太宰治「津軽」の風景(その16)
父の姿を求めて
金木で兄たちと再会した(津軽の風景その15・参照)太宰は、父の実家がある木造(きづくり)へと向かいました。当時の木造町は「こみせ」と呼ばれるアーケードが連なる有数の穀倉地帯。そこで自分の生家とよく似た父の実家を目の当たりにした太宰は、父が抱いていたであろう故郷への思いに深く共感しました。
出典:青空文庫、津軽、底本: 太宰治全集第六巻、出版社: 筑摩書房、入力: 八巻美恵氏
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html
本編・西海岸(1)
父の思い出
「前にも幾度となく述べて来たが、私は津軽に生れ、津軽に育ちながら、今日まで、ほとんど津軽の土地を知つてゐなかつた。津軽の日本海方面の西海岸には、それこそ小学校二、三年の頃の「高山行き」以外、いちども行つた事がない。高山といふのは、金木からまつすぐ西に三里半ばかり行き車力(しやりき)といふ人口五千くらゐのかなり大きい村をすぎて、すぐ到達できる海浜の小山で、そこのお稲荷さんは有名なものださうであるが、何せ少年の頃の記憶であるから、あの服装の失敗だけが色濃く胸中に残つてゐるくらゐのもので、あとはすべて、とりとめも無くぼんやりしてしまつてゐる。この機会に、津軽の西海岸を廻つてみようといふ計画も前から私にあつたのである。鹿の子川溜池へ遊びに行つたその翌日、私は金木を出発して五所川原に着いたのは、午前十一時頃、五所川原駅で五能線に乗りかへ、十分経つか経たぬかのうちに、木造(きづくり)駅に着いた。ここは、まだ津軽平野の内である。私は、この町もちよつと見て置きたいと思つてゐたのだ。降りて見ると、古びた閑散な町である。人口四千余りで、金木町より少いやうだが、町の歴史は古いらしい。」
以下には昭和初期の木造駅の写真を引用いたしました。こちらに降り立った太宰の姿をイメージしてみましょう。なお、以下のサイト(太宰治文学アルバム 女性篇、P62)では木造駅を別の角度から撮影した写真を見ることができます(国会図書館デジタルコレクションへのログインが必要です)。
出典:『五能鉄道沿線案内 : 附・津軽鉄道沿線案内』,北辰日報社,昭和11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1057235 (参照 2026-01-14、一部抜粋)、木造駅
https://dl.ndl.go.jp/pid/1057235/1/47
「精米所の機械の音が、どつどつと、だるげに聞えて来る。どこかの軒下で、鳩が鳴いてゐる。ここは、私の父が生れた土地なのである。金木の私の家では代々、女ばかりで、たいてい婿養子を迎へてゐる。父はこの町のMといふ旧家の三男かであつたのを、私の家から迎へられて何代目かの当主になつたのである。この父は、私の十四の時に死んだのであるから、私はこの父の『人間』に就いては、ほとんど知らないと言はざるを得ない。」
出典:衆議院事務局, Public domain, via Wikimedia Commons、津島源右衛門(1871~1923)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gen%27emon_Tsushima.jpg
上には太宰の父・津島源右衛門の顔写真を掲載いたしました。以下はウィキペディアからの引用です。松木家は木造でも指折りの大地主でした。
青森県西津軽郡木造村(現つがる市)の松木家に、8代目七右衛門の子、永三郎として生まれる。のち、北津軽郡金木村(現五所川原市)の津島家に養子として入り、津島源右衛門を名乗る。
1897年、金木銀行を設立し、その頭取となる。1901年に青森県会議員に当選。1912年、第11回衆議院議員総選挙で立憲政友会から立候補し当選。1922年、貴族院多額納税者議員の補欠選挙で当選。
出典:ウィキペディア、津島源右衛門
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B3%B6%E6%BA%90%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80
