種田山頭火「行乞記」の風景(その5)

鹿児島での行乞を断念

山頭火は志布志町に入って行乞を続けますが、鹿児島警察の取り締まりが厳しかったため、宮崎方面に引き返します。9月初旬に始まった行乞記の旅も1か月を経て疲労も溜まってきたとみえて、都城では一日の休みをとり、のんびりと読書をしました。高岡町では発熱してしまいますが、子供たちの親切のおかげで快方に向かいました。

主な出典:青空文庫、行乞記(ぎょうこつき)、底本:山頭火全集 第三巻、出版社: 春陽堂書店、入力:「さくらんぼ」氏、校正:小林繁雄氏、門田裕志氏
https://www.aozora.gr.jp/cards/000146/card44913.html

巡査に叱られた・志布志町

 「十月十日 曇、福島町行乞、行程四里、志布志町、鹿児島屋(四〇・上)

八時過ぎてから中町行乞二時間、それから今町行乞三時間、もう二時近くなつたので志布志へ急ぐ、三里を二時間あまりで歩いた、それは外でもない、局留の郵便物を受取るためである、友はなつかしい、友のたよりはなつかしい。」
下のストリートビューの中央部の白い家が旧「鹿児島屋」の建物とのこと。現在は一般の民家となっていますのでご注意ください。

「旅の子供は夕べしくしく泣いてゐる
 旅はおかしい朝から夫婦喧嘩だ
・親によう似た仔馬かあいやついてゆく
 みんな寝てしまつてよい月夜かな
・月夜の豚がうめきつゞけてゐる
 月光あまねくほしいまゝなる虫の夜だ
 月の水をくみあげて飲み足つた
 明月の戸をかたくとざして
 故郷の人とはなしたのも夢か
 伸ばした足に触れた隣りは四国の人
 秋の白壁を高う/\塗りあげる
 松葉ちりしいてゐますお休みなさい
・松風ふいて墓ばかり
 踏むまいとしたその蟹は片輪だ
 志布志へ一里の秋の風ふく
・こゝまできてこの木にもたれる
・秋風の石を拾ふ
・人里ちかい松風の道となる
 泣く子叱つてる夕やみ
 飲まずには通れない水がしたゝる
 砂がぽこぽこ旅はさみしい
   ヨタ一句
 こんなところにこんなシヤンがゐる波音

このように、山頭火は志布志町でたくさんの句を残しています。下には志布志市観光案内所が作成した種田山頭火句碑めぐりのマップを引用させていただきました。

「安宿の朝はおもしろい、みんなそれぞれめいめいの姿をして出てゆく、保護色といふやうなことを考へざるをえない、片輪は片輪のやうに、狡いものは狡いやうに、そして、一は一のやうに!
今日の行乞相はよくもわるくもなかつた、嫌な事が四つあつた、同時にうれしい事が四つあつた、憾むらくは私自身が空の空になれない事だ、嫌も好きもあるものか。
米価の安くなる事実は私のやうなものをも考へさせる、――飫肥では弐十八銭、油津では二十五銭、上ノ町では弐十弐銭となつた(新白米では弐十銭以下だとさへ聞いた)。
今町から志布志まで三里強、日本風の海岸佳景である、一里ばかり来たところに、宮崎と鹿児島との県界石標が立つてゐる、大きなタブの樹も立つてゐる、石よりも樹により多く心を惹かれるのは私のセンチメンタリズムか、夏井の浜といふところは海水浴場としてよいらしかつた、別荘風の料理屋もあつた、浅酌低唱味を思ひ出させるに十分だ。
自動車が走る、箱馬車が通る、私が歩く。」
下には夏井の浜周辺のストリートビューを掲載いたしました。

