種田山頭火「行乞記」の風景(その10・よすぎる!源三郎居・もったいない!星城子居・緑平氏と再会)
よすぎる!源三郎居・もったいない!星城子居・緑平氏と再会
句会を興じた(行乞記の風景その9・参照)仲間と別れ、急に寂しさを覚えた山頭火。門司の源三郎居では「やはらかいフトン」に「よすぎる」と感激、海を渡った下関市でも寂しさを紛らわせるためお酒は欠かせません。八幡の星城子居で「もったいない」ほどの接待を受け、河内貯水池を散策、炭鉱街・糸田では「心友」木村緑平居にて「枕を並べて寝ながら」語り合いました。
主な出典:青空文庫、行乞記(ぎょうこつき)、底本:山頭火全集 第三巻、出版社: 春陽堂書店、入力:「さくらんぼ」氏、校正:小林繁雄氏、門田裕志氏
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別れきてさみしい濁酒・宇ノ島
「十一月十七日 晴、行程一里、宇ノ島、太田屋(三〇・中ノ上)
朝酒は勿躰ないと思つたけれど、見た以上は飲まずにはゐられない私である、ほろほろ酔うてお暇する、いつまたあはれるか、それはわからない、けふこゝで顔と顔とを合せてる――人生はこれだけだ、これだけでよろしい、これだけ以上になつては困る。……
情のこもつた別れの言葉をあとにして、すた/\歩く、とても行乞なんか出来るものぢやない、一里歩いて宇ノ島、教へられてゐた宿へ泊る、何しろ淋しくてならないので濁酒を二三杯ひつかける、そして休んだ、かういふ場合には酔うて寝る外ないのだから。」
以下には宇島駅近くの旧道のストリートビューを掲載いたしました。右には大正末期から営業する写真館が建っています。こちらの街道に山頭火の姿を置いてみましょう。
「此宿はよろしい、木賃宿は一般によくなつたが、そして客種もよくなつたが、三十銭でこれだけの待遇をうけると、何となくすまないやうな気もする、しかも木賃宿は、それが客の多い宿ならば、みんな儲けだしてゐる。
友人からのたより――昧々居で受け取つたもの――をまた、くりかへしくりかへし読んだ、そして人間、友、心といふものにうたれた。
同宿七人、同室はおへんろさんとおゑびすさん、前者はおだやかな、しんせつな老人だつたが、後者は無智な、我儘な中年者だつた、でも話してゐるうちに、私といふものを多少解つてくれたやうだつた。
・別れて来た道がまつすぐ
酔うて急いで山国川を渡る
・つきあたつてまがれば風
・別れきてさみしい濁酒(ドブ)があつた
タダの湯へつかれた足を伸ばす
十一月十八日 曇、宇ノ島八屋行乞、宿は同前、いゝ宿である。
行乞したくないけれど九時から三時まで行乞、おいしい濁酒を飲んで、あたゝかい湯に入る、そして寝る、どうしても孤独の行乞者に戻りきれないので閉口々々。」
寂しさを紛らわせるためにお酒を欠かせない山頭火でした。
「やはらかいフトン」が「よすぎる」・門司(源三郎居)
「十一月十九日 晴、行程三里、門司、源三郎居、よすぎる。
嫌々行乞して椎田まで、もう我慢出来ないし、門司までの汽車賃だけはあるので大里まで飛ぶ、そこから広石町を尋ね歩いて、源三郎居の御厄介になる、だいぶ探したが、酒屋のおかみさんも、魚屋のおやぢさんも、また若い巡査も(彼は若いだけ巡査臭ぷん/\であつたが)私と源三郎さんのやうな中流以上の知識階級乃至サラリーマンとを結びつけえなかつたのはあたりまへだらう。
源三郎さんは――奥さんも父君も――好感を持たないではゐられないやうな人柄である、たらふく酒を飲ませていたゞいて、ぞんぶん河豚を食べさせていたゞいて、そして絹夜具に寝せていたゞいた。
けふのべんたうは野のまんなかで
なつかしくもやはらかいフトンである(源三郎居)
・蒲団ふうわりふる郷の夢( 〃 )
