太宰治「津軽」の風景(その7)

津軽人について

太宰はN君の精米工場を訪れ、仕事を見学しましたが、柱に貼られた暴飲防止のポスターでした。N君から津軽の凶作の歴史を聞いて暗い気分になりますが、「(津軽人は)殴られるけれども、負けやしないんだ」というN君の言葉や佐藤理学士の「渡り鳥は永遠にさまよへども、素朴なる東北の民は最早や動かず」などという文章に励まされます。

出典:青空文庫、津軽、底本: 太宰治全集第六巻、出版社: 筑摩書房、入力: 八巻美恵氏
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html

本編外ヶ浜(1)

N君の工場にて

「Sさんの家を辞去してN君の家へ引上げ、N君と私は、さらにまたビールを飲み、その夜はT君も引きとめられてN君の家へ泊る事になつた。三人一緒に奥の部屋に寝たのであるが、T君は翌朝早々、私たちのまだ眠つてゐるうちにバスで青森へ帰つた。勤めがいそがしい様子である。
『咳をしてゐたね。』T君が起きて身支度をしながらコンコンと軽い咳をしてゐたのを、私は眠つてゐながらも耳ざとく聞いてへんに悲しかつたので、起きるとすぐにN君にさう言つた。N君も起きてズボンをはきながら、
『うん、咳をしてゐた。』と厳粛な顔をして言つた。酒飲みといふものは、酒を飲んでゐない時にはひどく厳粛な顔をしてゐるものである。いや、顔ばかりではないかも知れない。心も、きびしくなつてゐるものである。『あまり、いい咳ぢやなかつたね。』N君も、さすがに、眠つてゐるやうではあつても、ちやんとそれを聞き取つてゐたのである。
『気で押すさ。』とN君は突き放すやうな口調で言つて、ズボンのバンドをしめ上げ、『僕たちだつて、なほしたんぢやないか。』
 N君も、私も、永い間、呼吸器の病気と闘つて来たのである。N君はひどい喘息だつたが、いまはそれを完全に克服してしまつた様子である。
 この旅行に出る前に、満洲の兵隊たちのために発行されてゐる或る雑誌に短篇小説を一つ送る事を約束してゐて、その締切がけふあすに迫つてゐたので、私はその日一日と、それから翌る日一日と、二日間、奥の部屋を借りて仕事をした。」

「満洲の兵隊たちのために発行されてゐる或る雑誌」とは満州雑誌社「満洲良男(ますらお)」でした。短編小説は「奇縁」というタイトルでしたが、雑誌への掲載有無も不明で、幻の作品とされています(人間太宰治の研究 第1、長篠康一郎、虎見書房、P170)。

「N君も、その間、別棟の精米工場で働いてゐた。二日目の夕刻、N君は私の仕事をしてゐる部屋へやつて来て、「書けたかね。二、三枚でも書けたかね。僕のはうは、もう一時間経つたら、完了だ。一週間分の仕事を二日でやつてしまつた。あとでまた遊ばうと思ふと気持に張合ひが出て、仕事の能率もぐんと上るね。もう少しだ。最後の馬力をかけよう。」と言つて、すぐ工場のはうへ行き、十分も経たぬうちに、また私の部屋へやつて来て、
「書けたかね。僕のはうは、もう少しだ。このごろは機械の調子もいいんだ。君は、まだうちの工場を見た事が無いだらう。汚い工場だよ。見ないはうがいいかも知れない。まあ、精を出さう。僕は工場のはうにゐるからね。」と言つて帰つて行くのである。鈍感な私も、やつと、その時、気がついた。N君は私に、工場で働いてゐる彼の甲斐甲斐しい姿を見せたいのに違ひない。もうすぐ彼の仕事が終るから、終らないうちに見に来い、といふ謎であつたのだ。私はそれに気が附いて微笑した。いそいで仕事を片附け、私は、道路を隔て別棟になつてゐる精米工場に出かけた。」
以下は再びN君の自宅跡(山貞商店)付近のストリートビューです(津軽の風景その4・参照)。右側に山貞商店がありますので、道を渡った左側に精米所があったと思われます。ここでは短編小説を書きおえた太宰が道路を渡って精米所に急いでいるところをイメージしてみましょう。

