夏目漱石「坊っちゃん」の風景(その5最終回)

赤シャツたちとの対決

「赤シャツ」は「マドンナ」との結婚の邪魔になる「うらなり君」を遠方の地・延岡に転勤させます。また、彼に反感を持つ「山嵐」や「坊っちゃん」を中学校と師範学校の喧嘩に巻き込み、新聞沙汰にしました。正義感にかられた「坊っちゃん」たちは赤シャツが芸者と密会するところ押さえようとしますが・・・・・・

赤シャツから呼び出し

「ある日の事赤シャツがちょっと君に話があるから、僕のうちまで来てくれと云うから、惜しいと思ったが温泉行きを欠勤して四時頃出掛けて行った。・・・・・・赤シャツに逢って用事を聞いてみると、大将例の琥珀のパイプで、きな臭い烟草をふかしながら、こんな事を云った。」

下にはこちらの場面を「漫画坊っちゃん」から引用いたします。

出典:近藤浩一路 著『漫画坊つちやん』,新潮社,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976 (参照 2025-01-22、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976/1/66

以下は二人のやりとりの抜粋です。
赤シャツ「君が来てくれてから、前任者の時代よりも成績がよくあがって、校長も大いにいい人を得たと喜んでいるので――どうか学校でも信頼しているのだから、そのつもりで勉強していただきたい」
坊っちゃん「へえ、そうですか、勉強って今より勉強は出来ませんが――」
赤シャツ「今のくらいで充分です。ただ先だってお話しした事ですね、あれを忘れずにいて下さればいいのです」
坊っちゃん「下宿の世話なんかするものあ剣呑だという事ですか」
ここで「下宿の世話なんかするもの」とはもちろん「山嵐」のことです。

赤シャツ「そう露骨に云うと、意味もない事になるが――まあ善いさ――精神は君にもよく通じている事と思うから。そこで君が今のように出精して下されば、学校の方でも、ちゃんと見ているんだから、もう少しして都合さえつけば、待遇の事も多少はどうにかなるだろうと思うんですがね」
坊っちゃん「へえ、俸給ですか。俸給なんかどうでもいいんですが、上がれば上がった方がいいですね」
赤シャツ「それで幸い今度転任者が一人出来るから・・・・・・その俸給から少しは融通が出来るかも知れないから、それで都合をつけるように校長に話してみようと思うんですがね」
坊っちゃん「どうも難有う。だれが転任するんですか」
赤シャツ「もう発表になるから話しても差し支えないでしょう。実は古賀君です」
坊っちゃん「古賀さんは、だってここの人じゃありませんか」
赤シャツ「ここの地の人ですが、少し都合があって――半分は当人の希望です」
坊っちゃん「どこへ行くんです」
坊っちゃん「日向の延岡で――土地が土地だから一級俸上って行く事になりました」

なお、「延岡」といえば「坊っちゃん」が発表されてから50年ほど後、漱石の弟子・内田百閒が「第三阿房列車・不知火阿房列車(第三阿房列車の風景その6・参照)」のなかで延岡のことを書いています。少し抜粋してみましょう。
「漱石先生の『坊ちゃん』のうらなり先生が、転任を命ぜられた日向の延岡を通った。小説では僻陬(へきすう)の地と云う事になっているが、延岡と云う同じ名前を冠した駅が、北延岡、延岡、南延岡と三つもあって・・・・・・市街も立派なのだろう。降りて見ないから町の様子は解らないが、うらなり先生が貶黜(へんちゅう)されたと考えるには当たらない様である」
また、以下には明治40年ごろの延岡市内の写真を引用いたしました。「坊っちゃん」が発表された明治39年ごろ延岡は既に都会であったようです。

出典:『宮崎県写真帖』,宮崎県,明40.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/766793 (参照 2025-01-21、一部抜粋)、延岡市街、県下北部に於ける都会にして子爵内藤家の旧城下なり人口凡一万、此地方沿岸漁業盛なり
https://dl.ndl.go.jp/pid/766793/1/63

