太宰治「津軽」の風景(その14)
高流山へハイキング
実家での三日目、太宰は姪夫婦らと「高流山」にハイキングに出かけました。道中では立派な農場や「津軽富士」の美しさに感動。山頂から十二湖や日本海の眺望を楽しみ、川のほとりでお弁当を広げます。蛇に遭遇するハプニングもありましたが、最後はたくさんの山菜を手に帰路につく、のどかな一日となりました。
出典:青空文庫、津軽、底本: 太宰治全集第六巻、出版社: 筑摩書房、入力: 八巻美恵氏
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html
本編・津軽平野(3)
お婿さんたちとハイキングへ
「翌る日は、上天気だつた。姪の陽子と、そのお婿さんと、私と、それからアヤが皆のお弁当を背負つて、四人で、金木町から一里ほど東の高流(たかながれ)と称する二百メートル足らずの、なだらかな小山に遊びに行つた。アヤ、と言つても、女の名前ではない。ぢいや、といふ程の意味である。お父さん、といふ意味にも使はれる。アヤに対する Femme は、アパである。アバとも言ふ。どういふところから、これらの言葉が起つて来たのか、私には、わからない。オヤ、オバの訛りか、などと当てずつぱうしてみたつてはじまらない。諸家の諸説がある事であらう。高流といふ山の名前も、姪の説に依ると、高長根(たかながね)といふのが正しい呼び方で、なだらかに裾のひろがつてゐるさまが、さながら長根の感じとか何とかといふ事であつたが、これにもまた諸家の諸説があるのであらう。諸家の諸説が紛々として帰趨の定まらぬところに、郷土学の妙味がある様子である。姪とアヤは、お弁当や何かで手間取つてゐるので、お婿さんと私とだけ、一足さきに家を出た。」
青森県観光情報サイト(Amazing Aomori)などによると「お婿さん」とは防衛庁長官や防衛庁長官、農林水産大臣などを歴任した田沢吉郎氏とのことです。下には「津軽」の時代から40年以上を経た防衛庁長官時代の写真を引用いたしました。
出典:防衛庁, CC BY 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by/3.0, via Wikimedia Commons、統合幕僚学校を視察する田澤(1988年10月7日撮影)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kichro_Tazawa.19881007.jpg
「津軽」のころの田沢氏は大学を卒業し、新婚生活を始めたばかりでした。ここでは「斜陽館」の外で太宰が田沢氏を待っているシーンをイメージしたイラストを掲載しておきます。
出典:Google Gemini 3により生成された画像、『国民服を着た太宰治似の青年が、斜陽館前に立つ』などのキーワードをベースに生成、生成日:2026年1月8日
「よい天気である。津軽の旅行は、五、六月に限る。れいの『東遊記』にも、『昔より北地に遊ぶ人は皆夏ばかりなれば、草木も青み渡り、風も南風に変り、海づらものどかなれば、恐ろしき名にも立ざる事と覚ゆ。我北地に到りしは、九月より三月の頃なれば、途中にて旅人には絶えて逢ふ事なかりし。我旅行は医術修行の為なれば、格別の事なり。只名所をのみ探らんとの心にて行く人は必ず四月以後に行くべき国なり。』としてあるが、旅行の達人の言として、読者もこれだけは信じて、覚えて置くがよい。津軽では、梅、桃、桜、林檎、梨、すもも、一度にこの頃、花が咲くのである。自信ありげに、私が先に立つて町はづれまで歩いて来たが、高流へ行く路がわからない。」
「小学校の頃に二、三度行つた事があるきりなのだから、忘れるのも無理はないとも思つたが、しかし、その辺の様子が、幼い頃の記憶とまるで違つてゐる。私は当惑して、
『停車場や何か出来て、この辺は、すつかり変つて、高流には、どう行けばいいのか、わからなくなりました。あの山なんですがね。』と私は、前方に見える、への字形に盛りあがつた薄みどり色の丘陵を指差して言つた。『この辺で、少しぶらぶらして、アヤたちを待つ事にしませう。』とお婿さんに笑ひながら提案した。」
上のストリートビューは斜陽館から高流方面に行く道中の一例です。どちらかを「への字形に盛りあがつた薄みどり色の丘陵」に見立ててみましょう。
修練農場に感動
「『さうしませう。』とお婿さんも笑ひながら、『この辺に、青森県の修錬農場があるとか聞きましたけど。』私よりも、よく知つてゐる。
