陳寿「魏志倭人伝」の風景(その4最終回)

邪馬台国の興亡

今回は邪馬台国の様子や外交に関する風景を追っていきましょう。佐賀県吉野ケ里町では「宮室・楼観・城柵をおごそかに設け」という邪馬台国の記述そっくりの遺跡が発掘されています。また、魏に渡った倭の大夫・難升米が見たのは、邪馬台国の何倍もある都でした。狗奴国と交戦状態になると卑弥呼は魏に応援を依頼しますが・・・・・・

出典:ウィキペディア・魏志倭人伝、新訂 魏志倭人伝(石原道博編訳)を踏まえた日本語訳、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D

一大率

「国々に市があり、交易を行い、大倭(倭人中の大人)にこれを監督させていた。女王国より北には、特に一大率(いちだいそつ。王の士卒・中軍)を置き諸国を検察させ、諸国はこれを畏れ憚かっていた。常に伊都国で治めていた。国中(中国)の刺史のようなものである。
王が使いを京都(魏都洛陽)・帯方郡・諸韓国に遣わす。郡が倭国に使いするときは、みんなが津に臨んで捜露(そうろ。探し表す)し、文書を伝送し賜遺の物を女王に届けるので、差錯(誤る、間違う)することはない。」

初回の伊都国の紹介では(魏志倭人伝の風景その1・参照)は当時の港の一つとされる引津湾周辺の風景を掲載しましたが、上には深江湾周辺にあった深江井牟田遺跡の写真を引用させていただきました。深江湾からは空気が澄んだ日には壱岐も見えるとのこと。ここでは、役人たちが忙しく文書や賜物のチェックをしているところイメージしてみましょう。

「下戸が大人と道路で互いに逢うと、ためらって草に入り、辞を伝え、事を説く場合には、あるいはうずくまり、あるいはひざまづき、両手は地につけ、恭敬の態度を示す。対応の声を噫(あい)と言い、それは、承知の意味である。」

ヤァイマツィタティ:やぁ、みなさんこんにちは

コノツァトパワンガオポナカムラナリ:この村は、わたしたちの大中村です

ティティパパパアルパ:お父さんお母さんは

タマタパタカイニインダィタティアルパ:田や畑に出たり

ウミニティツゥナンドリツゥン:海へ漁に行きます
(中略)
ユルルカニミティユキタマピヨ:ゆっくり見て行ってください

出典:播磨町役場、弥生語(古代語)が聞ける大中遺跡の資料館、弥生時代のことば(弥生語・古代語)
https://www.town.harima.lg.jp/index.html

上には播磨町郷土資料館で聴くことのできる古代語の一部を引用させていただきました。
ハ行の文字をパ行に、サ行を「ツァ行」に変換するなどして作成したとのこと。特に最後の部分「ユルルカニミティユキタマピヨ」の響きは心を和ませてくれそうです。

邪馬台国の歴史

「その国は、もとは男子を以て王となし、留まること七、八十年。倭国が乱れ、互いに攻伐すること歴年、そこで共に一女子を立てて王とした。卑弥呼という名である。鬼道につかえ、よく衆を惑わせた。年は既に長大(成人)だが、夫は無く、男弟がおり、補佐して国を治めている。王となってから、朝見する者は少なく、下女千人を自ら侍らせる。ただ男子一人がいて、飲食を給し、辞を伝え出入する。居処宮室・楼観・城柵をおごそかに設け、いつも兵器を持った者が守衛する。」
1989年、吉野ヶ里遺跡で「宮室、楼観、城柵厳かに設け」に合致する遺構が発見され、話題となりました。下には公園の紹介動画を引用させていただきました。
こちらには以下のようなシーンがあります。
(15/2:03)北内郭の主祭殿(宮室)の奥には楼観(物見櫓)が置かれ、城柵が周辺を取り囲んでいます。

(23/2:03)主祭殿の2階では吉野ヶ里の王やリーダーたちが会議をしています。(こちらの動画には登場しませんが、3階では祖霊からのお告げを聞く最高司祭者の姿が再現されています)

「女王国の東、海を渡ること千余里、復、国があり、みな倭種である、又、侏儒(こびと)国が、その南にある、人のたけ三、四尺、女王を去ること四千余里、又、裸国・黒歯国がある、復その東南にある、船で一年ばかりで着くことができる。倭の地を尋ねると、離れた海中洲島の上に在り、あるいは絶えあるいは連なり、往来は五千余里ばかり。」

魏への使者

「景初二年(西暦二百三十八年)六月、倭の女王が大夫難升米(なしめ、なんしょうまい)等を遣わし、(帯方)郡に詣り、天子に詣り朝献するよう求めた。太守(郡の長官)劉夏は役人を遣わし、京都まで送らせた。」

