太宰治「津軽」の風景(その11)

津軽の歴史

前回は竜飛に到着し、N君とにぎやかな夜を過ごしたところまででした(津軽の風景その10・参照)。今回は一旦物語を止め、「津軽」の歴史について語ります。津軽はあまり知られていない地域で、歴史教科書に登場するのは阿倍比羅夫の蝦夷討伐だけとのこと。大陸との独自の交流により高度な文化が育ち、他国の侵略から逃れてきた一方で、内紛が多いとも指摘します。

出典:青空文庫、津軽、底本: 太宰治全集第六巻、出版社: 筑摩書房、入力: 八巻美恵氏
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html

本編・津軽平野(1)

「大日本百科事典」に記された青森や津軽

「『津軽』本州の東北端日本海方面の古称。斉明天皇の御代、越(コシ)の国司、阿倍比羅夫出羽方面の蝦夷地を経略して齶田(アキタ)(今の秋田)渟代(ヌシロ)(今の能代)津軽に到り、遂に北海道に及ぶ。これ津軽の名の初見なり。乃ち其地の酋長を以て津軽郡領とす。此際、遣唐使坂合部連石布(イハシキ)、蝦夷を以て唐の天子に示す。随行の官人、伊吉連博徳(ユキノムラジハカトコ)、下問に応じて蝦夷の種類を説いて云はく、類に三種あり近きを熟蝦夷(ニギエゾ)、次を麁蝦夷(アラエゾ)、遠きを都加留(ツガル)と名くと。其他の蝦夷は、おのづから別種として認められしものの如し。津軽蝦夷の称は、元慶二年出羽の夷反乱の際にも、屡々散見す。当時の将軍藤原保則、乱を平げて津軽より渡島(ワタリジマ)に至り、雑種の夷人前代未だ嘗て帰附せざるもの、悉く内属すとあり。渡島は今の北海道なり。津軽の陸奥に属せしは、源頼朝奥羽を定め、陸奥の守護の下に附せし以来の事なるべし。」
阿倍比羅夫は7世紀中ごろの将軍で、斉明天皇4年(658年)に180隻の船軍を率いて蝦夷を討ったとされています。昭和初期の少年向け歴史書には以下のような勇ましい挿絵が挿入されていました。

出典:西亀正夫 著『神代と上古』,厚生閣書店,昭和10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1168316 (参照 2025-12-22)、阿部比羅夫の蝦夷征伐
https://dl.ndl.go.jp/pid/1168316/1/106

また、坂合部連石布は第四次遣唐使の大使でしたが、漂着した島で殺されてしまいます。副使の船に乗った伊吉連博徳は洛陽にたどりつき、唐の高宗に面会しました。以下に引用したように、食べ物や住居についての質問などにも回答しています。

唐の皇帝・高宗との謁見を行った。この謁見の際に、使節は陸奥の蝦夷の男女2名を献上して説明を行っており、この時の問答は当時の蝦夷の生活(穀類はなく肉食を行っていた、家屋はなく深山の樹の下に居住)について記述された貴重な記録となっている。

出典:ウィキペディア、伊吉博徳(いきのはかとこ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%90%89%E5%8D%9A%E5%BE%B3