『さうですか。捜してみませう。』修錬農場は、その路から半丁ほど右にはひつた小高い丘の上にあつた。農村中堅人物の養成と拓士訓練の為に設立せられたもののやうであるが、この本州の北端の原野に、もつたいないくらゐの堂々たる設備である。秩父の宮様が弘前の八師団に御勤務あそばされていらつしやつた折に、かしこくも、この農場にひとかたならず御助勢下されたとか、講堂もその御蔭で、地方稀に見る荘厳の建物になつて、その他、作業場あり、家畜小屋あり、肥料蓄積所、寄宿舎、私は、ただ、眼を丸くして驚くばかりであつた。」
下にはこの時、太宰たちが見た「青森県修練農場」の広告を引用しました。写真は「地方稀に見る荘厳の建物」と表現された講堂でしょうか。こちらのような建物に見とれている太宰たちの姿をイメージしてみます。
出典:東奥日報社 編『東奥年鑑』昭和15年,東奥日報社,昭和15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1073637 (参照 2026-01-07、一部抜粋)、青森県修練農場の広告
https://dl.ndl.go.jp/pid/1073637/1/226
「『へえ? ちつとも、知らなかつた。金木には過ぎたるものぢやないですか。』さう言ひながら、私は、へんに嬉しくて仕方が無かつた。やつぱり自分の生れた土地には、ひそかに、力こぶをいれてゐるものらしい。
農場の入口に、大きい石碑が立つてゐて、それには、昭和十年八月、朝香宮様の御成、同年九月、高松宮様の御成、同年十月、秩父宮様ならびに同妃宮様の御成、昭和十三年八月に秩父宮様ふたたび御成、といふ幾重もの光栄を謹んで記してゐるのである。金木町の人たちは、この農場を、もつともつと誇つてよい。」
「青森県修練農場」はその後、「弘前大学金木農場」に引き継がれていて、「大きい石碑」は現在でも残っています。以下には弘前大学公式サイトから「慈徳仰愈髙」碑の写真を引用させていただきました。
出典:国立大学法人 弘前大学公式サイト、「慈徳仰愈髙」碑
https://www.hirosaki-u.ac.jp/campus/course/monument.html
「金木だけではない、これは、津軽平野の永遠の誇りであらう。実習地とでもいふのか、津軽の各部落から選ばれた模範農村青年たちの作つた畑や果樹園、水田などが、それらの建築物の背後に、実に美しく展開してゐた。お婿さんはあちこち歩いて耕地をつくづく眺め、
『たいしたものだなあ。』と溜息をついて言つた。お婿さんは地主だから、私などより、ずいぶんいろいろ、わかるところがあるのであらう。」
以下には、ある修練農場での農業訓練の写真を引用いたしました。
出典:『満洲農業移民写真帳』,拓務省拓務局,[1936]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1916302 (参照 2026-01-08、一部抜粋)、
https://dl.ndl.go.jp/pid/1916302/1/9
金木の津軽富士(岩木山)
「『や! 富士。いいなあ。』と私は叫んだ。富士ではなかつた。津軽富士と呼ばれてゐる一千六百二十五メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふはりと浮んでゐる。実際、軽く浮んでゐる感じなのである。」
上は修練農場(弘前大学金木農場)周辺の岩木山方面に向いたストリートビューです。富士山より先端が尖っていてスマートに見えます。太宰は以下のように記しました。
「したたるほど真蒼で、富士山よりもつと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏いてふの葉をさかさに立てたやうにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮んでゐる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとほるくらゐに嬋娟たる美女ではある。
『金木も、どうも、わるくないぢやないか』私は、あわてたやうな口調で言つた。『わるくないよ。』口をとがらせて言つてゐる。
『いいですな。』お婿さんは落ちついて言つた。
私はこの旅行で、さまざまの方面からこの津軽富士を眺めたが、弘前から見るといかにも重くどつしりして、岩木山はやはり弘前のものかも知れないと思ふ一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿も忘れられなかつた。」
下には弘前市内、県道41号のストリートビューを掲載いたしました。こちらの岩木山は漢字の「山」の形にみえる、どっしりとした形状が印象的です。
