太宰治「津軽」の風景(その19最終回)
旅の目的地へ
五所川原の叔母の家を出発した太宰は(津軽の風景その18・参照)、かつての子守・タケに会うため、汽車とバスを乗り継いで小泊を訪れます。しかし、タケは運動会へ出かけており、混雑する小学校の校庭では見つけることができませんでした。再会を諦めて帰ろうとする太宰でしたが、そこに奇跡的な展開が待ち受けていました。
出典:青空文庫、津軽、底本: 太宰治全集第六巻、出版社: 筑摩書房、入力: 八巻美恵氏
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html
本編・西海岸(4)
津軽鉄道の風景
「翌る朝、従姉に起こされ、大急ぎでごはんを食べて停車場に駈けつけ、やつと一番の汽車に間に合つた。けふもまた、よいお天気である。私の頭は朦朧としてゐる。二日酔ひの気味である。ハイカラ町の家には、こはい人もゐないので、前夜、少し飲みすぎたのである。脂汗が、じつとりと額に涌いて出る。爽かな朝日が汽車の中に射込んで、私ひとりが濁つて汚れて腐敗してゐるやうで、どうにも、かなはない気持である。このやうな自己嫌悪を、お酒を飲みすぎた後には必ず、おそらくは数千回、繰り返して経験しながら、未だに酒を断然廃す気持にはなれないのである。この酒飲みといふ弱点のゆゑに、私はとかく人から軽んぜられる。」
出典:東奥日報社 編『東奥年鑑』昭和15年,東奥日報社,昭和15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1073637 (参照 2026-01-24、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1073637/1/262
上には昭和初期の津軽鉄道の停車場の一覧を引用いたしました。また、以下に引用したのは五所川原から2つ目の「津軽飲詰駅」の写真です。右側には津軽鉄道の車両が写っています。ここでは二日酔いのため元気のない太宰の姿を想像してみましょう。
出典:『五能鉄道沿線案内 : 附・津軽鉄道沿線案内』,北辰日報社,昭和11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1057235 (参照 2026-01-24、一部抜粋)、飲詰駅
https://dl.ndl.go.jp/pid/1057235/1/84
「世の中に、酒といふものさへなかつたら、私は或いは聖人にでもなれたのではなからうか、と馬鹿らしい事を大真面目で考へて、ぼんやり窓外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、芦野公園といふ踏切番の小屋くらゐの小さい駅に着いて、金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園の切符を求め、そんな駅は無いと言はれ憤然として、津軽鉄道の芦野公園を知らんかと言ひ、駅員に三十分も調べさせ、たうとう芦野公園の切符をせしめたといふ昔の逸事を思ひ出し、窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥へたまま改札口に走つて来て、眼を軽くつぶつて改札の美少年の駅員に顔をそつと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くやうな手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。少女も美少年も、ちつとも笑はぬ。当り前の事のやうに平然としてゐる。少女が汽車に乗つたとたんに、ごとんと発車だ。まるで、機関手がその娘さんの乗るのを待つてゐたやうに思はれた。こんなのどかな駅は、全国にもあまり類例が無いに違ひない。金木町長は、こんどまた上野駅で、もつと大声で、芦野公園と叫んでもいいと思つた。」
若い娘さんと駅員との一幕をイメージした画像を以下に掲載いたしました。
出典:ChatGPTにより生成された画像、『久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥へたまま改札口に走つて来て、眼を軽くつぶつて改札の美少年の駅員に顔をそつと差し出し』などのキーワードをベースに生成、生成日:2026年1月26日