「途上、道のりを訊ねたり、此地方の事情を教へてくれた娘さんはいゝ女性だつた、禅宗――しかも曹洞宗――の寺の秘蔵子と知つて、一層うれしかつた、彼女にまことの愛人あれ。
草鞋がないのには困つたが、それでもおせつたいとしていたゞいたり、明月に供へるのを貰つたりして、どうやらかうやらあまり草履をべたべたふまないですんだ、私も草鞋の句はだいぶ作つたが、ほんたうの草鞋の名句が出来さうなものだ。
同室三人、松葉ヱツキス売の若い鮮人は好きだつたが、もう一人は要領を得ない『山芋掘』で、うるさいから、街へ出て飲む、そしてイモシヨウチユウの功徳でぐつすり寝ることが出来た。

 十月十一日 晴、曇、志布志町行乞、宿は同前。

九時から十一時まで行乞、こんなに早う止めるつもりではなかつたけれど、巡査にやかましくいはれたので、裏町へ出て、駅で新聞を読んで戻つて来たのである(だいたい鹿児島県は行乞、押売、すべての見(マヽ)師の行動について法文通りの取締をするさうだ)。
今日は中学校の運動会、何しろ物見高い田舎町の事だから、爺さん婆さんまで出かけるらしい、それも無理はない、いや、よいことだと思ふ。
隣室の按摩兼遍路さんは興味をそゝる人物だつた、研屋さんも面白い人物だつた、昨夜の「山芋掘り」も亦異彩ある人物だつた、彼は女房に捨てられたり、女房を捨てたり、女に誑されたり、女を誑したりして、それが彼の存在の全部らしかつた、いはゞ彼は愚人で、そして喰へない男なのだ、多少の変質性と色情狂質とを持つてゐた。
畑のまんなかに、どうしたのか、コスモスがいたづらに咲いてゐる、赤いの、白いの、弱々しく美しく眺められる。
今日はまた、代筆デーだつた。あんまさんにハガキ弐枚、とぎやさんに四枚、やまいもほりさんに六枚書いてあげた、代筆を(マヽ)くれやうとした人もあるし、あまり礼もいはない人もある。
夕べ、一杯機嫌で海辺を散歩する、やつぱり寂しい、寂しいのが本当だらう。
行乞してゐる私に向つて、若い巡査曰く、托鉢なら托鉢のやうに正々堂々とやりたまへ、私は思ふ、これでずゐぶん正々堂々と行乞してゐるのだが。」

ここは鹿児島県である。警察がなかなかやかましい。行乞、押売物貰いすべてを法文通りに取締るので、軒に立って行乞すると叱られる。ただお経を読んで町を通るのは構わないのであるが、それでは誰も喜捨してくれるものがない。山頭火は何度も何度も叱られて、どうにもならぬので、裏町から駅へ出てそこでただの新聞を読んで午前十一時というに宿についてしまった。

出典:大山澄太 著『俳人山頭火の生涯』,弥生書房,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12464600 (参照 2026-02-14)、公開範囲:送信サービスで閲覧可能
https://dl.ndl.go.jp/pid/12464600/1/25

托鉢をして巡査に叱られる部分について、大山澄太 著の「俳人山頭火の生涯」では上に引用したように描かれています。こちらの印象的な場面を下のようにイメージ化してみました。なお、第二次大戦の敗戦後、GHQにより帯刀を禁止されますが、戦前の制服警官はサーベルを腰に下げるのが一般的でした。

出典:ChatGPTにより生成された画像、『昭和初期の若い巡査が托鉢僧に厳しい表情で職務質問をしているシーン』などのキーワードをベースに生成、生成日:2026年2月14日

「隣室に行商の支那人五人組が来たので、相客二人増しとなる、どれもこれもアル中毒者だ(私もその一人であることに間違ひない)、朝から飲んでゐる(飲むといへばこの地方では藷焼酎の外の何物でもない)、彼等は彼等にふさはしい人生観を持つてゐる、体験の宗教とでもいはうか。
コロリ往生――脳溢血乃至心臓麻痺でくたばる事だ――のありがたさ、望ましさを語つたり語られたりする。
人間といふものは、話したがる動物だが、例の山芋掘りさんの如きは、あまり多く話す、ナフ売りさんはあまりに少く話す、さて私はどちらだつたかな。
酒壺洞君の厚意で、寝つかれない一夜がさほど苦しくなかつた、文芸春秋はかういふ場合の読物としてよろしい。
支那人――日本へ来て行商してゐる――は決して飲まない、煙草を吸ふことも少い、朝鮮人はよく飲みよく吸ひ、そしてよく喧嘩する(日本人によく似てゐる)、両者を通じて困るのは、彼等の会話が高調子で喧騒で、傍若無人なことだ。
夢に、アメリカへ渡つて、ドーミグラスといふ町で、知つたやうな知らないやうな人に会つて一問題をひきおこした、はて面妖な。」

