種田山頭火「行乞記」の風景(その2)

「吉都線」沿線の旅

人吉・宮川屋で「行乞記」を書き始めた山頭火(行乞記の風景その1・参照)の次の宿泊先は京町温泉でした。山頭火はこちらで熱い温泉にゆっくりと浸り、焼酎醸造元にて芋焼酎を味わいます。京野温泉から飯野村までは「濡れてすゞしくはだしで歩く」、小林町や高崎新田では霧島連峰をながめながら行乞。都城では3泊し、いくつかの旅のエピソードを残しています。

主な出典:青空文庫、行乞記(ぎょうこつき)、底本:山頭火全集 第三巻、出版社: 春陽堂書店、入力:「さくらんぼ」氏、校正:小林繁雄氏、門田裕志氏
https://www.aozora.gr.jp/cards/000146/card44913.html

熱い湯のあふるゝ・京町温泉

「九月十七日 曇、少雨、京町宮崎県、福田屋(三〇・上)

今にも降り出しさうな空模様である、宿が落着いてゐるので滞在しようかとも思ふたが、金の余裕もないし、また、ゆつくりすることはよくないので、八時の汽車で吉松まで行く(六年前に加久藤越したことがあるが、こんどは脚気で、とてもそんな元気はない)、二時間ばかり行乞、二里歩いて京町、また二時間ばかり行乞、街はづれの此宿に泊る、豆腐屋で、おかみさんがとてもいゝ姑さんだ。」

今回の山頭火の旅のルートは人吉から肥薩線(八代・隼人間)で吉松へ、吉松からは徒歩で京町温泉へ行き、吉都線(吉松・都城間)に沿って行乞の旅をしました。なお現在(2026年2月)、令和2年7月豪雨の被害により肥薩線の一部(八代駅・吉松駅間)は運休しています。

出典:ikaxer, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons、Map of Hisatsu Line and Kitto line, Kyushu Japan.
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hisatsu_line_and_Kitto_line_ja.png

「こゝには熱い温泉がある、ゆつくり浸つてから、焼酎醸造元の店頭に腰かけて一杯を味ふ(藷焼酎である、このあたり、焼酎のみでなく、すべてが宮崎よりも鹿児島に近い)。
このあたりは山の町らしい、行乞してゐると、子供がついてくる、旧銅貨が多い、バツトや胡蝶が売り切れてゐない。
人吉から吉松までも眺望はよかつた、汽車もあえぎあえぎ登る、桔梗、藤、女郎花、萩、いろんな山の秋草が咲きこぼれてゐる、惜しいことには歩いて観賞することが出来なかつた。
なんぼ田舎でも山の中でも、自動車が通る、ラヂオがしやべる、新聞がある、はやり唄が聞える。……」
下には2023年10月に撮影されたストリートビューを掲載しました。銀天街のアーチ看板がレトロな雰囲気をだしています(2025年3月にはこちらの看板は撤去されています)。ここでは、商店街に入っていく山頭火の姿をイメージしておきましょう。

「宮崎県では旅人の届出書に、旅行の目的を書かせる、なくもがなと思ふが、私は「行脚」と書いた、いつぞや、それについて巡査に質問されたことがあつたが。
今日出来た句の中から、――
 はてもない旅の汗くさいこと
・このいたゞきに来て萩の花ざかり
 山の水はあふれ/\て
・旅のすゝきのいつ穂にでたか
・投げ出した足へ蜻蛉とまらうとする
 ありがたや熱い湯のあふるゝにまかせ
此地は県政上は宮崎に属してゐるが、地理的には鹿児島に近い、言葉の解り難いのには閉口する。
藷焼酎をひつかけたので、だいぶあぶなかつたが、やつと行き留めた、夜はぐつすり寝た、おかげで数日来の睡眠不足を取りかへした、南無観世音菩薩。」

京町温泉には「ありがたや熱い湯の・・・」の句碑も建てられています。上には「えびの市観光協会」公式インスタグラムを引用させていただきました。こちらの最終頁に句碑の画像が掲載されています。