ところが「坊っちゃん」ではなぜか延岡を人の少ない未開の地として扱っています。
(下宿に)「帰ってうんと考え込んだ。世間には随分気の知れない男が居る。家屋敷はもちろん、勤める学校に不足のない故郷がいやになったからと云って、知らぬ他国へ苦労を求めに出る。・・・・・・延岡と云えば山の中も山の中も大変な山の中だ。赤シャツの云うところによると船から上がって、一日馬車へ乗って、宮崎へ行って、宮崎からまた一日車へ乗らなくっては着けないそうだ。名前を聞いてさえ、開けた所とは思えない。猿と人とが半々に住んでるような気がする。いかに聖人のうらなり君だって、好んで猿の相手になりたくもないだろうに、何という物数奇(ものずき)だ。」

下には「うらなり君」の転勤先と考えられる「延岡中学校」の写真を引用いたしました。

出典:『宮崎県写真帖』,宮崎県,明40.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/766793 (参照 2025-01-21、一部抜粋)、県立延岡中学校、都城中学校と同年の創立(明治三十二年)にして県北部の学生を収容す現在生徒数三百八十四人東臼杵軍岡富村に在り
https://dl.ndl.go.jp/pid/766793/1/17

ところが、下宿のお婆さんによると「うらなり君」は希望して転勤するわけではないとのこと。

お婆さん「今朝古賀のお母さんが見えて、だんだん訳をお話したがなもし・・・・・・あそこもお父さんがお亡くなりてから、あたし達が思うほど暮し向きが豊かになうてお困りじゃけれ、お母さんが校長さんにお頼みて、もう四年も勤めているものじゃけれ、どうぞ毎月頂くものを、今少しふやしておくれんかてて、あなた」
校長はこの学校では月給を上げる余裕はないが、延岡に転勤すれば給料を上げられるといって手続きを進めてしまったとのこと。
坊っちゃん「じゃ相談じゃない、命令じゃありませんか」
お婆さん「さよよ。古賀さんはよそへ行って月給が増すより、元のままでもええから、ここに居りたい。屋敷もあるし、母もあるからとお頼みたけれども、もうそう極めたあとで、古賀さんの代りは出来ているけれ仕方がないと校長がお云いたげな」

義憤にかられた「坊っちゃん」は再び赤シャツの家に行き、以下のように断ります。
坊っちゃん「さっき僕の月給を上げてやるというお話でしたが、少し考えが変ったから断わりに来たんです・・・・・・あの時承知したのは、古賀君が自分の希望で転任するという話でしたからで・・・・・・」
それに対し、「赤シャツ」は下宿のお婆さんと教頭のどちらを信じるのかと迫りますが、
「中学の教頭ぐらいな論法でおれの心がどう動くものか。人間は好き嫌いで働くものだ。論法で働くものじゃない。」
とし、以下のように言い捨てて退去しました。
「あなたの云う事はもっともですが、僕は増給がいやになったんですから、まあ断わります。考えたって同じ事です。さようなら」

うらなり君の送別会

「うらなり君」の送別会の朝、「山嵐」がやってきて「いか銀(元の下宿)」事件について誤解をしていたと謝ります。「いか銀」は偽物の骨董品を扱うあくどい商売をしており、「坊っちゃん」がいっこうに勧誘にのらないため、乱暴を働くという理由をでっち上げて追い出そうとしたとのこと。「坊っちゃん」は机の上に置いたままになっていた「一銭五厘(坊っちゃんの風景その4・参照)」を自分の財布に戻し、「山嵐」と仲直りをしました。

「山嵐と一所に会場へ行く。会場は花晨亭(かしんてい)といって、当地で第一等の料理屋だそうだが、おれは一度も足を入れた事がない。もとの家老とかの屋敷を買い入れて、そのまま開業したという話だが、なるほど見懸からして厳めしい構えだ。・・・・・・二人が着いた頃には、人数ももう大概揃って、五十畳の広間に二つ三つ人間の塊が出来ている。五十畳だけに床は素敵に大きい。おれが山城屋で占領した十五畳敷の床とは比較にならない。

