太宰治「津軽」の風景(その10)
鯛事件&太宰北行
本覚寺に行く途中に大鯛を買ってしまった太宰。三厩の宿にて丸焼きにしてくれるように依頼しますが、出てきたのは尾頭なしの切り身でした。次の日は義経北行伝説の残るお寺に立ち寄った後、冷たい浜風を受けながら竜飛を目指します。やっと到着した竜飛の宿でお酒を痛飲したN君は歌に興じすぎて・・・。
出典:青空文庫、津軽、底本: 太宰治全集第六巻、出版社: 筑摩書房、入力: 八巻美恵氏
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html
本編・外ヶ浜(4)
丸山旅館の風景
「三厩の宿に着いた時には、もう日が暮れかけてゐた。表二階の小綺麗な部屋に案内された。外ヶ浜の宿屋は、みな、町に不似合なくらゐ上等である。部屋から、すぐ海が見える。小雨が降りはじめて、海は白く凪いでゐる。」
太宰たちが宿泊した「丸山旅館」の敷地は江戸時代には脇本陣として利用されました。
脇本陣は安保幸右衛門で、現在の安保義氏の祖先で、現在の丸山旅舘の宅地は安保幸右衛門の敷地であった。
出典:種市悌三 編『三厩村誌』,三厩村,1962. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3005593 (参照 2025-12-17)、公開範囲:送信サービスで閲覧可能
https://dl.ndl.go.jp/pid/3005593/1/170
陸奥新報社の「津軽の街と風景(大名が通る松前街道=91)」に掲載されている脇本陣跡の写真などを突き合わせると、以下のストリートビューの左側の空きスペースが「丸山旅館」のあった場所と思われます。
こちらの道路から右側(海側)を見ると以下のストリートビューのような風景になります。丸山旅館の窓からの「小雨が降りはじめて、海は白く凪いでゐる」という場面をイメージしてみましょう。
鯛事件
「『わるくないね。鯛もあるし、海の雨を眺めながら、ゆつくり飲まう。』私はリユツクサツクから鯛の包みを出して、女中さんに渡し、『これは鯛ですけどね、これをこのまま塩焼きにして持つて来て下さい。』
この女中さんは、あまり悧巧でないやうな顔をしてゐて、ただ、はあ、とだけ言つて、ぼんやりその包を受取つて部屋から出て行つた。
『わかりましたか。』N君も、私と同様すこし女中さんに不安を感じたのであらう。呼びとめて念を押した。『そのまま塩焼きにするんですよ。三人だからと言つて、三つに切らなくてもいいのですよ。ことさらに、三等分の必要はないんですよ。わかりましたか。』N君の説明も、あまり上手とは言へなかつた。女中さんは、やつぱり、はあ、と頼りないやうな返辞をしただけであつた。
やがてお膳が出た。鯛はいま塩焼にしてゐます、お酒はけふは無いさうです、とにこりともせずに、れいの、悧巧さうでない女中さんが言ふ。
『仕方が無い。持参の酒を飲まう。』
『さういふ事になるね。』とN君は気早く、水筒を引寄せ、『すみませんがお銚子を二本と盃を三つばかり。』
ことさらに三つとは限らないか、などと冗談を言つてゐるうちに、鯛が出た。」
太宰たちは下に引用したような尾頭つきの鯛の塩焼きが出てくることを期待していましたが・・・
出典:写真AC、お頭付きの鯛の塩焼き・祝い鯛
https://www.photo-ac.com/main/detail/4085986&title=%E3%81%8A%E9%A0%AD%E4%BB%98%E3%81%8D%E3%81%AE%E9%AF%9B%E3%81%AE%E5%A1%A9%E7%84%BC%E3%81%8D%E3%83%BB%E7%A5%9D%E3%81%84%E9%AF%9B