「また自作の『思ひ出』の中の一節を借りるが、『私の父は非常に忙しい人で、うちにゐることがあまりなかつた。うちにゐても子供らと一緒には居らなかつた。私は此の父を恐れてゐた。父の万年筆をほしがつてゐながらそれを言ひ出せないで、ひとり色々と思ひ悩んだ末、或る晩に床の中で眼をつぶつたまま寝言のふりして、まんねんひつ、まんねんひつ、と隣部屋で客と対談中の父へ低く呼びかけた事があつたけれど、勿論それは父の耳にも心にもはひらなかつたらしい。私と弟とが米俵のぎつしり積まれたひろい米蔵に入つて面白く遊んでゐると、父が入口に立ちはだかつて、坊主、出ろ、出ろ、と叱つた。光を背から受けてゐるので父の大きい姿がまつくろに見えた。私は、あの時の恐怖を惟ふと今でも、いやな気がする。(中略)その翌春、雪のまだ深く積つてゐた頃、私の父は東京の病院で血を吐いて死んだ。ちかくの新聞社は父の訃を号外で報じた。私は父の死よりも、かういふセンセイシヨンの方に興奮を感じた。遺族の名にまじつて私の名も新聞に出てゐた。父の死骸は大きい寝棺に横たはり橇に乗つて故郷へ帰つて来た。私は大勢のまちの人たちと一緒に隣村近くまで迎へに行つた。やがて森の蔭から幾台となく続いた橇の幌が月光を受けつつ滑つて出て来たのを眺めて私は美しいと思つた。つぎの日、私のうちの人たちは父の寝棺の置かれてある仏間に集つた。棺の蓋が取りはらはれるとみんな声をたてて泣いた。父は眠つてゐるやうであつた。高い鼻筋がすつと青白くなつてゐた。私は皆の泣声を聞き、さそはれて涙を流した。』まあ、だいたいこんな事だけが父に関する記憶と言つていいくらゐのもので、父が死んでからは、私は現在の長兄に対して父と同様のおつかなさを感じ、またそれゆゑ安心して寄りかかつてもゐたし、父がゐないから淋しいなどと思つた事はいちども無かつたのである。しかし、だんだんとしを取るにつれて、いつたい父は、どんな性格の男だつたのだらう、などと無礼な忖度をしてみるやうになつて、東京の草屋に於ける私の仮寝の夢にも、父があらはれ、実は死んだのではなくて或る政治上の意味で姿をかくしてゐたのだといふ事がわかり、思ひ出の父の面影よりは少し老い疲れてゐて、私はその姿をひどくなつかしく思つたり、夢の話はつまらないが、とにかく、父に対する関心は最近非常に強くなつて来たのは事実である。父の兄弟は皆、肺がわるくて、父も肺結核ではないが、やはり何か呼吸器の障りで吐血などして死んだのである。五十三で死んで、私は子供心には、そのとしがたいへんな老齢のやうに感ぜられ、まづ大往生と思つてゐたのだが、いまは五十三の死歿を頽齢の大往生どころか、ひどい若死にと考へるやうになつた。も少し父を生かして置いたら、津軽のためにも、もつともつと偉い事業をしたのかも知れん、などと生意気な事など考へてゐる。その父が、どんな家に生れて、どんな町に育つたか、私はそれを一度見て置きたいと思つてゐたのだ。」
木造の風景
「木造の町は、一本路の両側に家が立ち並んでゐるだけだ。さうして、家々の背後には、見事に打返された水田が展開してゐる。水田のところどころにポプラの並木が立つてゐる。こんど津軽へ来て、私は、ここではじめてポプラを見た。他でもたくさん見たに違ひないのであるが、木造(きづくり)のポプラほど、あざやかに記憶に残つてはゐない。薄みどり色のポプラの若葉が可憐に微風にそよいでゐた。ここから見た津軽富士も、金木から見た姿と少しも違はず、華奢で頗る美人である。このやうに山容が美しく見えるところからは、お米と美人が産出するといふ伝説があるとか。この地方は、お米はたしかに豊富らしいが、もう一方の、美人の件は、どうであらう。これも、金木地方と同様にちよつと心細いのではあるまいか。その件に関してだけは、あの伝説は、むしろ逆ぢやないかとさへ私には疑はれた。岩木山の美しく見える土地には、いや、もう言ふまい。こんな話は、えてして差しさはりの多いものだから、ただ町を一巡しただけの、ひやかしの旅人のにはかに断定を下すべき筋合のものではないかも知れない。」
以下は木造駅南側のストリートビューです。岩木山の左側にある枝を上に伸ばした木々がポプラの木と思われます。昭和期には道路沿いに防風用のポプラ並木ができていましたが、近年は減っているとのことです。