以下は「花晨亭」のモデルの候補とされる二番町「梅の家」についての記事です。

「梅の家の客席の宏壮なる、・・・・・・」という表現は「床は素敵に大きい」という「坊っちゃん」の記述と一致しています。

出典:松山商工会 編『松山案内』,松山商工会,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/960791 (参照 2025-01-21、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/960791/1/57

以下には明治時代、松山にあった大きな料理店の例として「八百春楼」の写真を引用いたしました。こちらに松山中学の教師たちが続々と入っていくところをイメージしてみましょう。

出典:東俊造 編『松山案内 : 附・道後高浜三津郡中』,松山市勧業協会,明42.5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/766523 (参照 2025-01-23、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/766523/1/93

送別会が始まります。
「幹事が立って、一言開会の辞を述べる。狸が立つ。赤シャツが起つ。ことごとく送別の辞を述べたが、三人共申し合せたようにうらなり君の、良教師で好人物な事を吹聴して、今回去られるのはまことに残念である、学校としてのみならず、個人として大いに惜しむところであるが、ご一身上のご都合で、切に転任をご希望になったのだから致し方がないという意味を述べた。こんな嘘をついて送別会を開いて、それでちっとも恥かしいとも思っていない。」

下には「漫画坊っちゃん」より、赤シャツの演説のシーンを引用いたします。
「赤シャツが送別の辞を述べ立てている最中、向側に坐っていた山嵐がおれの顔を見てちょっと稲光をさした。おれは返電として、人指し指でべっかんこうをして見せた。」

出典:近藤浩一路 著『漫画坊つちやん』,新潮社,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976 (参照 2025-01-23、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976/1/72

「山嵐」は、赤シャツたちの嘘っぽい言葉を皮肉るような演説をします。

「教頭は古賀君の転任を非常に残念がられたが、私は少々反対で古賀君が一日も早く当地を去られるのを希望しております。延岡は僻遠の地で、当地に比べたら物質上の不便はあるだろう。が、聞くところによれば風俗のすこぶる淳朴な所で、職員生徒ことごとく上代樸直(じょうだいぼくちょく)の気風を帯びているそうである。心にもないお世辞を振り蒔いたり、美しい顔をして君子を陥れたいれたりするハイカラ野郎は一人もないと信ずるからして、君のごとき温良篤厚の士は必ずその地方一般の歓迎を受けられるに相違ない。・・・・・・」

「それから一時間ほどするうちに席上は大分乱れて来る。」

自分の送別会だからと苦しそうにかしこまっている「うらなり君」に「坊っちゃん」が退去をすすめていると、「野だいこ」がやってきます。そして
「やご主人が先へ帰るとはひどい。日清談判だ。帰せないと箒を横にして行く手を塞いだ。」
とのこと。
転任を惜しむ気持ちが感じられない乱痴気騒ぎに腹を立てていた「坊っちゃん」は
「いきなり拳骨げんこつで、野だの頭をぽかりと喰くわしてやった。」
とあります。

祝勝会での乱闘事件

「練兵場で式があるというので、狸は生徒を引率して参列しなくてはならない。おれも職員の一人としていっしょにくっついて行くんだ。町へ出ると日の丸だらけで、まぼしいくらいである。」
こちらの練兵場のモデルは「松山歩兵第二十二聯隊」が駐屯した城北練兵場と思われます。下には大正時代の練兵場の写真を引用いたしました。敷地は広大で、正岡子規が松山中学の生徒たちにベースボールを教えた場所としても知られています。

出典:松山商工会 編『松山案内』,松山商工会,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/960791 (参照 2025-01-22、一部抜粋)、歩兵第二十二聯隊兵営
https://dl.ndl.go.jp/pid/960791/1/44

