柳田国男「遠野物語」の風景(その6)

マヨイガ・安倍伝説など

そこから什器類を持ち帰るとお金持ちになれると伝わる「マヨイガ」ですが、欲をかくとチャンスを逃してしまうようです。遠野物語では欲のない三浦家の妻と、強欲な婿(あるいは村の人)の例が描かれています。また、平安時代に中央政権と戦った安倍貞任は英雄として尊敬され、カッパや山男と同様、遠野の人々は親しみをもって接してきました。

六〇・六一・六二話(鉄砲撃ちの嘉兵衛爺)

六〇話
「和野村の嘉兵衛爺(かへえじい)、雉子小屋(きじごや)に入りて雉子を待ちしに狐(きつね)しばしば出でて雉子を追う。」

「雉子小屋」とは下に引用させていただいた投稿によると、現在の一人用テントのような大きさでした。「キジブエ」につられて獲物がやってくると、狐が邪魔をします。

なお、「和野村の嘉兵衛爺」は三話(遠野物語の風景その3・参照)で山女(佐々木トヨともされる)を撃った鉄砲撃ちです。注釈遠野物語によると彼は「酒呑みのばくち打ちで、剛の者」というような人物でした。
「あまり憎ければこれを撃たんと思い狙いたるに、狐は此方を向きて何ともなげなる顔してあり。さて引金を引きたれども火移らず。胸騒ぎして銃を検せしに、筒口より手元のところまでいつのまにかことごとく土をつめてありたり。」

以下には「何ともなげなる顔」をしたホンドキツネの写真を引用します。

出典:Vulpes_vulpes_japonica1.jpg: KENPEIderivative work: Mariomassone, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons、ホンドギツネ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vulpesvulpesjaponica.jpg

六一話
「同じ人六角牛に入りて白き鹿に逢えり。白鹿(はくろく)は神なりという言い伝えあれば、もし傷つけて殺すこと能わずば、必ず祟(たたり)あるべしと思案(しあん)せしが、名誉の猟人(かりうど)なれば世間の嘲(あざけ)りをいとい、思い切りてこれを撃つに、手応えはあれども鹿少しも動かず。」

ここでは嘉兵衛爺を上に引用させていただいた狩の巻物の猟師(写真左)に重ね、「ツツハライの法」の呪文を唱えて白鹿を狙う姿を想像してみます。

「この時もいたく胸騒ぎして、平生(へいぜい)魔除けとして危急の時のために用意したる黄金の丸を取り出し、これに蓬(よもぎ)を巻きつけて打ち放したれど、鹿はなお動かず、あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくもあらず、全く魔障(ましょう)の仕業(しわざ)なりけりと、この時ばかりは猟を止めばやと思いたりきという。」

六二話

「また同じ人、ある夜山中にて小屋を作るいとまなくて、とある大木の下に寄り、魔除のサンズ縄をおのれと木のめぐりに三囲(みめぐり)引きめぐらし、鉄砲を竪(たて)に抱えてまどろみたりしに、」
「サンズ縄」とは「三途縄で、埋葬するとき棺を結わえて下ろし、ほどいて上げた縄のこと。この世からあの世へ死者を送る働きから、特別な霊力があると信じられている。(注釈遠野物語P195)」とあります。
そして、実際の使い方としては、以下に引用させていただいた佐々木喜善の調査カードのように「例え幾寸の縄切れでも、一尋二尋三尋半と尋いでから、小屋の入り口にかけて置けば、魔物は決して近寄らぬ」
ということです。
なお、調査カードの末尾に「これは縫の呪文なり」とありますが、「縫」とは遠野周辺で稀代の狩人といわれた「畑屋の縫(はたやのぬい)」のこと。「注釈遠野物語(P136)」によると、三二話で白鹿を追った「何の隼人」(遠野物語の風景その3・参照)と同一人物とされています。

「夜深く物音のするに心づけば、大なる僧形(そうぎょう)の者赤き衣を羽のように羽ばたきして、その木の梢に蔽いかかりたり。すわやと銃を打ち放せばやがてまた羽ばたきして中空(なかぞら)を飛びかえりたり。」
この不気味な「大なる僧形の者」について、「注釈遠野物語(P195)」では「ムササビではないか」という説を紹介しています。下にはムササビの滑空動画を引用させていただきました。

