種田山頭火「行乞記」の風景(その3)
宮崎市から海沿いを南下
都城を出発した(行乞記の風景その2・参照)山頭火は宮崎市まで汽車で移動。「層雲」の同人たちを訪ね、夕食をともにしました。宮崎市内には三日滞在し、宮崎神宮を参拝したり、名物「大盛うどん」を食べたり(もちろんお酒も)とグルメ旅も満喫します。宮崎市からは海沿いを南下しますが、都市部から離れたこともあり、宿探しに苦労します。
主な出典:青空文庫、行乞記(ぎょうこつき)、底本:山頭火全集 第三巻、出版社: 春陽堂書店、入力:「さくらんぼ」氏、校正:小林繁雄氏、門田裕志氏
https://www.aozora.gr.jp/cards/000146/card44913.html
うまい匂ひが漂ふ街・宮崎市
「九月廿五日 雨、宮崎市、京屋(三五・上)
たいして降りさうもないので朝の汽車に乗つたが、とうとう本降りになつた、途中の田野行乞もやめて一路宮崎まで、そして杉田さんを訪ねたが旅行中で会へない、更に黒木さんを訪ねて会ふ、それからこゝへ泊る。
けふは雨で散々だつた、合羽を着けれど、草鞋のハネが脚絆と法衣をメチヤクチヤにした、宿の盥を借りて早速洗濯する、泣いても笑つても、降つても照つても独り者はやつぱり独り者だ。
こゝは水が悪いので困る、便所の汚ないのにも閉口する、座敷は悪くない、都城でのはればれしさはないけれど。
列車内で乗越切符書換してくれた専務車掌さんには好感が持てた、どこといつていひどころのないよさがあつた、禅の話は好きで得るところが多いなどゝも語つた。
宮崎県の文化はたしかに後れてゐる、そして道を訊ねても教へ方の下手、或は不深切さが早敢ない旅人を寂しがらせる、たゞ町名標だけは間違ひなく深切だつたが。」
以下には戦前の宮崎駅の写真を引用いたしました。中央にいる人に山頭火の姿を重ねてみましょう。
出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons、昭和戦前期の宮崎駅
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Miyazaki_Station_in_Pre-war_Showa_era.JPG
「隣室の若夫婦、逢うて直ぐ身の上話を初める、失敗つゞきの不運をかこつ、彼等は襤褸(ぼろ)を着て故郷に帰つたところだ、まあ、あまり悲観しないで運のめぐつてくるをお待ちなさい、などゝ、月並の文句を云つて慰める。
雨そのものは悪くないけれど、雨の窓でしんみりと読んだり考へたりすることは好きだけれど、雨は世間師を経済的に苦しめる、私としては行乞が出来ない、今日も汽車賃八十銭、宿料五十銭、小遣二三十銭は食ひ込みである、幸にして二三日前からの行乞で、それだけの余裕はあつたけれど。
子供が泣く、ほんたうに嫌だ、私は最も嫌ひなものとしては、赤子の泣声を或る人の問に答へたことがある。
夜になつて、紅足馬、闘牛児の二氏来訪、いつしよに笑楽といふ、何だか固くるしい料理屋へゆく、私ひとりで飲んでしやべる、初対面からこんなに打ち解けることが出来るのも層雲のおかげだ、いや俳句のおかげだ、いやいや、お互の人間性のおかげだ!だいぶおそくなつて、紅足馬さんに送られて帰つて来た、そしてぐつすり寝た。」
紅足馬は「黒木紅足馬(こだるま)」さんです。「黒木さん」の住所は手紙のやり取りなどで知っていたのでしょうか。また、闘牛児は「中島闘牛児(とうぎゅうじ)」さん、後日中島宅で句会を催すことになります。ともに「層雲」の同人ですがこの時が初対面でした。「何だか固くるしい料理屋」とありますが、黒木さんたちは初対面の山頭火をもてなすために少し高級なお店を選んだのかもしれません。
