太宰治「津軽」の風景(その4)
蟹田にて
外ヶ浜の中心的な街である蟹田にやってきた太宰は、蟹田警察署などの立派な建築物を眺めながらN君の自宅へ向かいました。そこではN君の友人も加わってにぎやかな宴会が始まります。太宰の好物・トゲクリガニなどをさかなにして楽しくお酒を飲んでいると、いつの間にか明け方になっていました。
出典:青空文庫、津軽、底本: 太宰治全集第六巻、出版社: 筑摩書房、入力: 八巻美恵氏
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html
本編
二 蟹田
T君(外崎勇三氏)に見送られて竜飛行きのバスに乗り込んだ太宰はN君(中村貞次郎)の待つ蟹田に向かいます。
「津軽半島の東海岸は、昔から外ヶ浜と呼ばれて船舶の往来の繁盛だつたところである。青森市からバスに乗つて、この東海岸を北上すると、後潟(うしろがた)、蓬田(よもぎた)、蟹田、平館(たひらだて)、一本木、今別(いまべつ)、等の町村を通過し、義経の伝説で名高い三厩(みまや)に到着する。所要時間、約四時間である。三厩はバスの終点である。」
下には青森から三厩までのルートを現在の地図にプロットしてみました。なお、現在青森駅から三厩駅までは鉄道が敷かれていますが、2022年の8月豪雨での被害により蟹田駅〜三厩駅間は不通となっており、2027年にはその区間が廃止される予定とのことです。
「三厩から波打際の心細い路を歩いて、三時間ほど北上すると、竜飛(たつぴ)の部落にたどりつく。文字どほり、路の尽きる個所である。ここの岬は、それこそ、ぎりぎりの本州の北端である。けれども、この辺は最近、国防上なかなか大事なところであるから、里数その他、具体的な事に就いての記述は、いつさい避けなければならぬ。とにかく、この外ヶ浜一帯は、津軽地方に於いて、最も古い歴史の存するところなのである。さうして蟹田町は、その外ヶ浜に於いて最も大きい部落なのだ。」
以下は蟹田駅前通りから国道280号方面を見たストリートビューです。中央付近には青森まで29㎞と記された標識があります。バスの停車場がどこにあったかは分かりませんが、このあたりで太宰を待つN君の姿を想像しておきましょう。
「青森市からバスで、後潟、蓬田を通り、約一時間半、とは言つてもまあ二時間ちかくで、この町に到着する。所謂、外ヶ浜の中央部である。戸数は一千に近く、人口は五千をはるかに越えてゐる様子である。ちかごろ新築したばかりらしい蟹田警察署は、外ヶ浜全線を通じていちばん堂々として目立つ建築物の一つであらう。」
下に引用させていただいたように、当時の「蟹田警察署」の場所には「蟹田町中央公民館(現・蟹田公民館と思われる)」が建っているとのことです。
(前略)明治二四年またまた火災で全焼し、同年中に新築をみたが、翌一五年続いて類焼した。四度目の火災であった。このあと建てられたのが戦後まで存続した庁舎である。明治二六年五月二七日蟹田六〇番、六八番小川藤太郎宅地(九九六平方メートル)を住民の献納によって官有地となし、八月から新築工事にかかり一〇月三一日落成、開署式を挙行した。蟹田警察署開署式には知事代理脇坂書記官をはじめ裁判所長、検事正、警部長、郡長村長、部落有志数十人のほか、蟹田尋常小学校の生徒が先生に引率されて出席した。庁舎敷地は蟹田警察署沿革史資料によれば、翌二七年一月一六日民有地となり、大正八年再び県有地になった。その地には現在町中央公民館、児童館が建てられている。
出典:蟹田町史編纂委員会 編纂『蟹田町史』,蟹田町,1991.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13238548 (参照 2025-11-27)
https://dl.ndl.go.jp/pid/13238548/1/599
以下には「蟹田町史」P573に掲載されている「蟹田町中央公民館(現・蟹田公民館)」周辺のストリートビューを引用いたしました(閲覧するには国会図書館デジタルコレクションへのログインが必要です)。こちらの建物は、蟹田駅付近から「N君宅」への道(国道280号)を北上していくと、徒歩5分ほどの位置にあります。