「ことさらに三つに切らなくてもいいといふN君の注意が、実に馬鹿々々しい結果になつてゐたのである。頭も尾も骨もなく、ただ鯛の切身の塩焼きが五片ばかり、何の風情も無く白茶けて皿に載つてゐるのである。私は決して、たべものにこだはつてゐるのではない。食ひたくて、二尺の鯛を買つたのではない。読者は、わかつてくれるだらうと思ふ。私はそれを一尾の原形のままで焼いてもらつて、さうしてそれを大皿に載せて眺めたかつたのである。食ふ食はないは主要な問題でないのだ。私は、それを眺めながらお酒を飲み、ゆたかな気分になりたかつたのである。ことさらに三つに切らなくてもいい、といふN君の言ひ方もへんだつたが、そんなら五つに切りませうと考へるこの宿の者の無神経が、癪にさはるやら、うらめしいやら、私は全く地団駄を踏む思ひであつた。
『つまらねえ事をしてくれた。』お皿に愚かしく積まれてある五切れのやきざかな(それはもう鯛では無い、単なる、やきざかなだ)を眺めて、私は、泣きたく思つた。せめて、刺身にでもしてもらつたのなら、まだ、あきらめもつくと思つた。頭や骨はどうしたらう。大きい見事な頭だつたのに、捨てちやつたのかしら。さかなの豊富な地方の宿は、かへつて、さかなに鈍感になつて、料理法も何も知りやしない。」
2018年になって、この出来事(鯛事件)に登場する女中さんは、当時住み込みで働いていた「新谷左んこ」さんであったことが判明します。上にはそのことについて書かれた新聞記事の投稿を引用させていただきました。調査を行った元・三厩村役場職員の牧野和香子さんのコメントも下に抜粋いたします。
タイを切り身にした理由は、当時三厩の民宿や家庭では魚をいろりやまきストーブ、しちりんで焼いていたため、「60センチもあるタイならば切り分けて焼くしかない。左んこさんは聞き間違えたと思って切ったのでは」と推測した。
出典:東奥日報2018年12月23日、太宰憤怒の調理人特定
「『怒るなよ、おいしいぜ。』人格円満のN君は、平気でそのやきざかなに箸をつけて、さう言つた。
『さうかね。それぢや、君がひとりで全部たべたらいい。食へよ。僕は、食はん。こんなもの、馬鹿々々しくつて食へるか。だいたい、君が悪いんだ。ことさらに三等分の必要は無い、なんて、そんな蟹田町会の予算総会で使ふやうな気取つた言葉で註釈を加へるから、あの間抜けの女中が、まごついてしまつたんだ。君が悪いんだ。僕は、君を、うらむよ。』
N君はのんきに、うふふと笑ひ、
『しかし、また、愉快ぢやないか。三つに切つたりなどしないやうに、と言つたら、五つに切つた。しやれてゐる。しやれてゐるよ、ここの人は。さあ、乾盃。乾盃、乾盃。』
私は、わけのわからぬ乾盃を強ひられ、鯛の鬱憤のせゐか、ひどく酩酊して、あやふく乱に及びさうになつたので、ひとりでさつさと寝てしまつた。いま思ひ出しても、あの鯛は、くやしい。だいたい、無神経だ。」
義経北行伝説
「翌る朝、起きたら、まだ雨が降つてゐた。下へ降りて、宿の者に聞いたら、けふも船は欠航らしいといふ事であつた。竜飛まで海岸伝ひに歩いて行くより他は無い。雨のはれ次第、思ひ切つて、すぐ出発しようといふ事になり、私たちは、また蒲団にもぐり込んで雑談しながら雨のはれるのを待つた。
『姉と妹とがあつてね、』私は、ふいとそんなお伽噺をはじめた。姉と妹が、母親から同じ分量の松毬(まつかさ)を与へられ、これでもつて、ごはんとおみおつけを作つて見よと言ひつけられ、ケチで用心深い妹は、松毬を大事にして一個づつ竈(かまど)にはふり込んで燃やし、おみおつけどころか、ごはんさへ満足に煮ることが出来なかつた。姉はおつとりして、こだはらぬ性格だつたので、与へられた松毬をいちどにどつと惜しげも無く竈にくべたところが、その火で楽にごはんが出来、さうして、あとに燠(おき)が残つたので、その燠でおみおつけも出来た。『そんな話、知つてる? ね、飲まうよ。竜飛へ持つて行くんだつて、ゆうべ、もう一つの水筒のお酒、残して置いたらう? あれ、飲まうよ。ケチケチしてたつて仕様が無いよ。こだはらずに、いちどにどつとやらうぢやないか。さうすると、あとに燠が残るかも知れない。いや、残らなくてもいい。竜飛へ行つたら、また、何とかなるさ。何も竜飛でお酒を飲まなくたつて、いいぢやないか。死ぬわけぢやあるまいし。お酒を飲まずに寝て、静かに、来しかた行く末を考へるのも、わるくないものだよ。』