駐在所で源三郎居の所在を教へられて、そこへの石段を上つてゆくと、子を負つた若い奥さんが下つて来られる、それが源三郎さんのマダムだつた、これは句になりさうで、なかなかまとまらない、犬の方はすぐ句になつたが!」
こちらの周辺には丘陵地に住宅や料亭などの建物が密集し、上のストリートビューのように階段の多い場所として知られています。ここでは階段を登る山頭火と、彼を不審の目で見送る巡査の姿を想像してみましょう。
ふる郷ちかい馴染の宿へ・下関市
「十一月廿日 曇、時雨、下関市行乞、本町通り、岩国屋(三〇・中ノ上)
朝風呂に入れて下さつたのはありがたかつた、源三郎さんといつしよに出かける、少し借りる(何しろ深耶馬を下るためにといふので二円ばかり貯つてゐたのだが、宇島までにすつかり無くなつた、宇島で行乞したくないのを無理に行乞したのは、持金二十銭しかないので、食べて泊るだけにも二十二銭の不足だつたからである)、駅で別れる、しぐれがなか/\やみさうもない、気分もおちつかないので、関門を渡る、晴間々々に三時間ばかり行乞、まだ早すぎるけれど、昨春馴染の此宿へ泊る、万事さつぱりしてゐて、おちつける宿、私の好きな宿である。」
出典:大谷教材研究所 編『内外地理教材写真』,帝国地方行政学会,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1466177 (参照 2026-03-09、一部抜粋)、関門連絡船
https://dl.ndl.go.jp/pid/1466177/1/67
上には明治34年から昭和39年まで下関駅・門司港駅を運航していた「関門連絡船」の写真を引用いたしました。法衣姿でこちらに乗り込む山頭火をイメージしてみましょう。
なお、関門トンネルで旅客運送ができるようになったのは昭和17年のことでした(下り線のみ、上り線は昭和19年から)。
訪ねてみると岩国屋は旅館いこい荘と改名されていた。市内長崎本町一番二十五号。「戦前は義侠の宿などと世間で言われまして、新聞にも載ったことがありました。商人宿でしたが、坊さん、画家といろいろの人が泊まりました。短期刑の者で刑務所から出て来たばかりの人も、岩国屋さんへ行けば一宿一飯の情に縋れるといって来たりしました。その頃の建物はこの横手の所に今も一部が残っているから見ていってください。崩れたままにしてありますが……。」かつては普請道楽、今では年老いて足の不自由な岩国屋の主人は、炬燵の中から、障子を開けて昔の安宿の建物を見るように促した。障子を開けると、狭い庭の右手に、荒廃そのものといった感じの幾十年昔の木賃宿が幻のように崩れ残っていた。
出典:木下信三 著『山頭火の細道 : 追跡推考ノート』,新評社,1980.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12500573 (参照 2026-03-09)、公開範囲:送信サービスで閲覧可能
https://dl.ndl.go.jp/pid/12500573
山頭火馴染の宿・岩国屋については、上に引用したように住所の情報があり、1980年ころの写真も掲載されています。以下の「長崎本町一番二十五号」周辺のストリートビューのように中央付近には立派な建物が立っており、当時の面影はありません。
以下には1980年の写真などから山頭火の姿を想像できる画像を生成してみました。
出典:ChatGPTにより生成された画像、『木賃宿の戸口に立つ僧』などのキーワードをベースに生成、生成日:2026年3月11日
「酒は心をやはらげ湯は身体をやはらげる、身心共にやはらげられて寝たのに、虱の夢をみたのはどうしたことだらう!(もう一杯飲みたい誘惑に敗けたからかも知れない!)