濡れてすゞしくはだしで歩いた・飯野村

 「九月十八日 雨、飯野村、中島屋(三五・中)

濡れてこゝまで来た、午後はドシヤ降りで休む、それでも加久藤を行乞したので、今日の入費だけはいたゞいた。」
京町温泉駅から飯野駅(現・えびの飯野駅)まで、吉都線で3駅の距離(約10㎞)を歩いたことになります。
京町温泉駅→えびの駅→えびの上江駅→えびの飯野駅

当時「加久藤駅(かくとうえき)」と呼ばれていた「えびの駅」も通ったかもしれません。えびの駅は大正元年に建てられた木造の駅舎で国登録有形文化財に指定されています。下には「MCN宮崎ケーブルテレビ」による「えびの駅本屋」の動画を引用させていただきました。

「此宿は二階がなく相客も多く、子供が騒ぎ立てるのでかなりうるさくてきたない、それにしても昨日の宿はほんとうによかつた、何もかも一切がよかつた、上の上だつた。
・濡れてすゞしくはだしで歩く
・けふも旅のどこやらで虫がなく
 ひとり住んで蔦を這はせる
 身に触れて萩のこぼるゝよ」
「えびの飯野駅」の近くにある「八幡丘公園」には「濡れてすゞしく・・・」の句碑が置かれています。八幡丘公園は桜の名所としても有名。以下には「えびの市観光協会」公式インスタグラムを引用させていただきました。4枚目が山頭火の句碑となります。

「朝湯はうれしかつた、早く起きて熱い中へ飛び込む、ざあつと溢れる、こんこんと流れてくる、生きてゐることの楽しさ、旅のありがたさを感じる、私のよろこびは湯といつしよにこぼれるのである。
けふは今にも噛みつくかと思ふほど大きな犬に吠えられた、それでも態度や音声のかはらなかつたのは自分ながらうれしかつた、その家の人々も感心してくれたらしい、犬もとうとう頭を垂れてしまつた。
同宿の人が語る『酒は肥える、焼酎は痩せる』彼も亦アル中患者だ、アルコールで自分をカモフラージしなくては生きてゆけない不幸な人間だ。
鮮人か内地人か解らないほど彼は旅なれてゐた、たゞ争はれないのは言葉のアクセントだつた。
同宿の人は又語る『どうせみんな一癖ある人間だから世間師になつてゐるのだ』私は思ふ『世間師は落伍者だ、強気の弱者だ』
流浪人にとつては食べることが唯だ一つの楽しみとなるらしい、彼等がいかに勇敢に専念に食べてゐるか、その様子を見てゐると、人間は生きるために食ふのぢやなくて食ふために生きてゐるのだとしか思へない、実際は人間といふものは生きることゝ、食ふことゝは同一のことになつてしまうのであらうが。
とにかく私は生きることに労れて来た。」

霧島に見とれて・小林町

 「九月十九日 晴、小林町、川辺屋(四〇・中)
いかにも秋らしいお天気である、心もかろく身もかろく午前中三時間、駅附近を行乞する、そして十二時の汽車で小林町へ、また二時間行乞。
此宿は探しまはつて探しあてたゞけあつてよかつた、食べものは近来にないまづさであるが、一室一燈を占有してゐられるのが、私には何よりうれしい。
夜はだいぶ飲んだ、無何有郷を彷徨した、アルコールがなくては私の生活はあまりにさびしい、まじめですなほな私は私自身にとつてはみじめで仕方がない。」
小林町は宮崎県西エリア・西諸(にしもろ)地域の最大都市として栄えてきました。以下には大正時代の町中の写真を引用いたします。

出典:宮崎県 編『宮崎県写真帖』,宮崎県,大正9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1172191 (参照 2026-02-03、一部抜粋)、小林町
https://dl.ndl.go.jp/pid/1172191/1/65