「その日も、ひどくいい天気で、停車場からただまつすぐの一本街のコンクリート路の上には薄い春霞のやうなものが、もやもや煙つてゐて、ゴム底の靴で猫のやうに足音も無くのこのこ歩いてゐるうちに春の温気(うんき)にあてられ、何だか頭がぼんやりして来て、木造警察署の看板を、木造(もくざう)警察署と読んで、なるほど木造(もくざう)の建築物、と首肯き、はつと気附いて苦笑したりなどした。」
以下には、太宰が見たと思われる木造(きづくり)警察署の写真を引用いたしました。
出典:広報つがる、2020.8月号、https://www.city.tsugaru.aomori.jp/
木造警察署は昭和46年に下のストリートビューのようなコンクリート建築(木造町字千代町18番地1)となり、平成17年には町村合併により「つがる警察署」に改称。その後、平成31年には新庁舎(つがる市木造赤根1番地4)に移転しています(詳細は「青森県警察・つがる警察署の沿革」をご参照ください)。
「木造(きづくり)は、また、コモヒの町である。コモヒといふのは、むかし銀座で午後の日差しが強くなれば、各商店がこぞつて店先に日よけの天幕を張つたらう、さうして、読者諸君は、その天幕の下を涼しさうな顔をして歩いたらう、さうして、これはまるで即席の長い廊下みたいだと思つたらう、つまり、あの長い廊下を、天幕なんかでなく、家々の軒を一間ほど前に延長させて頑丈に永久的に作つてあるのが、北国のコモヒだと思へば、たいして間違ひは無い。しかも之は、日ざしをよけるために作つたのではない。そんな、しやれたものではない。冬、雪が深く積つた時に、家と家との聯絡に便利なやうに、各々の軒をくつつけ、長い廊下を作つて置くのである。吹雪の時などには、風雪にさらされる恐れもなく、気楽に買ひ物に出掛けられるので、最も重宝だし、子供の遊び場としても東京の歩道のやうな危険はなし、雨の日もこの長い廊下は通行人にとつて大助かりだらうし、また、私のやうに、春の温気にまゐつた旅人も、ここへ飛び込むと、ひやりと涼しく、店に坐つてゐる人達からじろじろ見られるのは少し閉口だが、まあ、とにかく有難い廊下である。コモヒといふのは、小店(こみせ)の訛りであると一般に信じられてゐるやうだが、私は、隠瀬(このせ)あるいは隠日(こもひ)とでもいふ漢字をあてはめたはうが、早わかりではなからうか、などと考へてひとりで悦にいつてゐる次第である。」
下には昭和40年代(1965年)ごろの木造の「こみせ」通りの動画を引用させていただきました。
「そのコモヒを歩いてゐたら、M薬品問屋の前に来た。私の父の生れた家だ。立ち寄らず、そのままとほり過ぎて、やはりコモヒをまつすぐに歩いて行きながら、どうしようかなあ、と考へた。この町のコモヒは、実に長い。津軽の古い町には、たいていこのコモヒといふものがあるらしいけれども、この木造町みたいに、町全部がコモヒに依つて貫通せられてゐるといつたやうなところは少いのではあるまいか。いよいよ木造は、コモヒの町にきまつた。しばらく歩いて、やうやくコモヒも尽きたところで私は廻れ右して、溜息ついて引返した。」
昭和時代に比べて減少していますが、木造エリアには以下のストリートビューのようなアーケードがまだ残っています。
父の実家
「私は今まで、Mの家に行つた事は、いちども無い。木造町へ来た事も無い。或いは私の幼年時代に、誰かに連れられて遊びに来た事はあつたかも知れないが、いまの私の記憶には何も残つてゐない。Mの家の当主は、私よりも四つ五つ年上の、にぎやかな人で、昔からちよいちよい金木へも遊びに来て私とは顔馴染である。私がいま、たづねて行つても、まさか、いやな顔はなさるまいが、どうも、しかし、私の訪ね方が唐突である。こんな薄汚いなりをして、Mさんしばらく、などと何の用も無いのに卑屈に笑つて声をかけたら、Mさんはぎよつとして、こいついよいよ東京を食ひつめて、金でも借りに来たんぢやないか、などと思やすまいか。死ぬまへにいちど、父の生れた家を見たくて、といふのも、おそろしいくらゐに気障(きざ)だ。男が、いいとしをして、そんな事はとても言へたもんぢやない。いつそこのまま帰らうか、などと悶えて歩いてゐるうちに、またもとのM薬品問屋の前に来た。」