一日休んで読書・都城

「十月十二日 晴、岩川及末吉町行乞、都城、江夏屋(四〇・中)

九時の汽車に乗る、途中下車して、岩川で二時間、末吉で一時間行乞、今日はまた食ひ込みである。」
取り締まりの厳しい鹿児島から宮崎に汽車で戻ります。山頭火が乗ったのは志布志線という志布志駅と西都城駅を結ぶ路線でした。国鉄時代の志布志駅にはこちらの志布志線のほか、日南線、大隅線が乗り入れていましたが、現在は日南線のみが残っています。以下には配線前日の志布志線の動画を引用させていただきました(MBC南日本放送・公式動画)。
こちらには岩川駅や末吉駅、その間の風景なども映っているので、山頭火の見た景色をイメージしてみてください。

「秋の空高く巡査に叱られた」など、以下には志布志町を思い出して詠んだ句が多数あります。
「・年とれば故郷こひしいつくつくぼうし
 安宿のコスモスにして赤く白く
 一本一銭食べきれない大根である
・何とたくさん墓がある墓がある
 海は果てなく島が一つ
・はだかでだまつて何掘つてるか
 秋寒く酔へない酒を飲んでゐる
 今日のうれしさは草鞋のよさは
 一きれの雲もない空のさびしさまさる
 波のかゞやかさも秋となつた
 砂掘れば砂のほろほろ
 線路へこぼるゝ萩の花かな
 秋晴れて柩を送る四五人に
・岩が岩に薊咲かせてゐる(鵜戸)
・何といふ草か知らないつゝましう咲いて
 まづ水を飲みそれからお経を
・言葉が解らないとなりにをる
 秋晴れの菜葉服を出し褪めてゐる
・こころしづ(マヽ)山のおきふし
・家を持たない秋がふかうなつた
・捨てゝある扇子をひらけば不二の山
 旅の夫婦が仲よく今日の話
   行乞即事
 秋の空高く巡査に叱られた
・その一銭はその児に与へる
今夜は飲み過ぎ歩き過ぎた、誰だか洋服を着た若い人が宿まで送つてくれた、彼に幸福あれ。
藷焼酎の臭気はなかなかとれないが、その臭気をとると、同時に辛味もなくなるさうな、臭ければこそ酔ふのだらうよ。
世を捨てゝ山に入るとも味噌醤油酒の通ひ路なくてかなはじ、といふ狂歌(?)を読んだ、山に入つても、雲のかなたにも浮世があるといふ意味の短歌を読んだこともある、こゝも山里塵多しと(マヽ)語句も覚えてゐる、田の草をとればそのまゝ肥料(コヤシ)かな――煩悩即菩提、生死去来真実人、さてもおもろい人生人生。
夕方また気分が憂欝になり、感傷的にさへなつた、そこで飛び出して飲み歩いたのだが、コーヒー一杯、ビール一本、鮨一皿、蕎麦一椀、朝日一袋、一切合財で一円四十銭、これで懐はまた秋風落寞、さつぱりしすぎたかな(追記)。」
下には大正9年ごろの都城町の写真を引用いたしました。山頭火が立ち寄ったころもこちらのような大きな建物が並んでいたと思われます。

出典:宮崎県 編『宮崎県写真帖』,宮崎県,大正9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1172191 (参照 2026-02-14、一部抜粋)、都城町
https://dl.ndl.go.jp/pid/1172191/1/45

