太宰治「津軽」の風景(その18)
鯵ヶ沢・五所川原
初めて訪れた鯵ヶ沢では、案内人もなく町に馴染めなかった太宰ですが、五所川原は恩人の中畑さんや叔母が暮らす心許せる土地でした。彼はそこで、数日後に結婚を控えた中畑さんの娘の案内で、懐かしい場所を巡ります。見知らぬ土地での孤独とは対照的に、知己に囲まれた五所川原で安らぎを覚える太宰の姿が浮かびます。
出典:青空文庫、津軽、底本: 太宰治全集第六巻、出版社: 筑摩書房、入力: 八巻美恵氏
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html
本編・西海岸(3)
鯵ヶ沢の町並
「鰺ヶ沢。私は、深浦からの帰りに、この古い港町に立寄つた。この町あたりが、津軽の西海岸の中心で、江戸時代には、ずいぶん栄えた港らしく、津軽の米の大部分はここから積出され、また大阪廻りの和船の発着所でもあつたやうだし、水産物も豊富で、ここの浜にあがつたさかなは、御城下をはじめ、ひろく津軽平野の各地方に於ける家々の食膳を賑はしたものらしい。けれども、いまは、人口も四千五百くらゐ、木造、深浦よりも少いやうな具合で、往年の隆々たる勢力を失ひかけてゐるやうだ。鰺ヶ沢といふからには、きつと昔の或る時期に、見事な鰺がたくさんとれたところかとも思はれるが、私たちの幼年時代には、ここの鰺の話はちつとも聞かず、ただ、ハタハタだけが有名であつた。ハタハタは、このごろ東京にも時たま配給されるやうであるから、読者もご存じの事と思ふが、鰰、または鱩などといふ字を書いて、鱗の無い五、六寸くらゐのさかなで、まあ、海の鮎とでも思つていただいたら大過ないのではあるまいか。西海岸の特産で、秋田地方がむしろ本場のやうである。東京の人たちは、あれを油つこくていやだと言つてゐるやうだけれど、私たちには非常に淡泊な味のものに感ぜられる。津軽では、あたらしいハタハタを、そのまま薄醤油で煮て片端から食べて、二十匹三十匹を平気でたひらげる人は決して珍らしくない。ハタハタの会などがあつて、一ばん多く食べた人には賞品、などといふ話もしばしば聞いた。東京へ来るハタハタは古くなつてゐるし、それに料理法も知らないだらうから、ことさらまづいものに感ぜられるのであらう。俳句の歳時記などにも、ハタハタが出てゐるやうだし、また、ハタハタの味は淡いといふ意味の江戸時代の俳人の句を一つ読んだ記憶もあるし、あるいは江戸の通人には、珍味とされてゐたものかも知れない。いづれにもせよ、このハタハタを食べる事は、津軽の冬の炉辺のたのしみの一つであるといふ事には間違ひない。」
近年も「ハタハタ」は鯵ヶ沢の名物ですが、昭和期と比べて水揚げが減り、高級魚となっているようです。下には鯵ヶ沢町漁業公共組合の投稿を引用させていただきました。
ハタハタは秋田名物しょっつる鍋のスープの原料魚としても利用されてきました。話がそれますが、夏目漱石の門下生・内田百閒も鉄道紀行のなかで「ハタハタ」を話題にしていました(第一阿房列車の風景その6・参照)。
以下「津軽」に戻ります。
「私は、そのハタハタに依つて、幼年時代から鰺ヶ沢の名を知つてはゐたのだが、その町を見るのは、いまがはじめてであつた。山を背負ひ、片方はすぐ海の、おそろしくひよろ長い町である。市中はものの匂ひや、とかいふ凡兆の句を思ひ出させるやうな、妙によどんだ甘酸つぱい匂ひのする町である。」
下には昭和初期の鯵ヶ沢市街の写真を引用いたしました。「おそろしくひよろ長い町」とあるように、海岸線に沿って長い町並みが続いています。
出典:青森県医師会 編『青森県遊覧指針』,青森県医師会,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1173954 (参照 2026-01-21、一部抜粋)、鯵ヶ沢市街
https://dl.ndl.go.jp/pid/1173954/1/54
