種田山頭火「行乞記」の風景(その6)

俳友たちとの再会・そしてまた一人に

体調が回復した(行乞記の風景その5・参照)山頭火は本庄の宿で端唄を楽しみました。俳友たちとの会合を待ちきれず、宮崎の友人宅に前乗りする場面も!そこでの家庭のぬくもりが忘れられない山頭火は「一人になりきれ」と自分を励ましながら旅を続けます。佐土原町では雨に嘆息しますが、次の日からは秋晴れのなかを高鍋町・都農町・美々津町と北行しました。

主な出典:青空文庫、行乞記(ぎょうこつき)、底本:山頭火全集 第三巻、出版社: 春陽堂書店、入力:「さくらんぼ」氏、校正:小林繁雄氏、門田裕志氏
https://www.aozora.gr.jp/cards/000146/card44913.html

端唄を楽しむ・本庄町

 「十月十八日 晴、行程四里、本庄町、さぬきや(三〇・上)

夜が長い、いくども眼がさめた、今日もお天気、ようお天気がつゞく、ありがたいことである、雨は世間師には殺人剣だ。
高岡から綾まで二里、天台宗の乞食坊さんと道づれになる、彼の若さ、彼の正直さを知つて、何とかならないものかと思ふ。
綾を二時間ばかり行乞する、このあたりは禅宗が多いので、行乞には都合よろしい、時々嫌なことがある、その嫌なことを利用してはいけない、善用して、自分の忍辱がどんなものであるかを試みる。
先日来、お昼の辨当を持つて歩くことにした、今日は畦草をしいて食べた、大根漬がおいしかつた、それは高岡の宿のおかみさんの心づくしであるが。
綾から本庄までまた二里、三時間ばかり行乞、やうやく教へられた、そして大正十五年泊つたおぼえのある此宿を見つけて泊る、すぐ湯屋へゆく、酒屋へ寄る。……」
同じく本庄エリアにある「義門寺」には山頭火の句を記した石板があります。その石板によると山頭火が宿泊したのは国富町の本庄仲町とのことです。以下には義門寺(左側が入口の門)の脇を通る薩摩街道・高岡筋のストリートビューを掲載いたしました。こちらの周辺で托鉢を行う山頭火の姿を想像してみましょう。

「相客は古参のお遍路さんだ、例の如く坑夫あがりらしい、いつも愚痴をいつてゐる、嫌な男だと思つたが、果して夕飯の時、焼酎を八本も呷つて(飲むのぢやない、注ぎ込むのだつた)不平を並べ初めた、あまりうるさいので、外へ出てぶらぶらしてゐるうちに、私自身もまたカフヱーみたいなところへはいつた、ビールを久しぶりに味ふ、その余勢が朝鮮女の家へまで連れていつた、前には五人の朝鮮淫売婦、彼女らがペチヤペチヤ朝鮮語をしやべるので私も負けずにブロークンイングリツシユをしやべる、そのためか、たゞしは一銭銅貨ばかりで払ふのに同情したからか、五十銭の菓子代を三十銭に負けてくれた、何と恥づかしい、可笑しい話ではないか。
アルコールのおかげで、隣室の不平寝言――彼は寝てまで不平をいつてゐる――のも気にかけないで、また夜中降りだした雨の音も知らないで、朝までぐつすり寝ることができた。
此宿はよい、待遇もよく賄もよく、安くて気楽だ、私が着いた時に足洗ひ水をとつてくれたり、相客の喧騒を避けさせるべく隣室に寝床をしいてくれた、老主人は昔、船頭として京浜地方まで泳ぎまはつたといふ苦労人だ、例の男の酔態に対しても平然として処置を誤まらない、しかし、蒲団だけは何といつてもよろしくない、私は酔うてゐなかつたらその臭気紛々でとても寝つかれなかつたらう、朝、眼が覚めると、飛び起きたほどだ。
酔漢が寝床に追ひやられた後で、鋳掛屋さんと話す、私が槍さびを唄つて彼が踊つた、ノンキすぎるけれど、かういふ旅では珍らしい逸興だつた、しかし興に乗りすぎて嚢中二十六銭しか残つてゐない、少し心細いね――嚢中自無銭!」