父の実家であるM薬品問屋のモデルは「松木薬品問屋」という名称でした。また、青森県観光情報サイト(太宰治と歩く現代の「津軽」の旅)には「Mの家の当主」について、「松木秀輔(父源右衛門の生家の当主)木造で太宰をもてなす」という解説が記されています。なお、松木秀輔氏については「官報(日本の法令や国の広報を掲載する政府の機関紙)」に「高谷銀行の取締役に就任」との記事があり、その住所を知ることができます。
株式會社高谷銀行変更
出典:大蔵省印刷局 [編]『官報』1925年11月26日,日本マイクロ写真 ,大正14年. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2956127 (参照 2026-01-14)
一大正十四年九月二十六日取締役並会社ヲ代表スヘキ取締役高谷豊之助、高谷嘉繫ハ重任ス
一同日左者取締役に就任ス
原田豊次 西津軽郡(以下略)
松木秀輔 同郡木造町字千代町三十七番地
https://dl.ndl.go.jp/pid/2956127/1/24
「木造町字千代町三十七番地」は現在の「つがる市木造千代町37番地」となっており、下のストリートビュー中央の建物のあたり。ネット情報によると、右側の郵便局までが松木家の範囲だったようです。日本文学アルバム第15には松木家(薬品問屋松木家)の前でM(松木秀輔)さんたちを撮影した写真が掲載されています。
松木氏が取締役として関わった高谷銀行の建物は今も残っていて、旧高谷銀行本店(盛農薬商会倉庫)として県の登録文化財に指定されています。以下にその周辺のストリートビューを引用いたしました(松木邸から徒歩すぐの場所)。
「もう二度と、来る機会はないのだ。恥をかいてもかまはない。はひらう。私は、とつさに覚悟をきめて、ごめん下さい、と店の奥のはうに声をかけた。Mさんが出て来て、やあ、ほう、これは、さあさあ、とたいへんな勢ひで私には何も言はせず、引つぱり上げるやうに座敷へ上げて、床の間の前に無理矢理坐らせてしまつた。ああ、これ、お酒、とお家の人たちに言ひつけて、二、三分も経たぬうちに、もうお酒が出た。実に、素早かつた。
『久し振り。久し振り。』とMさんはご自分でもぐいぐい飲んで、『木造は何年振りくらゐです。』
『さあ、もし子供の時に来た事があるとすれば、三十年振りくらゐでせう。』
『さうだらうとも、さうだらうとも。さあさ、飲みなさい。木造へ来て遠慮する事はない。よく来た。実に、よく来た。』
この家の間取りは、金木の家の間取りとたいへん似てゐる。金木のいまの家は、私の父が金木へ養子に来て間もなく自身の設計で大改築したものだといふ話を聞いてゐるが、何の事は無い、父は金木へ来て自分の木造の生家と同じ間取りに作り直しただけの事なのだ。私には養子の父の心理が何かわかるやうな気がして、微笑ましかつた。さう思つて見ると、お庭の木石の配置なども、どこやら似てゐる。私はそんなつまらぬ一事を発見しただけでも、死んだ父の『人間』に触れたやうな気がして、このMさんのお家へ立寄つた甲斐があつたと思つた。」
(議員)郵便局のそばの、つまり太宰治さんのお父さんの実家跡、壊れているのか、人が入っているのかわかりませんけれども、あれを整備して跡地という看板でも立てるとか、それはできないものでしょうか。
出典:つがる市議会会議録、平成28年第2回(6月)定例会、https://www.city.tsugaru.aomori.jp/
(総務部長)今郵便局の隣にある建物が太宰治さんの実父の生家というふうに記憶していますけれども、まだあそこの奥のほうに人が入っていると記憶していましたけれども(後略)
上に引用させていただいた平成28年(2016年)のつがる市議会会議録(ネット上に公開)によると、当時はまだ源右衛門(太宰父)の実家が残っていたとのこと。改めて2014年6月のストリートビューを確認してみると、「木造町字千代町三十七番地」の少し奥側に古い建物が残っていました。こちらが松木家の一部だったかもしれません。屋根の形やつくりの大きさは「斜陽館」にそっくりです。
父が実家を思って金木の「斜陽館」を設計したということを知り、太宰は初めて(?)父への親近感を覚えたのでした。
「Mさんは、何かと私をもてなさうとする。
『いや、もういいんだ。一時の汽車で、深浦へ行かなければいけないのです。』
『深浦へ? 何しに?」