 「十月十三日 晴、休養、宿は同前。

とても行乞なんか出来さうもないので、寝ころんで読書する、うれしい一日だつた、のんきな一日だつた。
一日の憂は一日にて足れり――キリストの此言葉はありがたい、今日泊つて食べるだけのゲルトさへあれば(慾には少し飲むだけのゲルトを加へていたゞいて)、それでよいではないか、それで安んじてゐるやうでなければ行乞流浪の旅がつゞけられるものぢやない。
この宿はひろびろとして安易な気持でゐられるのがよい、電燈の都合がよろしいと申分ないが。
昨日今日すつかり音信の負債を果したので軽い気になつた、ゲルトの負債も返せると大喜びなのだけれど、その方は当分、或は永久に見込みないらしい。
句もなく苦もなかつた、銭もなく慾もなかつた、かういふ一日が時になければやりきれない。

 十月十四日 晴、都城市街行乞、宿は同前。

八時半から三時半まで行乞、この行乞のあさましさを知れ、そこには昨日休んだからといふ考へがある、明日は降るかも知れないといふ心配がある、――こんなことで何が行乞だ、行脚と旅行の目的欄に記したが(宿帳に)、恥づかしくはないか。
どこの庭にも咲いてゐる赤い花、それはサルピヤといふのださうな、何とかふさはしい和名がありさうなものだ、花そのものが日本的だから。
同宿の薬屋さん、とうとうアクセントで鮮人といふことが解つた、どんなに内地化したつて鮮人は遂に鮮人だつた、こ(マヽ)にも民族的問題が提供されてゐる。
例の饒舌僧とまた同宿した、知つたかぶりといふ言葉は彼のために出来たかと思はれるほどだ、人間はいゝけれど舌が長すぎる、下らない本を読んで、しかもそれを覚えすぎてゐる、『知る』といふことの価値が解らなければ宗教は解らない、といつてゐる私自身も知解情量の亜流だが。
都城で、嫌でも眼につくのは、材木と売春婦とである、製材所があれば料理屋がある、木屑とスベタとがうようよしてゐる、それもよしあし、よろしくあしく、あしくよろしく。」

この地方の製材業が手広く行なわれるようになったのは、明治四十二年(一九〇九)に発電所ができて電力事情が好転してから後のことで姫城町の外山製作所がその始めである。(中略)
周辺に豊富な森林資源をもつこの地方の製材業は発展の一路をたどり、今日の盛況の源となった。

出典:都城市制四十周年記念都城市史編さん委員会 編『都城市史』,都城市,1970. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9769203 (参照 2026-02-14)、公開範囲:送信サービスで閲覧可能
https://dl.ndl.go.jp/pid/9769203/1/102

上に引用したように元々あった木材資源に電力施設が加わったことにより、都城の製材業は急速に発展しました。以下には昭和9年に都城市にあった製材所のリストを引用いたしました。

出典:『都城商工案内』昭和9年版,都城商工会議所,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1106191 (参照 2026-02-14)、https://dl.ndl.go.jp/pid/1106191/1/89

「皮膚が荒れてくる旅をつゞけてゐる
 すこしばかり買物もして旅の夫婦は
 石刻む音のしたしくて石刻む
 朝寒に旅焼けの顔をならべて
・片輪同志で仲よい夫婦の旅
・ざくりざくり稲刈るのみの
・秋晴れの砂をふむよりくづれて
 鶏(トリ)を叱る声もうそ寒う着いた
 いそがしう飯たべて子を負うてまた野良へ
・木葉落ちる声のひととき
・貧乏の子沢山の朝から泣いてゐる
・それでよろしい落葉を掃く」

赤い鼻緒の下駄はいて飲みにいった・有水

 「十月十五日 晴、行程四里、有水、山村屋(四〇・中・下)