ここでいう「京都」とは当時「魏」の首都であった洛陽のことです。
河南省洛陽市の15㎞東に位置し、現在は「漢魏洛陽城跡」として発掘・整備が行われています。下には上空からの写真を引用いたしました。そこは東西3.9㎞、南北4㎞にもわたる巨大な都でした。難升米たちが目を見張る様子を想像してみましょう。

出典:Windmemories, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons、漢魏洛陽城跡
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:20240815_Site_of_Luoyang_City_from_Han_to_Wei_Dynasty_-_Site_of_the_Palace_City_01.jpg

なお、今年(2025年)の6月にはこの地に「漢魏故城遺跡博物館」が開館しました。以下に引用させていただいた動画のように貴重な出土品が展示されています。

難升米たちが到着した頃の中国は三国時代の終盤で、劉備や諸葛孔明、曹操など、三国志の英雄たちの多くはすでに世を去っていました。
なお、難升米たちがやってきたのが景初2年(238年)であれば、彼らが拝謁した皇帝は曹操の孫・曹叡(明帝)ですが、「梁書倭国伝」などには景初3年とあり、その場合は曹叡(景初3年1月に崩御)の子・曹芳ということになります。

下には「三国志演義」の曹叡(魏・明帝)の挿絵を引用いたしました。曹叡は美貌に加えて床に届くほどの長い髪を持ち、「天姿秀出」と評されたとのことです。

出典:刘锡永 等, Public domain, via Wikimedia Commons、刘锡永 等 – 《三国演义连环画》,1957年,上海人民美术出版社
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E9%AD%8F%E6%98%8E%E5%B8%9D.png

なお、曹芳(そうほう)であればまだ八歳の幼帝(以下に三国志演義の挿絵を引用)でした。魏の軍師であった司馬懿(しばい)などの補佐を受けますが、のちに司馬懿の子・司馬師により皇帝の座を追われることになります(254年)。

出典:刘锡永 等, Public domain, via Wikimedia Commons、刘锡永 等 – 《三国演义连环画》,1957年,上海人民美术出版社
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E6%9B%B9%E8%8A%B3.png

「その年の十二月、詔書で、倭の女王に報じていうには、
『親魏倭王卑弥呼に命令を下す。帯方太守劉夏が使を遣わし、汝の大夫難升米と次使都市牛利(つしごり)を送り、汝の献じた男の生口四人、女の生口六人、財布二匹二丈を奉り、わがもとに至った。汝の国ははるか遠いのに、使を遣わし朝貢したのは、汝のわれに対する忠孝の現われで、感心なことである。今、汝を親魏倭王に任じ、金印・紫綬を与えることにし、それを包装して帯方太守に託して、汝に授けることとした。汝は倭人を綏撫(すいぶ)し、勉めて孝順をなせ。汝の使者難升米と牛利は、遠くからはるばる労して来朝したので、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉に任じ、ともに銀印・青綬を授けることとし、引見し賜物してこれを送り返す。今、絳地交龍錦(こうじこうりゅうにしき)五匹・絳地縐粟罽(こうじしゅうぞくのけい)十張倩絳(せんこう)五十匹・紺青五十匹を回賜として与え、またとくに、汝に紺地句文錦(くもんきん)三匹・細班華罽(さいはんかけい)五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各々五十斤を与えよう。これらの品物は、みな包装して難升米・牛利に託するので、かれらが帰国したら、この詔と内容を照合して受取り、悉く汝の国の人々に示し、魏が汝を大切に思っていることを知らせなさい。そのために丁重に、汝の好む品物を与えるのである』
と。」
このとき魏から贈られた品のなかでも「銅鏡百枚」は周辺諸国に配られた可能性も指摘されていて、邪馬台国比定の鍵の一つとなっています。以下には「景初三年」という銘のある「三角縁神獣鏡」の写真を引用いたしました。島根県雲南市の「神原神社古墳」から出土した鏡で国の重要文化財に指定されています。こちらは卑弥呼が魏から贈られた鏡の一つだったかもしれません。

出典:Saigen Jiro, Public domain, via Wikimedia Commons、神原神社古墳 三角縁神獣鏡
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E7%A5%9E%E5%8E%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%8F%A4%E5%A2%B3_%E4%B8%89%E8%A7%92%E7%B8%81%E7%A5%9E%E7%8D%A3%E9%8F%A1.JPG

また、「絳地交龍錦」の「絳」は深紅や濃い赤色を表し、「交龍錦」は龍が交わる模様の織物のこと。「絳地縐粟罽」は紅地に粟粒のような文様が施された毛織りのじゅうたん類(罽)のことです。下に引用させていただいた卑弥呼像(大阪府立弥生文化博物館蔵)の首元に見えるのは「絳地交龍錦」の一部でしょうか。