「汽車は、落葉松の林の中を走る。この辺は、金木の公園になつてゐる。沼が見える。芦の湖といふ名前である。この沼に兄は、むかし遊覧のボートを一艘寄贈した筈である。」
下にはRAB青森放送が作成した「1965津軽鉄道芦野公園駅」という動画を引用させていただきました。前半には芦野公園駅の旧駅舎の様子が、後半には芦の湖を含む芦野公園の紹介もあります。兄(津島文治氏でしょうか)が寄贈したボートはまだ使われていたでしょうか。
なお、上の動画(1:05)にもあるように昭和5年から昭和53年まで利用された旧駅舎は、喫茶店に姿を変えて残されています。以下には近年の写真を引用いたしました。
出典:写真AC、津軽鉄道芦野公園駅赤い屋根の喫茶店駅舎
https://www.photo-ac.com/main/detail/32736552/1
小泊へ
「すぐに、中里に着く。人口、四千くらゐの小邑である。この辺から津軽平野も狭小になり、この北の内潟(うちがた)、相内(あひうち)、脇元(わきもと)などの部落に到ると水田もめつきり少くなるので、まあ、ここは津軽平野の北門と言つていいかも知れない。私は幼年時代に、ここの金丸(かなまる)といふ親戚の呉服屋さんへ遊びに来た事があるが、四つくらゐの時であらうか、村のはづれの滝の他には、何も記憶に残つてゐない。
『修つちやあ。』と呼ばれて、振り向くと、その金丸の娘さんが笑ひながら立つてゐる。私より一つ二つ年上だつた筈であるが、あまり老けてゐない。
『久し振りだなう。どこへ。』
『いや、小泊だ。』私はもう、早くたけに逢ひたくて、他の事はみな上の空である。『このバスで行くんだ。それぢやあ、失敬。』
『さう。帰りには、うちへも寄つて下さいよ。こんどあの山の上に、あたらしい家を建てましたから。』
指差された方角を見ると、駅から右手の緑の小山の上に新しい家が一軒立つてゐる。たけの事さへ無かつたら、私はこの幼馴染との奇遇をよろこび、あの新宅にもきつと立寄らせていただき、ゆつくり中里の話でも伺つたのに違ひないが、何せ一刻を争ふみたいに意味も無く気がせいてゐたので、
『ぢや、また。』などと、いい加減なわかれかたをして、さつさとバスに乗つてしまつた。」
下には昭和初期のバスの例として「津軽急行自動車」のバスの写真を引用いたしました。
出典:『五能鉄道沿線案内 : 附・津軽鉄道沿線案内』,北辰日報社,昭和11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1057235 (参照 2026-01-24、一部抜粋)、津軽急行自動車株式会社の広告より
https://dl.ndl.go.jp/pid/1057235/1/105
「バスは、かなり込んでゐた。私は小泊まで約二時間、立つたままであつた。中里から以北は、全く私の生れてはじめて見る土地だ。津軽の遠祖と言はれる安東氏一族は、この辺に住んでゐて、十三港の繁栄などに就いては前にも述べたが、津軽平野の歴史の中心は、この中里から小泊までの間に在つたものらしい。バスは山路をのぼつて北に進む。路が悪いと見えて、かなり激しくゆれる。私は網棚の横の棒にしつかりつかまり、背中を丸めてバスの窓から外の風景を覗き見る。やつぱり、北津軽だ。深浦などの風景に較べて、どこやら荒い。人の肌の匂ひが無いのである。山の樹木も、いばらも、笹も、人間と全く無関係に生きてゐる。東海岸の竜飛などに較べると、ずつと優しいけれど、でも、この辺の草木も、やはり『風景』の一歩手前のもので、少しも旅人と会話をしない。やがて、十三湖が冷え冷えと白く目前に展開する。浅い真珠貝に水を盛つたやうな、気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮んでゐない。ひつそりしてゐて、さうして、なかなかひろい。人に捨てられた孤独の水たまりである。流れる雲も飛ぶ鳥の影も、この湖の面には写らぬといふやうな感じだ。」
下には大正時代の十三湖の写真を引用いたしました。「浅い真珠貝に水を盛つたやうな」とあるように水深は最大3mと浅く、しじみ採りができる場所としても知られています。