なお、警察署がどのような姿であったかについては、青森県警察史・上巻のP168を参照ください(国会図書館デジタルコレクションへのログインが必要です)。
「津軽」では「ちかごろ新築したばかりらしい蟹田警察署」とありますが、明治26年築のため、太宰の津軽旅行の時期には築50年以上になっていたと思われます。意図的にフィクションとして記述したか、あるいは資料に記されていない小規模な改築により新しく見えたのかもしれません。
「蟹田、蓬田、平館、一本木、今別、三厩、つまり外ヶ浜の部落全部が、ここの警察署の管轄区域になつてゐる。竹内運平といふ弘前の人の著した『青森県通史』に依れば、この蟹田の浜は、昔は砂鉄の産地であつたとか、いまは全く産しないが、慶長年間、弘前城築城の際には、この浜の砂鉄を精錬して用ゐたさうで、また、寛文九年の蝦夷蜂起の時には、その鎮圧のための大船五艘を、この蟹田浜で新造した事もあり、また、四代藩主信政の、元禄年間には、津軽九浦の一つに指定せられ、ここに町奉行を置き、主として木材輸出の事を管せしめた由であるが、これらの事は、すべて私があとで調べて知つた事で、それまでは私は、蟹田は蟹の名産地、さうして私の中学時代の唯一の友人のN君がゐるといふ事だけしか知らなかつたのである。」
「青森県通史」にはほかにも、蟹田で石油の採掘を行ったが「充分の効果を得なかった」との記述もあります(下抜粋文の中央部)。
出典:竹内運平 編『青森県通史』,東奥日報社,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1042078 (参照 2025-11-27、一部抜粋)、林業及び鉱業
https://dl.ndl.go.jp/pid/1042078/1/185
「私がこんど津軽を行脚するに当つて、N君のところへも立寄つてごやくかいになりたく、前もつてN君に手紙を差し上げたが、その手紙にも、『なんにも、おかまひ下さるな。あなたは、知らん振りをしてゐて下さい。お出迎へなどは、決して、しないで下さい。でも、リンゴ酒と、それから蟹だけは。』といふやうな事を書いてやつた筈で、食べものには淡泊なれ、といふ私の自戒も、蟹だけには除外例を認めてゐたわけである。私は蟹が好きなのである。どうしてだか好きなのである。蟹、蝦、しやこ、何の養分にもならないやうな食べものばかり好きなのである。それから好むものは、酒である。飲食に於いては何の関心も無かつた筈の、愛情と真理の使徒も、話ここに到つて、はしなくも生来の貪婪性の一端を暴露しちやつた。」
太宰が旅をしていた戦時中、津軽地方ではビールや日本酒の代替品として「リンゴ酒」が飲まれていました。上には合同会社トキあっぷる社が「太宰が飲んだ?!幻のリンゴ酒再現プロジェクト」をもとに開発・販売しているリンゴ酒の画像を引用させていただきます。
「蟹田のN君の家では、赤い猫脚の大きいお膳に蟹を小山のやうに積み上げて私を待ち受けてくれてゐた。」
蟹田は名前の通り蟹の名産地で、太宰は特に「トゲクリガニ」が好物だったとのことです。下にはその「トゲクリガニ」の写真を引用いたしました。このようなカニが小山のやうに積み上げられている様子をイメージしてみましょう。
出典:写真AC、トゲクリガニ
https://www.photo-ac.com/main/detail/28075240&title=%E3%83%88%E3%82%B2%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%AC%E3%83%8B
「『リンゴ酒でなくちやいけないかね。日本酒も、ビールも駄目かね。』と、N君は、言ひにくさうにして言ふのである。
駄目どころか、それはリンゴ酒よりいいにきまつてゐるのであるが、しかし、日本酒やビールの貴重な事は『大人(おとな)』の私は知つてゐるので、遠慮して、リンゴ酒と手紙に書いたのである。津軽地方には、このごろ、甲州に於ける葡萄酒のやうに、リンゴ酒が割合ひ豊富だといふ噂を聞いてゐたのだ。
『それあ、どちらでも。』私は複雑な微笑をもらした。
N君は、ほつとした面持で、