出典:ChatGPTにより生成された画像、『昭和初期の宿で僧が唄い、職人が踊るシーン』などのキーワードをベースに生成、生成日:2026年2月24日

「鋳掛屋」とは鍋や釜といった鋳物の修理を行う職業でしたが、安価なアルミ鍋などの普及により、昭和以降は廃れていったとのことです(ウィキペディア・鋳掛屋)。上ではこの日の出来事をイメージしてみました。

行手けふも高い山・妻町

 「十月十九日 曇、時々雨、行程五里、妻町、藤屋

因果歴然、歩きたうないが歩かなければならない、昨夜、飲み余したビールを持ち帰つてゐたので、まづそれを飲む、その勢で草鞋を穿く、昨日の自分を忘れるために、今日の糧を頂戴するために、そして妻局留置の郵便物を受取るために(酒のうまいやうに、友のたよりはなつかしい)。
妻まで五里の山路、大正十五年に一度踏んだ土である、あの時はもう二度とこの山も見ることはあるまいと思つたことであるが、命があつて縁があつてまた通るのである、途中、三名(サンミヤウ)、岩崎、平郡(ヘグリ)といふ部落町を行乞して、やつと今日の入費だけ戴いた、明日は雨らしいが、明日は明日の事、まだまだ何とかなるだけの余裕はある。」
この日宿泊した妻町は周辺に「西都原(さいとばる)古墳群」がある古くから栄えたエリアです。なお、邪馬台国の九州説(魏志倭人伝の風景その2・参照)のなかには、妻地区の都萬神社周辺を魏志倭人伝の「投馬国」と比定する一説もあります。
以下には県道24号線(三名・岩崎間)のストリートビューを掲載いたしました。ウィキペディア・舗装によると1960年頃までは、国内の道路のほとんどが非舗装であったとのこと。山頭火がこちら付近の非舗装山道を歩いているところをイメージしてみましょう。

「此宿はボクチンでなくてリヨカンであるが、賄も部屋も弟たり難く兄たり難しといつたところ、ただ宿の事を訊ねたのが機縁となつて、信心深い老夫妻のお世話になることになつたのである、彼等の温情はよく解る。
今夜は酒場まで出かけて新酒を一杯やつたゞけ(一合十三銭は酒がよいよりも高すぎる)、酒といへば焼酎しか飲めなかつた地方、そのイモシヨウチユウの桎梏から逃れたと思つたら、こんどは新酒の誘惑だ、早くアルコール揚棄の境地に到達しなければ嘘だ。
 行手けふも高い山が立つてゐる
 白犬と黒犬と連れて仲のよいこと
 山の水のうまさ虫はまだ鳴いてゐる
・父が掃けば母は焚いてゐる落葉
 蔦を這はせてさりげなく生きてゐるか
 駄菓子ちよつぴりながらつ(マヽ)てゐる
 あるだけの酒はよばれて別れたが
・豊年のよろこびの唄もなし
・米とするまでは手にある稲を扱ぐ
 茄子を鰯に代へてみんなでうまがつてゐる」

この山頭火が歩いたころの妻町は今は西都市となり、その旅館もなく、区画整理で広い道路がぬけている。

出典:黒木淳吉 編『宮崎の旅』,宮崎日日新聞社,1978.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9773174 (参照 2026-02-19)、公開範囲:送信サービスで閲覧可能
https://dl.ndl.go.jp/pid/9773174/1/109

上に引用したように、山頭火が宿泊した旅館はすでになくなっていて、歩いた街道も昔の面影はないようです。ここでは昭和の雰囲気が残る西都市「平助通り」のストリートビューを引用いたしました。こちらに托鉢姿の山頭火を置いてみましょう。