早く立つつもりだつたけれど、宿の仕度が出来ない、八時すぎてから草鞋を穿く、やつと昨日の朝になつて見つけた草鞋である、まことに尊い草鞋である。
二時で高城、二時間ほど行乞、また二里で有水、もう二里歩むつもりだつたが、何だか腹工合がよくないので、豆腐で一杯ひつかけて山村の閑寂をしんみりヱンヂヨイする。」
以下は高城エリアに残る武家門や石塀を含むストリートビューです。薩摩藩の外城として栄えた「高城郷麓」には江戸時代に多くの武家屋敷が建てられました。こちらを行乞する山頭火の姿を想像してみましょう。

「宿の主人は多少異色がある、子供が十人あつたと話す、話す彼は両足のない躄だ、気の毒なやうな可笑しいやうな、そして呑気な気持で彼をしみじみ眺めたことだつた。
途上、行乞しつゝ、農村の疲弊を感ぜざるを得なかつた、日本にとつて農村の疲弊ほど恐ろしいものはないと思ふ、豊年で困る、蚕を飼つて損をする――いつたい、そんな事があつていゝものか、あるべきなのか。
今日は強情婆と馬鹿娘とに出くわした、何と強情我慢の婆さんだつたらう、地獄行間違なし、そしてまた、馬鹿娘の馬鹿らしさはどうだ、極楽の入口だつた。
村の運動会(といつても小学校のそれだけれど、村全体が動くのである)は村の年中行事の一つとして、これほど有意義な、そして効果のあるものはなからう。
宿の小娘に下駄を貸してくれといつたら、自分の赤い鼻緒のそれを持つて来た、それを穿いて、私は焼酎飲みに出かけた、何となく寂しかつた。
友のたれかに与へたハガキの中に、――
やうやく海の威嚇と藷焼酎の誘惑とから逃れて、山の中へ来ることが出来ました、秋は海よりも山に、山よりも林に、いち早く深まりつゝあることを感じます、虫の声もいつとなく細くなつて、あるかなきかの風にも蝶々がたゞようてゐます。……
物のあはれか、旅のあはれか、人のあはれか、私のあはれか、あはれ、あはれ、あはれというもおろかなりけり。
清酒が飲みたいけれど罎詰しかない、此地方では酒といへば焼酎だ、なるほど、焼酎は銭に於ても、また酔ふことに於ても経済だ、同時に何といふうまくないことだらう、焼酎が好きなどゝいふのは――彼がほんたうにさう感じてゐるならば――彼は間違なく変質者だ、私は呼吸せずにしか焼酎は飲めない、清酒は味へるけれど、焼酎は呻る外ない(焼酎は無味無臭なのがいゝ、たゞ酔を買ふだけのものだ、藷焼酎でも米焼酎でも、焼酎の臭気なるものを私は好かない)。
相客は一人、何かを行商する老人、無口で無愛想なのが却つてよろしい、彼は彼、私は私で、煩はされることなしに私は私自身のしたい事をしてゐられるから。
湯に入れなかつたのは残念だつた、入浴は、私にとつては趣味である、疲労を医するといふことよりも気分を転換するための手段だ、二銭か三銭かの銭湯に於ける享楽はじつさいありがたいものである。
薩摩日向の家屋は板壁であるのを不思議に思つてゐたが宿の主人の話で、その謎が解けた、旧藩時代、真宗は御法度であるのに、庶民が壁に塗り込んでまで阿弥陀如来を礼拝するので、土壁を禁止したからだと。」

出典:写真AC、立山かくれがまの風景
https://www.photo-ac.com/main/detail/26405986&title=%E7%AB%8B%E5%B1%B1%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%81%8F%E3%82%8C%E3%81%8C%E3%81%BE%E3%81%AE%E9%A2%A8%E6%99%AF

江戸時代、薩摩藩や人吉藩では浄土真宗を禁止していました。それでも隠れて信者を続ける者も多く、彼らは「隠れ念仏」と呼ばれて弾圧されたとのことです。類似の言葉に「隠し念仏」(遠野物語の風景その7・参照)がありますが、こちちは東北地方の浄土真宗の信者のことで、こちらは江戸幕府だけでなく浄土真宗の本山・本願寺とも対立していました。上には鹿児島県知覧町に残されている「隠れ念仏」の集会場「立山のかくしがま」の写真を引用いたしました。