N君は継ぎはぎだらけのコール天の上衣を着て、目まぐるしく廻転する巨大な精米機の傍に、両腕をうしろにまはし、仔細らしい顔をして立つてゐた。
『さかんだね。』と私は大声で言つた。
N君は振りかへり、それは嬉しさうに笑つて、
『仕事は、すんだか。よかつたな。僕のはうも、もうすぐなんだ。はひり給へ。下駄のままでいい。』と言ふのだが、私は、下駄のままで精米所へのこのこはひるほど無神経な男ではない。N君だつて、清潔な藁草履とはきかへてゐる。そこらを見廻しても、上草履のやうなものも無かつたし、私は、工場の門口に立つて、ただ、にやにや、笑つてゐた。裸足(はだし)になつてはひらうかとも思つたが、それはN君をただ恐縮させるばかりの大袈裟な偽善的な仕草に似てゐるやうにも思はれて、裸足にもなれなかつた。私には、常識的な善事を行ふに当つて、甚(はなは)だてれる悪癖がある。
『ずいぶん大がかりな機械ぢやないか。よく君はひとりで操縦が出来るね。』お世辞では無かつた。N君も、私と同様、科学的知識に於いては、あまり達人ではなかつたのである。
以下には昭和18年の農機具カタログの一部を抜粋いたします。このように多くのメーカーからさまざまな形状・方式の精米機が販売されていました。

出典:新農林社出版部 編『農機具公定価格便覧 : 附:農機具図鑑』,新農林社出版部,昭和18. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1124723 (参照 2025-12-08)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1124723/1/184

 「『いや、簡単なものなんだ。このスヰツチをかうすると、』などと言ひながら、あちこちのスヰツチをひねつて、モーターをぴたりと止めて見せたり、また籾殻の吹雪を現出させて見せたり、出来上りの米を瀑布のやうにざつと落下させて見せたり自由自在にその巨大な機械をあやつつて見せるのである。

 ふと私は、工場のまん中の柱に張りつけられてある小さいポスターに目をとめた。お銚子の形の顔をした男が、あぐらをかき腕まくりして大盃を傾け、その大盃には家や土蔵がちよこんと載つてゐて、さうしてその妙な画には、『酒は身を飲み家を飲む』といふ説明の文句が印刷されてあつた。」
下には「津軽」のキーワードをもとにAI生成したポスターの画像を掲載しておきます。少し怖いですが・・・

出典:Google Gemini 2.5 Flashにより生成された画像、『お銚子の形の顔をした男が、あぐらをかき腕まくりして大盃を傾け、その大盃には家や土蔵がちょこんと載っている』などのキーワードをベースに生成、生成日:2025年12月08日」

「私は、そのポスターを永い事、見つめてゐたので、N君も気がついたか、私の顔を見てにやりと笑つた。私もにやりと笑つた。同罪の士である。『どうもねえ。』といふ感じなのである。私はそんなポスターを工場の柱に張つて置くN君を、いぢらしく思つた。誰か大酒を恨まざる、である。私の場合は、あの大盃に、私の貧しい約二十種類の著書が載つてゐるといふ按配なのである。私には、飲むべき家も蔵も無い。『酒は身を飲み著書を飲む』とでも言ふべきところであらう。」
昭和19年までの「約二十種類の著書」として太宰は「富嶽百景」や「女生徒」、「思い出」、「道化の華」、「走れメロス」などを思い浮かべていたと思われます。

 「工場の奥に、かなり大きい機械が二つ休んでゐる。あれは何?とN君に聞いたら、N君は幽かな溜息をついて、
『あれは、なあ、縄を作る機械と、筵(むしろ)を作る機械なんだが、なかなか操作がむづかしくて、どうも僕の手には負へないんだ。四、五年前、この辺一帯ひどい不作で、精米の依頼もばつたり無くなつて、いや、困つてねえ、毎日毎日、炉傍に坐つて煙草をふかして、いろいろ考へた末、こんな機械を買つて、この工場の隅で、ばつたんばつたんやつてみたのだが、僕は不器用だから、どうしても、うまくいかないんだ。淋しいもんだつたよ。結局一家六人、ほそぼそと寝食ひさ。あの頃は、もう、どうなる事かと思つたね。』

下には「筵(むしろ)を作る機械」、「製莚機」の広告を「東奥年鑑」から抜粋いたしました。

出典:東奥日報社 編『東奥年鑑』昭和14年,東奥日報社,昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1073630 (参照 2025-12-08、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1073630/1/216