「留置郵便は端書、手紙、雑誌、合せて十一あつた、くりかへして読んで懐かしがつた、寸鶏頭君の文章は悲しかつた、悲しいよりも痛ましかつた、『痰壺のその顔へ吐いてやれ』といふ句や、母堂の不用意な言葉などは凄かつた、どうぞ彼が植えさせたチユーリツプの花を観て微笑することが出来るやうに。――
此宿はよい宿ではないけれど、木賃宿よりはさすがに、落ちついて静かである、殊に坊主枕はよかつた、小さい位は我慢する、あの茣蓙枕の殺風景は堪へられない。
隣室は右も左も賑やかだ、気取つた話、白粉臭い話、下らない話、――しかし私は閑寂を味うてゐる、ひとり考へひとり書いてゐる、友人へそれぞれのたよりを書いてゐると、その人に逢つて話しかけるやうな気さへする、ひとり考へ、ひとり頷くのも面白い、屁を放(ヒ)つて可笑しくもない独り者といふ川柳があるが、その独り者は読書と思索とを知らなかつたのだらうと思ふ、――とにもかくにも一室一燈一人はありがたいことである。
夜は予期した通りの雨となつた、いかにも秋雨らしく降つてゐる、しかし明日はきつと霽れるだらう。
   ヨタ二句
・腰のいたさをたゝいてくれる手がほしい
 お経あげてゐるわがふところは秋の風
(まことに芭蕉翁、良寛和尚に対しては申訳がないけれど)

 十月廿日 晴、曇、雨、そして晴、妻町行乞、宿は同前。

果して霽れてゐる、風が出て時々ばらばらとやつて来たが、まあ、晴と記すべきお天気である、九時から二時まで行乞、行乞相は今日の私としては相当だつた。
新酒、新漬、ほんたうにおいしい、生きることのよろこびを恵んでくれる。
歩かない日はさみしい、飲まない日はさみしい、作らない日はさみしい、ひとりでゐることはさみしいけれど、ひとりで歩き、ひとりで飲み、ひとりで作つてゐることはさみしくない。
昨日書き落してゐたが、本庄の宿を立つ時、例の山芋掘りさんがお賽銭として弐銭出して、どうしても受取らなければ承知しないので、気の毒とは思つたけれど、ありがたく頂戴した、此弐銭はいろいろの意味で意味ふかいものだつた。
新酒を飲み過ぎて――貨幣価値で十三銭――とうとう酔つぱらつた、こゝまで来るともうぢつとしてはゐられない、宮崎の俳友との第二回会合は明後日あたりの約束だけれど、飛び出して汽車に乗る、列車内でも挿話が二つあつた、一つはとても元気な老人の健康を祝福した事、彼も私もいゝ機嫌だつたのだ、その二は傲慢な、その癖小心な商人を叱つてやつた事。」
この時、山頭火が乗ったのは昭和59年に廃止となった「妻線」と思われます。下には旧妻駅舎などが再現されている西都市児童館前のストリートビューを掲載いたしました。

「九時近くなつて、闘牛児居を驚かす、いつものヨタ話を三時近くまで続けた、……その間には小さい観音像へ供養の読経までした、数日分の新聞も読んだ。
放談、漫談、愚談、等々は我々の安全辨だ。」
「闘牛児居を驚かす」以降の詳細を、闘牛児氏側から記したのが以下に引用した文章です。「層雲」の山頭火追悼特集に掲載されています。