下関はなつかしい土地だ、生れ故郷へもう一歩だ、といふよりもすでに故郷だ、修学旅行地として、取引地として、また遊蕩地として――二十余年前の悪夢がよみがへる。……
秋風の関門を渡る――かも知れませんよと白船君に、旅立つ時、書いて出したが、しぐれの関門を渡る――となつたが、こゝからは引き返す外ない、感慨無量といふところだ。
しぐるゝ朝湯もらうて別れる(源三郎居)
・ふる郷の言葉となつた街にきた
・ふる郷ちかい空から煤ふる
十一月廿一日 晴曇定めなくて時雨、市街行乞、宿は同前。
夢現のうちに雨の音をきいたが、やつぱり降る、晴れる、また降る、照りつゝ降る、降つてゐるのに照つてゐる、きちがい日和だ、九時半から一時半まで行乞する、辛うじて食べて泊つて一杯飲むだけは与へられた、時雨の功徳でもあり、袈裟の功徳でもある。
さんざ濡れて働らく、かういふ人々の間を通り抜けて行乞する、私も肉体労働者であることに間違いない。
下関の市街は歩いてゐるうちに、酒屋、魚屋、八百屋、うどん屋、餅屋(此頃は焼芋屋)、等々の食気屋の多いのに、今更のやうに驚かないではゐられない、鮮人の多いのにも驚ろく、男は現代化してゐるけれど、女は固有の服装でゆう/\と歩いてゐる、子供を腰につけてゐるのも面白い(日本人は背中につけ、西洋人は籃に入れてゐる)。
昨日も時化、今日も時雨だ、明日も時雨かも知れない、時化と関門、時化の関門と私とはいつも因縁がふかいらしい。
街頭風景としては、若い娘さんが、或る魚屋の店頭で、手際よく鰒を割いてゐた、おもしろいね、月並臭はあるけれど、おもしろいことはおもしろい(シヤンとフグとヂヤズ)。
・片輪同志で濡れてゆく
ぬれてはたらいてゐるは鮮人
ぬれてひとりごというて狂人(キチガヒ)
・それは私の顔だつた鏡つめたく
日記焼き捨てる火であたゝまる
あんまり早う焼き捨てる日記の灰となつた
今宵も我慢しきれなくなつて、ドブ一杯、シヨウチユウ一杯、その二杯の最大能力を発揮させて寝る、どうぞ明日は降つてくれるなよ、昨夜はよう寝られたのに、今夜はどうしても寝つかれない、十二時過ぎるまで読んだ、読物はみんな友からの贈物である。
しぐれの音が聞える、まつたく世間師殺しの天候だ、宵のうちに、隣室の土工さんが、やれ/\やつと食ふだけは儲けて来た、土方殺すにや刃物はいらぬ、雨が三日降りやみな殺し、と自棄口調で唄つてゐたのを思ひだす、私だつて御同様、わがふところは秋の風どころぢやない、大時化のスツカラカンだ。
旅のみなし児砂糖なめてゐる
寄りそうてだあまつて旅のみなし児は
旅の子供はひとりでメンコうつてゐる
□
・久しぶり逢つた秋のふぐと汁(源三郎居)
鰒食べつゝ話が尽きない( 〃 )
□
・濡れて寒い顔と顔がしづくしてゐる
バクチにまけてきて相撲見の金を借り出さうとしてゐる
時化でみづから吹いて慰む虚無僧さん
・空も人も時化ける
冬空のふる郷へちかづいてひきかへす
追うても逃げない虫が寒い
十一月廿二日 晴曇定めなし、時々雨、一流街行乞、宿は同じ事。
お天気は昨日からの――正確にいへば一昨日からの――つゞき、降つたり晴れたりだ、十時近くなつて、どうやら大して降りさうもないので出かける、こんな日は、ひとり火鉢をかゝへて、読書と思索とに沈潜したいのだけれど、それはとうてい許されない。
草鞋ではとてもやりきれないので、昨日も今日も地下足袋を穿いたが、感じの悪い事おびたゞしい。
二時過ぎまで行乞、キス一杯の余裕あるだけはいたゞいて、地橙孫さんを訪ねる、不在、奥さんに逢つて(女中さん怪訝な顔付で呼びにいつた)ちよつと挨拶する、白状すれば、昨春御馳走のなりつぱなしになつてゐるし、そのうへ少し借りたのもそのまゝになつてゐる、逢うて話したいし、逢へばきまりが悪いし、といつてこゝへ来て黙つてゐることは私の心情が許さないし、とにもかくにも地橙孫さんは尊敬すべき紳士である、私は俳人としてゞなく、人間として親しみを感じてゐるのである。
宿に戻つて、すぐ入浴、そして一杯、それはシヨウチユウ一杯とドブ一杯とのカクテルだ、飲まずにはゐられないアルコール(酒とはいはない)、何とみじめな、そして何とうまいことだろう!