「『青森県沿革』本県の地は、明治の初年に到るまで岩手・宮城・福島諸県の地と共に一個国を成し、陸奥といひ、明治の初年には此地に弘前・黒石・八戸・七戸(シチノヘ)および斗南(トナミ)の五藩ありしが、明治四年七月列藩を廃して悉く県となし、同年九月府県廃合の事あり。一時みな弘前県に合併せしが、同年十一月弘前県を廃し、青森県を置き、前記の各藩を以て其管下とせしも、後二戸(ニノヘ)郡を岩手県に附し、以て今日に到れり。
『津軽氏』藤原氏より出でたる氏。鎮守府将軍秀郷より八世秀栄、康和の頃陸奥津軽郡の地を領し、後に津軽十三の湊に城きて居り、津軽を氏とす。明応年中、近衛尚通の子政信、家を継ぐ。政信の孫為信に到りて大に著はる。其子孫わかれて弘前・黒石の旧藩主たりし諸家等となる。
『津軽為信』戦国時代の武将。父は大浦甚三郎守信、母は堀越城主武田重信の女なり。天文十九年正月生る。幼名扇。永禄十年三月、十八歳の時、伯父津軽為則の養子となり、近衛前久の猶子となれり。妻は為則の女なり。元亀二年五月、南部高信と戦ひこれを斬り、天正六年七月二十七日、波岡城主北畠顕村を伐ち其領を併せ、尋で近傍の諸邑を略し、十三年には凡そ津軽を一統し、十五年豊臣秀吉に謁せんとして発途せしも、秋田城介安倍実季、道を遮り果さずして還る。十七年、鷹、馬等を秀吉に贈り好を通ず。されば十八年の小田原征伐にも早く秀吉の軍に応じたりしを以て、津軽及合浦・外ヶ浜一円を安堵せり。十九年の九戸乱にも兵を出し、文禄二年四月上洛して秀吉に謁し、又近衛家に謁え、牡丹花の徽章を用ふるを許さる。尋で使を肥前名護屋に遣はし、秀吉の陣を犒ひ、三年正月には従四位下右京大夫となり、慶長五年関ヶ原の役には、兵を出して徳川家康の軍に従ひ、西上して大垣に戦ひ、上野国大館二千石を加増す。十二年十二月五日、京都にて卒す。年五十八。」
下には弘前城近くの弘前文化センター内に立つ津軽藩藩祖・津軽為信公の像を引用いたしました。

出典:写真AC、藩祖津軽為信公像
https://www.photo-ac.com/main/detail/32691208/1

「『津軽平野』陸奥国、南・中・北、三津軽郡に亘る平野。岩木川の河谷なり。東は十和田湖の西より北走する津軽半島の脊梁をなす山脈を限とし、南は羽後境の矢立峠・立石越等により分水線を劃し、西は岩木山塊と海岸一帯の砂丘(屏風山と称す)に擁蔽せらる。岩木川は其本流西方よりし、南より来る平(ヒラ)川及び東より来る浅瀬石(アサセイシ)川と弘前市の北にて会合し、正北に流れ、十三潟に注ぎて後、海に入る。平野の広袤、南北約十五里、東西の幅約五里、北するに随つて幅は縮小し、木造・五所川原の線にて三里、十三潟の岸に到れば僅かに一里なり。此間土地低平、支流溝渠網の如く通じ、青森県産米は、大部分此平野より出づ。
(以上、日本百科大辞典に拠る)」

以下は南津軽郡藤崎町の平川橋のストリートビューです。左側が平(ヒラ)川、右側が浅瀬石川です。

なお、「青森県産米」として近年では「青天の霹靂」や「まっしぐら」、「はれわたり」などのブランド米が知られています。

「日本百科事典」とは明治から大正時代にかけて三省堂から発行された全10巻の辞典です。日本初の百科事典でしたが、出版費用が膨大になり、一時は出版元(三省堂)が倒産してしまいました。以下にその広告と広告文の抜粋を引用いたします。

出典:大蔵省印刷局 [編]『官報』1919年05月10日,日本マイクロ写真 ,大正8年. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2954142 (参照 2025-12-23、一部抜粋)、日本百貨大辞典広告
https://dl.ndl.go.jp/pid/2954142/1/15

本書はこの完成記念頒布を以て断然絶版とすべきが故にこの機会を逃すれば、永久に明治・大正を記念すべき本書を得らるること能はざるの悔あるべし。

出典:大蔵省印刷局 [編]『官報』1919年05月10日,日本マイクロ写真 ,大正8年. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2954142 (参照 2025-12-23)、日本百貨大辞典広告
https://dl.ndl.go.jp/pid/2954142/1/15