「この時の恐ろしさも世の常ならず。前後三たびまでかかる不思議に遭い、そのたびごとに鉄砲を止めんと心に誓い、氏神に願掛けなどすれど、やがて再び思い返して、年取るまで猟人(かりうど)の業を棄つること能わずとよく人に語りたり。」

六三話(マヨイガ・迷い家)

「小国(おぐに)の三浦某というは村一の金持なり。」

小国は立丸峠によって遠野と隣接する小国村(今の下閉伊郡川井村小国)のことで、遠野とは昔から経済・文化の交流を通して人のつながりの深い土地柄である。地勢は、盆地の遠野とは全く異なり、中国の山水画にあるような厳しい山峯の谷間に張りついた山里で、一瞬「桃源郷」「隠れ里」という言葉を思わせる。

出典:後藤総一郎(監修)、遠野常民大学(編著)、注釈遠野物語、筑摩書房、1997年、P201

小国村には上に引用させていただいたように「桃源郷」のような風景が広がっているとのこと。以下には国道340号沿いのストリートビューを掲載いたしました。

「今より二三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯鈍(ろどん)なりき。この妻ある日門(かど)の前を流るる小さき川に沿いて蕗(ふき)を採りに入りしに、よき物少なければ次第に谷奥深く登りたり。」

以下には群生している蕗の写真を引用いたします。「魯鈍な妻」はこのような蕗を探すのに夢中になり、気付くと谷奥の深くまで登っていました。

出典:Joi Ito, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:FukiJI1.jpg

「さてふと見れば立派なる黒き門の家あり。訝(いぶか)しけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き鶏(にわとり)多く遊べり。その庭を裏の方へ廻れば、牛小屋ありて牛多くおり、馬舎ありて馬多くおれども、一向に人はおらず。」

下には遠野ふるさと村の「マヨイガの森」に咲いた紅白のカタクリの花の写真を引用させていただきます。庭にはこちらのようなカラフルな花が咲き、鶏や牛馬の声で賑やかな屋敷周辺の様子を想像してみましょう。

「ついに玄関より上りたるに、その次の間には朱と黒との膳椀(ぜんわん)をあまた取り出したり。奥の座敷には火鉢(ひばち)ありて鉄瓶(てつびん)の湯のたぎれるを見たり。されどもついに人影はなければ、もしや山男の家ではないかと急に恐ろしくなり、駆け出して家に帰りたり。」
下に引用させていただいたように鉄瓶が音を立てていましたが、人の気配は全くなしという不気味な光景でした。

「この事を人に語れども実(まこと)と思う者もなかりしが、また或る日わが家のカドに出でて物を洗いてありしに、川上より赤き椀一つ流れてきたり。あまり美しければ拾い上げたれど、これを食器に用いたらば汚しと人に叱られんかと思い、ケセネギツの中に置きてケセネを量る器となしたり。しかるにこの器にて量り始めてより、いつまで経ちてもケセネ尽きず。家の者もこれを怪しみて女に問いたるとき、始めて川より拾い上げし由(よし)をば語りぬ。」
下に引用したのは小国村を流れる湯沢川周辺のストリートビューです。こちらに流れてきた赤き椀を拾い上げる「妻」の姿を置いてみます。

「この家はこれより幸運に向い、ついに今の三浦家となれり。遠野にては山中の不思議なる家をマヨイガという。マヨイガに行き当りたる者は、必ずその家の内の什器(じゅうき)家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。その人に授けんがためにかかる家をば見するなり。女が無慾にて何ものをも盗み来ざりしが故に、この椀自ら流れて来たりしなるべしといえり。
○このカドは門にはあらず。川戸にて門前を流るる川の岸に水を汲み物を洗うため家ごとに設けたるところなり。
○ケセネは米稗(ひえ)その他の穀物をいう。キツはその穀物を容るる箱なり。大小種々のキツあり。」

六四話(マヨイガ2)

以下はマヨイガのもう一つのお話です。
「金沢村(かねさわむら)は白望(しろみ)の麓、上閉伊郡の内にてもことに山奥にて、人の往来する者少なし。六七年前この村より栃内村の山崎なる某(なにがし)かかが家に娘の婿を取りたり。この婿実家に行かんとして山路に迷い、またこのマヨイガに行き当りぬ。」

聟の実家は、大槌町金沢の戸沢であるといわれている(徳田健治の話)。その集落への近道は、小国街道を北に進んで立丸峠を越える。小国新田から右にそれて、白見山と長者森(一〇一〇メートル)の鞍部を越える。霧がかかっていると、よく山を知っている者でも迷うことがある(三浦徳蔵の話)。