『わかつた、わかつた。』N君は、がばと起きて、『万事、姉娘式で行かう。いちどにどつと、やつてしまはう。』
私たちは起きて囲炉裏をかこみ、鉄瓶にお燗をして、雨のはれるのを待ちながら、残りのお酒を全部、飲んでしまつた。
お昼頃、雨がはれた。私たちは、おそい朝飯をたべ、出発の身仕度をした。うすら寒い曇天である。宿の前で、Mさんとわかれ、N君と私は北に向つて発足した。
『登つて見ようか。』N君は、義経寺(ぎけいじ)の石の鳥居の前で立ちどまつた。松前の何某といふ鳥居の寄進者の名が、その鳥居の柱に刻み込まれてゐた。」
鳥居は現在、下のストリートビュー(中央部)のように木製に変更されているようです。
「『うん。』私たちはその石の鳥居をくぐつて、石の段々を登つた。頂上まで、かなりあつた。石段の両側の樹々の梢から雨のしづくが落ちて来る。
『これか。』
石段を登り切つた小山の頂上には、古ぼけた堂屋が立つてゐる。堂の扉には、笹竜胆(ささりんだう)の源家の紋が附いてゐる。私はなぜだか、ひどくにがにがしい気持で、
『これか。』と、また言つた。
『これだ。』N君は間抜けた声で答へた。」
下には義経寺・観音堂の写真を引用いたしました。左右の扉の上のほうに笹竜胆の紋があります。
出典:写真AC、青森県外ヶ浜町三厩・源義経伝説の義経寺
https://www.photo-ac.com/main/detail/32505039&title=%E9%9D%92%E6%A3%AE%E7%9C%8C%E5%A4%96%E3%83%B6%E6%B5%9C%E7%94%BA%E4%B8%89%E5%8E%A9%E3%83%BB%E6%BA%90%E7%BE%A9%E7%B5%8C%E4%BC%9D%E8%AA%AC%E3%81%AE%E7%BE%A9%E7%B5%8C%E5%AF%BA
「むかし源義経、高館をのがれ蝦夷へ渡らんと此所迄来り給ひしに、渡るべき順風なかりしかば数日逗留し、あまりにたへかねて、所持の観音の像を海底の岩の上に置て順風を祈りしに、忽ち風かはり恙なく松前の地に渡り給ひぬ。其像今に此所の寺にありて義経の風祈りの観音といふ。
れいの『東遊記』で紹介せられてゐるのは、この寺である。
私たちは無言で石段を降りた。
『ほら、この石段のところどころに、くぼみがあるだらう? 弁慶の足あとだとか、義経の馬の足あとだとか、何だとかいふ話だ。』N君はさう言つて、力無く笑つた。私は信じたいと思つたが、駄目であつた。」
「鳥居を出たところに岩がある。東遊記にまた曰く、
『波打際に大なる岩ありて馬屋のごとく、穴三つ並べり。是義経の馬を立給ひし所となり。是によりて此地を三馬屋(みまや)と称するなりとぞ。』
私たちはその巨石の前を、ことさらに急いで通り過ぎた。故郷のこのやうな伝説は、奇妙に恥づかしいものである。」
下のストリートビューのように、義経寺の階段を下ったところ(お堂のところ)からすぐ左手(画面中央の道路の向かい側)には「三馬屋(三厩)」の由来になった「厩石」が見えます(津軽の風景その8・参照)。太宰たちもこちらの道を通って北行していったのでしょう。
「『これは、きつと、鎌倉時代によそから流れて来た不良青年の二人組が、何を隠さうそれがしは九郎判官、してまたこれなる髯男は武蔵坊弁慶、一夜の宿をたのむぞ、なんて言つて、田舎娘をたぶらかして歩いたのに違ひない。どうも、津軽には、義経の伝説が多すぎる。鎌倉時代だけぢやなく、江戸時代になつても、そんな義経と弁慶が、うろついてゐたのかも知れない。』
『しかし、弁慶の役は、つまらなかつたらうね。』N君は私よりも更に鬚が濃いので、或いは弁慶の役を押しつけられるのではなからうかといふ不安を感じたらしかつた。『七つ道具といふ重いものを背負つて歩かなくちやいけないのだから、やくかいだ。』