祝勝式は簡素なものでしたが、余興では「高知の何とか踴」が奉納されます。その内容は以下のようでした。
「拍子に応じて三十人の抜き身がぴかぴかと光るのだが、これはまたすこぶる迅速なお手際で、拝見していても冷々する。隣も後ろも一尺五寸以内に生きた人間が居て、その人間がまた切れる抜き身を自分と同じように振り舞わすのだから、よほど調子が揃わなければ、同志撃ちを始めて怪我をする事になる。」

下にはこちらの踊りのモデルとされる「土佐の太刀踊」の写真を引用させていただきました。

出典:高知市公式サイト、文化財情報 民俗文化財 土佐の太刀踊(大利太刀踊)
https://www.city.kochi.kochi.jp/

「坊っちゃん」と「山嵐」が「感心のあまりこの踴を余念なく見物していると」

「喧嘩だ喧嘩だと云う声」とともに赤シャツの弟がやってきて中学と師範の生徒が喧嘩をしているといいます。

「山嵐は世話の焼ける小僧だまた始めたのか、いい加減にすればいいのにと逃げる人を避けながら一散に馳け出した。見ている訳にも行かないから取り鎮めるつもりだろう。おれは無論の事逃げる気はない。山嵐の踵を踏んであとからすぐ現場へ馳けつけた。」
下には秦の始皇帝の宮殿に因んで「伊予の阿房宮」と呼ばれた「愛媛県師範学校」の写真を引用いたしました。
「中学と師範とはどこの県下でも犬と猿のように仲がわるいそうだ。」
とあります。

出典:愛媛県 『皇太子殿下行啓記念写真帖』 1922年, Public domain, via Wikimedia Commons、愛媛県師範学校
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E6%84%9B%E5%AA%9B%E7%9C%8C%E5%B8%AB%E7%AF%84%E5%AD%A6%E6%A0%A1.jpg

仲裁に入った二人は乱闘に巻き込まれ
「無茶苦茶に張り飛ばしたり、張り飛ばされたりしていると、やがて巡査だ巡査だ逃げろ逃げろと云う声がした。」
とのこと。

気が付けば「坊っちゃん」と「山嵐」だけが取り残されていました。

山嵐の辞職

次の日の朝「婆さんが四国新聞を持ってきて枕元へ置いてくれた。」
新聞には以下のような記事が掲載されていました。

「中学の教師堀田某と、近頃東京から赴任した生意気なる某とが、順良なる生徒を使嗾してこの騒動を喚起せるのみならず、両人は現場にあって生徒を指揮したる上、みだりに師範生に向って暴行をほしいままにしたりと書いて、次にこんな意見が附記してある。・・・・・・当局者は相当の処分をこの無頼漢の上に加えて、彼等をして再び教育界に足を入るる余地なからしむる事を。」

新聞を読んで腹を立てた坊っちゃんは(下に挿絵を引用)
「新聞を丸めて庭へ抛げつけたが、それでもまだ気に入らなかったから、わざわざ後架へ持って行って棄てて来た」
とあります。

出典:近藤浩一路 著『漫画坊つちやん』,新潮社,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976 (参照 2025-01-23、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976/1/88

次の日の帰りがけに「山嵐」は、赤シャツが弟を使って二人を喧嘩に巻き込み、新聞屋に手を廻してこのような記事を書かせたに違いないといいます。赤シャツの策略にはまった「山嵐」は喧嘩の責任をとっては辞表を出すことになり、「坊っちゃん」は「赤シャツ」たちから単純で害にならない人物と見なされたため、お咎めなしとなりますが・・・・・・

「坊っちゃん」の反撃

実は祝勝会での乱闘事件が起きる前、山嵐と坊っちゃんは、赤シャツたちを懲らしめるために以下のような作戦を立てていました。

山嵐「赤シャツは人に隠れて、温泉の町の角屋へ行って、芸者と会見するそうだ」
坊っちゃん「角屋って、あの宿屋か」
山嵐「宿屋兼料理屋さ。だからあいつを一番へこますためには、あいつが芸者をつれて、あすこへはいり込むところを見届けておいて面詰するんだね」
坊っちゃん「見届けるって、夜番でもするのかい」
山嵐「うん、角屋の前に枡屋という宿屋があるだろう。あの表二階をかりて、障子へ穴をあけて、見ているのさ」