出典:島川観水 編『西津軽郡誌』,青森県西津軽郡,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/950956 (参照 2026-01-28、一部抜粋)、十三湖
https://dl.ndl.go.jp/pid/950956/1/8
「十三湖を過ぎると、まもなく日本海の海岸に出る。この辺からそろそろ国防上たいせつな箇所になるので、れいに依つて以後は、こまかい描写を避けよう。お昼すこし前に、私は小泊港に着いた。」
タケを探して
「ここは、本州の西海岸の最北端の港である。この北は、山を越えてすぐ東海岸の竜飛である。西海岸の部落は、ここでおしまひになつてゐるのだ。つまり私は、五所川原あたりを中心にして、柱時計の振子のやうに、旧津軽領の西海岸南端の深浦港からふらりと舞ひもどつてこんどは一気に同じ海岸の北端の小泊港まで来てしまつたといふわけなのである。ここは人口二千五百くらゐのささやかな漁村であるが、中古の頃から既に他国の船舶の出入があり、殊に蝦夷通ひの船が、強い東風を避ける時には必ずこの港にはひつて仮泊する事になつてゐたといふ。江戸時代には、近くの十三港と共に米や木材の積出しがさかんに行はれた事など、前にもしばしば書いて置いたつもりだ。いまでも、この村の築港だけは、村に不似合ひなくらゐ立派である。水田は、村のはづれに、ほんの少しあるだけだが、水産物は相当豊富なやうで、ソイ、アブラメ、イカ、イワシなどの魚類の他に、コンブ、ワカメの類の海草もたくさんとれるらしい。」
以下には大正時代の小泊村の写真を引用いたしました。海岸に沿って家屋が立ち並んでいるのがわかります。
出典:秋元金四郎 著『小泊築港論 : 附・小泊案内』,小泊港修築五小鉄道敷設期成同盟会,大正9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/965215 (参照 2026-01-24、一部抜粋)、小泊村全景
https://dl.ndl.go.jp/pid/965215/1/19
「『越野たけ、といふ人を知りませんか。』私はバスから降りて、その辺を歩いてゐる人をつかまへ、すぐに聞いた。
『こしの、たけ、ですか。』国民服を着た、役場の人か何かではなからうかと思はれるやうな中年の男が、首をかしげ、「この村には、越野といふ苗字の家がたくさんあるので。』
『前に金木にゐた事があるんです。さうして、いまは、五十くらゐのひとなんです。』私は懸命である。
『ああ、わかりました。その人なら居ります。』
『ゐますか。どこにゐます。家はどの辺です。』
私は教へられたとほりに歩いて、たけの家を見つけた。間口三間くらゐの小ぢんまりした金物屋である。東京の私の草屋よりも十倍も立派だ。店先にカアテンがおろされてある。いけない、と思つて入口のガラス戸に走り寄つたら、果して、その戸に小さい南京錠が、ぴちりとかかつてゐるのである。他のガラス戸にも手をかけてみたが、いづれも固くしまつてゐる。」
太宰治文学アルバム・女性篇P74(国立国会図書館デジタルコレクションへのログインが必要)において、「越野商店(タケさんの家)」として紹介されているのは、以下のストリートビューの左側の建物と思われます。
なお、現在こちらの建物は越野家の所有ではなくなっていますのでご注意ください。
「留守だ。私は途方にくれて、汗を拭つた。引越した、なんて事は無からう。どこかへ、ちよつと外出したのか。いや、東京と違つて、田舎ではちよつとの外出に、店にカアテンをおろし、戸じまりをするなどといふ事は無い。二、三日あるいはもつと永い他出か。こいつあ、だめだ。たけは、どこか他の部落へ出かけたのだ。あり得る事だ。家さへわかつたら、もう大丈夫と思つてゐた僕は馬鹿であつた。私は、ガラス戸をたたき、越野さん、越野さん、と呼んでみたが、もとより返事のある筈は無かつた。溜息をついてその家から離れ、少し歩いて筋向ひの煙草屋にはひり、越野さんの家には誰もゐないやうですが、行先きをご存じないかと尋ねた。そこの痩せこけたおばあさんは、運動会へ行つたんだらう、と事もなげに答へた。私は勢ひ込んで、
