内田百閒「第三阿房列車」の風景(その6)

列車寝台の猿—不知火阿房列車(前編)

この旅は「蚊帳(かや)の裾から、きたない猿が這入ってきて、寝巻を引っ張った」と百閒先生が悪い夢をみるところから始まります。旅先ではその猿に似た人物につきまとわれることに・・・・・・。今回は急行「筑紫」を利用して九州方面へ向かいます。小倉で宿泊して宮崎に向かうまでの旅の前半を追っていきましょう。

急行「筑紫」で

先生たちが乗るのは鹿児島阿房列車(「第一阿房列車」の風景その3・参照)と同じ急行「筑紫」です。「コムパアトは寝る時でなければいたくない」という先生は「東京駅を出るとすぐに食堂車に来て一献し」始めます。「家にいても晩のお膳に坐るのは大概九時か十時なので、九時半の発車から始めれば、いつもと同じ」です。

下には1985年(昭和60年)2月の特急「まつかぜ」の食堂車の写真を引用させていただきました。こちらの写真の空席に先生と山系君の姿を置き、「次から次へと通過して行く小駅の燈火が、たった今、過ぎたばかりだと思うのに、もう次のがきらきらする棒のように光って窓の外を流れていく」という車窓の風景を想像してみましょう。

出典:I, 天然ガス, CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Syokudousya_80_20_02.jpg

岡山駅にて

次の日の昼過ぎ、岡山に10分ほど停車。あらかじめ連絡していた先生の幼馴染「真さん」と会い昔話に花を咲かせます。「私に取っては、今の現実の岡山よりも、記憶に残る古里の方が大事である。・・・・・・帰って行かない方が、見残した遠い夢の尾を断ち切らずに済むだろう」というようにあまり帰郷しなかった先生ですが、友人との関係は大切にしていました。

特に真さんは「(真さんの)子守の婆やと、私の子守の婆やと、婆や同土が連れ立って、御後園へ行ったり徳吉の淡島様へお詣りしたりした。その各々の背中に私と彼がおぶさっていた」という親しい間柄でした。

下には明治40年頃の御後園(現・後楽園)の写真を引用させていただきました。ここでは、小さな先生が婆やにおぶさり、気持ちよさそうに眠っている姿をイメージしてみます。

出典:岡山市立中央図書館蔵、(Owned by Okayama Municipal Library), Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Okayama_Korakuen_Garden_1907.jpg

小倉駅に到着

夜になって急行「筑紫」は最初の宿泊地のある小倉駅に到着します。第二阿房列車・雷九州阿房列車の際「小倉の駅で小憩したから駅には一寸した馴染みがある」が、駅に立ち寄っただけなので「宿の迎えの自動車が走り出した途中の道筋は、東も西もわからない」とあります。

下に引用させていただいたのは昭和30年代の小倉駅の写真です。ここでは下の写真の中に宿の迎えの自動車に乗り込む先生たちの姿を置いてみましょう。

小倉の街を観光

小倉の2日目に先生たちはタクシーを呼んでもらいます。運転手が行く先を聞きますが、
山系君「どこだっていいんだよ、運転手さん」
百閒先生「見たい所なんかないから、構わずやってくれたまえ」
と無茶をいいますが、運転手は周辺の観光スポットを一通り巡ってくれます。

その一つが「宮本武蔵との仕合に木刀で撃ち殺された巌柳佐々木小次郎」を偲ぶ手向山(たむけやま)でした。こちらでは丘の麓に停車して、「目の下に紺碧を湛えた馬関海峡」や決闘が行われた船島(巌流島)などを眺めます。

下に引用させていただいたのは手向山公園からの関門海峡方面の景色です。先生たちが見たのもこのような風景だったかもしれません。

うらなり先生を思いながら・・

小倉を後にした先生たちは急行「高千穂」に乗り込み宮崎を目指します。延岡駅に停車すると、師匠の夏目漱石「坊ちゃん」の「うらなり先生」が転勤を命ぜられたひなびた場所だったことを思い出しました。ちなみに、坊ちゃんでは「猿と人とが半々に住んでる」と誇張した紹介がされています。

下に引用させていただいたのは昭和38年ごろの延岡の写真です。先生はこのような立派な駅舎を眺めながら、鉄道開通前(坊ちゃんを読んだ五十年近く前)の静かな城下町の姿を想像していました。