下関は好きだけれど、煤烟と騒音とには閉口する、狭くるしい街を人が通る、自動車が通る、荷馬車が通る、オートバイが通る、自転車が通る、……その間を縫うて、あちらこちらと行乞するのはほんたうに嫌になります。」
以下には昭和8年ごろの下関駅前の写真を引用いたしました。たくさんの自動車が停車する大きな街であったことがわかります。
出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons、1933年頃の下関駅と駅前、右側に2代山陽ホテル、山口県下関市
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shimonoseki_railway_station_and_Sanyo_hotel_1933.jpg
「生きてゐることのうれしさとくるしさとを毎日感じる、同時に人間といふものゝよさとわるさとを感ぜずにはゐられない、――それがルンペン生活の特権とでもいはうか、それはそれとして明日は句会だ、どうかお天気であつてほしい、好悪愛憎、我他彼此のない気分になりたい。
改作二句(源三郎居即事)
・吠えて親しい小犬であつた
・まづ朝日一本いたゞいて喫ひこむ
□
・旅はきらくな起きるより唄
・雨をよけてゐるラヂオがきこえる
ハジカレたが菊の見事さよ(ハジカレは術語、御免の意味)
お経とゞかないヂヤズの騒音(或は又、ヂヤズとお経とこんがらがつて)
風の中声はりあげて南無観世音菩薩
・これでもお土産の林檎二つです
火が何よりの御馳走の旅となつた
改
紅葉山へ腹いつぱいのこ(マヽ)し
・藪で赤いは烏瓜
坐るよりよい石塔を見た
・ならんで尿する空が暗い
また逢ふまでの山茶花を数へる
・土蔵そのそばの柚の実も(福沢旧邸)」
門司で源三郎さんと登山・戻って下関(地橙孫居)
「十一月廿三日 曇、時雨、下関市、地橙孫居。
相変らずの天候である、朝の関門海峡を渡る、時雨に濡れて近代風景を観賞する、舳の尖端に立つて法衣を寒風に任した次第である、多少のモダーン味がないこともあるまい。
門司風景を点綴するには朝鮮服の朝鮮人の悠然たる姿を添へなければならない、西洋人のすつきりした姿乃至どつしりした姿も、――そして下関駅頭の屋台店(飲食店に限る)、門司海岸の果実売子を忘れてはならない。」
出典:福岡県教育会門司支会 著『門司市民読本』,福岡県教育会門司支会,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1033246 (参照 2026-03-09、一部抜粋)、果物店
https://dl.ndl.go.jp/pid/1033246/1/56
九州の玄関口であった門司には多くの物資が集まり、なかでも台湾バナナはこちらのエリアの名物でした。上にはバナナがたくさん積み上げられた果物店の写真を引用いたしました。また、門司には「バナナの叩き売り」という新商法も流行し、発祥の地とされています。下には北九州市公式チャンネルから「バナナの叩き売り」の動画を引用させていただきます。
「約束通り十時前に源三郎居を訪ふたが、同人に差閊(さしつかえ)が多くて、主客二人では句会にならないで、けつくそれをよい事にして山へ登る、源三郎さんはりゆうとした現代紳士型の洋装、私は地下足袋で頬かむりの珍妙姿、さぞ山の神――字義通りの――もおかしがつたであらう。
下関から眺めた門司の山々はよかつたが、近づいて見て、登つて観て、一層よかつた、門司には過ぎたるものだ。」
この日、二人が登った山についての情報は得られませんでしたが、以下には、昭和初期のガイドブックにも掲載されている風師登山道の写真を引用いたしました。洋装と和装の二人がこちらを登っていく様子を想像してみます。
出典:福岡県教育会門司支会 著『門司市民読本』,福岡県教育会門司支会,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1033246 (参照 2026-03-09、一部抜粋)、風師登山口
https://dl.ndl.go.jp/pid/1033246/1/19
「『当然』に生きるのが本当の生活だらうけれど、私はたゞ『必然』に生きてゐる、少くとも此二筋の『句』に於ては、『酒』に於ては!