なお、宮崎県商工人名録・昭和12年版P42によると「笑楽」という「志那料理」のお店が、橘通り五丁目にあったという情報が掲載されています。こちらが山頭火が利用したお店かどうかはわかりませんが、ここでは以下に引用した「橘通り」繁華街を歩く山頭火たちの姿を想像しておきます。
出典:『宮崎県商工人名録』昭和12年版,宮崎商工会議所,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1023906 (参照 2026-02-06、一部抜粋)、橘通ノ一部
https://dl.ndl.go.jp/pid/1023906/1/29
「旅のヱピソードの一つとして、庄内町に於ける小さい娘の児の事を書き添へておかう、彼女はそこのブルの秘蔵娘らしかつた、まだ学齢には達しないらしいけれど、愛嬌のある茶目子だつた、私が家の前に立つと、奥へとんでいつて一銭持つてきてくれた、そして私に先立つて歩いて家々のおくさんを探し出しては一銭を貰つてきてくれた、附添の女中も何ともすることが出来ない、私はありがたいやら、おかしいやらで、微苦笑しつゝ行乞をつゞけた。」
九月廿二日(行乞記の風景その2・参照)に高崎新田から都城までの行乞の途中で、山頭火は「庄内町の自動車乗場の押揚ポンプの水はよかつた、」と記しています。上のエピソードはこの時の庄内町訪問の際の出来事を思い出して書いたと思われます。
庄内町には趣のある石垣や門が50ヶ所以上も残っています。こちらは明治時代に鳥取から招かれた石工・徳永長太郎とその弟子によりつくられました。上のストリートビューのような「旧持永家住宅の石塀」もその一例で、こちらは国の登録有形文化財に指定されています。
下には「庄内町に於ける小さい娘の児」のエピソードをイメージ化した図を掲載いたします。子供に鉢まで持たせることはなかったかもしれませんが・・・。
出典:ChatGPTにより生成された画像、『托鉢を手伝う少女と眼鏡をかけた僧、少女のお付きの女性が、石塀の続く道を列をなして歩いている。』などのキーワードをベースに生成、生成日:2026年2月6日
「草鞋の時代錯誤的価値、――草鞋を探し求める時にはいつもこんな事を考へる、けふも同様だつた。
此宿でも都城でも小林でも晩飯にきつとお汁を添へる、山家、或は田舎ではさういふやり方らしい(朝は無論どこでも味噌汁だ)。
九月廿六日 晴、宿は同前。
九時から三時まで、本通りの橘通を片側づゝ行乞する、一里に近い長さの街である、途中闘牛児さんを訪ねてうまい水を飲ませて貰ふ。
宮崎は不景気で詰らないと誰もがいつてゐたが、私自身の場合は悪くなかつた、むしろよい方だつた。
夜はまた招かれて、闘牛児さんのお宅で句会、飲み食ふ会であつた、紅足馬、闘牛児、蜀羊星(今は故人)みんな家畜に縁のある雅号である、牛飲馬食ですなどゝいつて笑ひ合つた。
昨日はあれほど仲のよかつた隣室の若夫婦が、今日は喧嘩して奴鳴つたり殴つたりしてゐる、それを聞くのが嫌なので、運悪く仲裁でもしなければならないやうになつては困るので早々湯屋へゆき、ぶらぶら散歩する。
秋暑い窓の女はきちがひか
物思ふ雲のかたちのいつかかはつて
草を草鞋をしみじみさせるほどの雨
うまい匂ひが漂ふ街も旅の夕ぐれ
傾いた屋根の下で旅日記書いてゐる
・蚤が寝せない旅の星空
こゝの名物、地酒を少し飲む、肥後の赤酒と同種類のものである、口あたりがよくて酔ふことも酔ふらしい、私には一杯でたくさんだつた、(地酒に対して清酒を上方酒といつてゐる)。」