『それで、その運動会は、どこでやつてゐるのです。この近くですか、それとも。』
すぐそこだといふ。この路をまつすぐに行くと田圃に出て、それから学校があつて、運動会はその学校の裏でやつてゐるといふ。
『けさ、重箱をさげて、子供と一緒に行きましたよ。』
『さうですか。ありがたう。』」
太宰がタケの行き先を尋ねた煙草屋は今でも残っています(横野たばこ店)。下には周辺のストリートビューを掲載いたしました。
「教へられたとほりに行くと、なるほど田圃があつて、その畦道を伝つて行くと砂丘があり、その砂丘の上に国民学校が立つてゐる。その学校の裏に廻つてみて、私は、呆然とした。こんな気持をこそ、夢見るやうな気持といふのであらう。本州の北端の漁村で、昔と少しも変らぬ悲しいほど美しく賑やかな祭礼が、いま目の前で行はれてゐるのだ。まづ、万国旗。着飾つた娘たち。あちこちに白昼の酔つぱらひ。さうして運動場の周囲には、百に近い掛小屋がぎつしりと立ちならび、いや、運動場の周囲だけでは場所が足りなくなつたと見えて、運動場を見下せる小高い丘の上にまで筵(むしろ)で一つ一つきちんとかこんだ小屋を立て、さうしていまはお昼の休憩時間らしく、その百軒の小さい家のお座敷に、それぞれの家族が重箱をひろげ、大人は酒を飲み、子供と女は、ごはん食べながら、大陽気で語り笑つてゐるのである。」
下には昭和初期のにぎやかな運動会の画像を引用いたしました。当時の運動会は家族みんなが集まり、地域を挙げた娯楽の一つでした。近年は安全性などの観点から種目が減って縮小され、午前中で終了する学校も多くなっています。
出典:『国士舘百年史 通史編』(国士舘百年史編纂委員会専門委員会、2021年), Public domain, via Wikimedia Commons、国士舘大運動会(1940年10月)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E5%9B%BD%E5%A3%AB%E8%88%98%E5%A4%A7%E9%81%8B%E5%8B%95%E4%BC%9A%EF%BC%881940%E5%B9%B410%E6%9C%88%EF%BC%89.jpg
「日本は、ありがたい国だと、つくづく思つた。たしかに、日出づる国だと思つた。国運を賭しての大戦争のさいちゆうでも、本州の北端の寒村で、このやうに明るい不思議な大宴会が催されて居る。古代の神々の豪放な笑ひと闊達な舞踏をこの本州の僻陬に於いて直接に見聞する思ひであつた。海を越え山を越え、母を捜して三千里歩いて、行き着いた国の果の砂丘の上に、華麗なお神楽が催されてゐたといふやうなお伽噺の主人公に私はなつたやうな気がした。さて、私は、この陽気なお神楽の群集の中から、私の育ての親を捜し出さなければならぬ。わかれてから、もはや三十年近くなるのである。眼の大きい頬ぺたの赤いひとであつた。右か、左の眼蓋の上に、小さい赤いほくろがあつた。私はそれだけしか覚えてゐないのである。逢へば、わかる。その自信はあつたが、この群集の中から捜し出す事は、むづかしいなあ、と私は運動場を見廻してべそをかいた。どうにも、手の下しやうが無いのである。私はただ、運動場のまはりを、うろうろ歩くばかりである。」
太宰がタケを探し回った小泊小学校の運動場付近のストリートビューを下に掲載します(こちらは2014年のストリートビュー。現在はグランドの手前に校舎が建っています)。グランドの周りにはたくさんの掛小屋が並んでいて、そこから30年間会っていない「タケ」を探し出すのは至難の業でした。
「『越野たけといふひと、どこにゐるか、ご存じぢやありませんか。』私は勇気を出して、ひとりの青年にたづねた。『五十くらゐのひとで、金物屋の越野ですが。』それが私のたけに就いての知識の全部なのだ。
『金物屋の越野。』青年は考へて、『あ、向うのあのへんの小屋にゐたやうな気がするな。』
『さうですか。あのへんですか?』
『さあ、はつきりは、わからない。何だか、見かけたやうな気がするんだが、まあ、捜してごらん。』