 「九月廿日 晴、同前。

小林町行乞、もう文なしだからおそくまで辛抱した、かうした心持をいやしいとは思ふが、どうしようもない、もつとゆつたりとした気分にならなければ嘘だ、けふの行乞はほんとうにつらかつた、時々腹が立つた、それは他人に対するよりも自分に対しての憤懣であつた。
夜はアルコールなしで早くから寝た、石豆腐(此地方の豆腐は水に入れてない)を一丁食べて、それだけでこぢれた心がやわらいできた。
このあたりはまことに高原らしい風景である、霧島が悠然として晴れわたつた空へ盛りあがつてゐる、山のよさ、水のうまさ。」

以下は小林駅付近のストリートビューです。霧島連峰がきれいに見えます。山頭火もこちらのような景色を見て句をつくったと思われます。
「西洋人は山を征服しようとするが、東洋人は山を観照する、我々にとつては山は科学の対象でなくて芸術品である、若い人は若い力で山を踏破せよ、私はぢつと山を味ふのである。
・かさなつて山のたかさの空ふかく
 霧島に見とれてゐれば赤とんぼ
 朝の山のしづかにも霧のよそほひ
 チヨツピリと駄菓子ならべて鳳仙花
 旅はさみしい新聞の匂ひかいでも
 山家明けてくる大粒の雨
 重荷おもかろ濃き影ひいて人も馬も
 朝焼け蜘蛛のいとなみのいそがしさ
・泣きわめく児に銭を握らし
 蒸し暑い日の盗人つかまへられてしまつた
 こんなにたくさん子を生んではだか
 死にそこなつて虫を聴いてゐる」

霧島は霧にかくれて・高崎新田

 「九月廿一日 曇、雨、彼岸入、高崎新田、陳屋(四〇・上)

九時の汽車で高原へ、三時間行乞、そして一時の汽車で高崎新田へ、また三時間行乞。
高原も新田も荒涼たる村の町である、大きな家は倒れて住む人なく、小さい家は荒れゆくまゝにして人間がうようよしてゐる、省みて自分自身を恥ぢ且つ恐れる。
霧島は霧にかくれて赤とんぼ
病人連れて秋雨のプラツトホーム
霧島は霧にかくれて見えない、たゞ高原らしい風が法衣を吹いて通る、あちらを見てもこちらを見ても知らない顔ばかり、やつぱりさびしいやすらかさ、やすらかなさびしさに間違いない。」
以下のストリートビューの中央部には「霧島は霧にかくれて・・・」の句碑があります。こちらは「高崎新田駅前団地」の完成を記念して2003年に建てられました。なお、山頭火の句碑は北海道から鹿児島まで分布し、2020年時点で合計約580基との情報もあります。
山頭火が来たときもこちらの写真のようにどんよりとしていて、霧島は見えませんでした。

「此宿は満員だといふのを無理に泊めて貰つた、よかつた、おばあさんの心づくしがうれしい。
此宿のおかみさんは感心だ(今の亭主は後入らしい)、息子を商業学校に、娘を女学校にやつてゐる、しかし息子も娘もあまりよい出来ではないらしいが。
今の旅のヱピソードとしては特種があつた。――
小林駅で汽車を待合してゐると、洋服の中年男が近づいてきた、そしていやににこにこして、いつしよに遊ばうといふ、私が菩提銭を持つてゐると思つたのか、或は遊び仲間によいと思つたのか、とにかく、奇怪な申出である、あまりしつこいので断るに困つた、――何と旅はおもしろい事がある!」

都城市

 「九月廿二日 晴、曇、都城市、江夏屋(四〇・中)