・燃えてしまつたそのまゝの灰となつてゐる
風の夜の戸をたゝく音がある
風の音もふけてゐる散財か
更けてバクチうつ声
あすはあへるぞトタン屋根の雨
・しんみりぬれて人も馬も
夢がやぶれたトタンうつ雨
・きちがい日和の街をさまよふのだ
・ま夜中の虱を這はせる
あの汽車もふる郷の方へ音たかく
地図一枚捨てゝ心かろく去る
□
すこし揺れる船のひとり
きたない船が濃い煙吐いて
しぐるゝ街のみんなあたゝかう着てゐる
しぐるゝや西洋人がうまさうに林檎かじつてゐる
あんな船の大きな汽笛だつた
しぐれてる浮標ブイが赤いな
□
風が強い大岩小岩にうづもれ□□
吹きまくられる二人で登る
好きな僕チヤンそのまゝ寝ちまつた(源三郎居)
・このいたゞきにたゞずむことも
・水飲んで尿して去る
水飲めばルンペンのこゝろ
・雨の一日一隅を守る」
しぐるゝや煙突数のかぎりなく・八幡市(星城子居)
「十一月廿四日 曇、雨、寒、八幡市、星城子居(もつたいない)
今日も亦、きちがい日和だ、裁判所行きの地橙孫君と連れ立つて歩く、別れるとき、また汽車賃、辨当代をいたゞいた、すまないとは思ふけれど、汽車賃はありますか、辨当代はありますかと訊かれると、ありませんと答へる外ない、おかげで行乞しないで、門司へ渡り八幡へ飛ぶ、やうやく星城子居を尋ねあてゝ腰を据える、星城子居で星城子に会ふのは当然だが、俊和尚に相見したのは意外だつた、今日は二重のよろこび――星氏に会つたよろこび、俊氏に逢つたよろこび――を与へられたのである。
俊和尚は予期した通りの和尚だつた、私は所謂、禅坊主はあまり好きでないが、和尚だけは好きにならずにはゐられない禅坊主だ(何と不可思議な機縁だらう)。
星城子氏も予期を裏切らない、いや、予期以上の人物だ、あまり優遇されるので恐縮するほどだ、訪問早々、奥さんの温情に甘えて、昼御飯をうんと食べたほど、身心をのびのびとさせた。
ずゐぶんおそくまで飲みつゞけ話しつゞけた、飲んでも飲んでも話しても話しても興はつきなかつた、それでは皆さんおやすみ、あすはまた飲みませう、話しませう(虫がよすぎますね!)。」
「星城子」とは下に引用したように警察署で剣道を教えていた人物です。
山頭火は下関を二日間行乞して、ふたたび海峡を渡り、八幡市を訪ねた。句友の飯尾星城子のいる街で、星城子は八幡警察署に剣道の教師として勤務しており、古武士のような風格の持主であった。星城子の妻女も人の好い婦人で、まるで師に接するように山頭火をもてなし(後略)
出典:又田竹栖 著『種田山頭火・人と作品』,東洋図書出版,1981.4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12464790 (参照 2026-03-10)、公開範囲:送信サービスで閲覧可能
https://dl.ndl.go.jp/pid/12464790/1/24
「逢ひたうて逢うてゐる風(地橙孫居)
鯣(するめ)かみしめては昔を話す( 〃 )
風の街の毛皮売れない鮮人で
・けふもしぐれて落ちつく場所がない
・しみ/″\しみいる尿である
買ふでもないものを観てまはる
ふる郷ちかく酔うてゐる
朝から酔うて雨がふる
・ありがたいお金さみしくいたゞく
供養受けるばかりで今日の終り
・しぐるゝや煙突数のかぎりなく(八幡風景)
風の街の朝鮮女の衣裳うつくしい
また逢ふまでの山茶花の花(昧々氏へ)
標札見てあるく彦山の鈴(星城子居)
しぐるゝやあんたの家をたづねあてた( 〃 )
省みて、私は搾取者ぢやないか、否、奪掠者ぢやないか、と恥ぢる、かういふ生活、かういふ生活に溺れてゆく私を呪ふ。……
芭蕉の言葉に、わが句は夏爐冬扇の如し、といふのがある、俳句は夏爐冬扇だ、夏爐冬扇であるが故に、冬爐夏扇として役立つのではあるまいか。