あいまいな津軽の歴史

「津軽の歴史は、あまり人に知られてゐない。陸奥も青森県も津軽と同じものだと思つてゐる人さへあるやうである。無理もない事で、私たちの学校で習つた日本歴史の教科書には、津軽といふ名詞が、たつた一箇所に、ちらと出てゐるだけであつた。すなはち、阿倍比羅夫の蝦夷討伐のところに、『幸徳天皇が崩ぜられて、斉明天皇がお立ちになるや、中大兄皇子は、引続き皇太子として政をお輔けになり、阿倍比羅夫をして、今の秋田・津軽の地方を平げしめられた。』といふやうな文章があつて、津軽の名前も出て来るが、本当にもう、それつきり、小学校の教科書にも、また中学校の教科書にも、高等学校の講義にも、その比羅夫のところの他には津軽なんて名前は出て来ない。」
下には昭和初期の中学校の歴史の教科書から阿部比羅夫の部分を抜粋いたしました。

出典:藤井甚太郎 著『中学日本歴史教科書』上巻,暸文堂,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1031817 (参照 2025-12-23、一部抜粋)、蝦夷の服属
https://dl.ndl.go.jp/pid/1031817/1/29

下には鎌倉時代に描かれた日本最古の地図とされる仁和寺・日本図(行基図)を引用いたします。東北地方は陸奥と出羽の二つのエリアに分割されていて(下側に拡大図)、津軽は陸奥(上側の広いエリア)の一部という位置づけでした。

出典:藤田元春 著『日本地理学史』,刀江書院,昭和17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1173134 (参照 2025-12-24、抜粋して明るさ調整)、仁和寺所蔵行基図
https://dl.ndl.go.jp/pid/1173134/1/51

「皇紀五百七十三年の四道将軍の派遣も、北方は今の福島県あたり迄だつたやうだし、それから約二百年後の日本武尊の蝦夷御平定も北は日高見国までのやうで、日高見国といふのは今の宮城県の北部あたりらしく、それから約五百五十年くらゐ経つて大化改新があり、阿倍比羅夫の蝦夷征伐に依つて、はじめて津軽の名前が浮び上り、また、それつ切り沈んで、奈良時代には多賀城(今の仙台市附近)秋田城(今の秋田市)を築いて蝦夷を鎮められたと伝へられてゐるだけで津軽の名前はも早や出て来ない。」
上で述べられているように、阿倍比羅夫から更に時代をさかのぼった日本武尊の頃は、東北地方(の一部)はひとまとめに「日高見国」と呼ばれていました。以下は三省堂・歴史地図から日本武尊の頃の地名を記した地図を引用いたしました。

出典:三省堂編輯所 編『日本歴史地図』,三省堂,大正15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13579929 (参照 2025-12-22)、上古期要地図
https://dl.ndl.go.jp/pid/13579929/1/15

「平安時代になつて、坂上田村麻呂が遠く北へ進んで蝦夷の根拠地をうち破り、胆沢城(いざはじやう)(今の岩手県水沢町附近)を築いて鎮所となしたとあるが、津軽まではやつて来なかつたやうである。その後、弘仁年間には文室綿麻呂の遠征があり、また元慶二年には出羽蝦夷の叛乱があり藤原保則その平定に赴き、その叛乱には津軽蝦夷も荷担してゐたとかいふ事であるが、専門家でもない私たちは、蝦夷征伐といへば田村麻呂、その次には約二百五十年ばかり飛んで源平時代初期の、前九年後三年の役を教へられてゐるばかりである。この前九年後三年の役だつて、舞台は今の岩手県・秋田県であつて、安倍氏清原氏などの所謂熟蝦夷(ニギエゾ)が活躍するばかりで、都加留(ツガル)などといふ奥地の純粋の蝦夷の動静に就いては、私たちの教科書には少しも記されてゐなかつた。」
下には「前九年合戦絵巻」より安部貞任の姿を抜粋した画像を引用いたしました。貞任は「奥六郡」という現在の岩手県内陸部の支配者でしたが、前九年の役において源頼義、義家軍に敗れて滅びます。

出典:『前九年合戦絵巻』, Public domain, via Wikimedia Commons、『前九年合戦絵巻』(重要文化財 国立歴史民俗博物館蔵)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E5%AE%89%E5%80%8D%E8%B2%9E%E4%BB%BB.jpg