その捜すのが大仕事なのだ。まさか、三十年振りで云々と、青年にきざつたらしく打明け話をするわけにも行かぬ。私は青年にお礼を言ひ、その漠然と指差された方角へ行つてまごまごしてみたが、そんな事でわかる筈は無かつた。たうとう私は、昼食さいちゆうの団欒の掛小屋の中に、ぬつと顔を突き入れ、
『おそれいります。あの、失礼ですが、越野たけ、あの、金物屋の越野さんは、こちらぢやございませんか。』
『ちがひますよ。』ふとつたおかみさんは不機嫌さうに眉をひそめて言ふ。
『さうですか。失礼しました。どこか、この辺で見かけなかつたでせうか。』
『さあ、わかりませんねえ。何せ、おほぜいの人ですから。』
私は更にまた別の小屋を覗いて聞いた。わからない。更にまた別の小屋。まるで何かに憑かれたみたいに、たけはゐませんか、金物屋のたけはゐませんか、と尋ね歩いて、運動場を二度もまはつたが、わからなかつた。二日酔ひの気味なので、のどがかわいてたまらなくなり、学校の井戸へ行つて水を飲み、それからまた運動場へ引返して、砂の上に腰をおろし、ジヤンパーを脱いで汗を拭き、老若男女の幸福さうな賑はひを、ぼんやり眺めた。この中に、ゐるのだ。たしかに、ゐるのだ。いまごろは、私のこんな苦労も何も知らず、重箱をひろげて子供たちに食べさせてゐるのであらう。いつそ、学校の先生にたのんで、メガホンで『越野たけさん、御面会。』とでも叫んでもらはうかしら、とも思つたが、そんな暴力的な手段は何としてもイヤだつた。そんな大袈裟な悪ふざけみたいな事までして無理に自分の喜びをでつち上げるのはイヤだつた。縁が無いのだ。神様が逢ふなとおつしやつてゐるのだ。帰らう。私は、ジヤンパーを着て立ち上つた。また畦道を伝つて歩き、村へ出た。運動会のすむのは四時頃か。もう四時間、その辺の宿屋で寝ころんで、たけの帰宅を待つてゐたつていいぢやないか。さうも思つたが、その四時間、宿屋の汚い一室でしよんぼり待つてゐるうちに、もう、たけなんかどうでもいいやうな、腹立たしい気持になりやしないだらうか。私は、いまのこの気持のままでたけに逢ひたいのだ。しかし、どうしても逢ふ事が出来ない。つまり、縁が無いのだ。はるばるここまでたづねて来て、すぐそこに、いまゐるといふ事がちやんとわかつてゐながら、逢へずに帰るといふのも、私のこれまでの要領の悪かつた生涯にふさはしい出来事なのかも知れない。私が有頂天で立てた計画は、いつでもこのやうに、かならず、ちぐはぐな結果になるのだ。私には、そんな具合のわるい宿命があるのだ。帰らう。考へてみると、いかに育ての親とはいつても、露骨に言へば使用人だ。女中ぢやないか。お前は、女中の子か。男が、いいとしをして、昔の女中を慕つて、ひとめ逢ひたいだのなんだの、それだからお前はだめだといふのだ。兄たちがお前を、下品なめめしい奴と情無く思ふのも無理がないのだ。お前は兄弟中でも、ひとり違つて、どうしてこんなにだらしなく、きたならしく、いやしいのだらう。しつかりせんかい。」
バスを待つ間に
「私はバスの発着所へ行き、バスの出発する時間を聞いた。一時三十分に中里行きが出る。もう、それつきりで、あとは無いといふ事であつた。一時三十分のバスで帰る事にきめた。もう三十分くらゐあひだがある。少しおなかもすいて来てゐる。私は発着所の近くの薄暗い宿屋へ這入つて、『大急ぎでひるめしを食べたいのですが。』と言ひ、また内心は、やつぱり未練のやうなものがあつて、もしこの宿が感じがよかつたら、ここで四時頃まで休ませてもらつて、などと考へてもゐたのであるが、断られた。けふは内の者がみな運動会へ行つてゐるので、何も出来ませんと病人らしいおかみさんが、奥の方からちらと顔をのぞかせて冷い返辞をしたのである。いよいよ帰ることにきめて、バスの発着所のベンチに腰をおろし、十分くらゐ休んでまた立ち上り、ぶらぶらその辺を歩いて、それぢやあ、もういちど、たけの留守宅の前まで行つて、ひと知れず今生(こんじやう)のいとま乞ひでもして来ようと苦笑しながら、金物屋の前まで行き、ふと見ると、入口の南京錠がはづれてゐる。さうして戸が二、三寸あいてゐる。天のたすけ! と勇気百倍、グワラリといふ品の悪い形容でも使はなければ間に合はないほど勢ひ込んでガラス戸を押しあげ、
『ごめん下さい、ごめん下さい。』
『はい。』と奥から返事があつて、十四、五の水兵服を着た女の子が顔を出した。私は、その子の顔によつて、たけの顔をはつきり思ひ出した。もはや遠慮をせず、土間の奥のその子のそばまで寄つて行つて、