「伊予の松山と俳聖子規と文豪漱石(曽我正堂)」によると、角屋のモデルは「角半」、枡屋のモデルは「島屋」とのことです。

坊っちゃんと山嵐が盾こもった桝屋が、いま竹細工の土産物を売っている島屋で、その向ひの角屋とあるのがもちろん角半であらう

出典:曽我正堂 著『伊予の松山と俳聖子規と文豪漱石』,三好文成堂,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1094622 (参照 2025-01-21)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1094622/1/26

下に引用したのは戦前の道後温泉街の写真です。右側に見える旅館は「角半」でしょうか。とすると、向かい側が「島屋」かもしれません。

出典:old postcard, Public domain, via Wikimedia Commons、愛媛県松山市、戦前の道後温泉街。、before 1946
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Dogo-onsengai_old_photo.jpg

なお、「角半」は「かど半本舗」というお土産屋さんとして営業していますが、「島屋」は廃業し跡地はコンビニ(ローソン)になっています。下には近年の「かど半本舗」付近のストリートビューを引用いたしました。

また、以下には桝屋の二階の障子に穴を開けて、赤シャツが角屋に入るのを見張る「坊っちゃん」たちの挿絵を引用いたします。

出典:藤浩一路 著『漫画坊つちやん』,新潮社,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976 (参照 2025-01-22、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976/1/94

「赤シャツが忍んで来ればどうせ夜だ。しかも宵の口は生徒やその他の目があるから、少なくとも九時過ぎに極ってる。最初の二晩はおれも十一時頃まで張番をしたが、赤シャツの影も見えない。」
その後、七日目になっても赤シャツは現れず、坊っちゃんたちの気分は沈んでいきます。

赤シャツを発見

「八日目には七時頃から下宿を出て、まずゆるりと湯に入って、それから町で鶏卵を八つ買った。これは下宿の婆さんの芋責めに応ずる策である。その玉子を四つずつ左右の袂へ入れて、例の赤手拭を肩へ乗せて、懐手をしながら、枡屋の楷子段を登って山嵐の座敷の障子をあけると、おい有望有望と韋駄天のような顔は急に活気を呈した。」

山嵐「今夜七時半頃あの小鈴と云う芸者が角屋へはいった・・・・・・ああ云う狡い奴だから、芸者を先へよこして、後から忍んでくるかも知れない」
・・・・・・
「そのうち帳場の時計が遠慮なく十時を打った。今夜もとうとう駄目らしい。」と考えていると

「下の方から人声が聞えだした。」

野だ「もう大丈夫ですね。邪魔ものは追っ払ったから」
赤シャツ「強がるばかりで策がないから、仕様がない」
野だ「あの男もべらんめえに似ていますね。あのべらんめえと来たら、勇み肌の坊っちゃんだから愛嬌がありますよ」
赤シャツ「増給がいやだの辞表を出したいのって、ありゃどうしても神経に異状があるに相違ない」

飛び出したいのをぐっとこらえて、二人は一晩過ごした彼らが角屋から出て来るのを待ちます。

「角屋から出る二人の影を見るや否や、おれと山嵐はすぐあとを尾けた。・・・・・・温泉の町をはずれると一丁ばかりの杉並木があって左右は田圃になる。・・・・・・なるべくなら、人家のない、杉並木で捕まえてやろうと、見えがくれについて来た。町を外れると急に馳け足の姿勢で、はやてのように後ろから、追いついた。・・・・・・」
とあります。

それに該当するシーンもちょっと見当らぬ。かつて催された“坊っちゃん座談会”の結論は、いまの農業試験場のあたりへ、石手川と三津街道の並木をもって来て配したものだらうといふことであった