「川の水も、どろりと濁つてゐる。どこか、疲れてゐる。木造町のやうに、ここにも長い『コモヒ』があるけれども、少し崩れかかつてゐる、木造町のコモヒのやうな涼しさが無い。その日も、ひどくいい天気だつたが、日ざしを避けて、コモヒを歩いてゐても、へんに息づまるやうな気持がする。飲食店が多いやうである。昔は、ここは所謂銘酒屋のやうなものが、ずいぶん発達したところではあるまいかと思はれる。今でも、そのなごりか、おそばやが四、五軒、軒をつらねて、今の時代には珍らしく『やすんで行きせえ。』などと言つて道を通る人に呼びかけてゐる。」
下には「こみせ」が続く鯵ヶ沢本町の写真を引用いたしました(昭和5年頃)。「やすんで行きせえ。」という蕎麦屋さんの声に耳を澄ませてみましょう。
出典:緑草会 編『民家図集』第六輯 青森縣,大塚巧芸社,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1902121 (参照 2026-01-20、一部抜粋)、青森県西津軽郡鰺ヶ沢町 町並
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902121/1/30
「ちやうどお昼だつたので、私は、そのおそばやの一軒にはひつて、休ませてもらつた。おそばに、焼ざかなが二皿ついて、四十銭であつた。おそばのおつゆも、まづくなかつた。それにしても、この町は長い。海岸に沿うた一本街で、どこ迄行つても、同じやうな家並が何の変化もなく、だらだらと続いてゐるのである。私は、一里歩いたやうな気がした。やつと町のはづれに出て、また引返した。町の中心といふものが無いのである。たいていの町には、その町の中心勢力が、ある箇所にかたまり、町の重(おもし)になつてゐて、その町を素通りする旅人にも、ああ、この辺がクライマツクスだな、と感じさせるやうに出来てゐるものだが、鰺ヶ沢にはそれが無い。扇のかなめがこはれて、ばらばらに、ほどけてゐる感じだ。これでは町の勢力あらそひなど、ごたごたあるのではなからうかと、れいのドガ式政談さへ胸中に往来したほど、どこか、かなめの心細い町であつた。かう書きながら、私は幽かに苦笑してゐるのであるが、深浦といひ鰺ヶ沢といひ、これでも私の好きな友人なんかがゐて、ああよく来てくれた、と言つてよろこんで迎へてくれて、あちこち案内し説明などしてくれたならば、私はまた、たわいなく、自分の直感を捨て、深浦、鰺ヶ沢こそ、津軽の粋である、と感激の筆致でもつて書きかねまいものでもないのだから、実際、旅の印象記などあてにならないものである。深浦、鰺ヶ沢の人は、もしこの私の本を読んでも、だから軽く笑つて見のがしてほしい。私の印象記は、決して本質的に、君たちの故土を汚すほどの権威も何も持つてゐないのだから。」
鯵ヶ沢や前回の深浦(津軽の風景その17・参照)が太宰に好印象を与えなかったのは、一人寂しく巡ったことも大きな要因だったようです。
五所川原へ
「鰺ヶ沢の町を引上げて、また五能線に乗つて五所川原町に帰り着いたのは、その日の午後二時。私は駅から、まつすぐに、中畑さんのお宅へ伺つた。」
下には昭和初期の五所川原駅の写真を引用いたしました。太宰が階段を下りてくるところを想像してみます。
出典:五能鉄道沿線案内 : 附・津軽鉄道沿線案内』,北辰日報社,昭和11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1057235 (参照 2026-01-21、一部抜粋)、五所川原駅
https://dl.ndl.go.jp/pid/1057235/1/28
「中畑さんの事は、私も最近、『帰去来』『故郷』など一聯の作品によく書いて置いた筈であるから、ここにはくどく繰り返さないが、私の二十代に於けるかずかずの不仕鱈(ふしだら)の後仕末を、少しもいやな顔をせず引受けてくれた恩人である。しばらく振りの中畑さんは、いたましいくらゐに、ひどくふけてゐた。昨年、病気をなさつて、それから、こんなに痩せたのださうである。