明帝の喪があけるとこれらの贈物が倭国に運ばれました。
「正始元年(西暦二百四十年)、太守弓遵は、建中校尉の梯儁(ていしゅん)らを遺わし、詔書・印綬を奉じて倭国に行き、倭王に拝仮して詔をもたらし、金帛・錦・罽・刀・鏡・采物を賜った。倭王は、使いに因って上表文を奉り、詔恩(天子からの恩典)を答謝した。」

魏への使者

邪馬台国と魏の交流は更に続きます。
「その四年、倭王はまた使者の大夫伊声耆(いせき、いせいき)・掖邪狗(やくく、えきやく)ら八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑(こうせいけん)・綿衣・帛布・丹・木拊・短弓矢を献上した。掖邪狗らは率善中郎将の印綬を拝受した。」

「その六年、詔して、倭の難升米に黄幢(こうどう)を賜い、郡に付して仮に授けた。」

邪馬台国(連合)は狗奴国との交戦状態になり、卑弥呼は魏に応援の依頼をしました。

「その八年、太守王頎(おおき)が官にやってきた。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼(彦尊か)と旧より不和である。倭の載斯烏越(そしうえつ)らを遣わして郡に行き、互いに攻擊する状態を説明した。塞曹掾史(さいそうえんし)張政(ちょうせい)らを遣わして、詔書・黄幢を齎(もたら)し、難升米に仮に授けて、檄(ふれぶみ)を作り、これを告諭した。」
ここで「黄幢」とは身分や地位などを表す旗指物の一種です。どのような形状であったかは不明ですが、下には朝鮮半島の「高句麗」時代(357年)、安岳3号墳に描かれた旗指物(右側)の図を引用いたしました。こちらは傘が連なったような形状が特徴的です。

出典:Unknown sourceUnknown source, Public domain, via Wikimedia Commons、安岳3号墳の壁画
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Man_-_Anak_Tomb_No._3.jpg

ここで魏が後ろ盾となっていることを象徴する「黄幢」が直接、難升米に与えられたのは理由があります。以下の段のように女王・卑弥呼は亡くなっていたからです(あるいは危篤状態でした)。

「卑弥呼の死によって大いに塚が作られた。径百余歩、徇葬した奴婢は百余人。さらに男王を立てたが、国中が服さない。互いに誅殺し合い、当時千余人を殺した。また卑弥呼の宗女の壱与(いよ)という歳十三の者を立てて王とすると、国中がついに平定した。政(張政)らは檄を以て壱与を告諭した。壱与は倭の大夫の善中郎将掖邪狗ら二十人を遣わし、政(張政)らが還るのを送らせた。よって台(魏都洛陽の中央官庁)に行き、男女生口三十人を献上し、白珠を五千孔、青大勾珠を二枚、異文雑錦を二十匹、貢いだ。」

卑弥呼のお墓とされる場所は多数ありますが、以下には2つの候補を紹介します。
一つ目は奈良県桜井市の箸墓古墳です。こちらは宮内庁によると第7代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理されています。築造年代が近いことや規模が魏志倭人伝の記述に合致すること(径百余歩→約150m)などが有力な候補とされる根拠です。

もう一つは九州説から平原遺跡1号墓です。以下のグーグルマップのように規模的には小さいですが、管玉やガラス玉といった装飾品が数多く発掘されていて被葬者は女性と考えられること、40面もの鏡が副葬されていたこと、ヤマト王権でも王が都でなく出身地(卑弥呼の故郷を伊都国と推定)に葬られることが多かったことなどを根拠としています(魏志倭人伝の風景その1・参照)。

狗奴国との戦争や連合内の争いなどを経て、邪馬台国には一旦平和が訪れますが、それ以降の邪馬台国がどうなったかについての記録は見つかっていません。
魏が滅びて(265年)後ろ盾を失うことになり、邪馬台国(連合)も弱体化していったのでしょうか。
なお、中国の正史には421年の「倭王讃」の朝貢(宋書)まで倭国に関する記述はなく、その期間は「空白の4世紀」とも呼ばれています。

旅行などの情報

大阪府立弥生文化博物館

日本で唯一、弥生時代をテーマにした博物館です。入口で下に引用させていただいたようなトンネルを通りぬけると弥生時代へタイムスリップ。まずは弥生時代の家族が竪穴住居で団らんする平和な風景が再現されています。

弥生時代は米つくりが始まり、石や鉄を使った農耕技術が広まったことや、定住生活により貧富の差が大きくなり、鉄を使った武器が戦いに使われるようになったことなどを、わかりやすい展示で紹介しています。ほかにも卑弥呼の館やムラを詳細に再現した模型、「漢委奴国王」の金印レプリカなども見どころの一つです。最後の「シンボルゾーン」では上でも引用させていただいた「卑弥呼像」に出会えます。

基本情報

【住所】大阪府和泉市池上町4丁目8−27
【アクセス】JR信太山(しのだやま)駅から徒歩約10分
【参考URL】https://yayoi-bunka.com/