『いや、それを聞いて安心した。僕は、どうも、リンゴ酒は好きぢやないんだ。実はね、女房の奴が、君の手紙を見て、これは太宰が東京で日本酒やビールを飲みあきて、故郷の匂ひのするリンゴ酒を一つ飲んでみたくて、かう手紙にも書いてゐるのに相違ないから、リンゴ酒を出しませうと言ふのだが、僕はそんな筈は無い、あいつがビールや日本酒をきらひになつた筈は無い、あいつは、がらにも無く遠慮をしてゐるのに違ひないと言つたんだ。』
『でも、奥さんの言も当つてゐない事はないんだ。』
『何を言つてる。もう、よせ。日本酒をさきにしますか?ビール?』
『ビールは、あとのはうがいい。』私も少し図々しくなつて来た。
『僕もそのはうがいい。おうい、お酒だ。お燗がぬるくてもかまはないから、すぐ持つて来てくれ。』」
下にはN君こと中村貞次郎さんの住居跡「中貞商店」周辺のストリートビューを引用いたしました。こちらの場所から響く太宰たちの笑い声に耳をすましてみましょう。なお、こちらのストリートビューは2014年6月に撮影されたものです。2018年5月には建物がなくなっていますのでご注意ください(ストリートビューで確認)。
「何れの処か酒を忘れ難き。天涯旧情を話す。
青雲倶に達せず、白髪逓たがひに相驚く。
二十年前に別れ、三千里外に行く。
此時一盞いつさん無くんば、何を以てか平生を叙せん。(白居易)」
白居易は唐代中期に活躍した漢詩人です。太宰が引用した漢詩の解釈例を「白詩新釈」から引用いたしました。
何時如何なる処に最も酒を要するか、それは久しく天涯の他郷に離れ居た旧友と相遇うて旧情を語る時である、不幸にして共に栄達が出来ず、お互に白髪の老人となつたのを歎き、二十年前に別れて三千里外の地で邂逅(タマサカニアフ)したといふ感慨無量の夕に、若し一杯の酒が無かつたら、何を以て平生の旧情を叙べて慰め合ふことが出来よう。
出典:簡野道明 著『白詩新釈』,明治書院,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1145837 (参照 2025-11-28)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1145837/1/84
「私は、中学時代には、よその家へ遊びに行つた事は絶無であつたが、どういふわけか、同じクラスのN君のところへは、実にしばしば遊びに行つた。N君はその頃、寺町の大きい酒屋の二階に下宿してゐた。私たちは毎朝、誘ひ合つて一緒に登校した。さうして、帰りには裏路の、海岸伝ひにぶらぶら歩いて、雨が降つても、あわてて走つたりなどはせず、全身濡れ鼠になつても平気で、ゆつくり歩いた。いま思へば二人とも、頗る鷹揚に、抜けたやうなところのある子であつた。そこが二人の友情の鍵かも知れなかつた。私たちはお寺の前の広場で、ランニングをしたり、テニスをしたり、また日曜には弁当を持つて近くの山へ遊びに行つた。「思ひ出」といふ私の初期の小説の中に出て来る「友人」といふのはたいていこのN君の事なのである。N君は中学校を卒業してから、東京へ出て、或る雑誌社に勤めたやうである。私はN君よりも二、三年おくれて東京へ出て、大学に籍を置いたが、その時からまた二人の交遊は復活した。N君の当時の下宿は池袋で、私の下宿は高田馬場であつたが、しかし、私たちはほとんど毎日のやうに逢つて遊んだ。こんどの遊びは、テニスやランニングではなかつた。N君は、雑誌社をよして、保険会社に勤めたが、何せ鷹揚な性質なので、私と同様、いつも人にだまされてばかりゐたやうである。けれども私は、人にだまされる度毎に少しづつ暗い卑屈な男になつて行つたが、N君はそれと反対に、いくらだまされても、いよいよのんきに、明るい性格の男になつて行くのである。N君は不思議な男だ、ひがまないのが感心だ、あの点は祖先の遺徳と思ふより他はない、と口の悪い遊び仲間も、その素直さには一様に敬服してゐた。N君は、中学時代にも金木の私の生家に遊びに来た事はあるが、東京に来てからも、戸塚の私のすぐの兄の家へ、ちよいちよい遊びに来て、さうして、この兄が二十七で死んだ時には、勤めを休んでいろいろの用事をしてくれて、私の肉親たち皆に感謝された。そのうちにN君は、田舎の家の精米業を継がなければならなくなつて帰郷した。家業を継いでからも、その不思議な人徳に依り、町の青年たちの信頼を得て、二、三年前、蟹田の町会議員に選ばれ、また青年団の分団長だの、何とか会の幹事だのいろいろな役を引き受けて、今では蟹田の町になくてならぬ男の一人になつてゐる模様なのである。」