『時代だぢやあ。あんたが、こんな姿で東京からやつて来るやうになつたものなう。』と、それでも嬉しさうに、私の乞食にも似たる姿をつくづく眺め、『や、靴下が切れてゐるな。』と言つて、自分で立つて箪笥から上等の靴下を一つ出して私に寄こした。
『これから、ハイカラ町(ちやう)へ行きたいと思つてるんだけど。』
『あ、それはいい。行つていらつしやい。それ、けい子、御案内。』と中畑さんは、めつきり痩せても、気早やな性格は、やはり往年のままである。」
上には中畑さん(中畑慶吉さん左)とけい子(飛嶋けいさん)の写真の投稿を引用させていただきます。投稿文に記されているように、飛嶋けいさんは2025年に102歳でお亡くなりになりました。
叔母の「思ひ出」
「五所川原の私の叔母の家族が、そのハイカラ町に住んでゐるのである。私の幼年の頃に、その街がハイカラ町といふ名前であつたのだけれども、いまは大町とか何とか、別な名前のやうである。五所川原町に就いては、序編に於いて述べたが、ここには私の幼年時代の思ひ出がたくさんある。四、五年前、私は五所川原の或る新聞に次のやうな随筆を発表した。
『叔母が五所川原にゐるので、小さい頃よく五所川原へ遊びに行きました。旭座の舞台開きも見に行きました。小学校の三、四年の頃だつたと思ひます。たしか、友右衛門だつた筈です。梅の由兵衛に泣かされました。廻舞台を、その時、生れてはじめて見て、思はず立ち上つてしまつた程に驚きました。あの旭座は、その後間もなく火事を起し、全焼しました。その時の火焔が、金木から、はつきり見えました。映写室から発火したといふ話でした。さうして、映画見物の小学生が十人ほど焼死しました。映写の技師が、罪に問はれました。過失傷害致死とかいふ罪名でした。子供心にも、どういふわけだか、その技師の罪名と、運命を忘れる事が出来ませんでした。旭(あさひ)座といふ名前が『火(ひ)』の字に関係があるから焼けたのだといふ噂も聞きました。二十年も前の事です。』」
「友右衛門」とは六代目大谷友右衛門(1886年~1943年)のことでしょうか。以下には「義経千本桜」で新中納言知盛を演じる友右衛門の写真を引用いたしました。
出典:演藝畫報社(Engeigaho Sha), Public domain, via Wikimedia Commons、大谷友右衛門 (6代目)の『義経千本桜』の新中納言知盛。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%C5%8Ctani_Tomoemon_VI_as_Tomomori.jpg
「『七つか、八つの頃、五所川原の賑やかな通りを歩いて、どぶに落ちました。かなり深くて、水が顎のあたりまでありました。三尺ちかくあつたのかも知れません。夜でした。上から男の人が手を差し出してくれたので、それにつかまりました。ひき上げられて衆人環視の中で裸にされたので、実に困りました。ちやうど古着屋のまへでしたので、その店の古着を早速着せられました。女の子の浴衣でした。帯も、緑色の兵児帯でした。ひどく恥かしく思ひました。叔母が顔色を変へて走つて来ました。私は叔母に可愛がられて育ちました。私は、男ぶりが悪いので、何かと人にからかはれて、ひとりでひがんでゐましたが、叔母だけは、私を、いい男だと言つてくれました。他の人が、私の器量の悪口を言ふと、叔母は、本気に怒りました。みんな、遠い思ひ出になりました。』」
五所川原を散策
「中畑さんのひとり娘のけいちやんと一緒に中畑さんの家を出て、
『僕は岩木川を、ちよつと見たいんだけどな。ここから遠いか。』
すぐそこだといふ。
『それぢや、連れて行つて。』
けいちやんの案内で町を五分も歩いたかと思ふと、もう大川である。子供の頃、叔母に連れられて、この河原に何度も来た記憶があるが、もつと町から遠かつたやうに覚えてゐる。子供の足には、これくらゐの道のりでも、ひどく遠く感ぜられたのであらう。それに私は、家の中にばかりゐて、外へ出るのがおつかなくて、外出の時には目まひするほど緊張してゐたものだから、なほさら遠く思はれたのだらう。橋がある。これは、記憶とそんなに違はず、いま見てもやつぱり同じ様に、長い橋だ。