話してゐるうちに、そんな二人の不良青年の放浪生活が、ひどく楽しかつたもののやうに空想せられ、うらやましくさへなつて来た。
『この辺には、美人が多いね。』と私は小声で言つた。通り過ぎる部落の、家の蔭からちらと姿を見せてふつと消える娘さんたちは、みな色が白く、みなりも小ざつぱりして、気品があつた。手足が荒れてゐない感じなのである。」
以下には昭和10年ごろに撮影された「もんぺ姿の東北美人」というタイトルの写真を引用いたしました。太宰が見たのもこちらのような女性だったでしょうか。
出典:ジヤパン・ツーリスト・ビユーロー 編『旅程と費用概算』昭和10年度版,博文館,昭和10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1179724 (参照 2025-12-17、一部抜粋)、もんぺ姿の東北美人
https://dl.ndl.go.jp/pid/1179724/1/149
「『さうかね。さう言へば、さうだね。』N君ほど、女にあつさりしてゐる人も少い。ただ、もつぱら、酒である。
『まさか、いま、義経だと言つて名乗つたつて、信じないだらうしね。』私は馬鹿な事を空想してみた。」
竜飛への険しい北行
「はじめは、そんなたわいない事を言ひ合つて、ぶらぶら歩いてゐたのだが、だんだん二人の歩調が早くなつて来た。まるで二人で足早(あしばや)を競つてゐるみたいな形になつて、さうして、めつきり無口になつた。三厩の酒の酔ひが醒めて来たのである。ひどく寒い。いそがざるを得ないのである。私たちは、共に厳粛な顔になつて、せつせと歩いた。浜風が次第に勁くなつて来た。私は帽子を幾度も吹き飛ばされさうになつて、その度毎に、帽子の鍔をぐつと下にひつぱり、たうとうスフの帽子の鍔の附根が、びりりと破れてしまつた。雨が時々、ぱらぱら降る。真黒い雲が低く空を覆つてゐる。波のうねりも大きくなつて来て、海岸伝ひの細い路を歩いてゐる私たちの頬にしぶきがかかる。
『これでも、道がずいぶんよくなつたのだよ。六、七年前は、かうではなかつた。波のひくのを待つて素早く通り抜けなければならぬところが幾箇処もあつたのだからね。』」
N君のいうように、大正時代までは正規の道路がなかったとのこと。下に引用したように昭和初期に13の洞門が貫通してはじめて、安全に通行できるようになりました。
あわび道路(東津軽郡外ヶ浜町 龍飛崎付近 – 三厩漁港)
出典:ウィキペディア・国道339号、あわび道路
津軽海峡最北端の龍飛崎に通じる津軽海峡沿岸の道路の通称。国道やその前身の県道に指定・認定される以前の大正時代までは、道路とよべるような道は存在しておらず、海岸に崖が切り立つ交通難所であった。そのため地元の宇鉄漁業協同組合長だった牧野逸蔵を中心にアワビの潜水器事業で得た収益金を投じて、この区間に安全な道路を通そうと1923年(大正12年)から崖の固い岩盤を掘削して13の洞門を貫通させ、1929年(昭和4年)に道路を完成させた。その後新しい道路が作られたため、多くの洞門は廃道となって姿を消したが、現・国道339号沿いに当時開削された8つの洞門が残されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%93339%E5%8F%B7
現在も残る洞門の例をストリートビューで見てみましょう。
下は連続して掘られた第4号・第5号洞門。現役です。
龍飛崎の近くでは廃止となった第12号洞門(画面中央)が残り、手前(画面左外)には第11号洞門の姿を見ることができます。
「『でも、いまでも、夜は駄目だね。とても、歩けまい。』
『さう、夜は駄目だ。義経でも弁慶でも駄目だ。」
私たちは真面目な顔をしてそんな事を言ひ、尚もせつせと歩いた。
『疲れないか。』N君は振返つて言つた。『案外、健脚だね。』