子供の親切がありがたかった・高岡町

 「十月十六日 曇、后晴、行程七里、高岡町、梅屋(六〇・中)

暗いうちに起きる、鶏が飛びだして歩く、子供も這ひだしてわめく、それを煙と無智とが彩るのだから、忙しくて五月蠅(うるさ)いことは疑ない。
今日の道はよかつた、――二里歩くと四家(シカ)、十軒ばかり人家がある、そこから山下まで二里の間は少し上つて少し下る、下つてまた上る、秋草が咲きつゞいて、虫が鳴いて、百舌鳥が啼いて、水が流れたり、木の葉が散つたり、のんびりと辿るにうれしい山路だつた、自動車には一台もあはず、時々自転車が通ふばかり、行人もあまり見うけなかつた、しかし、山下から高岡までの三里は自動車の埃と大淀川水電の工事の響とでうるさかつた、せつかくのんびりとした気持が、どうやらいらいらせずにはゐないやうだつた。」
「大淀川水電の工事の響」とは昭和2年から昭和6年にかけて建設工事が行われた「大淀川第二発電所」と思われます。下のストリートビューのようにモダンなアーチ式の窓が特徴の建物です。

「今日はめづらしく辨当行李に御飯をちよんびり入れて来た、それを草原で食べたが、前は山、後も山、上は大空、下は河、蝶々がひらりと飛んで来たり、草が箸を動かす手に触れたりして、おいしく食べた。
この宿は大正十五年の行脚の時、泊つたことがあるが、しづかで、きれいで、おちついて読み書きが出来る、殊に此頃は不景気で行商人が少ないため、今夜は私一人がお客さんだ、一室一燈、さつぱりした夜具の中で、故郷の夢のおだやかな一シーンでも見ませう。
『徒歩禅について』といふやうな小論が書けさうだ、徒歩禅か、徒労禅か、有か無か、是か非か。
今夜は水が飲みたいのに飲みにゆくことが出来ないので、水を飲んだ夢ばかり見た、水を飲めないやうに戸締りをした点に於て、此宿は下の下だ!
 朝の煙のゆうゆうとしてまつすぐ
 茶の花はわびしい照り曇り
 傾いた軒端にも雁来紅を植えて
 水音遠くなり近くなつて離れない
・水音といつしよに里へ下りて来た
 休んでゐるそこの木はもう紅葉してゐる
 山路咲きつゞく中のをみなへしである
 だんだん晴れてくる山柿の赤さよ
 山の中鉄鉢たゝいて見たりして
・しみじみ食べる飯ばかりの飯である
 蝶々よずゐぶん弱つてゐますね
   或る農村の風景(連作)
 明(アカ)るいところへ連れてきたら泣きやめた児だつた
 子を負うて屑繭買ひあるく女房である
 傾いた屋根の下には労れた人々
・脱穀機の休むひまなく手も足も
・八番目の子が泣きわめく母の夕べ
・損するばかりの蚕飼ふとていそがしう食べ
・出来秋のまんなかで暮らしかねてゐる
 こんなに米がとれても食へないといふのか
 出来すぎた稲を刈りつゝ呟いてゐる
 刈つて挽いて米とするほこりはあれど
 豊年のよろこびとくるしみが来て
・コスモスいたづらに咲いて障子破れたまゝ
・寝るだけが楽しみの寝床だけはある
・暮れてほそ/″\炊きだした
・二本一銭の食べきれない大根である
・何と安い繭の白さを□□る
勿論、これは外から見た風景で、内から発した情熱ではない、私としては農村を歩いてゐるうちに、その疲弊を感じ、いや、感じないではゐられないので、その感じを句として表現したに過ぎない、試作、未成品、海のものでも山のものでも、もとより畑のものではない。
かういふ歌が――何事も偽り多き世の中に死ぬことばかりはまことなりけり――忘れられない、時々思ひ出しては生死去来真実人に実参しない自分を恥ぢてゐたが、今日また、或る文章の中にこの歌を見出して、今更のやうに、何行乞ぞやと自分自身に喚びかけないではゐられなかつた、同時に、木喰もいづれは野べの行き倒れ犬か鴉の餌食なりけりといふ歌を思ひ出したことである。