『いぬゐばし、と言つたかしら。』
『ええ、さう。』
『いぬゐ、つて、どんな字だつたかしら。方角の乾(いぬゐ)だつたかな?』
『さあ、さうでせう。』笑つてゐる。
『自信無し、か。どうでもいいや。渡つてみよう。』
私は片手で欄干を撫でながらゆつくり橋を渡つて行つた。いい景色だ。東京近郊の川では、荒川放水路が一ばん似てゐる。河原一面の緑の草から陽炎がのぼつて、何だか眼がくるめくやうだ。さうして岩木川が、両岸のその緑の草を舐めながら、白く光つて流れてゐる。」
出典:『五能鉄道沿線案内 : 附・津軽鉄道沿線案内』,北辰日報社,昭和11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1057235 (参照 2026-01-21、一部抜粋)、乾橋
https://dl.ndl.go.jp/pid/1057235/1/30
上には昭和初期の乾橋の写真を引用いたします。太宰が訪れた時に渡ったのは、昭和4年に竣工したこちらのコンクリート橋でした。
以下には近年の乾橋(昭和37年に架け替え工事完了)付近のストリートビューを掲載いたします。中央には岩木山の雄姿が写っています。橋は異なりますが、太宰たちも同様な景色を見ていたのではないでしょうか。
「『夏には、ここへみんな夕涼みにまゐります。他に行くところもないし。』
五所川原の人たちは遊び好きだから、それはずいぶん賑はふ事だらうと思つた。
『あれが、こんど出来た招魂堂です。』けいちやんは、川の上流のはうを指差して教へて、「父の自慢の招魂堂。」と笑ひながら小声で言ひ添へた。
なかなか立派な建築物のやうに見えた。中畑さんは在郷軍人の幹部なのである。この招魂堂改築に就いても、れいの侠気を発揮して大いに奔走したに違ひない。橋を渡りつくしたので、私たちは橋の袂に立つて、しばらく話をした。」
以下には「永福神社」と名を変えて残る「招魂堂」周辺のストリートビューを掲載いたしました。
名前を変えた経緯などについては、青森神社庁のホームページに詳しく記述されています(以下に引用させていただきました)。
当社は、 戦前昭和十年代に旧五所川原町、 栄村、 長橋村、 七和村、 松島村、 飯詰村、 三好村、 中川村、 毘沙門村、 長富村、 小曲村、 梅沢村出身の英霊を祀る招魂堂として創建された。
出典:青森県神社庁、永福神社
終戦を迎え、 進駐軍による廃社の危機を感じた関係者は、 当時旧五所川原町本町に鎮座する旧郷社神明宮の境内社、 三社宮に祀られていた菅原道真公の御神霊を奉遷し、 同神を主祭神とする神社として当社の存続を計った。
昭和二十五年十二月宗教法人令に基づく届けをし、 菅原道真公を奉齋しつつ英霊を併わせ祀る形をとって、 社名も改まった現在の永福神社が設立された。
http://www.aomori-jinjacho.or.jp/
「『林檎はもう、間伐(かんばつ)といふのか、少しづつ伐つて、伐つたあとに馬鈴薯だか何だか植ゑるつて話を聞いたけど。」
『土地によるのぢやないんですか。この辺では、まだ、そんな話は。』
大川の土手の陰に、林檎畑があつて、白い粉つぽい花が満開である。私は林檎の花を見ると、おしろいの匂ひを感ずる。
『けいちやんからも、ずいぶん林檎を送つていただいたね。こんど、おむこさんをもらふんだつて?』
『ええ。』少しもわるびれず、真面目に首肯いた。
『いつ? もう近いの?』
『あさつてよ。』
『へえ?』私は驚いた。けれども、けいちやんは、まるでひと事のやうに、けろりとしてゐる。『帰らう。いそがしいんだらう?』
『いいえ、ちつとも。』ひどく落ちついてゐる。ひとり娘で、さうして養子を迎へ、家系を嗣がうとしてゐるひとは、十九や二十の若さでも、やつぱりどこか違つてゐる、と私はひそかに感心した。
『あした小泊へ行つて、』引返して、また長い橋を渡りながら、私は他の事を言つた。『たけに逢はうと思つてゐるんだ。』
『たけ。あの、小説に出て来るたけですか。』
『うん。さう。』