以下の引用文のとおり、当時は稲作で発生する藁を有効活用できる製繩や製莚が農家の副業として推奨されていました。

從來藁(わら)は、稻作の廢物視(はいぶつし)せられ、主に燃料、肥料、家畜飼料等に充て、且つ明治中葉頃までは自家用として繩(なわ)、莚(むしろ)、叺(かます)等に製作されるに過ぎなかつたが、我国の商工業が急速の発展を遂げ、貨物の運輸增加に伴つて、荷造包裝用としての需要が頓(と)みに加はり、一方明治の末頃に至って製繩機、製莚機が発明され、之の普及に依つて更に発達を助成し、現在の如く普遍的な農家の副業として、重要な地位を占めるに至つたものである。

出典:帝国副業研究会 編『自力殖産副業経営の指針』,教文社,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1443154 (参照 2025-12-08)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1443154/1/428

副業も含めて一つにまとめた精米工場の例を下に引用いたしました。精米機(漏斗状の機械)が右側に配置され、左側では藁を材料とした副業が行われています。

出典:北海道農会 編『北海道農業写真帖』,北海道農会,昭11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1687708 (参照 2025-12-08)、共同作業 藁(わら)細工及び精米
https://dl.ndl.go.jp/pid/1687708/1/93

 「N君には、四歳の男の子がひとりある他に、死んだ妹さんの子供をも三人あづかつてゐるのだ。妹さんの御亭主も、北支で戦死をなさつたので、N君夫妻は、この三人の遺児を当然の事として育て、自分の子供と全く同様に可愛がつてゐるのだ。奥さんの言に依れば、N君は可愛がりすぎる傾きさへあるさうだ。三人の遺児のうち、一番の総領は青森の工業学校にはひつてゐるのださうで、その子が或る土曜日に青森から七里の道をバスにも乗らずてくてく歩いて夜中の十二時頃に蟹田の家へたどり着き、伯父さん、伯父さん、と言つて玄関の戸を叩き、N君は飛び起きて玄関をあけ、無我夢中でその子の肩を抱いて、歩いて来たのか、へえ、歩いて来たのか、と許り言つてものも言へず、さうして、奥さんを矢鱈に叱り飛ばして、それ、砂糖湯を飲ませろ、餅を焼け、うどんを温めろと、矢継早に用事を言ひつけ、奥さんは、この子は疲れて眠いでせうから、と言ひかけたら、『な、なにい!』と言つて頗る大袈裟に奥さんに向つてこぶしを振り上げ、あまりにどうも珍妙な喧嘩なので、甥のその子が、ぷつと噴き出して、N君もこぶしを振り上げながら笑ひ出し、奥さんも笑つて、何が何やら、うやむやになつたといふ事などもあつたさうで、それもまた、N君の人柄の片鱗を示す好箇の挿話であると私には感じられた。
『七転び八起きだね。いろんな事がある。』と言つて私は、自分の身の上とも思ひ合せ、ふつと涙ぐましくなつた。この善良な友人が、馴れぬ手つきで、工場の隅で、ひとり、ばつたんばつたん筵を織つてゐる侘しい姿が、ありありと眼前に見えるやうな気がして来た。私は、この友人を愛してゐる。」