「西海岸から見た山容は、まるで駄目である。崩れてしまつて、もはや美人の面影は無い。岩木山の美しく見える土地には、米もよくみのり、美人も多いといふ伝説もあるさうだが、米のはうはともかく、この北津軽地方は、こんなにお山が綺麗に見えながら、美人のはうは、どうも、心細いやうに、私には見受けられたが、これは或いは私の観察の浅薄なせゐかも知れない。
『アヤたちは、どうしたでせうね。』ふつと私は、その事が心配になり出した。『どんどんさきに行つてしまつたんぢやないかしら。』アヤたちの事を、つい忘却してゐるほど、私たちは、修錬農場の設備や風景に感心してしまつてゐたのである。」
姪を探しながら
「私たちは、もとの路に引返して、あちこち見廻してゐると、アヤが、思ひがけない傍系の野路からひよつこり出て来て、わしたちは、いままであなたたちを手わけしてさがしてゐた、と笑ひながら言ふ。アヤは、この辺の野原を捜し廻り、姪は、高流へ行く路をまつすぐにどんどん後を追つかけるやうにして行つたといふ。
『そいつあ気の毒だつたな。陽ちやんは、それぢやあ、ずいぶん遠くまで行つてしまつたらうね。おうい。』と前方に向つて大声で呼んだが、何の返辞も無い。
『まゐりませう。』とアヤは背中の荷物をゆすり上げて、『どうせ、一本道ですから。』
空には雲雀がせはしく囀つてゐる。かうして、故郷の春の野路を歩くのも、二十年振りくらゐであらうか。一面の芝生で、ところどころに低い灌木の繁みがあつたり、小さい沼があつたり、土地の起伏もゆるやかで、一昔前だつたら都会の人たちは、絶好のゴルフ場とでも言つてほめたであらう。しかも、見よ、いまはこの原野にも着々と開墾の鍬が入れられ、人家の屋根も美しく光り、あれが更生部落、あれが隣村の分村、とアヤの説明を聞きながら、金木も発展して、賑やかになつたものだと、しみじみ思つた。そろそろ、山の登り坂にさしかかつても、まだ姪の姿が見えない。
『どうしたのでせうね。』私は、母親ゆづりの苦労性である。
『いやあ、どこかにゐるでせう。』新郎は、てれながらも余裕を見せた。
『とにかく、聞いてみませう。』私は路傍の畑で働いてゐるお百姓さんに、スフの帽子をとつてお辞儀をして、『この路を、洋服を着た若いアネサマがとほりませんでしたか。』と尋ねた。とほつた、といふ答へである。何だか、走るやうに、ひどくいそいでとほつたといふ。春の野路を、走るやうにいそいで新郎の後を追つて行く姪の姿を想像して、わるくないと思つた。しばらく山を登つて行くと、並木の落葉松の蔭に姪が笑ひながら立つてゐた。ここまで追つかけて来てもゐないから、あとから来るのだらうと思つて、ここでワラビを取つてゐたといふ。別に疲れた様子も見えない。この辺は、ワラビ、ウド、アザミ、タケノコなど山菜の宝庫らしい。秋には、初茸はつたけ、土かぶり、なめこなどのキノコ類が、アヤの形容に依れば『敷しかさつてゐるほど』一ぱい生えて、五所川原、木造あたりの遠方から取りに来る人もあるといふ。
『陽ちやまは、きのこ取りの名人です。』と言ひ添へた。また、山を登りながら、
『金木へ、宮様がおいでになつたさうだね。』と私が言ふと、アヤは、改まつた口調で、はい、と答へた。
『ありがたい事だな。』
『はい。』と緊張してゐる。
『よく、金木みたいなところに、おいで下さつたものだな。』
『はい。』
『自動車で、おいでになつたか。』
『はい。自動車でおいでになりました。』
昭和10年の10月6日に秩父宮様が修練農場を訪問されたとのこと。以下にはその際に使用された(と思われる)自動車の写真を引用いたしました(青森中学・校門にて)。
出典:青森県立青森中学校 編『秩父宮殿下御台臨記念写真帖 : 昭和十一年十二月七日』,青森県立青森中学校,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1112142 (参照 2026-01-06、一部抜粋)、奉送(校門)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1112142/1/14
『アヤも、拝んだか。』
『はい。拝ませていただきました。』
『アヤは、仕合せだな。』
『はい。』と答へて、首筋に巻いてゐるタオルで顔の汗を拭いた。」
高流の頂上
「鶯が鳴いてゐる。スミレ、タンポポ、野菊、ツツジ、白ウツギ、アケビ、野バラ、それから、私の知らない花が、山路の両側の芝生に明るく咲いてゐる。背の低い柳、カシハも新芽を出して、さうして山を登つて行くにつれて、笹がたいへん多くなつた。二百メートルにも足りない小山であるが、見晴しはなかなかよい。津軽平野全部、隅から隅まで見渡す事が出来ると言ひたいくらゐのものであつた。私たちは立ちどまつて、平野を見下し、アヤから説明を聞いて、また少し歩いて立ちどまり、津軽富士を眺めてほめて、いつのまにやら、小山の頂上に到達した。」