『金木の津島です。』と名乗つた。
少女は、あ、と言つて笑つた。津島の子供を育てたといふ事を、たけは、自分の子供たちにもかねがね言つて聞かせてゐたのかも知れない。もうそれだけで、私とその少女の間に、一切の他人行儀が無くなつた。ありがたいものだと思つた。私は、たけの子だ。女中の子だつて何だつてかまはない。私は大声で言へる。私は、たけの子だ。兄たちに軽蔑されたつていい。私は、この少女ときやうだいだ。
『ああ、よかつた。』私は思はずさう口走つて、『たけは? まだ、運動会?』
『さう。』少女も私に対しては毫末の警戒も含羞もなく、落ちついて首肯き、『私は腹がいたくて、いま、薬をとりに帰つたの。』気の毒だが、その腹いたが、よかつたのだ。腹いたに感謝だ。この子をつかまへたからには、もう安心。大丈夫たけに逢へる。もう何が何でもこの子に縋つて、離れなけれやいいのだ。
『ずいぶん運動場を捜し廻つたんだが、見つからなかつた。』
『さう。』と言つてかすかに首肯き、おなかをおさへた。
『まだ痛いか。』
『すこし。』と言つた。
『薬を飲んだか。』
黙つて首肯く。
『ひどく痛いか。』
笑つて、かぶりを振つた。
『それぢやあ、たのむ。僕を、これから、たけのところへ連れて行つてくれよ。お前もおなかが痛いだらうが、僕だつて、遠くから来たんだ。歩けるか。』
『うん。』と大きく首肯いた。
『偉い、偉い。ぢやあ一つたのむよ。』
うん、うんと二度続けて首肯き、すぐ土間へ降りて下駄をつつかけ、おなかをおさへて、からだをくの字に曲げながら家を出た。
『運動会で走つたか。』
『走つた。』
『賞品をもらつたか。』
『もらはない。』
おなかをおさへながら、とつとと私の先に立つて歩く。また畦道をとほり、砂丘に出て、学校の裏へまはり、運動場のまんなかを横切つて、それから少女は小走りになり、一つの掛小屋へはひり、すぐそれと入違ひに、たけが出て来た。たけは、うつろな眼をして私を見た。
『修治だ。』私は笑つて帽子をとつた。
『あらあ。』それだけだつた。笑ひもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないやうな、へんに、あきらめたやうな弱い口調で、『さ、はひつて運動会を。』と言つて、たけの小屋に連れて行き、『ここさお坐りになりせえ。』とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言はず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちやんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見てゐる。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまつてゐる。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に、一つも思ふ事が無かつた。もう、何がどうなつてもいいんだ、といふやうな全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言ふのであらうか。もし、さうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言つてもよい。先年なくなつた私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であつたが、このやうな不思議な安堵感を私に与へてはくれなかつた。世の中の母といふものは、皆、その子にこのやうな甘い放心の憩ひを与へてやつてゐるものなのだらうか。さうだつたら、これは、何を置いても親孝行をしたくなるにきまつてゐる。そんな有難い母といふものがありながら、病気になつたり、なまけたりしてゐるやつの気が知れない。親孝行は自然の情だ。倫理ではなかつた。」
下には小説「津軽」の像記念館の展示の一部を引用させていただきました。左上画像の右側の写真がタケ(越野タケ)さんです。