日向の南部をほぼ一巡して、山に近い町に、泊りは、とまったが、逢ひたくなったので、終列車に、飛び込んだと、十月二十日の夜半、私の家にみえた。今夜は、どうでも泊めてもらひたい。
私は、山頭火君の、真実の、あるものを、しみじみ感じさせられた。
もう逢えないことと、思っていたのに、よくこそ。(中略)
大分ふけていたが、少しの酒と、一応の歓語の後に、家内が読経を乞うた様子だった。何か対照ものがないと、このままでは読めないとの話し、家内が一寸八分の観音像(?)を卓に安置した。暫く眺めていられたが、大いによろしいと、やがて法衣をつけて、観音経を二回読誦せられた。家内が非常に喜んで、ときをり思ひ出としている。

出典:『層雲』30(8)(356),層雲社,1940-12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2325301 (参照 2026-02-20)、山頭火追憶(上)・木賃宿の一隅、中島闘牛児、公開範囲:送信サービスで閲覧可能
https://dl.ndl.go.jp/pid/2325301/1/36

子供むしつては花をならべる・闘牛児居

 「十月廿一日 晴、日中は闘牛児居滞在、夜は紅足馬居泊、会合。

早く起きる、前庭をぶらつく、花柳菜といふ野菜が沢山作つてある、紅足馬さんがやつてくる、話がはづむ、鮎の塩焼を食べた、私には珍らしい御馳走だつた、小さいお嬢さんが馳けまはつて才智を発揮する、私達は日向の縁側で胡座。
招かれて、夕方から紅足馬居へ行く、闘牛児さんと同道、そのまゝ泊る、今夜も話がはづんだ、句評やら読経やらで夜の更けるのも知らなかつた。」
以下には中島闘牛児氏の家でくつろぐ山頭火に「小さいお嬢さん」が「子供むしつては花をならべる」シーンを合わせてみました。このように友人宅などでその家族のぬくもりに触れた山頭火は、彼らと別れたあと、反動で寂しさを感じるのでした。

出典:ChatGPTにより生成された画像、『縁側であぐらをかき、お茶を飲む僧、その脇に庭からやってきた小さな女の子が、むしつた花を縁側にならべている』などのキーワードをベースに生成、生成日:2026年2月20日

「闘牛児居はしづかだけれど、市井の間といふ感じがある、こゝは田園気分でおちつける、そして両友の家人みんな気のおけない、あたゝかい方々ばかりだつた。
   闘牛児居即詠
・ひとりで生え伸びて冬瓜の実となつてゐる
 花柳菜たくさん植えて職が見つからないでゐる
 垣根へ□□げられた芙蓉咲いて
・朝の茶の花二つ見つけた
・菊一株のありてまだ咲かない
 可愛い掌(テ)には人形として観音像
 すこし風が出てまづ笹のそよぐ
 子供むしつては花をならべる
 日を浴びて何か考へてござる
   紅足馬居即事
 お約束の風呂の煙が秋空へ
・夕顔白くまた逢うてゐる」

ふりかへらない道をいそぐ・福島

 「十月廿二日 曇、行程三里、福島、富田屋(三〇・上)

おだやかな眼ざめだつた、飲み足り話し足り眠り足つたのである、足り過ぎて、疲れと憂ひとを覚えないでもない、人間といふものは我儘な動物だ。
八時出立、途中まで紅闘二兄が送つて下さる、朝酒の酔が少しづゝ出てくる、のらりくらり歩いてゐるうちに、だるくなり、ねむくなり、水が飲みたくなり、街道を横ぎらうとして自動車乗りに奴鳴りつけられたりする(彼があまりに意地悪い表情をしたので、詫の言葉が口から出なかつた)、二里ばかり来て、路傍の林の中へ分け入つて一寝入り、それからお辨当を食べる、バツトと朝日とをかはるがはる喫ふ、みんな紅足馬さんからの贈物である。」
上でも引用した「層雲」山頭火追悼特集(中島闘牛児氏)から「紅闘二兄が送つて下さる」に関連する部分を引用いたします。