上には「うまい匂ひが漂ふ街も・・・」の句碑が刻まれた宮崎市繁華街のストリートビューを掲載いたします。宿の近くの湯屋に入った後、この周辺で一杯ひっかけながら名物を食べる山頭火の姿を想像しておきましょう。
「九月廿七日 晴、宿は同前、宮崎神宮へ。
今日は根気よく市街を行乞した、おかげで一日や二日、雨が降つても困らないだけの余裕が出来た。
帰宿したのが四時、すぐに湯屋へ、それから酒屋へ、そしてぶらぶらと歩いて宮崎神宮へ参拝した、樹木が若くて社殿は大きくないけれど、簡素な日本趣味がありがたかつた。」
以下に引用したのは大正時代の宮崎神宮の写真です。
出典:皇国敬神会 編『全国有名神社御写真帖』,皇国敬神会,大正11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13769143 (参照 2026-02-06、一部抜粋)、宮崎神宮
https://dl.ndl.go.jp/pid/13769143/1/36
「この町の名物、大盛うどんを食べる、普通の蕎麦茶碗に一杯盛つてたつた五銭、お代りするのはよつぽど大きな胃の腑だ、味は悪くもなければ良くもない、とにかく安い、質と量とそして値段と共に断然他を圧してゐる、いつも大入だ。」
山頭火が立ち寄った「大盛うどん」は今も営業を続けています。下の「旅行などの情報」でも紹介していますので、そちらもご参考にしてください。
「夜はまた作郎居で句会、したゝか飲んだ、しやべりすぎた、作郎氏とはこんどはとても面接の機があるまいと思つてゐたのに、ひよつこり旅から帰られたのである、予想したやうな老紳士だつた、二時近くまで四人で過ごした。」
出典:『評論社画史』第1巻,宮崎県政評論社,大正9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/907925 (参照 2026-02-06、一部抜粋)、杉田作郎
https://dl.ndl.go.jp/pid/907925/1/67
上には眼科医でもあった「層雲」の同人・杉田作郎(本名・直)氏の写真を引用いたしました。
「九月廿八日 曇后晴、生目社へ。
お昼すぎまで大淀――大淀川を東に渡つたところの市街地――を行乞してから、誰もが詣る生目様へ私も詣つた、小つぽけな県社に過ぎないけれど、伝説の魅力が各地から多くの眼病患者を惹きつけてゐる、私には境内にある大楠大銀杏がうれしかつた、つくつくぼうしが忙しくないてゐたのが耳に残つてゐる、帰途は近道を教へられて高松橋(渡し銭三銭)を渡り、景清公御廟所といふのへ参詣する、人丸姫の墓もある(景清の墓石は今では堂内におさめてある、何しろ眼薬とすべく、その墓石を削り取る人が多くて困つたので)。」
出典:宮崎県 編『宮崎県写真帖』,宮崎県,大正9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1172191 (参照 2026-02-05、一部抜粋)、橘橋
https://dl.ndl.go.jp/pid/1172191/1/19
上に引用したのは山頭火が渡ったと思われる「橘橋」の写真です。大淀川を渡る全長400mの近い長い橋で宮崎市のシンボルともいわれます。こちらの写真は明治21年~昭和7年まではこちらの木造橋が架けられていました(現在の橋は昭和52年に完成した6代目)。
また、下には大正時代の「生目神社」の写真を引用いたしました。山頭火が「うれしかった」と感想を述べている大楠は市指定の天然記念物、大銀杏は宮崎県巨樹百選として現在も残っています。