高鍋駅周辺にて

汽車は「C51の短音の汽笛が鳴り」発車、「空もきらきらと明かるく、夏の光が流れて眩しい」という風景をみながら先に進みます。宮崎近くになると「高鍋と云う駅であったか広瀬であったか、忘れたが、ホームの外れの向うにこれから這入って行く隧道の暗い穴口が見えている駅に泊まって、行き違いの列車が這入って来るのを待った」とあります。

下には1947年築の高鍋駅の木造駅舎の写真を引用させていただきました。ここでは停車した電車の中から「窓硝子の面をおおってしまう程沢山の虫(虻)が飛んでいる」風景を見て、「何しろ暖国に来た」と感じる先生をイメージしてみます。

出典:Bakkai, CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Takanabe_Station.JPG

宮崎駅へ到着

昼の「三時二十六分宮崎に著いた。今朝小倉を出てから七時間、一日の行程として大した事はないが、昨夜の寝不足が祟って随分疲れた」とあります。

下には先生も利用したと思われる二代目宮崎駅(昭和25年竣工)の写真を引用させていただきました。ここから宿の車に乗り、空襲から復興した「道幅も広く立派な市街」を眺める先生の姿を想像してみましょう。

なお、宮崎の宿は「大淀川の河畔の宿屋」「古くからの由緒のある家らしいが、矢張り戦火に焼かれた後の新築であって」などとありますが名前は伏せられています。ここでは候補として、戦前は「神田橋旅館」、戦後はリニューアルされた「ホテル神田橋(平成18年に廃業)」を挙げておきます。

出典:旅館研究会 調査・編纂『全国旅館名簿』,旅館研究会,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1033104 (参照 2023-12-12、一部加工
)https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1033104/1/459

新婚旅行ブームなどもあり、先生が訪問したころの大淀川河畔は、多くのホテルが立ち並んでいました。下には昭和41年の大淀川の写真を引用させていただきました。宮崎市役所の右側(画面外)にホテル神田橋などがあったと思われます。ここでは、大きな川を眺めながらホテルに入る先生たちの姿をイメージしてみます。

旅行などの情報

内田百閒生家跡

百閒先生の実家の跡に建てられた記念碑です。下に引用させていただいたように、百閒先生の句のほかに丑年生まれにちなんだ牛の彫刻もありほっこりとした雰囲気です。もともと生家跡の郵便局前にありましたが現在は80mほど離れた場所に移動しています。

また、近くににある桜の名所「旭川さくらみち」には百閒先生の文学碑があるので、散策ルートに加えてみてはいかがでしょうか。ほかにも、岡山県庁分庁舎1階ロビー・内田百閒コーナーには、先生の遺品やゆかりの品々が展示されています。

基本情報


【住所】岡山県岡山市中区森下町1-14
【アクセス】岡山駅から車で約10分
【参考URL】https://asahikou.com/Dataroom/Person/Uchida/uchida_hyaken.html

手向山公園

小倉に宿泊した際にタクシーで案内してもらった観光地です。宮本武蔵の養子として知られる小笠原藩の家老・宮本伊織の所領地だった場所で、伊織が建てた宮本武蔵の記念碑や、佐々木小次郎を称える記念碑なども見どころとなっています。

巌流島などの関門海峡周辺の絶景が楽しめるだけでなく、下に引用させていただいたように工場夜景が美しいデートスポットとしても人気です。

基本情報

【住所】北九州市小倉北区赤坂四丁目
【アクセス】小倉駅から西鉄バスで手向山まで
【参考URL】https://www.gururich-kitaq.com/spot/toge-mountain-park

小倉城(勝山公園)

こちらも小倉駅の近くにある観光地です。本文では「城址のお濠の縁も通った」と述べられているのみですが、その後(昭和34年)に小倉城天守閣が再建され、観光地として賑わうようになります。

今では親水広場や芝生公園なども備え、下に引用させていただいたように桜の名所としても有名です。また、ライトアップやプロジェクションマッピングなども開催され、夜の眺めも見応えがあります。

基本情報

【住所】福岡県北九州市小倉北区城内1番他
【アクセス】JR西小倉駅から徒歩約10分
【参考URL】https://katsuyama-park.com/