N君(中村貞次郎氏)について「蟹田町史(P1544)」では、顔写真入りで以下のように紹介しています。
大宰治の「津軽」にはNさんで登場、旧制青森中学校時代から大宰の親友であった。青年時代東京に出て芸術活動をしていたが、兄の戦死によって帰郷し、青年団長、公民館長、民生委員、町議会議員、教育委員、教育長として社会公共に尽した。町褒賞受賞
出典:蟹田町史編纂委員会 編纂『蟹田町史』,蟹田町,1991.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13238548 (参照 2025-11-28)、近、現代蟹田史の群像
https://dl.ndl.go.jp/pid/13238548/1/794
中村貞次郎氏や太宰の顔写真をもとに、二人がお酒を飲んでいるイラストをAIで生成してみました。
出典:Google Gemini 2.5 Flashにより生成された画像、「蟹田町史(P1544)の顔写真などをもとにデフォルメして作成、生成日:2025年11月29日」
「その夜も、N君の家へこの地方の若い顔役が二、三人あそびに来て一緒にお酒やビールを飲んだけれども、N君の人気はなかなかのものらしく、やはり一座の花形であつた。芭蕉翁の行脚掟として世に伝へられてゐるものの中に、一、好みて酒を飲むべからず、饗応により固辞しがたくとも微醺(びくん・・・ほろ酔いのこと)にして止むべし、乱に及ばずの禁あり、といふ一箇条があつたやうであるが、あの、論語の酒無量不及乱といふ言葉は、酒はいくら飲んでもいいが失礼な振舞ひをするな、といふ意味に私は解してゐるので、敢へて翁の教へに従はうともしないのである。泥酔などして礼を失しない程度ならば、いいのである。当り前の話ではないか。私はアルコールには強いのである。芭蕉翁の数倍強いのではあるまいかと思はれる。よその家でごちそうになつて、さうして乱に及ぶなどといふ、それほどの馬鹿ではないつもりだ。此時一盞無くんば、何を以てか平生を叙せん、である。私は大いに飲んだ。
なほまた翁の、あの行脚掟の中には、一、俳諧の外、雑話すべからず、雑話出づれば居眠りして労を養ふべし、といふ条項もあつたやうであるが、私はこの掟にも従はなかつた。芭蕉翁の行脚は、私たち俗人から見れば、ほとんど蕉風宣伝のための地方御出張ではあるまいかと疑ひたくなるほど、旅の行く先々に於いて句会をひらき蕉風地方支部をこしらへて歩いてゐる。俳諸の聴講生に取りまかれてゐる講師ならば、それは俳諸の他の雑話を避けて、さうして雑話が出たら狸寝入りをしようが何をしようが勝手であらうが、私の旅は、何も太宰風の地方支部をこしらへるための旅ではなし、N君だつてまさか私から、文学の講義を聞かうと思つて酒席をまうけたわけぢやあるまいし、また、その夜、N君のお家へ遊びに来られた顔役の人たちだつて、私がN君の昔からの親友であるといふ理由で私にも多少の親しみを感じてくれて、盃の献酬をしてゐるといふやうな実情なのだから、私が開き直つて、文学精神の在りどころを説き来り説き去り、しかうして、雑談いづれば床柱を背にして狸寝入りをするといふのは、あまりおだやかな仕草ではないやうに思はれる。私はその夜、文学の事は一言も語らなかつた。」
以下は、太宰が引き合いに出した「行脚掟」の全文です。深酒や雑談以外にも女性や肉食、連泊などさまざまな分野について述べられています。
行脚掟
出典:松尾芭蕉 著 ほか『芭蕉全集』上巻,地平社,昭和23. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1128358 (参照 2025-11-29、書き写し)
一、一宿なすとも、ゆへなき所に再宿すべからず。樹下石上に臥とも、あたゝめたる莚をおもふべし。
一、腰に寸鉄たりとも帯すべからず。惣じて、ものゝ命を取事なかれ。君父の仇ある所には、門外にも遊べからず。いたゞき、ふまぬ意、忍びざる情あればなり。
一、衣類、器財、相応にすべし。過たるもよからず。足ざるもしからず。程あるべし。
一、魚、鳥、獸の肉を好で喰べからず。美食、珍味にふける人は、他事にふれ安きなり。菜根を咬て、百事をなすべき語を思ふべし。