出典:宮崎県 編『宮崎県写真帖』,宮崎県,大正9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1172191 (参照 2026-02-06、一部抜粋)、生目神社
https://dl.ndl.go.jp/pid/1172191/1/23
「今日はしつかり労れた、六里位しか歩かないのだが、脚気がまた昂じて、足が動かなくなつてしまつた、暮れて灯されてから宿に帰りついた、すぐ一風呂浴びて一杯やつて寝る。
また一つ旅のヱピソード、――この宿は子沢山で、ちよつと借りて穿くやうな下駄なんぞありやしない、やうやく自分で床下からチグハグなのを片足づゝ探し出したが、右は黒緒の焼杉、左は白緒の樫、それも歩いてゐるうちに、鼻緒も横も切れてしまつて、とうとう跣足にならなければならなかつた。
大淀の丘に登つて宮崎平原を見おろす、ずゐぶん広い、日向の丘から丘へ、水音を踏みながら歩いてゆく気分は何ともいへないものがあつた、もつともそれは五六年前の記憶だが。
昨日、篤信らしい老人の家に呼び入れて、彼岸団子をいたゞいたこと、小豆ぬり、黄粉ぬり、たいへんおいしかつたことを書き漏らしてゐた、かういふ場合には一句なければならないところだ。
これは闘牛児さんの話である、氏の宅の井戸水はおつとりとした味を持つてゐる、以前は近隣から貰ひにくるほどの水だつたさうなが、厳父がヨリよい水を求めて掘り下げて却つてよくない水としたさうな、そしてまたそれを砂利で浅くして、やうやくこれだけの水が出るやうになつたとのことである、このあたりは水脉が浅いらしい、とにかく、掘りさげて水が悪くなつたといふ事実は或る暗示を与へる、どん底まで掘ればいゝが、生半端に掘つたところよりも、むしろ浅いところによい水が湧くこともあるといふことは知つておくがよからう。
けふは大淀駅近くの、アンテナのある家で柄杓に二杯、生目社の下で一杯、景清廟の前で二杯、十分に水を飲んだことである。」
ここで「アンテナのある家」とありますが、下に引用した書籍(ラヂオの知識)のように、昭和初期に市販されていたラジオの性能では受信するためには巨大なアンテナが必要でした。ラジオ放送の開始(1925年、大正14年)から5年を経て徐々に受信者も増えていましたが、まだ、宮崎では珍しかったと思われます。
出典:日本放送協会関西支部 編『ラヂオの知識』,日本放送協会関西支部,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1215330 (参照 2026-02-06)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1215330/1/10
「途上即事
笠の蝗の病んでゐる
・死ぬるばかりの蝗を草へ放つ
放ちやる蝗うごかない
今夜同宿の行商人は苦労人だ、話にソツがなくてウルホヒがある、ホントウの苦労人はいゝ。
九月廿九日 晴、宿は同前、上印をつけてあげる。
気持よく起きて障子を開けると、今、太陽の昇るところである、文字通りに「日と共に起き」たのである、或は雨かと気遣つてゐたのに、まことに秋空一碧、身心のすがすがしさは何ともいへない、食後ゆつくりして九時から三時まで遊楽地を行乞、明日はいよいよ都会を去つて山水の間に入らうと思ふ、知人俳友にハガキを書く。
此宿は座敷も賄も、夜具も待遇もよいけれど、子供がうるさく便所の汚いのが疵だ、そしていかにも料理がまづい、あれだけの材料にもう少しの調理法を加へたならばどんなに客が満足することだらう。
今日の行乞中に二人、昨日は一人の不遜な中年女にでくわした、古い型の旧式女性から、女のしほらしさ、あたゝかさ、すなほさを除いて、何が残るか!