出典:後藤総一郎(監修)、遠野常民大学(編著)、注釈遠野物語、筑摩書房、1997年、P204

以下には立丸峠付近の旧道のストリートビューを引用いたします。険しい山道が続き、内田康夫氏の「遠野殺人事件」では殺人現場として登場しました(「遠野殺人事件」の風景その2・参照)。こちらの峠を越えた「婿」は東に進みますが、白見山と長者森の間で迷ってしまいます。

下には立丸峠と長者森、白見山の位置関係が分かる空中写真を掲載しておきます(ルートの表示は無視してください)。当時、このようなツールがあればマヨイガの探索もしやすかったことでしょう。もっとも、見える人にしか見えないたぐいの家であったとすれば、衛星写真には写りませんが・・・。

「家のありさま、牛馬鶏の多きこと、花の紅白に咲きたりしことなど、すべて前の話の通りなり。同じく玄関に入りしに、膳椀を取り出したる室あり。座敷に鉄瓶の湯たぎりて、今まさに茶を煮んとするところのように見え、どこか便所などのあたりに人が立ちてあるようにも思われたり。茫然として後にはだんだん恐ろしくなり、引き返してついに小国の村里に出でたり。」

下には「遠野物語(青空文庫)」から代表的な南部曲り屋の間取り図を引用いたしました。こちらの家を「マヨイガ」に見立てると、婿は入口から入って右側の主屋(母屋)で「朱と黒との膳椀」を見たと思われます。そのとき便所(家の外左側)に人の気配がしたとのこと。三浦家の妻が来たときより生々しく描かれています。

出典:青空文庫、柳田国男、遠野物語
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52504_49667.html

「小国にてはこの話を聞きて実(まこと)とする者もなかりしが、山崎の方にてはそはマヨイガなるべし、行きて膳椀の類を持ち来たり長者にならんとて、婿殿を先に立てて人あまたこれを求めに山の奥に入り、ここに門ありきというところに来たれども、眼にかかるものもなく空しく帰り来たりぬ。その婿もついに金持になりたりということを聞かず。」

婿殿たちが欲をかいたからでしょうか、三浦家のように金持ちになることはありませんでした。

六五~六八話(安倍貞任などの伝説)

六五
「早池峯(はやちね)は御影石(みかげいし)の山なり。この山の小国に向きたる側に安倍ヶ城(あべがじょう)という岩あり。険しき崖の中ほどにありて、人などはとても行きうべきところにあらず。ここには今でも安倍貞任(あべのさだとう)の母住めりと言い伝う。雨の降るべき夕方など、岩屋の扉を鎖(とざ)す音聞ゆという。小国、附馬牛(つくもうし)の人々は、安倍ヶ城の錠(じょう)の音がする、明日は雨ならんなどいう。」

下には安倍ヶ城を登山された方が撮影した動画を引用させていただきます。遠野物語がまとめられた明治時代にいたってもなお、地元の人は英雄・安倍貞任の母の存在を感じていました。

六六
「同じ山の附馬牛よりの登り口にもまた安倍屋敷(あべやしき)という巌窟あり。とにかく早池峯は安倍貞任にゆかりある山なり。小国より登る山口にも八幡太郎(はちまんたろう)の家来の討死(うちじに)したるを埋めたりという塚三つばかりあり。」

出典:書写人不明, Public domain, via Wikimedia Commons、『前九年合戦絵巻』写本より安倍貞任、早稲田大学図書館 早稲田大学古典籍総合データベース
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Abe_no_Sadatou.jpg

安倍貞任は平安時代に奥六郡(現在の岩手県の一部)を治めていた豪族です。前九年の役((1051年~1062年)にて陸奥守兼鎮守府将軍として朝廷から派遣された源頼義・義家親子に討伐されますが、地元を守ろうとした英雄として慕われてきました。身長6尺(約180cm)・腹囲7尺4寸(約260ⅽⅿ)の巨漢であったと伝わっています。

六七
「安倍貞任に関する伝説はこのほかにも多し。土淵村と昔は橋野(はしの)といいし栗橋村との境にて、山口よりは二三里も登りたる山中に、広く平(たいら)なる原あり。そのあたりの地名に貞任というところあり。沼ありて貞任が馬を冷せしところなりという。貞任が陣屋を構えし址とも言い伝う。景色よきところにて東海岸よく見ゆ。」