荷物の重さ、いひかへれば執着の重さを感じる、荷物は少くなつてゆかなければならないのに、だんだん多くなつてくる、捨てるよりも拾ふからである。
八幡よいとこ――第一印象は、上かんおさかなつき一合十銭の立看板だつた、そしてバラツク式長屋をめぐる煤煙だつた、そして友人の温かい雰囲気だつた。」
下には八幡市の中心的施設であった八幡製鉄所の全景写真を引用いたしました。山頭火が「しぐるゝや煙突数のかぎりなく」とよんだのはこちらのような風景だったでしょうか。
出典:製鉄所 [編]『製鉄所 : 福岡県八幡市』,製鉄所,[昭和3]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1148991 (参照 2026-03-10、一部抜粋)、製鉄所全景
https://dl.ndl.go.jp/pid/1148991/1/5
「十一月廿五日 晴、河内水源地散歩、星城子居、雲関亭、四有三居。
ほがらかな晴れ、俊和尚と同行して警察署へ行く、朝酒はうまかつたが、それよりも人の情がうれしかつた、道場で小城氏に紹介される、氏も何処となく古武士の風格を具へてゐる、あの年配で剣道六段の教士であるとは珍らしい、外柔内剛、春のやさしさと秋のおごそかとを持つ人格者である、予期しなかつた面接のよろこびをよろこばずにはゐられなかつた、稽古の済むのを待つて、四人――小城氏と俊和尚と星城子君とそして私と――うち連れて中学校の裏へまはり、そこの草をしいて坐る、と俊和尚の袖から般若湯の一本が出る、殆んど私一人で飲みほした(自分ながらよく飲むのに感心した)、こゝからは小城さんと別れた、三人で山路を登る、途中、柚子を貰つたり、苺を摘んだり、笑つたり、ひやかしたり、句作したりしながら、まるで春のやうな散歩をつゞる(マヽ)、そしてまた飲んだ、気分がよいので、景色がよいので――河内水源地は国家の経営だけに、近代風景として印象深く受け入れた(この紀行も別に、秋ところ/″\の一節として書く)、帰途、小城さんの雲関亭に寄つて夕飯を饗ばれる、暮れてから四有三居の句会へ出る、会する者十人ばかり、初対面の方が多かつたが、なかなかの盛会だつた(私が例の如く笑ひ過ぎ饒舌り過ぎたことはいふまでもあるまい)、十二時近く散会、それからまたまた例の四人でおでんやの床几に腰かけて、別れの盃をかはす、みんな気持よく酔つて、俊和尚は小城さんといつしよに、私は星城子さんといつしよに東と西へ、――私はずゐぶん酔つぱらつてゐたが、それでも、俊和尚と強い握手をして、さらに小城さんの手をも握つたことを覚えてゐる。」
下には河内貯水池の堰堤附近のストリートビューを引用いたしました。昭和2年に東洋一のダムとして完成した歴史的価値の高い建造物です。
「・朝日まぶしく組み合つてゐる(道場即時)
・ほがらかにして草の上(草上饗宴)
よい家があるその壁の蔦紅葉
蓬むしれば昔なつかし
水はたゝへてわが影うつる(水源地風景)
・をり/\羽ばたく水鳥の水( 〃 )
・水を前に墓一つ
好きな山路でころりと寝る
・そよいでるその葉が赤い
小皿、紫蘇の実のほのかなる(雲関亭即事)
・さみしい顔が更けてゐる
風が冷い握手する
竹植ゑてある日向の家
まつたく裸木となりて立つ(雲関亭即事)」
ボタ山の下でまた逢へた・糸田、緑平居
「十一月廿六日 晴、行程八里、半分は汽車、緑平居(うれしいといふ外なし)
ぐつすり寝てほつかり覚めた、いそがしく飲んで食べて、出勤する星城子さんと街道の分岐点で別れる、直方を経て糸田へ向ふのである、歩いてゐるうちに、だんだん憂欝になつて堪へきれないので、直方からは汽車で緑平居へ驀進した、そして夫妻の温かい雰囲気に包まれた。……」