「高流」については旧金木町が発行していた広報かなぎに以下のような記述があります。
今眺めてもその原風景には大きな変わりはありません。その場所は、大東ケ丘サントピアホームの裏側から少しのところです。山道付近まで道路は舗装されていますので、このあと少し無理すれば、頂上まで車で登れます。ただ、私有地のためか、ロープが張られ、掘削されています。
出典:広報かなぎ、1998.11(NO391)、太宰をしのぶ⑦金木町「太宰ゆかりの地(6)」
下には大東ケ丘サントピアホーム脇を抜けたところのストリートビューを掲載しました。
ストリートビューでは高流にたどり着けませんでしたが、「日本文学アルバム第15」などには昭和時代に撮影した高流からの風景が掲載されています。国立国会図書館デジタルコレクションなどで閲覧してみてください(利用者登録・ログインが必要となります)。
金木の高流山より津軽平野を望む
出典:亀井勝一郎, 野田宇太郎, 臼井吉見 編『日本文学アルバム』第15,筑摩書房,1955. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1334815 (参照 2026-01-07)、公開範囲:送信サービスで閲覧可能
https://dl.ndl.go.jp/pid/1334815/1/5
「『これが頂上か。』私はちよつと気抜けして、アヤに尋ねた。
『はい、さうです。』
『なあんだ。』とは言つたものの、眼前に展開してゐる春の津軽平野の風景には、うつとりしてしまつた。岩木川が細い銀線みたいに、キラキラ光つて見える。その銀線の尽きるあたりに、古代の鏡のやうに鈍く光つてゐるのは、田光(たつぴ)沼であらうか。さらにその遠方に模糊と煙るが如く白くひろがつてゐるのは、十三湖らしい。十三湖あるいは十三潟(がた)と呼ばれて、『津軽大小の河水凡そ十有三の派流、この地に落合ひて大湖となる。しかも各河川固有の色を失はず。』と『十三往来』に記され、津軽平野北端の湖で、岩木川をはじめ津軽平野を流れる大小十三の河川がここに集り、周囲は約八里、しかし、河川の運び来る土砂の為に、湖底は浅く、最も深いところでも三メートルくらゐのものだといふ。水は、海水の流入によつて鹹水であるが、岩木川からそそぎ這入る河水も少くないので、その河口のあたりは淡水で、魚類も淡水魚と鹹水魚と両方宿り住んでゐるといふ。」
以下には高流山より5㎞程度北に位置する袴腰岳の登山日記(登山情報サイトYAMAP)を引用させていただきます。表紙には十三湖(中央)や岩木川(画面中央から左側に流れる川)と思われる風景が写されています。太宰が目にしたもこちらのような絶景だったでしょうか。
袴腰岳 / ミンク鯨さんの活動データ | YAMAP / ヤマップ
「湖が日本海に開いてゐる南口に、十三といふ小さい部落がある。この辺は、いまから七、八百年も前からひらけて、津軽の豪族、安東氏の本拠であつたといふ説もあり、また江戸時代には、その北方の小泊港と共に、津軽の木材、米穀を積出し、殷盛を極めたとかいふ話であるが、いまはその一片の面影も無いやうである。その十三湖の北に権現崎が見える。しかし、この辺から、国防上重要の地域にはひる。私たちは眼を転じて、前方の岩木川のさらに遠方の青くさつと引かれた爽やかな一線を眺めよう。日本海である。七里長浜、一眸の内である。北は権現崎より、南は大戸瀬崎まで、眼界を遮ぎる何物も無い。」
高流(大東ヶ丘サントピアホーム近く)と権現崎・大戸瀬崎の位置関係は以下のようになっています。
「『これはいい。僕だつたら、ここへお城を築いて、』と言ひかけたら、
『冬はどうします?』と陽子につつ込まれて、ぐつとつまつた。
『これで、雪が降らなければなあ。』と私は、幽かな憂鬱を感じて歎息した。」
お弁当を食べていると・・・
「山の陰の谷川に降りて、河原で弁当をひらいた。渓流にひやしたビールは、わるくなかつた。姪とアヤは、リンゴ液を飲んだ。そのうちに、ふと私は見つけた。
『蛇!』
お婿さんは脱ぎ捨てた上衣をかかへて腰をうかした。
『大丈夫、大丈夫。』と私は谷川の対岸の岩壁を指差して言つた。『あの岩壁に這ひ上らうとしてゐるのです。』奔湍から首をぬつと出して、見る見る一尺ばかり岩壁によぢ登りかけては、はらりと落ちる。また、するすると登りかけては、落ちる。執念深く二十回ほどそれを試みて、さすがに疲れてあきらめたか、流れに押流されるやうにして長々と水面にからだを浮かせたままこちらの岸に近づいて来た。アヤは、この時、立ち上つた。一間ばかりの木の枝を持ち、黙つて走つて行つて、ざんぶと渓流に突入し、ずぶりとやつた。私たちは眼をそむけ、