『よろこぶでせうねえ。』
『どうだか。逢へるといいけど。』
このたび私が津軽へ来て、ぜひとも、逢つてみたいひとがゐた。私はその人を、自分の母だと思つてゐるのだ。三十年ちかくも逢はないでゐるのだが、私は、そのひとの顔を忘れない。私の一生は、その人に依つて確定されたといつていいかも知れない。」
出典:Google Gemini 3により生成された画像、『橋から景色を見る男女』などのキーワードをベースに生成、生成日:2026年1月22日
上には会話をしている太宰と「けいさん」を昭和の乾橋のたもとに描いてみました。
「たけ」の思ひ出
太宰と叔母のキヱや「たけ」とのかかわりについて、ウィキペディアから引用しておきます。キヱは母の代わり、「たけ」は教育係だったようです。
父は仕事で多忙な日々を送り、母は病弱だったため、生まれてすぐ乳母に育てられた。その乳母が1年足らずで辞めた後は叔母のキエ(たねの妹)が、3歳から小学校入学までは11歳ほど年上の女中・近村たけ(1898~1983)が子守りを務めた。
出典:ウィキペディア、太宰治
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E6%B2%BB
再び「津軽」は「思ひ出」からの抜粋に移ります。
「以下は、自作『思ひ出』の中の文章である。
『六つ七つになると思ひ出もはつきりしてゐる。私がたけといふ女中から本を読むことを教へられ二人で様々の本を読み合つた。たけは私の教育に夢中であつた。私は病身だつたので、寝ながらたくさん本を読んだ。読む本がなくなれば、たけは村の日曜学校などから子供の本をどしどし借りて来て私に読ませた。私は黙読することを覚えてゐたので、いくら本を読んでも疲れないのだ。たけは又、私に道徳を教へた。お寺へ屡々連れて行つて、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。火を放つけた人は赤い火のめらめら燃えてゐる籠を背負はされ、めかけ持つた人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながつてゐた。血の池や、針の山や、無間奈落といふ白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでゐた。嘘を吐けば地獄へ行つてこのやうに鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した。』
下には雲祥寺の地獄極楽絵図のショート動画を引用させていただきます。最初の場面は嘘をついたことがばれたところでしょうか?今から舌を抜かれる!?
『(思ひ出、続き)そのお寺の裏は小高い墓地になつてゐて、山吹かなにかの生垣に沿うてたくさんの卒塔婆が林のやうに立つてゐた。卒塔婆には、満月ほどの大きさで車のやうな黒い鉄の輪のついてゐるのがあつて、その輪をからから廻して、やがて、そのまま止つてじつと動かないならその廻した人は極楽へ行き、一旦とまりさうになつてから、又からんと逆に廻れば地獄へ落ちる、とたけは言つた。たけが廻すと、いい音をたててひとしきり廻つて、かならずひつそりと止るのだけれど、私が廻すと後戻りすることがたまたまあるのだ。秋のころと記憶するが、私がひとりでお寺へ行つてその金輪のどれを廻して見ても皆言ひ合せたやうにからんからんと逆廻りした日があつたのである。私は破れかけるかんしやくだまを抑へつつ何十回となく執拗に廻しつづけた。日が暮れかけて来たので、私は絶望してその墓地から立ち去つた。」
上に引用させていただいたのは「AAB秋田朝日放送」による雲祥寺・後生車の動画です。動画では「からんと逆に廻」っていますが・・・
「『(思ひ出、続き)(中略)やがて私は故郷の小学校へ入つたが、追憶もそれと共に一変する。たけは、いつの間にかゐなくなつてゐた。或漁村へ嫁に行つたのであるが、私がそのあとを追ふだらうといふ懸念からか、私には何も言はずに突然ゐなくなつた。その翌年だかのお盆のとき、たけは私のうちへ遊びに来たが、なんだかよそよそしくしてゐた。私に学校の成績を聞いた。私は答へなかつた。ほかの誰かが代つて知らせたやうだ。たけは、油断大敵でせえ、と言つただけで格別ほめもしなかつた。』」