七時出立、谷頭まで三里、道すがらの風光をたのしみながら歩く、二時間行乞、例の石豆腐を食べる、庄内町まで一里、また三時間行乞、すつかりくたぶれたけれど、都城留置の手紙が早くみたいので、むりにそこまで二里、暮れて宿についた、そしてすぐまた郵便局へ、――友人はありがたいとしみじみ思つた。
けふはぞんぶんに水を飲んだ、庄内町の自動車乗場の押揚ポンプの水はよかつた、口づけて飲む山の水には及ばないけれど。
こゝへ来るまでの道で逢つた学校子供はみんなはだしだつた、うれしかつた、ありがたかつた。
けふもまた旅のヱピソードの特種一つ、――宿をさがして急いでゐるうちにゆきあつた若い女の群、その一人が『あう』といふ、熊本のカフヱーでみたことのある顔だ、よく覚えてゐましたね、いらつしやいといひましたね、さてあなたはどこでしたかね。
同宿十余人、同室一人、隣室二人、それぞれに特徴がある、虚無僧さんはよい、ブラブラさんもわるくない、坊さんもわるくない、少々うるさいけれど。」
以下には昭和9年の「都城商工案内」より市街地の写真を引用いたしました。

出典:『都城商工案内』昭和9年版,都城商工会議所,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1106191 (参照 2026-02-04、一部抜粋)、市街
https://dl.ndl.go.jp/pid/1106191/1/4

 「九月廿三日 雨、曇、同前。

八時から二時まで都城の中心地を行乞、こゝは市街地としてはなかなかよく報謝して下さるところである。
今日の行乞相はよかつた、近来にない朗らかさである、この調子で向上してゆきたい。
一杯二杯三杯飲んだ(断つておくが藷焼酎だ)、いゝ気持になつて一切合切無念無想。
   きのふけふのぐうたら句
 糸瓜の門に立つた今日は(子規忌)
・旅の宿の胡椒のからいこと
・羽毛ハネむしる鶏トリはまだ生きてゐるのに
・しんじつ秋空の雲はあそぶ
 あかつきの高千穂は雲かげもなくて
 お信心のお茶のあつさをよばれる
 芋虫あつい道をよこぎる
 竹籔の奥にて牛が啼いてるよ
・露でびつしより汗でびつしより
夜は教会まで出かけて、本間俊平氏の講演を聴く喜びにあつたが、しかし幻滅でないとはいへなかつた、予期したよりも世間並過ぎ上手過ぎてゐはしないだらうか、私は失礼とは思つたが中座した。」

出典:『「本間俊平の生涯」福音館書房、1966』 掲載写真, Public domain, via Wikimedia Commons、本間俊平(1873年 – 1948年)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shunpei_Honma,1932.jpg

上には本間俊平氏の写真を引用いたしました。また、ウィキペディアには以下のように記されています。本間氏は明治35年に秋吉台に移ってきているので、実家が山口県佐波郡(現在の防府市)にあった山頭火にもなじみの深い人物であったようです。

本間 俊平(ほんま しゅんぺい、1873年(明治6年)8月15日 – 1948年(昭和23年)8月13日)は、日本の社会事業家、信徒伝道者。山口県の秋吉台(現:美祢市)の大理石採掘場で、不良少年を含む青少年と共同生活を送りながら若者たちの感化(育成事業)に携わり「秋吉台の聖者」と呼ばれた。

出典:ウィキペディア、本間俊平
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%96%93%E4%BF%8A%E5%B9%B3

「やつぱり飲み過ぎた、そして饒舌り過ぎた、どうして酒のうまさと沈黙の尊さと、そして孤独のよろしさとに徹しえないのだ。
同宿の坊さんはなかなかの物知りである、世間坊主としては珍らしい、たゞ物を知つてゐて物を味はつてゐない、酒好きで女好きで、よく稼ぎもするがよく費ひもする、もう一人の同宿老人は気の毒な身の上らしい、小学校長で敏腕家の弟にすがりつくべくあせつてゐる、煙草銭もないらしい一服二服おせつたいしてあげた。
酔ふた気分は、といふよりも酔うて醒めるときの気分はたまらなく嫌だけれど、酔ふたゝめに睡れるのはうれしい、アルコールをカルモチンやアダリンの代用とするのはバツカスに対して申訳ないが。