『うん、未だ老いずだ。』」
下には「未だ老いずだ。」と得意気にいう太宰の姿をイメージしてみました。
出典:Google Gemini 2.5 Flashにより生成された画像、『トンネルの前に立つ男性のイラスト』などのキーワードをベースに生成、生成日:2025年12月22日」
ところが・・・
「二時間ほど歩いた頃から、あたりの風景は何だか異様に凄くなつて来た。凄愴とでもいふ感じである。それは、もはや、風景でなかつた。風景といふものは、永い年月、いろんな人から眺められ形容せられ、謂はば、人間の眼で舐められて軟化し、人間に飼はれてなついてしまつて、高さ三十五丈の華厳の滝にでも、やつぱり檻の中の猛獣のやうな、人くさい匂ひが幽かに感ぜられる。昔から絵にかかれ歌によまれ俳句に吟ぜられた名所難所には、すべて例外なく、人間の表情が発見せられるものだが、この本州北端の海岸は、てんで、風景にも何も、なつてやしない。点景人物の存在もゆるさない。強ひて、点景人物を置かうとすれば、白いアツシを着たアイヌの老人でも借りて来なければならない。」
以下には英国の旅行家イザベラ・バードの著書(日本奥地紀行)に掲載されたアイヌ長老のイラストを引用いたしました。
出典:Popular Science Monthly Volume 33, Public domain, via Wikimedia Commons、Ainu patriarch
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:PSM_V33_D522_Ainu_patriarch.jpg
「むらさきのジヤンパーを着たにやけ男などは、一も二も無くはねかへされてしまふ。絵にも歌にもなりやしない。ただ岩石と、水である。ゴンチヤロフであつたか、大洋を航海して時化(しけ)に遭つた時、老練の船長が、『まあちよつと甲板に出てごらんなさい。この大きい波を何と形容したらいいのでせう。あなたがた文学者は、きつとこの波に対して、素晴らしい形容詞を与へて下さるに違ひない。』ゴンチヤロフは、波を見つめてやがて、溜息をつき、ただ一言、『おそろしい。』
大洋の激浪や、砂漠の暴風に対しては、どんな文学的な形容詞も思ひ浮ばないのと同様に、この本州の路のきはまるところの岩石や水も、ただ、おそろしいばかりで、私はそれらから眼をそらして、ただ自分の足もとばかり見て歩いた。」
イワン・ゴンチャロフは19世紀に活躍したロシアの作家です。船で世界各国を巡り「フリゲート艦パルラダ号」という紀行文を刊行しています。
以下に引用したのはそのパルラダ号の絵です。左奥の船の傾き方などから、波が荒れているシーンであることがわかります。ゴンチャロフが「おそろしい」といったのはこちらのような場面だったかもしれません。
出典:Alexey Bogolyubov, Public domain, via Wikimedia Commons、パルラダ号
http://Alexey Bogolyubov, Public domain, via Wikimedia Commons
「もう三十分くらゐで竜飛に着くといふ頃に、私は幽かに笑ひ、
『こりやどうも、やつぱりお酒を残して置いたはうがよかつたね。竜飛の宿に、お酒があるとは思へないし、どうもかう寒くてはね。』と思ばず愚痴をこぼした。
『いや、僕もいまその事を考へてゐたんだ。も少し行くと、僕の昔の知合ひの家があるんだが、ひよつとするとそこに配給のお酒があるかも知れない。そこは、お酒を飲まない家なんだ。』
『当つてみてくれ。』
『うん、やつぱり酒が無くちやいけない。』
竜飛の一つ手前の部落に、その知合ひの家があつた。N君は帽子を脱いでその家へはひり、しばらくして、笑ひを噛み殺してゐるやうな顔をして出て来て、
『悪運つよし。水筒に一ぱいつめてもらつて来た。五合以上はある。』
『燠おきが残つてゐたわけだ。行かう。』」
鶏小舎?