「たけの頬は、やつぱり赤くて、さうして、右の眼蓋の上には、小さい罌粟粒ほどの赤いほくろが、ちやんとある。髪には白髪もまじつてゐるが、でも、いま私のわきにきちんと坐つてゐるたけは、私の幼い頃の思ひ出のたけと、少しも変つてゐない。あとで聞いたが、たけが私の家へ奉公に来て、私をおぶつたのは、私が三つで、たけが十四の時だつたといふ。」
以下にはATV青森テレビの公式チャンネルより「ふるさと歴史館59・太宰治の幼少時代・子守タケが証言」という動画を引用させていただきました。こちらの動画(1:50前後)には子守を務めていた頃のタケさんの写真が引用されています。
「それから六年間ばかり私は、たけに育てられ教へられたのであるが、けれども、私の思ひ出の中のたけは、決してそんな、若い娘ではなく、いま眼の前に見るこのたけと寸分もちがはない老成した人であつた。これもあとで、たけから聞いた事だが、その日、たけの締めてゐたアヤメの模様の紺色の帯は、私の家に奉公してゐた頃にも締めてゐたもので、また、薄い紫色の半襟も、やはり同じ頃、私の家からもらつたものだといふ事である。そのせゐもあつたのかも知れないが、たけは、私の思ひ出とそつくり同じ匂ひで坐つてゐる。だぶん贔屓目であらうが、たけはこの漁村の他のアバ(アヤの Femme)たちとは、まるで違つた気位を持つてゐるやうに感ぜられた。着物は、縞の新しい手織木綿であるが、それと同じ布地のモンペをはき、その縞柄は、まさか、いきではないが、でも、選択がしつかりしてゐる。おろかしくない。全体に、何か、強い雰囲気を持つてゐる。私も、いつまでも黙つてゐたら、しばらく経つてたけは、まつすぐ運動会を見ながら、肩に波を打たせて深い長い溜息をもらした。たけも平気ではないのだな、と私にはその時はじめてわかつた。でも、やはり黙つてゐた。
たけは、ふと気がついたやうにして、
『何か、たべないか。』と私に言つた。
『要らない。』と答へた。本当に、何もたべたくなかつた。
『餅があるよ。』たけは、小屋の隅に片づけられてある重箱に手をかけた。
『いいんだ。食ひたくないんだ。』
たけは軽く首肯いてそれ以上すすめようともせず、
『餅のはうでないんだものな。』と小声で言つて微笑んだ。三十年ちかく互ひに消息が無くても、私の酒飲みをちやんと察してゐるやうである。不思議なものだ。私がにやにやしてゐたら、たけは眉をひそめ、
『たばこも飲むなう。さつきから、立てつづけにふかしてゐる。たけは、お前に本を読む事だば教へたけれども、たばこだの酒だのは、教へねきやなう。』と言つた。油断大敵のれいである。私は笑ひを収めた。
私が真面目な顔になつてしまつたら、こんどは、たけのはうで笑ひ、立ち上つて、
『竜神様(りゆうじんさま)の桜でも見に行くか。どう?』と私を誘つた。
『ああ、行かう。』
私は、たけの後について掛小屋のうしろの砂山に登つた。砂山には、スミレが咲いてゐた。背の低い藤の蔓も、這ひ拡がつてゐる。たけは黙つてのぼつて行く。私も何も言はず、ぶらぶら歩いてついて行つた。砂山を登り切つて、だらだら降りると竜神様の森があつて、その森の小路のところどころに八重桜が咲いてゐる。たけは、突然、ぐいと片手をのばして八重桜の小枝を折り取つて、歩きながらその枝の花をむしつて地べたに投げ捨て、それから立ちどまつて、勢ひよく私のはうに向き直り、にはかに、堰を切つたみたいに能弁になつた。」
以下は竜神様付近のストリートビューです。
「『久し振りだなあ。はじめは、わからなかつた。金木の津島と、うちの子供は言つたが、まさかと思つた。まさか、来てくれるとは思はなかつた。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかつた。修治だ、と言はれて、あれ、と思つたら、それから、口がきけなくなつた。運動会も何も見えなくなつた。