その後、「奥六郡」は貞任の甥にあたる藤原(清原)清衡が支配し、奥州藤原氏の祖となります。この時代も岩手の周辺が東北のメイン舞台で「津軽」が登場する余地はなかったようです。下には毛越寺に伝わる清衡の肖像画を引用いたしました。

出典:毛越寺, Public domain, via Wikimedia Commons、毛越寺 一山白王院 所蔵の「三衡画像」より、藤原清衡
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fujiwara_no_Kiyohira.jpg

「それから藤原氏三代百余年間の平泉の栄華があり、文治五年、源頼朝に依つて奥州は平定せられ、もうその頃から、私たちの教科書はいよいよ東北地方から遠ざかり、明治維新にも奥州諸藩は、ただちよつと立つて裾をはたいて坐り直したといふだけの形で、薩長土の各藩に於けるが如き積極性は認められない。まあ、大過なく時勢に便乗した、と言はれても、仕方の無いやうなところがある。結局、もう、何も無い。私たちの教科書、神代の事は申すもかしこし、神武天皇以来現代まで、阿倍比羅夫ただ一個所に於いて『津軽』の名前を見つける事が出来るだけだといふのは、まことに心細い。いつたい、その間、津軽では何をしてゐたのか。ただ、裾をはたいて坐り直し、また裾をはたいて坐り直し、二千六百年間、一歩も外へ出ないで、眼をぱちくりさせてゐただけの事なのか。いやいやさうではないらしい。ご当人に言はせると、『かう見えても、これでなかなか忙がしくてねえ。』といふやうなところらしい。『奥羽とは奥州、出羽の併称で、奥州とは陸奥(むつ)州の略称である。陸奥とは、もと白河、勿来の二関以北の総称であつた。名義は『道の奥』で、略されて『みちのく』となつた。その『みち』の国の名を、古い地方音によつて『むつ』と発音し、『むつ』の国となつた。この地方は東海東山両道の末をうけて、一番奥にある異民族住居の国であつたから、漠然と道の奥と呼んだに他ならぬ。漢字『陸』は『道』の義である。
 次に出羽は『いでは』で、出端(いではし)の義と解せられる。古は本州中部から東北の日本海方面地方を、漠然と越こしの国と呼んだ。これも奥の方は、陸奥(みちのく)と同じく、久しく異民族住居の化外の地で、これを出端(いではし)と言つたのであらう。即ち太平洋方面なる陸奥と共に、もと久しく王化の外に置かれた僻陬(へきすう)であつたことを、その名に示してゐる。』といふのは、喜田博士の解説であるが、簡明である。解説は簡単で明瞭なるに越した事はない。出羽奥州すでに化外の僻陬と見なされてゐたのだから、その極北の津軽半島などに到つては熊や猿の住む土地くらゐに考へられてゐたかも知れない。喜田博士は、さらに奥羽の沿革を説き、『頼朝の奥羽平定以後と雖も、その統治に当り自然他と同一なること能はず、『出羽陸奥に於いては夷の地たるによりて』との理由のもとに、一旦実施しかけた田制改革の処分をも中止して、すべて秀衡、泰衡の旧規に従ふべきことを命ずるのやむを得ざる程であつた。随つて最北の津軽地方の如きは、住民まだ蝦夷の旧態を存するもの多く、直接鎌倉武士を以てしては、これを統治し難い事情があつたと見えて、土豪安東(あんどう)氏を代官に任じ、蝦夷管領としてこれを鎮撫せしめた。』といふやうな事を記してゐる。この安東氏の頃あたりから、まあ、少しは津軽の事情もわかつて来る。」