十月二十二日、日向路の秋もややつめたくなった朝、けふから北へ。私が見送って行くと、もう別れよう、どこまでいっても同じことだ。ここでと、何回か。それでは、どうせ、行く君と、とどまる私だ、脚気に気をつけてもらひたいといふと、大丈夫、大丈夫、だが僕は返り見しないよ、振り返ると、どうも足が進まないからな、と、人ごみに見えなくなるまで、佇んでいた私に山頭火君は、遂に見向かないで。
 あのときの、あせた色の法衣、破れそめた、あのすげ笠、思ひ出が、また思ひ出となってしまったか、この秋に。

出典:『層雲』30(8)(356),層雲社,1940-12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2325301 (参照 2026-02-20)、山頭火追憶(上)・木賃宿の一隅、中島闘牛児、公開範囲:送信サービスで閲覧可能
https://dl.ndl.go.jp/pid/2325301/1/36

以下のような場面があったでしょうか?引用文のようにこちらのシーンが山頭火との最後のお別れとなってしまったようです。

出典:ChatGPTにより生成された画像、『戦前の郊外で僧が二人の友人と別れる場面』などのキーワードをベースに生成、生成日:2026年2月24日

「少しばかり行乞して、この宿の前へ来たので、すぐ泊る、合客は多いけれど、みんな好人物、そして家の人々も好人物、のんきに話し合ひ笑ひ合ふ、今夜は飲まなかつた、さすがに昨夜は飲み足りたのだ。
油津で同宿したことのある尺八老とまた同宿になつた、髯のお遍路さんは面白い人だ、この人ぐらい釣好きはめつたにあるまい、修行そつちのけ、餌代まで借りて沙魚釣だ、だいぶ釣つて来たが自分では食べない、みんな人々へくれてやるのである、――ずゐぶん興味のある話を聞いた、沙魚の話、鯉の話、目白飯の話、鹿打失敗談、等、等、等――彼はさらに語る、遍路は職業としては二十年後てゐる、云々、彼はチヤームとか宣伝とか盛んにまた新しい語彙を使ふ。
・ふりかへらない道をいそぐ
・吠える犬吠えない犬の間を通る
・何となくおちつけない顔を洗ふ
 草の中の犬ころはもう死んでゐる
 落葉しいて寝て樹洩れ日のしづか
 山に寝そべれば山の蚊が
・草鞋かろく別れの言葉もかろく
 そのおべんたうをかみしめてあなたがたのこと
 いたゞいたハガキにこまごま書いておくる

 十月廿三日 曇、雨、佐土原町行乞、宿は同前。」

下には明治時代末の佐土原町の写真を引用いたします。江戸時代には佐土原藩三万石の城下町として栄えた地区のため、山頭火が立ち寄ったころにもその雰囲気が残っていたのではないでしょうか。

出典:『宮崎県写真帖』,宮崎県,明40.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/766793 (参照 2026-02-23)、佐土原市街
https://dl.ndl.go.jp/pid/766793/1/29

「あぶないお天気だけれど出かける、途中まで例の尺八老と同行、彼はグレさんのモデルみたいな人だ、お人好しで、怠け者で、酒好きで、貧乏で、ちよいちよい宿に迷惑もかけるらしい。
降りだしたので正味二時間位しか行乞出来なかつた、やつと宿銭と飯米とを貰つて帰つてきた、一杯ひつかけたのと尺八老に一杯あげたのとだけは食ひ込みだ、煙草は貰つてきた朝日とバツト、それも一本づつ同宿者におせつたいした。
行乞中、不快事が一つ、快心事が一つ、或る相当な呉服店の主人の非人情的態度と草鞋を下さつたお内儀さんの温情とである(草鞋は此地方に稀なので殊に有難かつた)。
シヨウチユウと復縁したおかげで、朝までぐつすりと寝た、金もなく心配もなしに。
めくらの爺さんで唄うたうてゐる
穿いて下さいといふ草鞋を穿いて
笠に巣喰うてゐる小蜘蛛なれば
まだ孤独気分にかへれない、家庭気分を嗅いだ後はこれだから困る、一人になりきれ、一人になりきれ。