子供が声張りあげて草津節をうたつてゐる、「草津よいとこ一度はおぢやれ、お湯の中にも花が咲く」チヨイナチヨイナ、ほんとうにうまいものである、私はぢつとそれに耳を傾けながら物思ひに耽つてゐるのである、――此間の年数五十年相経ち申し候だらうな。
両手が急に黒くなつた、毎日鉄鉢をさゝげてゐるので、秋日に焼けたのである、流浪者の全身、特に顔面は誰でも日に焼けて黒い、日に焼けると同時に、世間の風に焼けるのである、黒いのはよい、濁つてはかない(マヽ)ない。
行乞中、しばしば自分は供養をうけるに値しないことを感ぜざるをえない場合がある、昨日も今日もあつた、早く通り過ぎるやうにする、貧しい家から全財産の何分一かと思はれるほど米を与へられるとき、或はなるたけ立たないやうにする仕事場などで、主人がわざわざ働く手を休ませて蟇口を探つて銅貨の一二□を鉄鉢に投げ入れてくれるとき。……
同宿の修行遍路――いづれ炭坑夫などのドマグレで、からだには鯨青のあとがある手合だらう――酔ひしれて、宿のものを手古摺らし同宿人の眉を顰めさせてゐる、此地方では酔うて管を巻くことを山芋を掘るといふ、これも面白い言葉である。
言葉といへば此辺の言葉はアクセントが何だか妙で、私には解らないことが多い、言葉の解らない寂しさ、それも旅人のやるせなさの一つである。」
波の音たえずして・折生迫
「九月三十日 秋晴申分なし、折生迫、角屋(旅館・中)
いよいよ出立した、市街を後にして田園に踏み入つて、何となくホツとした気持になる、山が水が、そして友が私を慰めいたはり救ひ助けてくれる。
こゝまで四里の道すがら行乞したが、すつかり労れてしまつた、おまけにボクチンに泊りそこなつて(あのボクチンのマダムは何といふ無智無愛嬌だつたらう)旅館に泊つた、一室一燈を占有して、のんびりと読んだり書いたりする、この安らかさは、二十銭三十銭には代へられない、此宿はかなり広い家だが、お客さんとしては私一人だ、主人公も家内もみな好人物だけれど、不景気風に吹きまくられてゐるらしい。」
「ボクチン」とは「木賃宿」の略称です。この日は旅館に宿泊したため相部屋ではありませんでした。
なお、宮崎商工会議所の「あおしまを歩こう」という観光用サイトによると、山頭火の宿泊した「角屋」は「戸高商店」として残っているとのこと。下には「戸高商店」と思われる建物周辺のストリートビュー(2012年1月)を掲載いたしました(2023年6月のストリートビューでは自動販売機が撤去されていました)。
ここではこちらの2階で、山頭火がゆったりと過ごしている様子を想像してみます。
「青島を見物した、檳榔樹(びんろうじゅ)が何となく弱々しく、そして浜万年青(はまおもと)がいかにも生々してゐたのが印象として残つてゐる、島の井戸――青島神社境内――の水を飲んだが、塩気らしいものが感じられなかつた――その水の味もまた忘れえぬものである。」
「浜万年青」とは宮崎の県花にもなっているハマユウのことです。山頭火が見たのは下に引用したような風景だったでしょうか。
出典:写真AC、浜木綿
https://www.photo-ac.com/main/detail/5001825&title=%E6%B5%9C%E6%9C%A8%E7%B6%BF
「久しぶりに海を見た、果もない大洋のかなたから押し寄せて砕けて、白い波を眺めるのも悪くなかつた(宮崎の宿では毎夜波音が枕にまで響いた、私は海の動揺よりも山の閑寂を愛するやうになつてゐる)。
今日、途上で見たり聞いたり思ひついたりしたことを書きつけておかう、昔の客馬車をそのまゝ荷馬車にして老人が町から村へといろいろの雑貨を運んでゐた、また草原で休んでゐると、年とつたおかみさんがやつてきて、占い(ウラカタ)はしないかといふ、また、或る家で、うつくしいキジ猫二匹を見た、撫でゝやりたいやうな衝動を感じた。