津軽の気候と人柄

 「その夜はまた、お互ひ一仕事すんだのだから、などと言ひわけして二人でビールを飲み、郷土の凶作の事に就いて話し合つた。N君は青森県郷土史研究会の会員だつたので、郷土史の文献をかなり持つてゐた。
『何せ、こんなだからなあ。』と言つてN君は或る本をひらいて私に見せたが、そのペエジには次のやうな、津軽凶作の年表とでもいふべき不吉な一覧表が載つてゐた。
元和一年    大凶
元和二年    大凶
寛永十七年   大凶
寛永十八年   大凶
寛永十九年    凶
明暦二年     凶
寛文六年     凶
寛文十一年    凶
延宝二年     凶
延宝三年     凶
延宝七年     凶
天和一年    大凶
貞享一年     凶
元禄五年    大凶
元禄七年    大凶
元禄八年    大凶
元禄九年     凶
元禄十五年   半凶
宝永二年     凶
宝永三年     凶
宝永四年    大凶
享保一年     凶
享保五年     凶
元文二年     凶
元文五年     凶
延享二年    大凶
延享四年     凶
寛延二年    大凶
宝暦五年    大凶
明和四年     凶
安永五年    半凶
天明二年    大凶
天明三年    大凶
天明六年    大凶
天明七年    半凶
寛政一年     凶
寛政五年     凶
寛政十一年    凶
文化十年     凶
天保三年    半凶
天保四年    大凶
天保六年    大凶
天保七年    大凶
天保八年     凶
天保九年    大凶
天保十年     凶
慶応二年     凶
明治二年     凶
明治六年     凶
明治二十二年   凶
明治二十四年   凶
明治三十年    凶
明治三十五年  大凶
明治三十八年  大凶
大正二年     凶
昭和六年     凶
昭和九年     凶
昭和十年     凶
昭和十五年   半凶
 津軽の人でなくても、この年表に接しては溜息をつかざるを得ないだらう。大阪夏の陣、豊臣氏滅亡の元和元年より現在まで約三百三十年の間に、約六十回の凶作があつたのである。まづ五年に一度づつ凶作に見舞はれてゐるといふ勘定になるのである。さらにまた、N君はべつな本をひらいて私に見せたが、それには、『翌天保四年に到りては、立春吉祥の其日より東風頻に吹荒み、三月上巳の節句に到れども積雪消えず農家にて雪舟用ゐたり。五月に到り苗の生長僅かに一束なれども時節の階級避くべからざるが故に竟に其儘植附けに着手したり。然れども連日の東風弥々吹き募り、六月土用に入りても密雲冪々として天候朦々晴天白日を見る事殆ど稀なり(中略)毎日朝夕の冷気強く六月土用中に綿入を着用せり、夜は殊に冷にして七月佞武多(ねぶた)(作者註。陰暦七夕の頃、武者の形あるいは竜虎の形などの極彩色の大燈籠を荷車に載せて曳き、若い衆たちさまざまに扮装して街々を踊りながら練り歩く津軽年中行事の一つである。他町の大燈籠と衝突して喧嘩の事必ずあり。坂上田村麻呂、蝦夷征伐の折、このやうな大燈籠を見せびらかして山中の蝦夷をおびき寄せ之を殱滅せし遺風なりとの説あれども、なほ信ずるに足らず。津軽に限らず東北各地にこれと似たる風俗あり。東北の夏祭りの山車(だし)と思はば大過なからん歟。)の頃に到りても道路にては蚊の声を聞かず、家屋の内に於ては聊か之を聞く事あれども蚊帳を用うるを要せず蝉声の如きも甚だ稀なり、七月六日頃より暑気出で盆前単衣物を着用す、同十三日頃より早稲大いに出穂ありし為人気頗る宜しく盆踊りも頗る賑かなりしが、同十五日、十六日の日光白色を帯び恰も夜中の鏡に似たり、同十七日夜半、踊児も散り、来往の者も稀疎にして追々暁方に及べる時、図らざりき厚霜を降らし出穂の首傾きたり、往来老若之を見る者涕泣充満たり。』といふ、あはれと言ふより他には全く言ひやうのない有様が記されてあつて、私たちの幼い頃にも、老人たちからケガヅ(津軽では、凶作の事をケガヅと言ふ。飢渇きかつの訛りかも知れない。)の酸鼻戦懐の状を聞き、幼いながらも暗憺たる気持になつて泣きべそをかいてしまつたものだが、久し振りで故郷に帰り、このやうな記録をあからさまに見せつけられ、哀愁を通り越して何か、わけのわからぬ憤怒さへ感ぜられて、
『これは、いかん。』と言つた。」
「天保四年」は「享保の大飢饉」や「天明の大飢饉」とともに江戸三大飢饉の一つに数えられる「天保の大飢饉」があった年です。下に引用した「荒歳流民救恤図」は渡辺崋山が京都に滞在中に行った、餓民の救済活動の様子を描いたものといわれています。このように全国規模の飢饉でしたが、最も被害が大きかったのは東北地方でした。

出典:日本語: 渡辺崋山English: Watanabe Kazan, Public domain, via Wikimedia Commons、天保の飢饉飢饉の際、救小屋に収容され保護を受ける罹災民を描いたもの。渡辺崋山画『荒歳流民救恤図。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%A3%A2%E9%A5%89.jpg

「『科学の世の中とか何とか偉さうな事を言つてたつて、こんな凶作を防ぐ法を百姓たちに教へてやる事も出来ないなんて、だらしがねえ。』
『いや、技師たちもいろいろ研究はしてゐるのだ。冷害に堪へるやうに品種が改良されてもゐるし、植附けの時期にも工夫が加へられて、今では、昔のやうに徹底した不作など無くなつたけれども、でも、それでも、やつぱり、四、五年に一度は、いけない時があるんだねえ。』
『だらしが無え。』私は、誰にとも無き忿懣で、口を曲げてののしつた。
 N君は笑つて、
『沙漠の中で生きてゐる人もあるんだからね。怒つたつて仕様がないよ。こんな風土からはまた独得な人情も生れるんだ。』
『あんまり結構な人情でもないね。春風駘蕩たるところが無いんで、僕なんか、いつでも南国の芸術家には押され気味だ。』
『それでも君は、負けないぢやないか。津軽地方は昔から他国の者に攻め破られた事が無いんだ。殴られるけれども、負けやしないんだ。第八師団は国宝だつて言はれてゐるぢやないか。』」