アイヌについて

「その前は、何が何やら、アイヌがうろうろしてゐただけの事かも知れない。しかし、このアイヌは、ばかに出来ない。所謂日本の先住民族の一種であるが、いま北海道に残つてしよんぼりしてゐるアイヌとは、根本的にたちが違つてゐたものらしい。その遺物遺跡を見るに、世界のあらゆる石器時代の土器に比して優位をしめてゐる程であるとも言はれ、今の北海道アイヌの祖先は、古くから北海道に住んで、本州の文化に触れること少く、土地隔絶、天恵少く、随つて石器時代にも、奥羽地方の同族に見るが如き発達を遂げるに到らず、殊に近世は、松前藩以来、内地人の圧迫を被ること多く、甚しく去勢されて、堕落の極に達してゐるのに反し、奥羽のアイヌは、溌剌と独自の文化を誇り、或いは内地諸国に移住し、また内地人も奥羽へ盛んに入り込んで来て、次第に他の地方と区別の無い大和民族になつてしまつた。それに就いて理学博士小川琢治氏も、次のやうに論断してゐるやうである。『続日本紀には奈良朝前後に粛慎(しゅくしん)人及び渤海人が、日本海を渡つて来朝した記載がある。そのうち特に著しいのは聖武天皇の天平十八年(一四〇六年)及び光仁天皇の宝亀二年(一四三一年)の如く渤海人千余人、つぎに三百余人の多人数が、それぞれ今の秋田地方に来着した事実で、満洲地方と交通が頗る自由に行はれたのは想像し難くない。』(小川琢治氏の引用続く)」

「粛慎人」は中国東北地方やロシア沿海地方(旧満洲)の人たちで、民族的には蝦夷と同じという説やツングース系民族(下にはその一派である満州族の写真を引用)、樺太北部に住んでいるニヴフの祖先という説もあります。

出典:Emily Susan Hartwell Papers, Public domain, via Wikimedia Commons、​1915年时福州的满族人
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Foochow_Manchu.jpg

下にはニヴフ民族の写真も引用いたしました。このように北日本にも外国から多くの民族がやってきていて、異なる文化の影響を受けていたと思われます。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons、ニヴフ民族
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nivkh_People.JPG

「(小川琢治氏の引用続き)『秋田附近から五銖銭が出土したことがあり、東北には漢文帝武帝を祀つた神社があつたらしいのは、いづれも直接の交通が大陸とこの地方との間に行はれたことを推測せしめる。今昔物語に、安倍頼時が満洲に渡つて見聞したことを載せたのは、これらの考古学及び土俗学上の資料と併せ考へて、決して一場の説話として捨てるべきものでない。われわれは、更に一歩を進めて、当時の東北蕃族は皇化東漸以前に、大陸との直接の交通に依つて得たる文華の程度が、不充分なる中央に残つた史料から推定する如く、低級ではなかつたことを同時に確信し得られるのである。田村麻呂、頼義、義家などの武将が、これを緩服するに頗る困難であつたのも、敵手が単に無智なるがために精悍なる台湾生蕃の如き土族でなかつたと考へて、はじめて氷解するのである。』(小川琢治氏の引用終了)」
「漢文帝武帝を祀つた神社」に関連しますが、男鹿市にある赤神神社の祭神(赤神山大神)は漢武帝にゆかりがあるとされます。また、こちらは「ナマハゲ」の起源の舞台となったとも伝えられてきました。説明文をウィキペディアから引用いたします。

妖怪などと同様に民間伝承であるため、正確な発祥などはわかっていない。秋田には、「漢の武帝が男鹿を訪れ、5匹の鬼を毎日のように使役していたが、正月15日だけは鬼たちが解き放たれて里を荒らし回った」という伝説があり、これをなまはげの起源とする説がある。

出典:ウィキペディア、ナマハゲ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%BE%E3%81%AF%E3%81%92

下に引用したのは赤神神社の五社堂の写真です。こちらにはナマハゲのもとになった(とされる)五匹の鬼が祀られています。国の重要文化財に指定された江戸時代中期の貴重な建築物です。

出典:写真AC、五社堂
https://www.photo-ac.com/main/detail/30453244&title=%E4%BA%94%E7%A4%BE%E5%A0%82