一、人の求なきに、己が句を出すべからず。望を背くもしからず。
一、たとへ険阻の境たりとも、所労の念を起すべからず。おこらば中途より帰るべし。
一、ゆへなきに馬、駕籠に乗る事なかれ。一枝を己が痩脚とおもふべし。
一、好んで酒を呑べからず。饗応により、固辞しがたくば、微醺にして止ムべし。乱に及ばずのいましめあり。祭にもろみを用るも酔るを憎てなり。酒に遠ざかる訓あり。愼や。
一、船錢、茶代を忘るべからず。
一、誹諸の外、雜話すべからず。雜話、出なば居眠して、労を養べし。
一、他の短をあげ、己が長を顕す事なかれ。人を謗(そしり)て己にほこるは、甚いやしきなり。
一、女性の誹友にしたしむべからず。師にも、弟子にもいらぬ事なり。此道に親炙せば、人を以て伝ふべし。惣じて男女の道は嗣を立るのみなり。流蕩すれば、心、憝一ならず。此道は主一無適にして成就す。己を省るべし。
一、主あるものば、一針一草たりとも取べからず。山川、江河にも主あり。勤よや。山川、旧跡、みだりに名をあらたに付る事なかれ。
一、一字の師思たりとも忘るゝ事なかれ。一句の理をだに解せず、人の師となることなかれ。人におしゆるは、己をなして後の事なり。
一、一宿一飯の主も、おろそかに思ふべからず。さりとて又、媚、謂ふ事なかれ。如レ此の人は世の奴なり。此道の人は、此道に遊人と交るべし。
一、夕べをおもひ、旦を思ふべし。旦暮の行脚といふ事、好ざる事なり。しばしばすれば、疎んぜらるゝの言をおもふべし。将、粗食たりともこのむべからず。
右之條々、我門の行脚は、可愼者也。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1128358/1/151
「東京の言葉さへ使はなかつた。かへつて気障なくらゐに努力して、純粋の津軽弁で話をした。さうして日常瑣事の世俗の雑談ばかりした。そんなにまでして勤めなくともいいのにと、酒席の誰かひとりが感じたに違ひないと思はれるほど、私は津軽の津島のオズカスとして人に対した。(津島修治といふのは、私の生れた時からの戸籍名であつて、また、オズカスといふのは叔父糟といふ漢字でもあてはめたらいいのであらうか、三男坊や四男坊をいやしめて言ふ時に、この地方ではその言葉を使ふのである。)こんどの旅に依つて、私をもういちど、その津島のオズカスに還元させようといふ企画も、私に無いわけではなかつたのである。」
ATV青森テレビのふるさと歴史館から雪国の暮らしについての動画を引用いたしました。二人の女性が生粋の津軽弁で昔の生活の苦労について語っています。太宰もこちらのようなイントネーションでN君たちと会話をしていたのでしょう。
「都会人としての私に不安を感じて、津軽人としての私をつかまうとする念願である。言ひかたを変へれば、津軽人とは、どんなものであつたか、それを見極めたくて旅に出たのだ。私の生きかたの手本とすべき純粋の津軽人を捜し当てたくて津軽へ来たのだ。さうして私は、実に容易に、随所に於いてそれを発見した。誰がどうといふのではない。乞食姿の貧しい旅人には、そんな思ひ上つた批評はゆるされない。それこそ、失礼きはまる事である。私はまさか個人々々の言動、または私に対するもてなしの中に、それを発見してゐるのではない。そんな探偵みたいな油断のならぬ眼つきをして私は旅をしてゐなかつたつもりだ。私はたいていうなだれて、自分の足もとばかり見て歩いてゐた。けれども自分の耳にひそひそと宿命とでもいふべきものを囁かれる事が実にしばしばあつたのである。私はそれを信じた。私の発見といふのは、そのやうに、理由も形も何も無い、ひどく主観的なものなのである。誰がどうしたとか、どなたが何とおつしやつたとか、私はそれには、ほとんど何もこだはるところが無かつたのである。それは当然の事で、私などには、それにこだはる資格も何も無いのであるが、とにかく、現実は、私の眼中に無かつた。『信じるところに現実はあるのであつて、現実は決して人を信じさせる事が出来ない。』といふ妙な言葉を、私は旅の手帖に、二度も繰り返して書いてゐた。
