柳田国男「遠野物語拾遺」の風景(その4)

オシラサマを中心として

「遠野物語拾遺」には「オシラサマ」の話が多数収録されています。「オシラサマ」には家ごとに多彩な素材や形状があり、「蚕の神」としてだけでなく「目の神」や「狩猟の神」としても信仰されてきました。ほかにも、悪い事をした犯人を言い当てる「三峯様」や、盗人を懲らしめてくれる「オクナイサマ」の風景も追っていきましょう。

七一話(三峯様の神判)

「この地方で三峰様(みつみねさま)というのは狼の神のことである。旧仙台領の東磐井(ひがしいわい)郡衣川(ころもがわ)村に祀ってある。悪事災難のあった時、それが何人かのせいであるという疑いのある場合に、それを見顕そうとしてこの神の力を借りるのである。」

三峯神社(岩手県奥州市衣川区) / ようへいさんの活動データ | YAMAP / ヤマップ

上には登山者向けサイト「YAMAP」から衣川三峯神社の登山記録を引用させていただきました。入口の鳥居には狼の石像が鎮座していて(上に表示された画像)、すぐそばには三峯神社の社殿があります(2枚目の写真)。当時は、三峯様のご利益を得るために、こちらまで御神体をお迎えに行きました。
「まず近親の者二人を衣川へやって御神体を迎えて来る。それは通例小さな箱、時として御幣であることもある。」
下には宮城県登米市の個人宅に残る三峯山のお札(御眷属箱とのセット)の写真を引用させていただきました。

出典:登米市歴史博物館公式サイト、お札箱(三峯山)江戸時代後期~明治時代頃
https://www.city.tome.miyagi.jp/rekihaku/

「途中は最も慎重に穢(けが)れを忌み、少しでも粗末な事をすれば祟りがあるといっている。一人が小用などの時には必ず別の者の手に渡して持たしめる。そうしてもし誤って路に倒れなどすると、狼に喰いつかれると信じている。前年栃内の和野の佐々木芳太郎という家で、何人かに綿桛(わたがせ)を盗まれたことがある。村内の者かという疑いがあって、村で三峰様を頼んで来て祈禱をした。」
衣川の三峯神社から遠野の栃内までは約80㎞あり、現在の道路を使っても徒歩で17時間30分ほどかかります。途中で宿泊するなどして慎重に御神体を運んだのでしょう。

「その祭りは夜に入り家中の燈火をことごとく消し、奥の座敷に神様をすえ申して、一人一人暗い間を通って拝みに行くのである。集まった者の中に始めから血色が悪く、合わせた手や顔を顫(ふる)わせている婦人があった。やがて御詣り時刻が来ても、この女だけは怖がって奥座敷へ行きえなかった。強いて皆から叱り励まされて、立って行こうとして、膝がふるえ、打ち倒れて血を吐いた。女の供えた餅にも生血がついた。験はもう十分に見えたといってその女は罪を被せられた。表向きにはしたくないから品物があるならば出せと責められて、その夜の中に女は盗んだ物を持ってきて村の人の前に差し出した。」

七四話(オクナイサマの神通力)

「土淵村山口の南沢三吉氏のオクナイサマは、阿弥陀様かと思う仏画の掛軸であるが、見れば眼がつぶれるから見ることができぬといっている。大同の家のオクナイサマは木像で、これに同じ掛軸がついているのであるが、南沢の家のはこればかりである。外に南無阿弥陀仏と書いた一軸の添えられてあることは両家共に同様であった。」
下には遠野市立博物館に展示されている家神様の写真を引用させていただきました。中央部にある仏画の掛け軸のいずれかはオクナイサマでしょうか。右上には「南無阿弥陀仏」の軸が掛けられ、左下には木造のオクナイサマが二体並んでいます。

「この南沢の家では、ある夜盗人が座敷にはいって、大きな箱を負うて逃げ出そうとして手足動かず、そのまま箱と共に夜明けまでそこにすくんでいた。朝になって家人がこれを見つけてびっくりしたが、近所の者だから、早く行けとののしって帰らせようとしたが、どうしても動くことができない。ふと心づくと仏壇の戸が開いているので、すぐにオクナイサマに燈明を上げて、専念にその盗人にお詫びをさせると、ようやくのことで五体の自由を得た。今から八十年ばかりも前の話である。」