 十月廿四日 雨、滞在、休養、宿は勿論同前(上)

雨、風まで吹く、同宿者七人、みんな文なしだから空を仰いで嘆息してゐる、しかし元来のんき人種だから、火もない火鉢を囲んで四方八方の話に笑ひ興じる(たゞし例の釣好きのお遍路さんはお札くばりの爺さんから餌代五銭出して貰つて出かけた、そして沙魚三十尾ばかりの獲物を提げて得々として帰つて来た、私もその一二尾の御馳走になつた)。
長い退屈な一日だつた、無駄話は面白いけれど、それも続けると倦いてくる、――ヤキ宿で死んでいつた人の話はみんなをしんみりさせた、そしてめいめいの臨終の有様を心に描かせら(マヽ)しい、鯉を盗んで、それをその所有者に食べさせた話はみんなを腹から笑はせた、旅籠に泊つて金が足らないでびくびくした話、雨に濡れながら門附けした話、テキヤとヘンロとの合同金儲けの話などもとりどりに興味ふかく聞くことが出来た。
晩酌には、同病相憐むといつた風で、尺八老に一杯おせつたいした、彼の笑顔は焼酎一合のお礼としては勿躰ないほどよかつた。
明日は晴れる、晴れてくれ、晴れなければ困るといふ気分で、みんな早くから寝た、私だつて明日も降つたら、宿銭はオンリヨウだ(オンリヨウとはマイナスの隠語である)。」

山風澄みわたる・高鍋町

 「十月廿五日 晴曇、行程三里、高鍋町、川崎屋(三五・中上)

晴れたり曇つたり、かはりやすい秋空だつた、七時過ぎ出発する、二日二夜を共にした七人に再会と幸福を祈りつゝ、別れ別れになつてゆく。
私はひとり北へ、途中行乞しつゝ高鍋まで、一時過ぎに着く、二時間ばかり行乞、此宿をたづねて厄介になる、聞いた通りに、気安い、気持よい宿である。
山風澄みわたる笠をぬぐ
蓮の葉に雨の音ある旅の夕ぐれ」

三六 高鍋町 児湯郡
児湯郡役所の所在地にして秋月氏の旧藩庁地なり
人口約七千五百、中等各種学校・銀行・会社等あり市況繁盛、西方の鶴舞公園は即ち旧城跡なり

出典:宮崎県 編『宮崎県写真帖』,宮崎県,大正9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1172191 (参照 2026-02-23)、高鍋町
https://dl.ndl.go.jp/pid/1172191/1/77

高鍋町は上に引用したように旧高鍋藩の城下町で、以下の写真(大正9年)のような立派な建物が並んでいました。

出典:宮崎県 編『宮崎県写真帖』,宮崎県,大正9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1172191 (参照 2026-02-23、一部抜粋)、高鍋町
https://dl.ndl.go.jp/pid/1172191/1/77

「今日は酒を慎しんだ、酒は飲むだけ不幸で、飲まないだけ幸福だ、一合の幸福は兎角一升の不幸となりがちだ。
今夜は相客がたつた一人、それもおとなしい爺さんで、隣室へひつこんでしまつたので、一室一人、一燈を分けあつて読む、そして宿のおばあさんがとても人柄で、坊主枕の安らかさもうれしかつた。
世間師がいふ晩の極楽飯、朝の地獄飯は面白い、晩はゆつくり食べたり飲んだり話したりして寝る楽しみに恵まれてるが、朝はいそがしく食べて嫌がられる労働をくりかへさなければならないのである、いねいねと人にいはれつ年の暮(路通)のみじめさを毎日味ははなければならないのである。
修行者の集つたところでは、その話題はいつもきまつてゐる、曰く宿のよしあし、手の内のよしあし、そしてお天気のよしあし、また世間師の享楽もきまつてゐる、寝る事と食べる事、少し甲斐性のあるのが、飲む事、景気のいゝのが、買ふ事打つ事。」