出典:曽我正堂 著『伊予の松山と俳聖子規と文豪漱石』,三好文成堂,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1094622 (参照 2025-01-23)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1094622/1/27

なお、「杉並木」のモデルについて、上に引用した文献では「石手川と三津街道の並木をもって来て配した」漱石先生の創作であろうと結論づけています。下には、大正時代以前の三津街道の写真を引用しました。

出典:虚子・碧梧桐生誕百年祭実行委員会 『松山案内』 松山市教育委員会社会教育課、1975年, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E4%B8%89%E6%B4%A5%E8%A1%97%E9%81%93%E4%B8%89%E6%9C%AC%E6%9F%B3.jpg

夜明け前の杉並木にて「山嵐」は「赤シャツ」を捕まえ、問い詰めます。
山嵐「教頭の職を持ってるものが何で角屋へ行って泊った」
赤シャツ「教頭は角屋へ泊って悪るいという規則がありますか」
山嵐「取締上不都合だから、蕎麦屋や団子屋へさえはいってはいかんと、云うくらい謹直な人が、なぜ芸者といっしょに宿屋へとまり込んだ」
赤シャツ「芸者をつれて僕が宿屋へ泊ったと云う証拠がありますか」
「山嵐」たちは詭弁で逃れようとする赤シャツに鉄拳制裁を・・・・・・
以下にはその場面を「漫画坊っちゃん」から引用いたしました。

出典:近藤浩一路 著『漫画坊つちやん』,新潮社,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976 (参照 2025-01-23、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976/1/104

二人は以下のように言い残してその場を去りました。
山嵐「おれは逃げも隠れもせん。今夜五時までは浜の港屋に居る。用があるなら巡査なりなんなり、よこせ」
坊っちゃん「おれも逃げも隠れもしないぞ。堀田と同じ所に待ってるから警察へ訴えたければ、勝手に訴えろ」

松山を離れる

「その夜おれと山嵐はこの不浄な地を離れた。船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした。神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、ようやく娑婆へ出たような気がした。山嵐とはすぐ分れたぎり今日まで逢う機会がない。」
下には明治32年ごろの新橋駅の写真を引用しました。こちらの写真のどこかに晴々とした気分で歩く「坊っちゃん」の姿を置いてみましょう。

出典:RANSOME, James Stafford., Public domain, via Wikimedia Commons、旧新橋停車場、1899
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shimbashi_Station_1899.jpg

「清の事を話すのを忘れていた。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれもあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。」
「坊っちゃん」が深い愛情を抱く「清」のモデルは漱石の妻・鏡子(戸籍ではキヨ)という説もあります。

出典:東京市街鉄道株式会社車輛課 編『電気鉄道機械器具図解』,電友社,明38.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/846803 (参照 2025-01-22、一部抜粋)、東京市街鉄道数寄屋橋神田橋間開業当日(明治三十六年)
https://dl.ndl.go.jp/pid/846803/1/4

「その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であった・・・・・・」
上には「街鉄」と呼ばれた「東京市街鉄道」の写真を引用いたします。「技手」とは電車を修理する「職工」の上役とのことです。「坊っちゃん」がこちらのような市電の整備を監督する場面を最後の風景とさせていただきます。

旅行などの情報

子規記念博物館

愛媛県松山市にある地元出身の俳人・正岡子規の博物館です。「子規の人間像」を「子規の生涯」「子規の家族」「子規の業績」「子規と松山」というテーマ別にわかりやすく解説、タッチパネル式の映像展示やクイズコーナーも設置され子供から大人まで楽しめる施設になっています。

また、博物館の三階には漱石と子規が共に暮らした「愚陀仏庵」を再現されています。上に引用させていただいた公式動画のように、二人の会話を聴いたり、中に入って「坊っちゃん」の世界観に浸ったりしてみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】愛媛県松山市道後公園1-30
【アクセス】道後公園前駅から徒歩約5分
【参考URL】https://shiki-museum.com/