「もう少しだ。私たちは腰を曲げて烈風に抗し、小走りに走るやうにして竜飛に向つて突進した。路がいよいよ狭くなつたと思つてゐるうちに、不意に、鶏小舎に頭を突込んだ。一瞬、私は何が何やら、わけがわからなかつた。」
津軽地域では雪などから家を守るために、「カッチョ」という木柵で家を囲むのが一般的でした。下には現在も「カッチョ」が残る五所川原市磯松地区のストリートビューを掲載したしました。
家を囲む「カッチョ」が道路の両脇に続いているため、太宰は自分が鶏小舎に入ったと錯覚してしまいます。
「『竜飛だ。』とN君が、変つた調子で言つた。
『ここが?』落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなはち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになつて互ひに庇護し合つて立つてゐるのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えてゐるのである。ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向つて歩いてゐる時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。
『誰だつて驚くよ。僕もね、はじめてここへ来た時、や、これはよその台所へはひつてしまつた、と思つてひやりとしたからね。』とN君も言つてゐた。
けれども、ここは国防上、ずいぶん重要な土地である。私はこの部落に就いて、これ以上語る事は避けなければならぬ。露路をとほつて私たちは旅館に着いた。お婆さんが出て来て、私たちを部屋に案内した。この旅館の部屋もまた、おや、と眼をみはるほど小綺麗で、さうして普請も決して薄つぺらでない。まづ、どてらに着換へて、私たちは小さい囲炉裏を挟んであぐらをかいて坐り、やつと、どうやら、人心地を取かへした。」
この時、太宰たちが宿泊したのは「奥谷旅館」でした。現在こちらは廃業していますが、下のストリートビューのように建物は残されていて、龍飛岬の観光案内所(龍飛館)として利用されています。
「『ええと、お酒はありますか。』N君は、思慮分別ありげな落ちついた口調で婆さんに尋ねた。答へは、案外であつた。
『へえ、ございます。』おもながの、上品な婆さんである。さう答へて、平然としてゐる。N君は苦笑して、
『いや、おばあさん。僕たちは少し多く飲みたいんだ。』
『どうぞ、ナンボでも。』と言つて微笑んでゐる。
私たちは顔を見合せた。このお婆さんは、このごろお酒が貴重品になつてゐるといふ事実を、知らないのではなからうかとさへ疑はれた。
『けふ配給がありましてな、近所に、飲まないところもかなりありますから、そんなのを集めて、』と言つて、集めるやうな手つきをして、それから一升瓶をたくさんかかへるやうに腕をひろげて、『さつき内の者が、こんなに一ぱい持つてまゐりました。』
『それくらゐあれば、たくさんだ。』と私は、やつと安心して、『この鉄瓶でお燗をしますから、お銚子にお酒をいれて、四、五本、いや、めんだうくさい、六本、すぐに持つて来て下さい。』お婆さんの気の変らぬうちに、たくさん取寄せて置いたはうがいいと思つた。『お膳は、あとでもいいから。』
お婆さんは、言はれたとほりに、お盆へ、お銚子を六本載せて持つて来た。一、二本、飲んでゐるうちにお膳も出た。
『どうぞ、まあ、ごゆつくり。』
『ありがたう。』
六本のお酒が、またたく間に無くなつた。
『もう無くなつた。』私は驚いた。『ばかに早いね。早すぎるよ。』
『そんなに飲んだかね。』とN君も、いぶかしさうな顔をして、からのお銚子を一本づつ振つて見て、『無い。何せ寒かつたもので、無我夢中で飲んだらしいね。』
『どのお銚子にも、こぼれるくらゐ一ぱいお酒がはひつてゐたんだぜ。こんなに早く飲んでしまつて、もう六本なんて言つたら、お婆さんは僕たちを化物ぢやないかと思つて警戒するかも知れない。つまらぬ恐怖心を起させて、もうお酒はかんべんして下さいなどと言はれてもいけないから、ここは、持参の酒をお燗して飲んで、少し間(ま)をもたせて、それから、もう六本ばかりと言つたはうがよい。今夜は、この本州の北端の宿で、一つ飲み明かさうぢやないか。』と、へんな策略を案出したのが失敗の基であつた。」
N君の歌
「私たちは、水筒のお酒をお銚子に移して、こんどは出来るだけゆつくり飲んだ。そのうちにN君は、急に酔つて来た。
『こりやいかん。今夜は僕は酔ふかも知れない。』酔ふかも知れないぢやない。既にひどく酔つてしまつた様子である。「こりや、いかん。今夜は、僕は酔ふぞ。いいか。酔つてもいいか。』
『かまはないとも。僕も今夜は酔ふつもりだ。ま、ゆつくりやらう。』
『歌を一つやらかさうか。僕の歌は、君、聞いた事が無いだらう。めつたにやらないんだ。でも、今夜は一つ歌ひたい。ね、君、歌つてもいいたらう。』