 「さうして、小川博士は、大和朝廷の大官たちが、しばしば蝦夷(えみし)、東人(あづまびと)、毛人(けびと)などと名乗つたのは、一つには、奥羽地方人の勇猛、またはその異国的なハイカラな情緒にあやかりたいといふ意味もあつたのではなからうかと考へてみるのも面白いではないか、といふやうな事も言ひ添へてゐる。かうして見ると、津軽人の祖先も、本州の北端で、決してただうろうろしてゐたわけでは無かつたやうでもあるが、けれども、中央の歴史には、どういふものか、さつぱり出て来ない。」

安東氏の乱が与えた影響

「わづかに、前述の安東氏あたりから、津軽の様子が、ほのかに分明して来る。
喜田博士の曰く、『安東氏は自ら安倍貞任の子高星(たかぼし)の後と称し、その遠祖は長髄彦(ながすねひこ)の兄安日(あび)なりと言つてゐる。長髄彦、神武天皇に抗して誅せられ、兄安日は奥州外ヶ浜に流されて、その子孫安倍氏となつたといふのである。いづれにしても鎌倉時代以前よりの、北奥の大豪族であつたに相違ない。津軽に於いて、口三郡は鎌倉役であり、奥三郡は御内裏様御領で、天下の御帳に載らざる無役の地だつたと伝へられてゐるのは、鎌倉幕府の威力もその奥地に及ばず、安東氏の自由に委して、謂はゆる守護不入の地となつてゐたことを語つたものであらう。
 鎌倉時代の末、津軽に於いて安東氏一族の間に内訌あり、遂に蝦夷の騒乱となるに到つて、幕府の執権北条高時、将を遣はしてこれを鎮撫せしめたが、鎌倉武士の威力を以てしてこれに勝つ能はず、結局和談の儀を以て引き上げたとある。』
 さすがの喜田博士も津軽の歴史を述べるに当つては、少し自信のなささうな口振りである。まつたく、津軽の歴史は、はつきりしないらしい。ただ、この北端の国は、他国と戦ひ、負けた事が無いといふのは本当のやうだ。服従といふ観念に全く欠けてゐたらしい。他国の武将もこれには呆れて、見て見ぬ振りをして勝手に振舞はせてゐたらしい。昭和文壇に於ける誰かと似てゐる。それはともかく、他国が相手にせぬので、仲間同志で悪口を言ひ合ひ格闘をはじめる。安東氏一族の内訌に端を発した津軽蝦夷の騒擾などその一例である。」
「蝦夷の騒乱」とは以下の引用文のようなものでした。なお「エゾの蜂起」については元(モンゴル帝国が中国に建てた王朝)が樺太に侵攻してきていたことも原因の一つとされます。九州への侵攻「元寇」に対し「もうひとつの蒙古襲来」ともいわれ、北日本も緊迫した状況でした。

安藤氏の乱(あんどうしのらん)は、鎌倉時代後期、エゾの蜂起と安藤氏の内紛が関係して起こった乱。エゾはアイヌが主体であると考えられている。蝦夷の乱、津軽大乱とも呼ばれる。(中略)
エゾが蜂起した原因については得宗権力の拡大で収奪が激化したこと、日持ら僧による北方への仏教布教や、また元朝が樺太アイヌ征討を行っていることが指摘されている。

出典:ウィキペディア、安東氏の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E6%B0%8F%E3%81%AE%E4%B9%B1

「津軽の人、竹内運平氏の青森県通史に拠れば、『この安東一族の騒乱は、引いて関八州の騒動となり、所謂北条九代記の『是ぞ天地の命の革むべき危機の初め』となつてやがては元弘の変となり、建武の中興となつた。』とあるが、或いはその御大業の遠因の一つに数へられてしかるべきものかも知れない。まことならば、津軽が、ほんの少しでも中央の政局を動かしたのは、実にこれ一つといふ事になつて、この安東氏一族の内訌は、津軽の歴史に特筆大書すべき光栄ある記録とでも言はなければならなくなる。」