下には貞任山から数㎞東にある新山展望台(大槌町)付近のストリートビューを引用いたしました。貞任たちは激しい戦の合間、こちらのような景色に癒されていたかもしれません。

六八

「土淵村には安倍氏という家ありて貞任が末なりという。昔は栄えたる家なり。今も屋敷の周囲には堀ありて水を通ず。刀剣馬具あまたあり。当主は安倍与右衛門(よえもん)、今も村にては二三等の物持(ものもち)にて、村会議員なり。」

昔から屯館(とんだて)ともいい、平らな土地で、現在は水田として耕作されている。周囲には濠の跡があり、用水路の西隅に的場があった。

出典:後藤総一郎(監修)、遠野常民大学(編著)、注釈遠野物語、筑摩書房、1997年、P211

注釈遠野物語では「安倍(阿部)屋敷跡」について上のような説明がされています。以下では屋敷があったと思われる水田付近を県道160号からのストリートビューで眺めてみましょう。

「安倍の子孫はこのほかにも多し。盛岡の安倍館(あべだて)の附近にもあり。厨川(くりやがわ)の柵(しゃく)に近き家なり。」

下に引用した写真で、河原の左側にある高台が厨川柵(くりやがわのさく)の跡とされています。前九年の役で安倍貞任が最後の拠点としました。当時は川のまわりを無数の朝廷軍が取り囲んでいたことでしょう。

出典:田山宗尭, Public domain, via Wikimedia Commons、田山宗尭、日本写真帖
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:NDL-DC_762376_0222_0024crd-KuriyagawaSaku.jpg

「土淵村の安倍家の四五町北、小烏瀬川(こがらせがわ)の河隈(かわくま)に館の址あり。八幡沢(はちまんざ)の館という。八幡太郎が陣屋というものこれなり。」

以下には小烏瀬川の対岸からのストリートビューを掲載いたしました。こちらには現在も八幡座山という名前が残っています。「注釈遠野物語P213」によると「伝説には、源義家がここに陣を置き、安倍氏と戦った所という。一説に義家の家来の大井実氏の居城であったともいわれる」とのことです。

他にも「似田貝」という地名の由来について、以下のようなエピソードもあります。

「この間に似田貝(にたかい)という部落あり。戦の当時このあたりは蘆(あし)しげりて土固かたまらず、ユキユキと動揺せり。或る時八幡太郎ここを通りしに、敵味方いずれの兵糧にや、粥を多く置きてあるを見て、これは煮た粥かといいしより村の名となる。・・・・・・
○ニタカイはアイヌ語のニタトすなわち湿地より出しなるべし。地形よく合えり。」
「遠野物語」の注意書き(上)によると、こちらの土地は前九年の役より前の時代からアイヌ語で湿地を意味する「ニタカイ」という名前で呼ばれていました。義家か朝廷軍の関係者が通過した際に、「煮た粥」のように歩きにくいとシャレで言ったことが元ネタなったのかもしれません。

出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム、筆者不詳/前九年合戦絵、東京国立博物館
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-6890?locale=ja

上には「前九年合戦絵」から源義家が矢を放つ場面を引用しました。遠野がこのような歴史的な合戦の舞台になったことは地元の人たちの誇りでした。その伝説は語り継がれ、色白の巨漢・安倍貞任たちは時代を下っても、カッパや座敷わらしと同じく身近な存在であり続けています。

旅行などの情報

遠野伝承園

「伝承園」はカッパ捕獲許可証の発行場所としても紹介しました(遠野物語の風景その5・カッパ淵・参照)。伝承園に隣接する無料駐車場は周辺観光の拠点となっています。国の重要文化財の曲り家「旧菊池家住宅」や「佐々木喜善記念館」などがあり、遠野物語の世界を効率的に把握できるコンパクトな施設です。

千体のオシラサマを祀る「御蚕神(オシラ)堂」では、願い事を書いた布をオシラサマに着せて祈ると願い事が叶うといわれています。ほかにも食事処「おしら亭」で郷土料理「ひっつみ」をいただいたり、ショップにて上に引用させていただいたようなオリジナルグッズを探してみたりしてみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】岩手県遠野市土淵町土淵6地割5-1
【アクセス】JR遠野駅から車で約10分
【参考URL】https://tonojikan.jp/tourism/denshoen/