三十年ちかく、たけはお前に逢ひたくて、逢へるかな、逢へないかな、とそればかり考へて暮してゐたのを、こんなにちやんと大人になつて、たけを見たくて、はるばると小泊までたづねて来てくれたかと思ふと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいぢや、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行つた時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持つてあちこち歩きまはつて、庫(くら)の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺(むがしこ)語らせて、たけの顔をとつくと見ながら一匙づつ養はせて、手かずもかかつたが、愛(め)ごくてなう、それがこんなにおとなになつて、みな夢のやうだ。金木へも、たまに行つたが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでゐないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。』と一語、一語、言ふたびごとに、手にしてゐる桜の小枝の花を夢中で、むしり取つては捨て、むしり取つては捨ててゐる。
『子供は?』たうとうその小枝もへし折つて捨て、両肘を張つてモンペをゆすり上げ、『子供は、幾人。』
私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかつて、ひとりだ、と答へた。
『男? 女?』
『女だ。』
『いくつ?』
次から次と矢継早に質問を発する。」
こちらの場面をイメージした画像を掲載いたします。
出典:ChatGPTにより生成された画像、『紫色の国民服を着た男性が、50歳くらいの女性と会話をしている。背景にはお堂や八重桜がある』などのキーワードをベースに生成、生成日:2026年1月27日
「私はたけの、そのやうに強くて不遠慮な愛情のあらはし方に接して、ああ、私は、たけに似てゐるのだと思つた。きやうだい中で、私ひとり、粗野で、がらつぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だつたといふ事に気附いた。私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはつきり知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。だうりで、金持ちの子供らしくないところがあつた。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森に於けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、さうして小泊に於けるたけである。アヤは現在も私の家に仕へてゐるが、他の人たちも、そのむかし一度は、私の家にゐた事がある人だ。私は、これらの人と友である。
さて、古聖人の獲麟を気取るわけでもないけれど、聖戦下の新津軽風土記も、作者のこの獲友の告白を以て、ひとまづペンをとどめて大過ないかと思はれる。まだまだ書きたい事が、あれこれとあつたのだが、津軽の生きてゐる雰囲気は、以上でだいたい語り尽したやうにも思はれる。私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。」
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小説「津軽」の像記念館
こちらは「津軽」のラストシーンとなる太宰と越野タケさんの再会を記念した資料館です。記念館の庭には下に引用させていただいたように、二人が小学校の運動場を眺める像が建立されています。
館内には「津軽」で太宰のたどった足跡に関する資料が展示されていて、小説全体を振り返ることができます。また、越野タケさんと太宰の写真が数多く展示されているのもこちらの見どころです。ほかにもタケさんが太宰との思い出を語る映像や太宰の声を再現した音源もあるのでぜひご視聴ください。
基本情報
【住所】青森県北津軽郡中泊町大字小泊字砂山1080-1
【アクセス】津軽中里駅からバスで約70分
【参考URL】https://www.town.nakadomari.lg.jp/soshikikarasagasu/suisanshokokankoka/gyomuannai/1/3/1091.html