『死んだか、死んだか。』私は、あはれな声を出した。
『片附けました。』アヤは、木の枝も一緒に渓流にはふり投げた。
『まむしぢやないか。』私は、それでも、まだ恐怖してゐた。
『まむしなら、生捕りにしますが、いまのは、青大将でした。まむしの生胆は薬になります。』
『まむしも、この山にゐるのかね。』
『はい。』
私は、浮かぬ気持で、ビールを飲んだ。
アヤは、誰よりも早くごはんをすまして、それから大きい丸太を引ずつて来て、それを渓流に投げ入れ、足がかりにして、ひよいと対岸に飛び移つた。さうして、対岸の山の絶壁によぢ登り、ウドやアザミなど、山菜を取り集めてゐる様子である。」
山菜は今でも金木エリアの名物です。下には、金木観光物産館「産直メロス」の山菜についての投稿を引用させていただきました。
「『あぶないなあ。わざわざ、あんな危いところへ行かなくつたつて、他のところにもたくさん生えてゐるのに。』私は、はらはらしながらアヤの冒険を批評した。『あれはきつと、アヤは興奮して、わざとあんな危いところへ行き、僕たちにアヤの勇敢なところを大いに見せびらかさうといふ魂胆に違ひない。』
『さうよ、さうよ。』と姪も大笑ひしながら、賛成した。
『アヤあ!』と私は大声で呼びかけた。『もう、いい。あぶないから、もう、いい。』
『はい。』とアヤは答へて、するすると崖から降りた。私は、ほつとした。」
製材所の風景
「帰りは、アヤの取り集めた山菜を、陽子が背負つた。この姪は、もとから、なりも振りも、あまりかまはない子であつた。帰途は、外ヶ浜に於ける『いまだ老いざる健脚家』も、さすがに疲れて、めつきり無口になつてしまつた。山から降りたら、郭公が鳴いてゐる。町はづれの製材所には、材木がおびただしく積まれてゐて、トロツコがたえず右往左往してゐる。ゆたかな里の風景である。」
下には参考のため「青森製材所」の写真を引用いたします。
当時、金木には津軽森林鉄道の貯木場が設けられていました。例えば昭和40年の資料(金木だより80)によると、金木町の産業として農業に次ぐ産業として木材工業が挙げられており、製材所が23、木工所が18もあったとのことです。
出典:青森県 編『青森県写真帖』,青森県,大正4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/966069 (参照 2026-01-07、一部抜粋)、青森製材所
https://dl.ndl.go.jp/pid/966069/1/77
「『金木も、しかし、活気を呈して来ました。』と、私はぽつんと言つた。
『さうですか。』お婿さんも、少し疲れたらしい。もの憂さうに、さう言つた。
私は急にてれて、
『いやあ、僕なんかには、何もわかりやしませんけど、でも、十年前の金木は、かうぢやなかつたやうな気がします。だんだん、さびれて行くばかりの町のやうに見えました。いまのやうぢやなかつた。いまは何か、もりかへしたやうな感じがします。』
家へ帰つて兄に、金木の景色もなかなかいい、思ひをあらたにしました、と言つたら、兄は、としをとると自分の生れて育つた土地の景色が、京都よりも奈良よりも、佳くはないか、と思はれて来るものです、と答へた。」
旅行などの情報
金木観光物産館「産直メロス」
「産直メロス」は太宰治記念館「斜陽館」の向かい側にある観光物産館。2022年4月にリニューアルオープンしました(旧マディニー)。こちらには上で紹介した山菜以外にも国産黒毛和牛の「市浦牛」や十三湖産の「大和シジミ」などの地元の名産品を豊富に取り揃えています。また、施設内の「メロス食堂」では昔ながらの中華そばのほか、馬味噌ラーメン・馬スジ肉定食といった馬肉料理が人気です。
こちらではレアな太宰治グッズも扱っています。豆本やキーホルダー(上に引用させていただきました)が入った「太宰治ガチャ」や、太宰が高校時代に描いたイラストをデザインした「太宰治ハイスクールアートシリーズ」など、ここだけの限定商品を手に取ってみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】青森県五所川原市金木町朝日山195番地2
【アクセス】津軽鉄道・金木駅からで徒歩約7分
【参考URL】https://sanchokumerosu.wixsite.com/sanchokumerosu