まつたく雲がない・都濃町

 「十月廿六日 晴、行程四里、都濃町、さつま屋(三〇・中上)

ほんとうに秋空一碧だ、万物のうつくしさはどうだ、秋、秋、秋のよさが身心に徹する。
八時から十一時まで高鍋町本通り行乞、そして行乞しながら歩く、今日の道は松並木つゞき、見遙かす山なみもよかつた、四時過ぎて都濃町の此宿に草鞋をぬぐ、教へられた屋号は「かごしまや」だつたが、招牌には「さつまや」とあつた、隣は湯屋、前は酒屋、その湯にはいつて、その酒屋へ寄つて新聞を読ませて貰つた。」
以下には「宮崎県写真帖(大正9年)」にも掲載されている都農神社の写真を引用いたしました。日向国一宮で神武天皇が天皇が東征に向かう際に創建したとされています。山頭火もこちらに立ち寄っていたかもしれません。

出典:宮崎県 編『宮崎県写真帖』,宮崎県,大正9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1172191 (参照 2026-02-24、一部抜粋)、都農神社
https://dl.ndl.go.jp/pid/1172191/1/75

「此宿もわるくない(昨日の宿は五銭高い以上のものがあつたが)、掃除の行き届いてゐるのが何よりも気持がよい、軒先きを流れる小川の音がさうさうとして聞えるのもよい。
米の安さ、野菜の安さはどうだ、米一升十八銭では敷島一個ぢやないか、見事な大根一本が五厘にも値しない、菜葉一把が一厘か二厘だ、私なども困るが――修業者はとてもやつてゆけまい――農村のみじめさは見てゐられない。
行乞相はよかつたりわるかつたり、恥づかしいけれどそれが実相が(マヽ)仕方がない、持寂定ならばそれは聖境だ、私は右したり左したり、上つたり下つたり、倒れたり起きたり、いつも流転顛動だ。
たまたま鏡を見る、――何といふ醜い黒い顔だらう、この顔を是認するほど私の心地はまだ開けてゐない、可憐々々。
途上、店頭で柚子を見つけて一つ買つた、一銭也、宿で味噌を分けて貰つて柚子味噌にする、代二銭也。
・まつたく雲がない笠をぬぎ
 よいお天気の草鞋がかろい
 警察署の芙蓉二つ三つ咲いて
・秋空、一点の飛行機をゑがく
・見あぐればまうへ飛行機の空
・けふのべんとうは橋の下にて
 旅の法衣で蠅めがつるむ
 刈田の青草ぐい/\伸びろ
・大石小石かれ/″\の水となり
 もぎのこされた柿の実のいよ/\赤く
早く寝たが、蚤がなかなか寝せない、虱はまだゐないらしい、寝られないまゝに、同宿の人々の話を聞く、競馬の話だ、賭博本能が飲酒本能と同様に人生そのものに根ざしてゐることを知る(勿論、色、食の二本能以外に)。」

やっと入浴できた・美々津町

 「十月廿七日 晴、行程三里、美々津町、いけべや(三〇・中)

いゝお天気である、午前中は都農町行乞、それからぼつぼつ歩いて二時過ぎ美々津町行乞、或る家で法事の餅をよばれる、もつと行乞しなければ都合が悪いのだが、嫌になつたので、丁度出くわした鮮人の飴売さんに教へられて此宿に泊る、予期したよりもよかつた。」

旧児湯郡美々津町。1955年(昭和30年)日向市に編入。耳川(美々津川)右岸から石並川流域を占め、西部は尾鈴火成岩の山地、沿岸部は宮崎平野の北縁をなす。 耳川河口の美々津港は江戸時代は高鍋藩の上方交易港、明治・大正時代は入郷地帯を後背圏とする物資の移出入港となり美々津はその港町として栄えた。 当時の建物、敷地割が残り、瀬戸内船運の西端にあたり、上方風の商家、操船・水運業者の家、漁家が連なり、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定される。