今日、求めた草鞋は(此辺にはあまり草鞋を売つてゐない)よかつた、草鞋がしつくりと足についた気分は、私のやうな旅人のみが知る嬉しさである、芭蕉は旅の願ひとしてよい宿とよい草鞋とをあげた、それは今も昔も変らない、心も軽く身も軽く歩いて、心おきのない、情のあたゝかい宿におちついた旅人はほんとうに幸福である。
いはゞ草鞋は時代錯誤的な履物である、そこに時代錯誤的な実益と趣味とが隠されてゐる。
このあたりの山も海もうつくしい、水も悪くない、ほんの少しの塩分を含んでゐるらしい、私のやうな他郷のものにはそれが解るけれど、地の人々には解らないさうだ、生れてから飲みなれた水の味はあまり飲みなれて解らないものらしい、これも興味のある事実である。
夜おそくなつて、国勢調査員がやつてきて、いろいろ訊ねた、先回の国勢調査は味取でうけた、次回の時には何処で受けるか、或は墓の下か、いや、墓なぞは建てゝくれる人もあるまいし、建てゝ貰ひたい望みもないから、野末の土くれの一片となつてしまつてゐるだらうか、いやいやまだまだ業が尽きないらしいから、どこかでやつぱり思ひ悩んでゐるだらう。
元坊にあげたハガキに、――とにかく俳句(それが古くても新しくても)といふものはやつぱり夏爐冬扇ですね、またそれで十分ぢやありませんか、直接其場の仕事に役立たないところに俳句のよさがあるのではないでせうか、私共はあまり考へないでその時その時の感動を句として表現したいと思ひます。
夕日まぶしい銅像を仰ぐ
涸れはてゝ沼底の藻草となつてしまつて
波の音たえずしてふる郷遠し
波音遠くなり近くなり余命いくばくぞ
お茶を下さる真黒な手で
青島即事
・白浪おしよせてくる虫の声」
泊めてくれない・伊比井
「十月一日 曇、午后は雨、伊比井、田浦といふ家(七〇・中)
よう寝られて早う眼が覚めた、音のしないやうに戸を繰つて空を眺める、雨かも知れない、しかし滞留は財布が許さない、九時から十一時まで、そこらあたりを行乞、それから一里半ほど内海(ウチウミ)まで歩く、峠を登ると大海にそうて波の音、波の色がたえず身心にしみいる、内海についたのは一時、二時間ばかり行乞する、」
「内海港」は大正時代に大規模な築港工事が行われ、大きな船が寄港できるようになりました。山頭火が訪れたころも、下に引用した写真のように船が行き交っていたのではないでしょうか。
出典:宮崎県 編『宮崎県写真帖』,宮崎県,大正9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1172191 (参照 2026-02-07、一部抜粋)、内海港
https://dl.ndl.go.jp/pid/1172191/1/33
「間違ひなく降り出したので教へられた家を尋ねて一泊を頼んだが、何とか彼とかいつて要領を得ない(田舎者は、yes no をはつきりいはない)、思ひ切つて濡れて歩むことまた一里半、こゝまで来たが、安宿は満員、教へられてこの家に泊めて貰ふ、この家も近く宿屋を初めるつもりらしい、投込だから木賃よりもだいぶ高い、しかし主人も妻君も深切なのがうれしかつた、何故だか気が滅入りこんでくるので、藷焼酎三杯ひつかけて、ぐつすりと寝てしまつた。
労れて宿に着いて、風呂のないのは寂しくもあり嫌でもある、私は思ふ、日本人には入浴ほど安価な享楽はない。
朝夕の涼しさ、そして日中の暑さ。
今日此頃の新漬――菜漬のおいしさはどうだ、ことに昨日のそれはおいしかつた、私が漬物の味を知つたのは四十を過ぎてからである、日本人として漬物と味噌汁と(そして豆腐と)のうまさを味はひえないものは何といふ不幸だらう(さういふ不幸は日本人らしい日本人にはないけれど)。