叔母の家へ
「私の母は病身だつたので、私は母の乳は一滴も飲まず、生れるとすぐ乳母に抱かれ、三つになつてふらふら立つて歩けるやうになつた頃、乳母にわかれて、その乳母の代りに子守としてやとはれたのが、たけである。私は夜は叔母に抱かれて寝たが、その他はいつも、たけと一緒に暮したのである。三つから八つまで、私はたけに教育された。さうして、或る朝、ふと眼をさまして、たけを呼んだが、たけは来ない。はつと思つた。何か、直感で察したのだ。私は大声挙げて泣いた。たけゐない、たけゐない、と断腸の思ひで泣いて、それから、二、三日、私はしやくり上げてばかりゐた。いまでも、その折の苦しさを、忘れてはゐない。それから、一年ほど経つて、ひよつくりたけと逢つたが、たけは、へんによそよそしくしてゐるので、私にはひどく怨めしかつた。それつきり、たけと逢つてゐない。四、五年前、私は『故郷に寄せる言葉』のラジオ放送を依頼されて、その時、あの『思ひ出』の中のたけの箇所を朗読した。故郷といへば、たけを思ひ出すのである。たけは、あの時の私の朗読放送を聞かなかつたのであらう。何のたよりも無かつた。そのまま今日に到つてゐるのであるが、こんどの津軽旅行に出発する当初から、私は、たけにひとめ逢ひたいと切に念願をしてゐたのだ。いいところは後廻しといふ、自制をひそかにたのしむ趣味が私にある。私はたけのゐる小泊の港へ行くのを、私のこんどの旅行の最後に残して置いたのである。いや、小泊へ行く前に、五所川原からすぐ弘前へ行き、弘前の街を歩いてそれから大鰐温泉へでも行つて一泊して、さうして、それから最後に小泊へ行かうと思つてゐたのだが、東京からわづかしか持つて来ない私の旅費も、そろそろ心細くなつてゐたし、それに、さすがに旅の疲れも出て来たのか、これからまたあちこち廻つて歩くのも大儀になつて来て、大鰐温泉はあきらめ、弘前市には、いよいよ東京へ帰る時に途中でちよつと立寄らうといふ具合に予定を変更して、けふは五所川原の叔母の家に一泊させてもらつて、あす、五所川原からまつすぐに、小泊へ行つてしまはうと思ひ立つたのである。けいちやんと一緒にハイカラ町の叔母の家へ行つてみると、叔母は不在であつた。叔母のお孫さんが病気で弘前の病院に入院してゐるので、それの附添に行つてゐるといふのである。」
叔母キヱの家は昭和19年11月の五所川原大火で焼失しますが、蔵だけは奇跡的に残りました。解体・再築を経て現在(2026年)、太宰治「思ひ出」の蔵として公開されています。以下、太宰治「思ひ出」の蔵の公式サイトから引用させていただきました。
大正5年(1916年)1月18日、太宰治が幼少の頃「母」と慕った叔母キヱの一家が、太宰の生家である金木の津島家から分家した際に建てられたものです。
出典:株式会社まちなか五所川原公式サイト、太宰治「思ひ出」の蔵
平成23年(2011年)の解体まで現在の場所にあったもので、平成26年8月に再築されました。
http://www.machinaka-go.co.jp/business.html
下のストリートビューの三角屋根が太宰治「思ひ出」の蔵です。右側の看板には叔母キヱさんと太宰の写真が印刷されています。小説「津軽」の際は母屋に泊まったと思われますが、焼失後も叔母の一家はこちらの蔵で暮らしていて、疎開時(昭和20年7月末から約1年3ヶ月)には太宰が何度も訪れたとのことです。
叔母の家で対応してくれたのはキヱの長女・リヱでした。リヱは太宰とは従姉という関係でしたが、キヱ一家は長期間、金木の実家で生活していたため、実の姉弟のようにして育ちました。
「『あなたが、こつちへ来てゐるといふ事を、母はもう知つて、ぜひ逢ひたいから弘前へ寄こしてくれつて電話がありましたよ。』と従姉(いとこ)が笑ひながら言つた。叔母はこの従姉にお医者さんの養子をとつて家を嗣がせてゐるのである。