出典:ウィキペディア・美々津
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E3%80%85%E6%B4%A5

美々津町は上に引用したように高鍋藩の交易港として栄えた地区です。以下にはその全景も掲載いたします。

出典:宮崎県 編『宮崎県写真帖』,宮崎県,大正9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1172191 (参照 2026-02-23、一部抜粋)、美々津港
https://dl.ndl.go.jp/pid/1172191/1/89

「けさはまづ水の音に眼がさめた、その水で顔を洗つた、流るゝ水はよいものだ、何もかも流れる、流れることそのことは何といつてもよろしい。
同宿者の一人、老いかけやさんは異色があつた、縞のズボンに黒の上衣、時計の鎖をだらりと下げてゐる、金さへあれば飲むらしい、彼もまた『忘れえぬ人々』の一人たるを失はない。
途上、がくねんとして我にかへる――母を憶ひ弟を憶ひ、更に父を憶ひ祖母を憶ひ姉を憶ひ、更にまた伯父を憶ひ伯母を憶ひ――何のための出家ぞ、何のための行脚ぞ、法衣に対して恥づかしくないか、袈裟に対して恐れ多くはないか、江湖万人の布施に対して何を酬ゐるか――自己革命のなさざるべからざるを考へざるを得なかつた(この事実については、もつと、もつと、書き残しておかなければならない)。
村の共同浴場、一銭風呂といふのを宿のおばさんに教へられて、行つてみたが駄目だつた、まだ沸いてゐなかつた、それにしても丘をのぼり、墓場を抜け、農家の間を抜けて、風呂場へ行くとは面白いではないか。
今日も此宿で、修行遍路ではやつてゆけない実例と同宿した、こんなに不景気で、そしてこんなに米価安では誰だつて困る、私があまり困らないですむのは、袈裟の功徳と、そして若し附け加へることを許されるならば、行乞の技巧とのためである。
入浴、そして一杯ひつかける、――これで今日の命の終り!
・ひとりきりの湯で思ふこともない
 旅のからだでぽりぽり掻く」

上には美々津の重要伝統的建造物群保存地区のストリートビューを掲載いたしました。「一銭風呂」には入れなかった山頭火はこちらのような街中で銭湯を見つけたかもしれません。

旅行などの情報

舞鶴公園

高鍋城址を整備した公園で町のシンボル的な存在となっています。美しい名前の由来はその地形が羽ばたく鶴の姿に似ているからとのことです。敷地内には本丸跡や舞鶴神社、高鍋町歴史総合資料館、藩主であった秋月氏邸を復元した「萬歳亭」などが点在し、頂上からの海岸線の眺めは絶景です。
として整備したもの。高鍋城は、その地形が鶴の羽ばたく姿に似ていることから、舞鶴城とも呼ばれていた。高鍋町歴史総合資料館や、秋月種樹の邸宅を復元した萬歳亭などがある。桜の見頃にあわせ、「桜まつり」も開催される。敷地内には約100本もの梅と約1000本の桜、そして2000本のツツジが植えられており、町内でも有数の花の名所として知られている。高鍋城灯籠まつり

また、こちらが観光客で最も賑わうのが秋の「高鍋城灯籠まつり」と春の「高鍋城址桜まつり」です。例えば桜まつりは上に引用させていただいたようなライトアップも行われ、幻想的な雰囲気を楽しめます。なお、高鍋町には餃子の専門店が多く「餃子の町」としても売り出し中です。テイクアウトした餃子を食べながらお祭りを満喫してみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】宮崎県高鍋町大字上江1345
【アクセス】JR高鍋駅から車で10分
【参考URL】https://takanabe-kankou.com/