酒のうまさを知ることは幸福でもあり不幸でもある、いはゞ不幸な幸福であらうか、『不幸にして酒の趣味を解し……』といふやうな文章を読んだことはないか知ら、酒飲みと酒好きとは別物だが、酒好きの多くは酒飲みだ、一合は一合の不幸、一升は一升の不幸、一杯二杯三杯で陶然として自然人生に同化するのが幸福だ(こゝでまた若山牧水、葛西善蔵、そして放哉坊を思ひ出さずにはゐられない、酔うてニコニコするのが本当だ、酔うて乱れるのは無理な酒を飲むからである)。」
昭和5年には若山牧水、葛西善蔵、尾崎放哉の3人とも故人となっていました。そして3人とも無理な酒を飲んだことで知られています。尾崎放哉(おざきほうさい)は山頭火とともに自由律俳句の双璧とされ「こんなよい月をひとりで見て寝る」など人間の孤独を詠った作品が多いのが特徴です。下には尾崎放哉の写真を引用いたしました。
出典:国立国会図書館・近代日本人の肖像、尾崎放哉
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6392
「今日、歩きつゝつくづく思つたことである、――汽車があるのに、自動車があるのに、歩くのは、しかも草鞋をはいて歩くのは、何といふ時代おくれの不経済な骨折だらう(事実、今日の道を自動車と自転車とは時々通つたが、歩く人には殆んど逢はなかつた)、然り而して、その馬鹿らしさを敢て行ふところに、悧巧でない私の存在理由があるのだ。
自動車で思ひ出したが、自動車は埃のお接待をしてくれる、摂取不捨、何物でも戴かなければならない私は、法衣に浴せかけられた泥に向つても合掌しなければならないのだらう。
今日の特種としては、見晴らしのいゝ路傍に蹇車を見出した事だつた、破れ着物を張りまはした中から、ぬつと大きな汚ない足が一本出てゐた(その片足は恐らく見るかげもなく頽れてしまつてゐるのだらう)、彼は海と山との間に悠々として太平の夢を楽しんでゐるのだ、『おい同行さん』とその乞食君(私としては呼び捨てには出来ない)に話しかけたかつたが彼の唯一の慰めともいふべき睡眠を妨げることを恐れて、黙つて眺めて通り過ぎたが。」
「蹇車」は現在の車椅子のようなものです。大正時代に「廻転式自在車」という国内初の車椅子が登場しますが、竿のような道具で地面を押しながら進めるものや手押し式などさまざまなタイプがありました。下には葛飾北斎によって描かれた「いざり車」のイラストを引用させていただきました。
出典:高阪謙次.「いざり車」とその周辺, 図15北斎漫画,椙山女学園大学研究論集,第35号(自然科学篇)2004
https://lib.sugiyama-u.repo.nii.ac.jp/
「泊めてくれない村のしぐれを歩く
こゝろつかれて山が海がうつくしすぎる
岩のあひだにも畠があつて南瓜咲いてる
・波音の稲がよう熟れてゐる
・蕎麦の花にも少年の日がなつかしい
労れて足を雨にうたせる」
旅行などの情報
大盛うどん
宮崎市内に宿泊した3人目、山頭火は「この町の名物、大盛うどんを食べる、普通の蕎麦茶碗に一杯盛つてたつた五銭、お代りするのはよつぽど大きな胃の腑だ」と記したのが、現在も営業を続ける「大盛うどん」です。大正二年に四国・徳島出身の久米房吉氏が宮崎では初めてのうどん屋として創業しました。濃厚なイリコ出汁と甘めの醤油を合わせたスープが、柔らかい麺によく絡みます。
上に引用させていただいた肉うどんやきつね・たぬきの定番のほか、数量限定や水曜限定メニューもあるので公式サイトをチェックしてみてください。いなりずしやとりそぼろご飯などのご飯物のほか、ビールや霧島焼酎なども扱っているので、さまざまなシーンにご利用になれます。
基本情報
【住所】宮崎県宮崎市江平西1丁目5-60
【アクセス】宮崎駅から徒歩で約20分
【参考URL】https://www.oomoriudon.co.jp/