『あ、弘前には、東京へ帰る時に、ちよつと立ち寄らうと思つてゐますから、病院にもきつと行きます。』
『あすは小泊の、たけに逢ひに行くんださうです。』けいちやんは、何かとご自分の支度でいそがしいだらうに、家へ帰らず、のんきに私たちと遊んでゐる。
『たけに。』従姉は、真面目な顔になり、『それは、いい事です。たけも、なんぼう、よろこぶか、わかりません。』従姉は、私がたけを、どんなにいままで慕つてゐたか知つてゐるやうであつた。
『でも、逢へるかどうか。』私には、それが心配であつた。もちろん打合せも何もしてゐるわけではない。小泊の越野たけ。ただそれだけをたよりに、私はたづねて行くのである。
『小泊行きのバスは、一日に一回とか聞いてゐましたけど、』とけいちやんは立つて、台所に貼りつけられてある時間表を調べ、『あしたの一番の汽車でここをお立ちにならないと、中里からのバスに間に合ひませんよ。大事な日に、朝寝坊をなさらないやうに。』ご自分の大事な日をまるで忘れてゐるみたいであつた。一番の八時の汽車で五所川原を立つて、津軽鉄道を北上し、金木を素通りして、津軽鉄道の終点の中里に九時に着いて、それから小泊行きのバスに乗つて約二時間。あすのお昼頃までには小泊へ着けるといふ見込みがついた。日が暮れて、けいちやんがやつとお家へ帰つたのと入違ひに、先生(お医者さんの養子を、私たちは昔から固有名詞みたいに、さう呼んでゐた)が病院を引上げて来られ、それからお酒を飲んで、私は何だかたわいない話ばかりして夜を更かした。」
リヱの夫は五所川原町に津島歯科医院を開業した津島季四郎氏で、こちらの歯科医院は現在も続いています。以下には津島歯科の公式サイトから、年表の一部を抜粋させていただきました。
大正4年 (1915年) 津島季四郎 金木村(現斜陽館)に開業
大正5年 (1916年) 津島季四郎 五所川原町蝉の羽50番地(現大町9)に 移転(現在地での開業)。
西北五地方では最初の歯科診療所開業となる。
昭和19年(1944年) 五所川原町大火 当院被災
出典:医療法人ウェルビーイング 津島歯科公式サイト、津島歯科の歩み
(後略)
https://www.tsushima-do.jp/
上のように津島歯科医院の建物も五所川原町の大火で被災してしまいました。下には消失前の建物の写真を津島歯科公式サイトから引用させていただきます。
出典:医療法人ウェルビーイング 津島歯科公式サイト、津島歯科の歩み
https://www.tsushima-do.jp/
こちらの写真は撮影場所の視点が高いので、建物の上階から撮影したようにもみえます。ここでは津島季四郎氏の母屋か蔵からと想像して(根拠はありません)、画面の手前側で太宰やリヱさん、津島季四郎氏たちがお酒を飲みながら雑談をしているところをイメージしてみましょう。
旅行などの情報
太宰治「思ひ出」の蔵
「思ひ出」の蔵はもともと大正5年に叔母キヱの一家が金木の津島家から分家したときに建てられました。上にも記しましたが昭和19年の五所川原の大火で母屋を失ったキヱ一家は、しばらくこちらの蔵を住居としていました。そして金木の「旧津島家新座敷」に疎開していた太宰はしばしばこちらの蔵を訪れ、キヱの家族や友人たちとお酒を飲み、会話を楽しんだとのことです。以下には「思ひ出」の蔵についての紹介動画の投稿を引用させていただきました。動画には解体前の蔵の写真も掲載されています。
蔵の中には太宰からの手紙や太宰が愛した「津軽正宗」の徳利などが展示されています。また、旭座や乾橋などの古写真入りの散策マップ(太宰治思ひ出散歩道)も設置されているので、五所川原散策の最初に訪問してみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】青森県五所川原市大町501-2
【アクセス】五所川原駅から徒歩で約4分
【参考URL】http://www.machinaka-go.co.jp/business.html