 九月廿四日 晴、宿は同前。

藷焼酎のたゝりで出かけたくないのを無理に草鞋を穿く、何といふウソの生活だ、こんなウソをくりかへすために行乞してゐるのか、行乞してゐて、この程度のウソからさへ脱離しえないのか。
昼食の代りにお豆腐をいたゞく、そして幾度も水を飲んだ、そのおかげで、だいぶ身心が軽くなつた。
今日は彼岸の中日、願蔵寺といふかなり大きな寺院の境内には善男善女がたくさん参詣してゐた、露店も五六あつた、私はそこでまたしても少年時代を思ひ起して、センチになつたことを白状する。
・投げ与へられた一銭のひかりだ
・馬がふみにじる草は花ざかり
朝一杯、昼一杯、晩一杯、一杯一杯また一杯で一杯になつてしまふのだらう。
心境はうつりかはつてゆく、しかしなかなかひらけない、水は流れるまゝに流れてゆけ。」
下は「願蔵寺」付近のストリートビューです。画面中央には山頭火「投げ与へられた・・・」の句碑が建立されています。

「けふも旅のヱピソード――行乞漫談の材料が二つあつた、或るカフヱーに立つ、女給二三人ふざけてゐてとりあはない、いつもならばすぐ去るのだけれど、こゝで一つ根くらべをやるつもりで、まあユーモラスな気分で観音経を読誦しつゞけた、半分ばかり読誦したとき、彼女の一人が出て来て一銭銅貨を鉄鉢に入れやうとするのを『ありがたう』といつて受けないで『もういたゞいたもおなじですから、それは君にチツプとしてあげませう』といつたら、笑つてくれた、私も笑つた、少々嫌味だけれど、ナンセンスの一シーンとしてはどうだらうか、もう一つの話は、お寺詣りのおばあさんが、行きずりに二銭下さつた、見るとその一つは黒つぽくなつた五銭の旧白銅貨である、呼びとめてお返しするとおばあさん喜んで外の一銭銅貨を二つ下さつた、彼女も嬉しさうだつたが、私も嬉しかつた。」
「或るカフェー」前での「行乞漫談」のワンシーンを再現してみましょう。下画像の「サロンOK」の名前は「都城商工案内」昭和9年版のP28「カフェー」リストから都城・上町にあったお店の名前を借用しました。

出典:ChatGPTにより生成された画像、『繁華街で托鉢をする眼鏡をかけた僧にカフェの給仕が銅貨を渡す』などのキーワードをベースに生成、生成日:2026年1月30日

「今晩は特別の下好物として鰯と茗荷とを買つた、焼鰯五尾で弐銭、茗荷三つで一銭、そして醤油代が一銭、合計四銭の御馳走也。」

旅行などの情報

京町温泉・玉泉館

「ありがたや熱い湯のあふるゝにまかせ」や「朝湯はうれしかつた、早く起きて熱い中へ飛び込む、ざあつと溢れる、こんこんと流れてくる、生きてゐることの楽しさ、旅のありがたさを感じる、私のよろこびは湯といつしよにこぼれるのである。」と山頭火は京町温泉のお湯を気に入ったようです。
京町温泉は住宅地にホテル・旅館が10数軒点在する落ち着いた温泉町です。大正4年創業の玉泉館はその中でも人気のスポット。浴場の入り口には山頭火の「投げ出した足へ蜻蛉とまらうとする」など有名俳人の句が展示されています。

上には玉泉館の公式インスタグラムを引用させていただきました。泉質はアルカリ単純泉で筋肉痛や美肌などに効果があるとされています。露天風呂には洞窟風呂(インスタグラムの2枚目・3枚目)も併設され神秘的な雰囲気が楽しめるのも特徴です。夕食は九州産和牛の胸板焼やお刺身、焼き魚などの会席料理とのこと。山頭火のように芋焼酎も味わってみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】宮崎県えびの市向江647-1
【アクセス】京町温泉駅から徒歩2分
【参考URL】https://gyokusenkan.sakura.ne.jp/basercms/