『仕方がない。拝聴しよう。」私は覚悟をきめた。
いくう、山河あ、と、れいの牧水の旅の歌を、N君は眼をつぶつて低く吟じはじめた。想像してゐたほどは、ひどくない。黙つて聞いてゐると、身にしみるものがあつた。
下には華洲会さまがアップしている「幾山河」の吟を引用させていただきます。
「『どう? へんかね。』
『いや、ちよつと、ほろりとした。』
『それぢや、もう一つ。』」
太宰に褒められたN君は続けて吟じます。以下にはその様子をイメージした画像を掲載いたしました。
出典:Google Gemini 2.5 Flashにより生成された画像、『詩吟をする男性のイラスト』などのキーワードをベースに生成、生成日:2025年12月19日
「こんどは、ひどかつた。彼も本州の北端の宿へ来て、気宇が広大になつたのか、仰天するほどのおそろしい蛮声を張り上げた。
とうかいのう、小島のう、磯のう、と、啄木の歌をはじめたのだが、その声の荒々しく大きい事、外の風の音も、彼の声のために打消されてしまつたほどであつた。
『ひどいなあ。』と言つたら、
『ひどいか。それぢや、やり直し。』大きく深呼吸を一つして、さらに蛮声を張り上げるのである。東海の磯の小島、と間違つて歌つたり、また、どういふわけか突如として、今もまた昔を書けば増鏡、なんて増鏡の歌が出たり、呻くが如く、喚くが如く、おらぶが如く、実にまづい事になつてしまつた。私は、奥のお婆さんに聞えなければいいが、とはらはらしてゐたのだが、果せる哉、襖がすつとあいて、お婆さんが出て来て、
『さ、歌コも出たやうだし、そろそろ、お休みになりせえ。』と言つて、お膳をさげ、さつさと蒲団をひいてしまつた。さすがに、N君の気宇広大の蛮声には、度胆を抜かれたものらしい。私はまだまだ、これから、大いに飲まうと思つてゐたのに、実に、馬鹿らしい事になつてしまつた。『まづかつた。歌は、まづかつた。一つか二つでよせばよかつたのだ。あれぢやあ、誰だつておどろくよ。』と私は、ぶつぶつ不平を言ひながら、泣寝入りの形であつた。」
朝の美しい歌
「翌る朝、私は寝床の中で、童女のいい歌声を聞いた。翌る日は風もをさまり、部屋には朝日がさし込んでゐて、童女が表の路で手毬歌を歌つてゐるのである。私は、頭をもたげて、耳をすました。
せツせツせ
夏もちかづく
八十八夜
野にも山にも
新緑の
風に藤波
さわぐ時
私は、たまらない気持になつた。いまでも中央の人たちに蝦夷の土地と思ひ込まれて軽蔑されてゐる本州の北端で、このやうな美しい発音の爽やかな歌を聞かうとは思はなかつた。」
出典:Google Gemini 2.5 Flashにより生成された画像、『歌いながら学校に通う二人の童女のイラスト』などのキーワードをベースに生成、生成日:2025年12月19日
「かの佐藤理学士の言説の如く、『人もし現代の奥州に就いて語らんと欲すれば、まづ文芸復興直前のイタリヤに於いて見受けられたあの鬱勃たる擡頭力を、この奥州の地に認めなければならぬ。文化に於いて、はたまた産業に於いて然り、かしこくも明治大帝の教育に関する大御心はまことに神速に奥州の津々浦々にまで浸透して、奥州人特有の聞きぐるしき鼻音の減退と標準語の進出とを促し、嘗ての原始的状態に沈淪した蒙昧な蛮族の居住地に教化の御光を与へ、而して、いまや見よ云々。』といふやうな、希望に満ちた曙光に似たものを、その可憐な童女の歌声に感じて、私はたまらない気持であつた。」
手毬歌は学校に通う童女たちが歌っていたのでしょうか。上にはそのシーンをイメージしたイラストを描いてみました。
旅行などの情報
義経寺・厩石
「鯛事件」の次の日にN君とともに立ち寄ったお寺です。伝説によると、衣川から逃れた義経は津軽に追い詰められますが、ある観音像に祈ったところ、3頭の龍馬が現れ、海峡を渡ることができたということ。その観音像が安置したとされているのが「義経寺」です。境内には本堂や観音堂、弁天堂、金比羅堂、阿弥陀堂が点在し、登りきった本堂近辺からの海の眺めは見事です。
義経寺の麓にある「厩石」は太宰が旅をしたころには海岸線にあり、穴から直接海を望めました。周辺は公園として整備されているので、散策をしながら当時の様子を想像してみてはいかがでしょうか。なお、当時の「厩石」の様子は以下の文献などで参照できます(森山泰太郎, 北彰介 著『青森の伝説』,角川書店,1977.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12468195、公開範囲:送信サービスで閲覧可能)。
基本情報
【住所】青森県東津軽郡外ヶ浜町字三厩家ノ上76
【アクセス】JR津軽線三厩駅からバスに乗り換えて約10分
【参考URL】https://aomori-tourism.com/spot/detail_2142.html