以下には木村緑平氏と兼崎地橙孫氏の写真が掲載された「防府観光コンベンション協会」の投稿を引用いたしました。
「昧々居から緑平居までは歓待優遇の連続である、これでよいのだらうかといふ気がする、飲みすぎ饒舌りすぎる、遊びすぎる、他の世話になりすぎる、他の気分に交りすぎる、勿躰ないやうな、果敢(はか)ないやうな心持になつてゐる。
山のうつくしさよ、友のあたゝかさよ、酒のうまさよ。
今日は香春岳のよさを観た、泥炭山(ボタヤマ)のよさも観た、自然の山、人間の山、山みなよからざるなし。」
下には昭和9年ごろの香春岳の写真を引用いたしました。右から順に一ノ岳・二ノ岳・三ノ岳と呼ばれています。
出典:福岡県鉱工聯合会 編『福岡県工場鉱山大観』,福岡県鉱工聯合会,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1213903 (参照 2026-03-10、一部抜粋)、香春嶽
https://dl.ndl.go.jp/pid/1213903/1/267
香春岳は良質な石灰石が採れるため、一ノ岳は高さが元の半分程度になっています。下には近年の香春山の写真を引用いたします。また、手前のビルとの間にある三角形の小さな山が「ボタ山」といい、こちらは石炭の採掘に伴う岩石廃棄物(ボタ)が集積してできた地形です。
出典:Ozizo, Public domain, via Wikimedia Commons、福岡県香春町の香春岳を南西から望む。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mt_Kawara.jpg
「あるだけの酒飲んで別れたが(星城子君に)
眼が見えない風の道を辿る
・十一月二十二日のぬかるみをふむ(歩々到着)
・夜ふけの甘い物をいたゞく(四有三居)
傷づいた手に陽をあてる
晴れきつて真昼の憂欝
はじめての鰒のうまさの今日(中津)
ボタ山ならんでゐる陽がぬくい
・ひとすぢに水ながれてゐる
・重いドアあけて誰もゐない
枯野、馬鹿と話しつゞけて
憂欝を湯にとかさう
・地下足袋のおもたさで来て別れる
ボタ山の下でまた逢へた(緑平居)
また逢うてまた酔うてゐる( 〃 )
・小菊咲いてまだ職がない(闘牛児君に)
留守番、陽あたりがよい
駅で、伊豆地方強震の号外を見て驚ろいた、そして関東大震災当時を思ひ出した、そして諸行無常を痛感した、観無常心が発菩提心となる、人々に幸福あれ、災害なかれ、しかし無常流転はどうすることも出来ないのだ。
緑平居で、プロ文士同志の闘争記事を読んで嫌な気がした、人間は互に闘はなければならないのか、闘はなければならないならば、もつと正直に真剣に闘へ。
此二つの記事が何を教へるか、考ふべし、よく考ふべし。
十一月廿七日 晴、読書と散歩と句と酒と、緑平居滞在。」
木村緑平氏の居宅跡(下のストリートビュー)には記念碑が建立され、表に緑平、裏に山頭火の句が彫られています。
「聴診器耳からはづし風の音きいてゐる」緑平
「逢うて別れてさくらのつぼみ」山頭火
「緑平さんの深切に甘えて滞在することにする、緑平さんは心友だ、私を心から愛してくれる人だ、腹の中を口にすることは下手だが、手に現はして下さる、そこらを歩いて見たり、旅のたよりを書いたりする、奥さんが蓄音機をかけて旅情を慰めて下さる、――ありがたい一日だつた、かういふ一日は一年にも十年にも値する。
夜は二人で快い酔にひたりながら笑ひつゞけた、話しても話しても話は尽きない、枕を並べて寝ながら話しつゞけたことである。
・生えたまゝの芒としてをく(緑平居)
・枝をさしのべてゐる冬木( 〃 )
ゆつくり香春も観せていたゞく( 〃 )