『べつに、どうつてわけも無いけど、いちど見て置きたいのです。』
『書くのか?』
『ええ、それもあるんだけど、』いつ死ぬかわからんし、などと相手に興覚めさせるやうな事は言へなかつた。
『ぢやあ、木造の事も書くんだな。木造の事を書くんだつたらね、』とMさんは、少しもこだはるところがなく、『まづ第一に、米の供出高を書いてもらひたいね。警察署管内の比較では、この木造署管内は、全国一だ。どうです、日本一ですよ。これは、僕たちの努力の結晶と言つても、差支へ無いと思ふ。この辺一帯の田の、水が枯れた時に、僕は隣村へ水をもらひに行つて、つひに大成功して、大トラ変じて水虎大明神といふ事になつたのです。僕たちも、地主だからつて、遊んでは居られない。僕は脊髄がわるいんだけど、でも、田の草取りをしましたよ。まあ、こんどは東京のあんた達にも、おいしいごはんがどつさり配給されるでせう。』たのもしい限りである。Mさんは、小さい頃から、闊達な気性のひとであつた。子供つぽいくりくりした丸い眼に魅力があつて、この地方の人たち皆に敬愛せられてゐるやうだ。私は、心の中でMさんの仕合せを祈り、なほも引きとめられるのを汗を流して辞去し、午後一時の深浦行きの汽車にやつと間に合ふ事が出来た。」
出典:Google Gemini 3により生成された画像、『こみせの中を歩く国民服の男』などのキーワードをベースに生成、生成日:2026年1月19日
上には「こみせ」の中を駅へと急ぐ太宰の姿をイメージした図を掲載いたします。
旅行などの情報
亀ヶ岡石器時代遺跡
太宰治の父の実家があったつがる市木造は「遮光器土偶(しゃこうきどぐう)」の発掘場所としても有名です。遮光器土偶が出土(明治20年)した「亀ヶ岡石器時代遺跡」は2021年に「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録されています。
出典:Saigen Jiro, Public domain, via Wikimedia Commons、青森県つがる市木造亀ヶ岡出土 遮光器土偶
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E9%9D%92%E6%A3%AE%E7%9C%8C%E3%81%A4%E3%81%8C%E3%82%8B%E5%B8%82%E6%9C%A8%E9%80%A0%E4%BA%80%E3%83%B6%E5%B2%A1%E5%87%BA%E5%9C%9F_%E9%81%AE%E5%85%89%E5%99%A8%E5%9C%9F%E5%81%B6.JPG
遺跡は下のストリートビューのような「しゃこちゃん(遮光器土偶の愛称)の石像」がシンボルとなっていて、「縄文遺跡案内所」ではボランティアガイドの方が丁寧な解説をしてくれます。また、「しゃこちゃん」グッズや青森土産を販売するお店も併設しているのでぜひお立ち寄りください。
木造エリアにはほかにも、「縄文住居展示資料館カルコ」や「しゃこちゃん」の形をした木造駅など遺跡をテーマにしたスポットが点在するので、巡ってみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】青森県つがる市木造亀ヶ岡地内
【アクセス】JR五能線・木造駅から車で約20分
【参考URL】https://aomori-tourism.com/spot/detail_56.html
中町こみせ通り
津軽には木造エリア以外にも「こみせ」が残っているエリアがあります。特に黒石市の「中町こみせ通り」は藩政時代からの通りがよく保存されており、2005年に「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。道沿いには以下のストリートビューのようなアーケードが続き、タイムスリップしたような気分になります。
また、途中には国指定重要文化財の「高橋家住宅」やお土産処「津軽こみせ駅」などがあるので、休憩を挟みながら街歩きをお楽しみください。
基本情報
【住所】黒石市大字中町
【アクセス】黒石駅から徒歩で約10分
【参考URL】http://www.city.kuroishi.aomori.jp/kankou/spot/kankou/komise/