主に東北地方出身者で構成された「第八師団」は、日露戦争を皮切りにシベリア出兵や満州事変などで活躍し、「国宝師団」とも称されました。以下は昭和6年ごろに第八師団が満州へ出発する際の写真ですが、見送りの人で品川駅のホームがいっぱいになるほどの熱狂ぶりでした。

出典:『特輯満洲事変大写真帖』,創造社,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/14010036 (参照 2025-12-08、一部抜粋)、満州守備交代兵弘前第八師団出発品川駅ホーム内の光景
https://dl.ndl.go.jp/pid/14010036/1/45

 「生れ落ちるとすぐに凶作にたたかれ、雨露をすすつて育つた私たちの祖先の血が、いまの私たちに伝はつてゐないわけは無い。春風駘蕩の美徳もうらやましいものには違ひないが、私はやはり祖先のかなしい血に、出来るだけ見事な花を咲かせるやうに努力するより他には仕方がないやうだ。いたづらに過去の悲惨に歎息せず、N君みたいにその櫛風沐雨の伝統を鷹揚に誇つてゐるはうがいいのかも知れない。しかも津軽だつて、いつまでも昔のやうに酸鼻の地獄絵を繰り返してゐるわけではない。その翌日、私はN君に案内してもらつて、外ヶ浜街道をバスで北上し、三厩で一泊して、それからさらに海岸の波打際の心細い路を歩いて本州の北端、竜飛岬まで行つたのであるが、その三厩竜飛間の荒涼索莫たる各部落でさへ、烈風に抗し、怒濤に屈せず、懸命に一家を支へ、津軽人の健在を可憐に誇示してゐたし、三厩以南の各部落、殊にも三厩、今別などに到つては瀟洒たる海港の明るい雰囲気の中に落ちつき払つた生活を展開して見せてくれてゐたのである。ああ、いたづらにケガヅの影におびえる事なかれである。」

門出の辞

「以下は佐藤弘といふ理学士の快文章であるが、私のこの書の読者の憂鬱を消すために、なほまた私たち津軽人の明るい出発の乾盃の辞としてちよつと借用して見よう。佐藤理学士の奥州産業総説に曰く、

『撃てば則ち草に匿れ、追へば即ち山に入つた蝦夷族の版図たりし奥州、山岳重畳して到るところ天然の障壁をなし、以て交通を阻害してゐる奥州、風波高く海運不便なる日本海と、北上山脈にさへぎられて発達しない鋸歯状の岬湾の多い太平洋とに包まれた奥州。しかも冬期降雪多く、本州中で一番寒く、古来、数十回の凶作に襲来されたといふ奥州。九州の耕地面積二割五分に対して、わづかに一割半を占むる哀れなる奥州。どこから見ても不利な自然的条件に支配されてゐるその奥州は、さて、六百三十万の人口を養ふに、今日いかなる産業に拠つてゐるであらうか。
 どの地理書を繙いても、奥州の地たるや本州の東北端に僻在し、衣、食、住、いづれも粗樸、とある。古来からの茅葺、柾葺、杉皮葺は、とにかくとして、現在多くの民は、トタン葺の家に住み、ふろしきを被つて、もんぺいをはき、中流以下悉く粗食に甘んじてゐる、といふ。真偽や如何。それほど奥州の地は、産業に恵まれてゐないのであらうか。高速度を以て誇りとする第二十世紀の文明は、ひとり東北の地に到達してゐないのであらうか。否、それは既に過去の奥州であつて、人もし現代の奥州に就いて語らんと欲すれば、まづ文芸復興直前のイタリヤに於いて見受けられたあの鬱勃たる擡頭力を、この奥州の地に認めなければならぬ。文化に於いて、はたまた産業に於いて然り、かしこくも明治大帝の教育に関する大御心はまことに神速に奥州の津々浦々にまで浸透して、奥州人特有の聞きぐるしき鼻音の減退と標準語の進出とを促し、嘗ての原始的状態に沈淪した蒙昧な蛮族の居住地に教化の御光を与へ、而して、いまや見よ、開発また開拓、膏田沃野の刻一刻と増加することを。そして改良また改善、牧畜、林業、漁業の日に日に盛大におもむく事を。まして況んや、住民の分布薄疎にして、将来の発展の余裕、また大いにこの地にありといふに於いてをや。
 むく鳥、鴨、四十雀、雁などの渡り鳥の大群が、食を求めてこの地方をさまよひ歩くが如く、膨脹時代にあつた大和民族が各地方より北上してこの奥州に到り、蝦夷を征服しつつ、或ひは山に猟し、或ひは川に漁して、いろいろな富源の魅力にひきつけられ、あちらこちらと、さまよひ歩いた。かくして数代経過し、ここに人々は、思ひ思ひの地に定著して、或ひは秋田、荘内、津軽の平野に米を植ゑ、或ひは北奥の山地に殖林を試み、或ひは平原に馬を飼ひ、或ひは海辺の漁業に専心して以て今日に於ける隆盛なる産業の基礎を作つたのである。奥州六県、六百三十万の民はかくして先人の開発せし特徴ある産業をおろそかにせず、益々これが発達の途を講じ、渡り鳥は永遠にさまよへども、素朴なる東北の民は最早や動かず、米を作つて林檎を売り、鬱蒼たる美林につづく緑の大平原には毛並輝く見事な若駒を走らせ、出漁の船は躍る銀鱗を満載して港にはひるのである。』
以下に引用したのは昭和10年ごろの佞武多祭の写真です。津軽凶作の年表によると昭和9年・10年と続けて「凶作」でしたが、写真に写っている人たちは皆、不敵な表情を浮かべているようにもみえます。