慎しまうと思ひながら、つい、下手な感懐を述べた。私の理論はしどろもどろで、自分でも、何を言つてゐるのか、わからない場合が多い。嘘を言つてゐる事さへある。だから、気持の説明は、いやなのだ。何だかどうも、見え透いたまづい虚飾を行つてゐるやうで、慚愧赤面するばかりだ。かならず後悔ほぞを噛むと知つてゐながら、興奮するとつい、それこそ『廻らぬ舌に鞭打ち鞭打ち』口をとがらせて呶々(ドド、くどくどの意)と支離滅裂の事を言ひ出し、相手の心に軽蔑どころか、憐憫の情をさへ起させてしまふのは、これも私の哀しい宿命の一つらしい。
その夜は、しかし、私はそのやうな下手な感懐をもらす事はせず、芭蕉翁の遺訓にはそむいてゐるやうだつたけれども、居眠りもせず大いに雑談にのみ打興じ、眼前に好物の蟹の山を眺めて夜の更けるまで飲みつづけた。N君の小柄でハキハキした奥さんは、私が蟹の山を眺めて楽しんでゐるばかりで一向に手を出さないのを見てとり、これは蟹をむいてたべるのを大儀がつてゐるのに違ひないとお思ひになつた様子で、ご自分でせつせと蟹を器用にむいて、その白い美しい肉をそれぞれの蟹の甲羅につめて、フルウツ何とかといふ、あの、果物の原形を保持したままの香り高い涼しげな水菓子みたいな体裁にして、いくつもいくつも私にすすめた。おそらくは、けさ、この蟹田浜からあがつたばかりの蟹なのであらう。もぎたての果実のやうに新鮮な軽い味である。私は、食べ物に無関心たれといふ自戒を平気で破つて、三つも四つも食べた。この夜、奥さんは、来る人来る人みんなにお膳を差し上げて、この土地の人でさへ、そのお膳の料理の豊潤に驚いてゐたくらゐであつた。」
下にはフルウツポンチのようにきれいに盛られた「トゲクリガニ甲羅盛り」の写真を引用しました。上のイラストの座卓の上にこちらを並べてみましょう。
出典:写真AC、トゲクリガニ甲羅盛り
https://www.photo-ac.com/main/detail/28075241&title=%E3%83%88%E3%82%B2%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%AC%E3%83%8B%E7%94%B2%E7%BE%85%E7%9B%9B%E3%82%8A
「顔役のお客さんたちが帰つてしまふと、私とN君は奥の座敷から茶の間へ酒席を移して、アトフキをはじめた。アトフキといふのは、この津軽地方に於いて、祝言か何か家に人寄せがあつた場合、お客が皆かへつた後で、身内の少数の者だけが、その残肴を集めてささやかにひらく慰労の宴の事であつて、或いは『後引(あとひ)き』の訛かも知れない。N君は私よりも更にアルコールには強いたちなので、私たちは共に、乱に及ぶ憂ひは無かつたが、
『しかし、君も、』と私は、深い溜息をついて、『相変らず、飲むなあ。何せ僕の先生なんだから、無理もないけど。』
僕に酒を教へたのは、実に、このN君なのである。それは、たしかに、さうなのである。
『うむ。』とN君は盃を手にしたままで、真面目に首肯き、『僕だつて、ずいぶんその事に就いては考へてゐるんだぜ。君が酒で何か失敗みたいな事をやらかすたんびに、僕は責任を感じて、つらかつたよ。でもね、このごろは、かう考へ直さうと努めてゐるんだ。あいつは、僕が教へなくたつて、ひとりで、酒飲みになつた奴に違ひない。僕の知つた事ではないと。』
『ああ、さうなんだ。そのとほりなんだ。君に責任なんかありやしないよ。全く、そのとほりなんだ。』
やがて奥さんも加り、お互ひの子供の事など語り合つて、しんみり、アトフキをやつてゐるうちに、突如、鶏鳴あかつきを告げたので、大いに驚いて私は寝所へ引上げた。」
旅行などの情報
蟹田駅前市場ウェル蟹
N君の家では太宰の好物であったトゲグリガニが山のように積み重ねられていましたが、こちらの蟹を購入できるのが蟹田駅前にある「ウェル蟹」です。ちょうど桜の時期に採れるため別名「花見ガニ」とも呼ばれています。こちらのお店ではほかにも新鮮な魚介類や野菜などが販売され、併設する食堂では「シャモロックラーメン」が美味しいと評判です。
上のストリートビューのように駅のロータリーを出てすぐのところにあるので、蟹田駅周辺の「津軽」ゆかりのスポット巡りの起点として利用するのもよいでしょう。
基本情報
【住所】青森県外ヶ浜町上蟹田34-1
【アクセス】JR蟹田駅から徒歩約1分
【参考URL】https://aomori-tourism.com/spot/detail_8582.html