七五話(オシラサマの種類)

「注意すべきことはこの神の由来として伝えられる物語と、神の御姿との関係である。男神の頭を馬頭に刻んだのは少なくないが、時には姫神の髪を垂れた頭に、尖った二つの獣の耳だけをつけた例もある。全体に新しいものほど丈が長くなっているかと思われ、中には一尺から一尺二、三寸のものもあるが、古いのは多くは短くなっている。馬頭のオシラはたいてい短くまた小さい。」
下に引用させていただいたのは馬頭のオシラサマ(右側)です。

また、以下の引用文のようにオシラサマには貫頭型と包頭型という分け方もあります。地域によって割合が違い、遠野のオシラサマは貫頭型が多いとのことです。

以下で触れるようにオシラサマは「蚕の神」以外にも「目の神」や「狩猟の神」としても信仰されてきました。信仰の種類によってもお姿が異なるのかもしれません。

七八話(オシラサマの数や形)

「神の数は伝説その他から考えて、当然に二体であるべきであるが、四体または六体の例も稀ではない。」
77話(下)のような悲恋話をもとにした「オシラサマ」は馬と娘の2体で1セットが基本になります。ですが、その数や姿形にはさまざまな組み合わせがあるようです。

「気仙(けせん)の盛町(さかりまち)の近在には、十二体のオシラサマを持つ家もあるといい、二戸(にのへ)郡浄法寺村の野田の小八という家では、オシラは三体でその一つは小児の姿であるという。」
「野田の小八」のオシラサマは岩手県二戸市の「浄法寺歴史民俗資料館」に展示されているとのことです(二戸市公式サイトの当該ページにリンク)。下に引用させていただいた写真の右下、赤い布で包まれているのが「三体のオシラサマ」になります。

出典:二戸地域雇用創造協議会公式サイト、国の重要有形文化財に指定された漆関連資料や多様な民俗資料に学ぶ、浄法寺歴史民俗資料館
https://kcassiopea.wixsite.com/craftmap/jobojirekishi

「しかし普通には村々の草分け、即ち大同と呼ばれる家のものは二体であるらしい。そうするとあるいは家を分けて後に出た家だけが、何か理由があって新たにその数を加えたものではなかったか。土淵村五日市の北川氏は、今は絶えてしまったが、土淵の草分けと伝えられていて、この家のオシラサマは二体であった。その分家の火石の北川家では四体、そのまた分家の北川には六体であった。その形像も火石北川の本家の四体には馬頭のものも交っているが、分家の六体はすべて皆丸顔である。」

「田の代掻きの手伝いをしたという柏崎の阿部家のオシラサマは四体であった。一体は馬頭で一体は烏帽子、他の二つは丸顔である。長(たけ)はいずれも五、六寸で、彫刻は原始的だが顔に凄味(すごみ)を帯び、馬頭などはむしろ竜頭に似ている。」
なお、遠野物語15話(遠野物語の風景その2・参照)では「柏崎の阿部家」で「田の代掻きの手伝い」をしたのは「オシラサマ」でなく「オクナイサマ」と記されています。「オシラサマ」も「オクナイサマ」に負けじと、田植えの手伝いをしてくれていたのでしょうか。

七七話(オシラサマの由来)

こちらはオシラサマの由来譚を紹介した遠野物語69話(遠野物語の風景その7・参照)の補足的な内容になっています。

「オシラ様の由来譚も土地によって少しずつの差異がある。たとえば附馬牛村に行なわれる伝説の一つでは、天竺(てんじく)のある長者の娘が馬にとつぎ、その父これをにくんでその馬を殺して皮を松の木の枝に懸けておくと、娘はその樹の下に行き恋い慕うて泣いた。枝に懸けてある馬の皮はその声につれて翻り落ち、娘の体を包んで天に飛んだという。」
オシラサマの由来譚は以下に引用させていただいた中国の書物「捜神記・馬娘婚姻譚」が元となっているとの説もあります。