上にもあるように、安東氏(安藤氏)の乱を武力で抑えられなかったことで鎌倉幕府の権威は失墜し、1333年に滅亡する要因の一つとなりました。

津軽氏と南部氏との確執

「いまの青森県の太平洋寄りの地方は古くから糠部(ぬかのぶ)と称する蝦夷地であつたが、鎌倉時代以後、ここに甲州武田氏の一族南部氏が移り住み、その勢ひ頗る強大となり、吉野、室町時代を経て、秀吉の全国統一に到るまで、津軽はこの南部と争ひ、津軽に於いては安東氏のかはりに津軽氏が立ち、どうやら津軽一国を安堵し、津軽氏は十二代つづいて、明治維新、藩主承昭は藩籍を謹んで奉還したといふのが、まあ、津軽の歴史の大略である。この津軽氏の遠祖に就いては諸説がある。喜田博士もそれに触れて、『津軽に於いては、安東氏没落し、津軽氏独立して南部氏と境を接して長く相敵視するの間柄となつた。津軽氏は近衛関白尚通の後裔と称してゐる。しかし一方では南部氏の分れであるといひ、或ひは藤原基衡の次男秀栄(ひでしげ)の後だとも、或ひは安東氏の一族であるかの如くにも伝へ、諸説紛々適従するところを知らぬ。』と言つてゐる。」
江戸幕府が寛政年間に編修した系図(寛政重脩諸家譜)では津軽為信は近衛関白尚通の家系(藤原氏頼道流)と記されていました。

出典:『寛政重脩諸家譜』第4輯,國民圖書,1923. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1082713 (参照 2025-12-24、一部抜粋)、藤原氏頼道流
https://dl.ndl.go.jp/pid/1082713/1/458

一方、津軽家側の資料の一つ「津軽系図略」の初ページには初代が秀栄(基衡の子・秀衡の弟)とあります。いずれも藤原氏を祖としていて、南部氏との関係は明らかにしていません。

出典:沢保躬 編『津軽系図略』,下沢保躬,明10.6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/780482 (参照 2025-12-24、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/780482/1/1

以下の竹内運平氏の引用文は青森県通史・P118(国会図書館デジタルコレクション・参照)から引用されています。

「また、竹内運平氏もその事に就いて次のやうに述べてゐる。『南部家と津軽家とは江戸時代を通じ、著しく感情の疎隔を有しつつ終始した。右の原因は、南部氏が津軽家を以て祖先の敵であり旧領を押領せるものと見做す事、及び津軽家はもと南部の一族であり、被官の地位にあつたのに其主に背いたと称し、また一方、津軽家にては、わが遠祖は藤原氏であり、中世に於いても近衛家の血統の加はれるものである、と主張する事等から起つて居るらしい。勿論、事実に於いて南部高信は津軽為信のために亡ぼされ、津軽郡中の南部方の諸城は奪取せられて居るのみならず、為信数代の祖大浦光信の母は、南部久慈備前守の女であり、以後数代南部信濃守と称して居る家柄であつたから、南部氏の津軽家に対し一族の裏切者として深怨を含んで居る事も無理のない事と思ふ。なほ、津軽家はその遠祖を藤原、近衛家などに求めてゐるが、現在より見ては、必ずしも吾等を首肯せしむる根本証拠を伴うて居るものではない。南部氏に非ず、との弁護の立場を取つて居る可足記(1)の如きも、甚だ力弱い論旨を示して居る。古くは津軽に於いても高屋家記の如きは、大浦氏を以て南部家の支族とし、木立日記(2)にも『南部様津軽様御家は御一体なり』と云ひ、近来出版になつた読史備要等も為信を久慈氏(南部氏一族)として居る事に対し、それを否定すべき確実なる資料は、今のところ無いやうに思ふ。しかし津軽には過去にこそ南部の血統もあり、また被官ではあつても、血統の他の一面にはどんな由緒のものもないとは云へない。』と喜田博士同様、断乎たる結論は避けてゐる。それを簡明直截に疑はず規定してゐるのは、日本百科大辞典だけであつたから、一つの参考としてこの章のはじめに載せて置いた。」
(1)可足記:弘前藩4代藩主・津軽信政の命により、信政の弟にあたる可足権僧正が津軽家の系譜を記したもの
(2)木立日記:津軽藩の藩士木立守貞が寛政五年(1793年)に藩命を受けて編纂した史書