出典:ジヤパン・ツーリスト・ビユーロー 編『旅程と費用概算』昭和10年度版,博文館,昭和10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1179724 (参照 2025-12-09、一部抜粋)、佞武多祭
https://dl.ndl.go.jp/pid/1179724/1/149

 「まことに有難い祝辞で、思はず駈け寄つてお礼の握手でもしたくなるくらゐのものだ。さて私はその翌日、N君の案内で奥州外ヶ浜を北上したのであるが、出発に先立ち、まづ問題は酒であつた。
『お酒は、どうします? リユツクサツクに、ビールの二、三本も入れて置きませうか?』と、奥さんに言はれて、私は、まつたく、冷汗三斗の思ひであつた。なぜ、酒飲みなどといふ不面目な種族の男に生れて来たか、と思つた。
「いや、いいです。無ければ無いで、また、それは、べつに。」などと、しどろもどろの不得要領なる事を言ひながらリユツクサツクを背負ひ、逃げるが如く家を出て、後からやつて来たN君に、
『いや、どうも。酒、と聞くとひやつとするよ。針の筵(むしろ)だ。』と実感をそのまま言つた。N君も同じ思ひと見えて、顔を赤くし、うふふと笑ひ、
『僕もね、ひとりぢや我慢も出来るんだが、君の顔を見ると、飲まずには居られないんだ。今別のMさんが配給のお酒を近所から少しづつ集めて置くつて言つてゐたから、今別にちよつと立寄らうぢやないか。』
 私は複雑な溜息をついて、
『みんなに苦労をかけるわい。』と言つた。」

旅行などの情報

青森ねぶた祭

ねぶた祭は「青森ねぶた」や「弘前ねぷた」、五所川原の「立佞武多」などエリアごとにスタイルが異なりますが、ここでは青森市内で開催される「青森ねぶた祭」を紹介いたします。「青森ねぶた祭」は例年、8月2日から7日まで開催され、会場はすべてJR青森駅から徒歩圏内です。「ねぶた」とよばれる巨大な灯篭人形が運行され、周辺では「ハネト」という踊り子たちが「ラッセラー」の掛け声とともに跳ねながら練り歩きます。
最終日には受賞ねぶたが船に乗せられて夜の青森港海上を運行、花火も打ち上げられて、幻想的な雰囲気なクライマックスとなります。

出典:YoshikawaS, Public domain, via Wikimedia Commons、ハネト(跳人)の正装
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Haneto.JPG

また、こちらのお祭りは一般の人も参加できるのも魅力です。上に引用したようなハネト衣装の着用が必要となりますので、レンタル店を利用するか、青森市内のデパートで購入しておきましょう。

基本情報

【住所】青森県青森市柳川1丁目1-1(青森駅)
【アクセス】JR青森駅すぐ
【参考URL】https://www.nebuta.jp/