地方に伝わる過程で、物語の筋は少しずつ変化します。
「遠野の町あたりでいう話は、昔ある田舎に父と娘とがあって、その娘が馬にとついだ。父はこれを怒って馬を桑の木に繋(つな)いで殺した。娘はその馬の皮をもって小舟を張り、桑の木の櫂(かい)を操(あやつ)って海に出てしまったが、後に悲しみ死にに死んで、ある海岸に打ち上げられた。その皮舟と娘の亡骸とから、わき出した虫が蚕になったという。」

また、同じ遠野の土淵村の由来譚には以下のように娘の遺言が追記されています。
「さらに土淵村の一部では、次のようにも語り伝えている。父親が馬を殺したのを見て、娘が悲しんでいうには、私はこれから出て行きますが、父は後に残って困ることのないようにしておく。春三月の十六日の朝、夜明けに起きて庭の臼(うす)の中を見たまえ、父を養う物があるからと言って、娘は馬と共に天上に飛び去った。やがてその日になって臼の中を見ると、馬の頭をした白い虫がわいていた。それを桑の葉をもって養い育てた云々というのである。」

出典:Wikimedia Commons、カイコ、5齢幼虫
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Silkwormheadsm.jpg

上にはカイコの幼虫の写真を引用いたしました。確かに幼虫の頭は馬頭に似ているようにも見えます。
このような話が遠野やその周辺に広まり、「オシラサマ」が「養蚕の神」として信仰されるようになったとのことです。

七八話(目や婦人病の神としても)

「オシラサマは決して養蚕の神として祭られるだけでは無い。眼の神としても女の病を祈る神としても、また子供の神としても信仰せられている。遠野地方では小児が生れると近所のオシラサマの取子(とりこ)にしてもらって、その無事成長を念ずる風がある。また女が癪(しゃく)を病む時には、男がこれを持ち込んで平癒を祈ることもある。二戸郡浄法寺村辺では、巫女(いたこ)の神降(かみおろ)しの時にもこれを用いるそうだが、同じ風俗はまた東磐井郡でも見られる。」
下には巫女が呪具用に使用したオシラサマなどの写真を引用させていただきました。

七九話(オシラ神祭)

「遠野地方のオシラ神祭は、主として正月十六日をもって行なわれる。この神に限って祭ることを遊ばすといっている。山口の大同家などでは、この日方々からこの家のオシラサマの取子たちが、大きな鏡餅を背負って寄り集まって来る。まず早朝に奥の薄暗い仏壇の中から、煤けた真っ黒な古い箱が持ち出され、一年にただ一度の日の明かりを見る神様が、この家の巫女婆様の手によって取り出される。そうして取子の娘や女たちの手で、新しい花染めの赤い布をきせられ、また年に一度の白粉を頭に塗られて、そのオシラサマが壇の上に飾られる。この白粉が家にも取子の娘たちにもなかった頃には、米の粉を水で溶いてつけることもあった。取子の持ち寄った鏡餅はそうした後で小豆餅に作られ、神様にも供えまた取子たちも食べた。この神は小豆類をたいへん好まれるということであった。」

上にはオシラ神祭の準備をしている女性たちの写真を引用させていただきました。オシラサマの身支度を整えているところでしょうか。楽しそうな雰囲気がうかがえます。

「それが終わると巫女の婆様は、おもむろに神体を手に執ってオシラ遊びを行なうのである。それには昔から言伝えのオシラ遊びの唱えごとがあった。まず神様の由来を述べて神様を慰め、それから短い方の章句を、知っている娘たちが合唱した。それは紫波(しば)郡あたりに伝わっているものとほぼ同じで、ミヨンコ・ミヨンコ・ミヨンコの神は、トダリもない。七代めくらにならばなれという類の詞であった。」
以下に引用させていただいたのは大正時代のオシラ神祭の写真とのこと。「ミヨンコ・ミヨンコ・ミヨンコの神は・・・」と唱えている場面を想像してみましょう。文言中に目に関する言葉が入っていることからすると、こちらの唱えごとは「目の神」としての伝統を残していると考えられます。

「そのオシラ遊びが済むとあとは随意で、取子の娘たちは室じゅうを遊ばせてまわり、後に炉ばたに持って来て、両手でぐるぐるまわして各自一年の吉凶を占った。すなわちこの神の持前のオシラセを受けようとするのであった。」