 十月十七日 曇后晴、休養、宿は同前。

昨夜は十二時がうつても寝つかれなかつた、無理をしたゝめでもあらう、イモシヨウチユウのたゝりでもあらう、また、風邪気味のせいでもあらう、腰から足に熱があつて、倦くて痛くて苦しかつた。
朝のお汁に、昨日途上で貰つて来た唐辛を入れる、老来と共に辛いもの臭いもの苦がいもの渋いものが親しくなる。
昨日といへば農家の仕事を眺めてゐると、粒々辛苦といふ言葉を感ぜずにはゐられない、まつたく粒々辛苦だ。
身心はすぐれないけれど、むりに八時出立する、行乞するつもりだけれど、発熱して悪感がおこつて、とてもそれどころぢやないので、やうやく路傍に小さい堂宇を見けて、そこの狭い板敷に寝てゐると、近傍の子供が四五人やつて声をかける、見ると地面に茣蓙を敷いて、それに横はり(マヽ)なさいといふ、ありがたいことだ、私は熱に燃え悪感に慄へる身体をその上に横たへた、うつらうつらして夢ともなく現ともなく二時間ばかり寝てゐるうちに、どうやら足元もひよろつかず声も出さうなので、二時間だけ行乞、しかも最後の家で、とても我慢強い老婆にぶつかつて、修証義と、観音経を読誦したが、読誦してゐるうちに、だんだん身心が快くなつた。」
以下には子供たちに見守られながら熱っぽい体を横たえる山頭火の姿を描いてみました。

出典:ChatGPTにより生成された画像、『お堂の前に敷いたゴザに横たわる僧 、周辺では着物姿の子供たちが見守っているシーン』などのキーワードをベースに生成、生成日:2026年2月17日

「大地ひえびえとして熱あるからだをまかす
・いづれは土くれのやすけさで土に寝る
 このまゝ死んでしまふかも知れない土に寝る
 熱あるからだをながながと伸ばす土
前の宿にひきかへして寝床につく、水を飲んで(こゝの水はうまくてよろしい)ゆつくりしてさへをれば、私の健康は回復する、果して夕方には一番風呂にはいるだけの勇気が出て来た。
やつと酒屋で酒を見つけて一杯飲む、おいしかつた、焼酎とはもう絶縁である。
寝てゐると、どこやらで新内を語つてゐる、明烏らしい、あの哀調は病める旅人の愁をそゝるに十分だ。」
以下のような曲調だったでしょうか?

出典:鶴賀 若狭掾(初代)[作詞] ほか『明烏(夢泡雪)(一) 主を思うて』,ビクター. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1318067 (参照 2026-02-16)

https://dl.ndl.go.jp/pid/1318067

「たつた一匹の蚊で殺された
病んで寝て蠅が一匹きたゞけ」

旅行などの情報

高城郷麓の武家門巡り

山頭火が十月十五日に「二時で高城、二時間ほど行乞、」と記した高城(たかじょう)町は薩摩藩の外城として栄えました。現在でも街中には郷士の居住地区である「麓」の面影が残っていて、特に保存されている7つの武家門は必見です。ほかにも石塀が張り巡らされた小道などもあり、タイムトリップ感を味わえるでしょう。

上記の武家門のあるお屋敷は個人宅なので立ち入ることはできませんが、築125年以上になる旧後藤家は「旧後藤家商家交流資料館」として開放されています。こちらは上に引用させていただいた「MCN宮崎ケーブルテレビ」の公式動画のように国の登録有形文化財に指定されていて、「ひなまつり」や「七夕まつり」などのイベントにも活用されています。

基本情報

【住所】宮崎県都城市高城町高城
【アクセス】宮崎自動車道・都城ICから車で10分
【参考URL】https://miyakonojo.tv/archives/model-course/002