんを廊下でつかまへ、お酒はもう無いか、と聞くと、ございません、といふ。どこか他に飲むところは無いかと聞くと、ございます、と言下に答へた。ほつとして、その飲ませる家はどこだ、と聞いて、その家を教はり、行つて見ると、意外に小綺麗な料亭であつた。二階の十畳くらゐの、海の見える部屋に案内され、津軽塗の食卓に向つて大あぐらをかき、酒、酒、と言つた。お酒だけ、すぐに持つて来た。これも有難かつた。たいてい料理で手間取つて、客をぽつんと待たせるものだが、四十年配の前歯の欠けたをばさんが、お銚子だけ持つてすぐに来た。私は、そのをばさんから深浦の伝説か何か聞かうかと思つた。
『深浦の名所は何です。』
『観音さんへおまゐりなさいましたか。』
『観音さん? あ、円覚寺の事を、観音さんと言ふのか。さう。』このをばさんから、何か古めかしい話を聞く事が出来るかも知れないと思つた。しかるに、その座敷に、ぶつてり太つた若い女があらはれて、妙にきざな洒落など飛ばし、私は、いやで仕様が無かつたので、男子すべからく率直たるべしと思ひ、
『君、お願ひだから下へ行つてくれないか。』と言つた。私は読者に忠告する。男子は料理屋へ行つて率直な言ひ方をしてはいけない。私は、ひどいめに逢つた。その若い女中が、ふくれて立ち上ると、をばさんも一緒に立ち上り、二人ともゐなくなつてしまつた。ひとりが部屋から追ひ出されたのに、もうひとりが黙つて坐つてゐるなどは、朋輩の仁義からいつても義理が悪くて出来ないものらしい。私はその広い部屋でひとりでお酒を飲み、深浦港の燈台の灯を眺め、さらに大いに旅愁を深めたばかりで宿へ帰つた。」
兄への劣等感
「翌る朝、私がわびしい気持で朝ごはんを食べてゐたら、主人がお銚子と、小さいお皿を持つて来て、
『あなたは、津島さんでせう。』と言つた。
『ええ。』私は宿帳に、筆名の太宰を書いて置いたのだ。
『さうでせう。どうも似てゐると思つた。私はあなたの英治兄さんとは中学校の同期生でね、太宰と宿帳にお書きになつたからわかりませんでしたが、どうも、あんまりよく似てゐるので。』」
以下には昭和15年の東奥年鑑から「秋田旅館」の広告を引用いたしました。このときの旅館のご主人は島川貞一さんというお名前だったようです。
出典:東奥日報社 編『東奥年鑑』昭和15年,東奥日報社,昭和15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1073637 (参照 2026-01-20、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1073637/1/222
以下に引用したのは太宰(上列右端)が少年のころ(1923年)の家族写真です。下列右端の次男・津島英治氏は当時20歳前半で、のちに金木町長などを務めることになります。
出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons、津島家の兄弟たち(左から、圭治、礼治、文治、修治(後の太宰治)、英治)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tsushimabrothers1923.png
「『でも、あれは、偽名でもないのです。』
『ええ、ええ、それも存じて居ります、お名前を変へて小説を書いてゐる弟さんがあるといふ事は聞いてゐました。どうも、ゆうべは失礼しました。さあ、お酒を、めし上れ。この小皿のものは、鮑のはらわたの塩辛ですが、酒の肴にはいいものです。』
私はごはんをすまして、それから、塩辛を肴にしてその一本をごちそうになつた。塩辛は、おいしいものだつた。実に、いいものだつた。」
下にはATV青森テレビ公式チャンネルより(いちおし!青森うまいものプラス#18「深浦散策」編)の動画を引用させていただきました。(00:32)には旧秋田屋旅館(ふかうら文学館)の「太宰宿泊の間」が紹介されています。旅館に到着した場面に戻って「ゲートルを解きながら、お酒を、と言つた」という場面をイメージしてみましょう。
また、(01:30)には越後屋旅館で提供されている「鯛と鮑のふかうら御膳」が映し出され、「鮑のはらわたの塩辛」も紹介されています(越後屋旅館の現在の営業状況は確認できておりません)。
なお、(00:48)に登場する「太宰が食べた御膳のレプリカ」の一品として鯛の姿焼きもあります。こちらで三厩の丸山旅館で起きた「鯛事件(津軽の風景その10・参照)」の無念を晴らせたでしょうか。
「かうして、津軽の端まで来ても、やつぱり兄たちの力の余波のおかげをかうむつてゐる。結局、私の自力では何一つ出来ないのだと自覚して、珍味もひとしほ腹綿にしみるものがあつた。要するに、私がこの津軽領の南端の港で得たものは、自分の兄たちの勢力の範囲を知つたといふ事だけで、私は、ぼんやりまた汽車に乗つた。」
出典:Google Gemini 3により生成された画像、『旅館でお酒を飲む浴衣姿の男』などのキーワードをベースに生成、生成日:2026年1月20日
上図は自分の無力さを感じながら「鮑のはらわたの塩辛」で一杯やる太宰の姿をイメージしてみました。
旅行などの情報
深浦円覚寺・千畳敷海岸
「私は、それにおまゐりして、もうこれで、この深浦から引上げようかと思つた。」とあるように、当時から深浦を代表する観光スポットでした。平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂の建立とされ、聖徳太子作と伝わる十一面観音を本尊としています。
深浦は北前船の寄港地として栄えたところで、船乗りたちからも深く尊崇されてきました。嵐に遭遇した船乗りたちは「ちょんまげ」を切り落とし、こちらの観音様に一心不乱に祈ったとのこと。無事に生還したお礼としてお寺に奉納された「髷額」は寺宝館で公開されています。また、寺宝の薬師堂内厨子は県内最古の建造物とされ、国の重要文化財に指定されています。
上には仁王門付近のストリートビューを引用いたしました。太宰が津軽旅行をした昭和初期の写真と比較しても、あまり大きくは変わっていないようです。
基本情報
【住所】青森県西津軽郡深浦町深浦浜町275
【アクセス】深浦駅から徒歩で約20分
【参考URL】https://www.engakuji.jp/
鮑のウロ漬け(久六屋)
上の動画の(1:53)には「鮑のはらわたの塩辛」が「鮑のウロの塩辛」として紹介されています。
深浦駅前にある「久六屋」は鮑とさざえなどの海鮮が人気のお店です。下のストリートビュー(ガラス戸に明記)からも確認できるように「鮑のウロ漬け」が看板商品の一つになっています。
鮮魚や貝類の全国発送もできるので、ご自分や家族へのお土産としてだけでなく、友人などへの贈り物をしてみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】青森県西津軽郡深浦町深浦苗代沢77
【アクセス】深浦駅から徒歩約2分
【参考URL】https://fukadoko.jp/sp/spot-3-2/index.html