八三話~八六話(様々なオシラサマ信仰)

【八三話(狩人の秘密の道具とは)】

「オシラ様を狩りの神と信じている者も多い。土淵村の菊池という狩人の家に、大切に持ち伝えている巻き物には、金の丸(たま)銀の丸、オコゼ魚にオシラ様、三途縄(さんずなわ)に五月節句の蓬菖蒲、それから女の毛とこの九つを狩人の秘密の道具と記し、その次にはこういうことも書いてある。『狩の門出にはおしらさまを手に持ちて拝むべし。その向きたる方角必ず獲物あり。口伝』」

上には狩りの秘密道具の一つ「オコゼ魚」の写真を引用させていただきました。

【八四話(狩りの方角占い)】

「松崎村字駒木、真言宗福泉寺の住職佐々木宥尊氏の話に、この人の生家の附馬牛村大出などでも、狩の神様だという者が多い。昔は狩人が門出の時にオシラ様に祈って今日はどの方面の山に行ったらよいかを定めた。それには御神体を両手で挟み持ち、ちょうどベロベロの鉤をまわすようにまわして、その馬面の向いた方へ行ったものである。だからオシラ様は「御知らせ様」であろうと、思っているということであった。」
下には同様のルーツを持つと考えられる「べろべろかべろ」という会津わらべ歌の動画を引用させていただきました。

「今でも山の奥では胞衣(えな)を埋める場所などを決めるために、こうしてこの神の指図を伺っている者があるという話である。」

【八五話(おならをしたのは誰?)】

狩猟にあたって方角を占う場合、猟師たちは神妙な顔をして行っていたと思われますが、子供にも伝わると遊戯の一つになっていきます。

ベロベロの神は現在旣に遊戯化してしまつたが、もとは小枝ある木を口の前で採み廻して、方角を見る古来の卜法であった。

出典:柳田国男 著『歳時習俗語彙』,民間伝承の会,昭14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1440930 (参照 2025-06-23)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1440930/1/48

以下にはおならをした犯人をあてる遊戯についての説明です。
「ベロベロの鉤の遊びは他の土地にもあることと思うが、遠野地方では多くは放屁の主をきめる時に行なっている。子供が一人だけ車座の中に坐って萱(かや)や萩(はぎ)の茎を折り曲げて鉤にしたものを持ち、それを両手で揉(も)みながら次の文句を唱え、その詞の終わりに鉤の先の向いていた者に、屁の責任を負わせる戯れである。
なむさいむさい(あるいはくさい)
べろべろの鉤(かぎ)は
とうたい鉤で
だれやひった、かれやひった
ひった者にちょっちょ向け
しかしこの鉤遊びの誓文を立てぬ前に、もう挙動で本人はほぼ知れているゆえ、術者が機を制して、おのずから向くべき方に向くのはもちろんである。」

車座の中にいる子供が鉤を誰に向けようかとニヤニヤしている光景が目に浮かびます。

旅行などの情報

陸前高田市立博物館

東日本大震災で被災した「市立博物館」と「海と貝のミュージアム」の2つの施設を統合して、2022年11月に開館しました。津波にのまれた約56万点の収蔵品のうち、約46万点を回収して修復作業中です。陸前高田市について、太古からの成り立ちや海とのかかわり、歴史・民俗といったテーマに分けてわかりやすく展示しています。
陸前高田市は岩手県内でオシラサマを所有する軒数が最も多いとのこと、上には特別展「陸前高田のオシラサマはいま」の展示写真を引用させていただきましたが、以下のように常設展のオシラサマも充実しています。

また、陸前高田市は江戸時代末に日本最大の隕石「気仙隕石」が落下した場所で、館内には実物破片と原寸大のレプリカが展示されています(実物は国立科学博物館にて展示)。

他にも、日本一大きなクジラの剥製「つっちぃ」や、世界一の大きさの巻貝や寿命が世界一の貝など豊かな海の恵みを利用した展示も見どころです。

基本情報

【住所】岩手県陸前高田市高田町字並杉300番地1
【アクセス】JR陸前高田駅より徒歩で約1分
【参考URL】https://www.city.rikuzentakata.iwate.jp