・旅の或る日の蓄音機きかせてもらう( 〃 )
・風の黄ろい花のいちりん
泥炭車(スキツプ)ひとりできてかへる
泥炭山(ボタヤマ)ちかく飛行機のうなり
夕日の机で旅のたより書く(緑平居)
・けふも暮れてゆく音につゝまれる
あんなにちかいひゞきをきいてゐる(苦味生君に)
糸田風景のよいところが、だんだん解つてきた、今度で緑平居訪問は四回であるが、昨日と今日とで、今まで知らなかつたよいところを見つけた、といふよりも味はつたと思ふ。」
出典:ChatGPTにより生成された画像、『3連の山とボタ山のある集落に向かって歩く僧』などのキーワードをベースに生成、生成日:2026年3月11日
上にはボタ山を眺めながら、緑平居に向かう山頭火のイメージ図を掲載しました。
集落のどちらかに手を振っている木村緑平氏の姿があったでしょうか?山頭火は「ボタ山の下でまた逢へた」とつぶやいていたかもしれません。
旅行などの情報
関門海峡ミュージアム・門司港バナナ資料室
「門司海岸の果実売子」の部分で紹介したように門司港は「バナナの叩き売り」発祥の地です。「関門海峡ミュージアム」内の「門司港バナナ資料室」ではその経緯や、上の動画にもあった「バナちゃん節」についての詳しい説明がされています。当時の写真やレトロなポスターなども展示されているので昭和の時代にタイムスリップしてみてはいかがでしょうか?
なお、「関門海峡ミュージアム」は海峡の歴史・自然・文化を体感できる博物館です。1階の「海峡レトロ通り
」には大正時代の門司の街並が再現され、2階の「海峡歴史回廊」では著名作家の人形たちが、海峡を舞台にした歴史物語(源平合戦や巌流島の戦い)を演じています。また、2階から4階にかけての「海峡アトリウム」は「水景」と「歴史」をテーマにした大スクリーンの映像が魅力、最上階の展望デッキでは関門海峡の絶景をご堪能ください。上には「関門海峡ミュージアム」についての北九州市による投稿を引用させていただきました
基本情報
【住所】福岡県北九州市門司区西海岸1-3-3
【アクセス】JR門司港駅から徒歩で約10分
【参考URL】https://www.mojiko.info/
田川市石炭・歴史博物館(石炭記念公園)
「今日は香春岳のよさを観た、泥炭山(ボタヤマ)のよさも観た」と記されているボタ山は「三井田川鉱業所」の「夏吉六坑」によるもので、田川市に残る最後のボタ山とされています。「田川市石炭・歴史博物館」は筑豊炭田でも有数規模であった「三井田川鉱業所伊田竪坑」の跡地を利用した施設です。館内には石炭採掘の方法や炭鉱労働者の生活の様子がジオラマやVR映像で再現されています。ユネスコの世界記憶遺産に登録された炭鉱の記録画「山本作兵衛コレクション」も必見、グッズもチェックしてみてください。
屋外には国登録有形文化財の伊田竪坑第一・第二煙突(上には田川市産業振興課の公式インスタグラムを引用させていただきました)や伊田竪坑櫓のほか、復元された炭坑住宅やミニスケールのボタ山(炭都遺産オブジェ)などが展示されています。
また、こちらは「炭坑節発祥の地」とされ、公園内には「月が出た出た」と炭坑節が流れています。二番の「ひとやま ふたやま みやま越え」は3つの峰がある香春岳を指しているとのこと、香春岳とボタ山の景色を眺めながら聴いてみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】福岡県田川市伊田2734-1
【アクセス】田川伊田駅から徒歩約8分
【参考URL】https://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/kiji00390/