出典:東京帝国大学史料編纂所 編『読史備要』,内外書籍,昭和10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1123711 (参照 2025-12-23、一部抜粋)、津軽氏
https://dl.ndl.go.jp/pid/1123711/1/458

上には昭和10年に東京帝国大学史料編纂所が作成した「読史備要」から「津軽氏」家系図の一部を抜粋しました。ここでは津軽為信の姓は「久慈」と明記され、南部氏一族と付記されています。

再び蟹田へ

「以上くだくだしく述べて来たが、考へてみると、津軽といふのは、日本全国から見てまことに渺(びょう)たる存在である。芭蕉の『奥の細道』には、その出発に当り、『前途三千里のおもひ胸にふさがりて』と書いてあるが、それだつて北は平泉、いまの岩手県の南端に過ぎない。青森県に到達するには、その二倍歩かなければならぬ。」
下には芭蕉がたどった「奥の細道」の概略図を引用いたしました。

出典:藤村作 編『奥の細道』,至文堂,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1035171 (参照 2025-12-24、一部抜粋)、芭蕉足跡略図
https://dl.ndl.go.jp/pid/1035171/1/8

「さうして、その青森県の日本海寄りの半島たつた一つが津軽なのである。昔の津軽は、全流程二十二里八町の岩木川に沿うてひらけた津軽平野を中心に、東は青森、浅虫あたり迄、西は日本海々岸を北から下つてせいぜい深浦あたり迄、さうして南は、まあ弘前迄といつていいだらう。分家の黒石藩が南にあるが、この辺にはまた黒石藩としての独自の伝統もあり、津軽藩とちがつた所謂文化的な気風も育成せられてゐるやうだから、これは除いて、さうして、北端は竜飛である。まことに心細いくらゐに狭い。これでは、中央の歴史に相手にされなかつたのも無理はないと思はれて来る。私は、その『道の奥』の奥の極点の宿で一夜を明し、翌る日、やつぱりまだ船が出さうにも無いので、前日歩いて来た路をまた歩いて三厩まで来て、三厩で昼食をとり、それからバスでまつすぐに蟹田のN君の家へ帰つて来た。歩いてみると、しかし、津軽もそんなに小さくはない。」

出典:小杉放庵 著『奥のほそみち画冊』,竜星閣,1955. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1662198 (参照 2025-12-24、一部抜粋)、千住
https://dl.ndl.go.jp/pid/1662198/1/7

上に引用したのは芭蕉と弟子・曽良が千住から「奥の細道」に出発する場面を描いた図です。竜飛と三厩を歩いて往復した太宰は「津軽もそんなに小さくはない」といっています。太宰も芭蕉か曽良になった気分で歩いていたかもしれません。

旅行などの情報

赤神神社

漢武帝を祀った神社」のところで登場した神社です。
2000年も前、漢の武帝が五匹の鬼を連れてきたとのこと。この鬼たちの悪行に困った村人は、一夜で千段の石段を築ければ一年に一人の娘を差し出すが、できなかったら村を去るという賭けをします。結果として鬼は999段までしか完成できず、鬼は来なくなりました。後になってその鬼を懐かしんだ村人たちが、鬼の真似をして村中をねり歩いたのがナマハゲの始まりだと言われています。

出典:写真AC、五社堂
https://www.photo-ac.com/main/detail/30453235&title=%E4%BA%94%E7%A4%BE%E5%A0%82

鬼たちが祀られた五社堂以外にも見どころがあります。上に引用したような「姿身の井戸」は不思議スポットの一つで、井戸を覗くと自分の余命がわかるとも伝わります。占い方については参道にある説明板をチェックしてみてください。

基本情報

【住所】秋田県男鹿市船川港本山門前祓川35
【アクセス】男鹿駅からバスで約30分
【参考URL】https://oganavi.com/spot/37/