宮本輝「流転の海」の風景(その5)

妻・房江の物語

前回(流転の海の風景その4・参照)までは、熊吾を中心にストーリーを追ってきましたが、今回は妻・房江の生い立ちから結婚までの風景を見ていきましょう。

房江を産んですぐに母が亡くなると、父は彼女を養女に出し、自分はさっさと再婚してしまいます。その後の房江は売春宿で奉公したり、結婚に失敗したりと不幸が続きました。それでも、次に務めた本茶屋では、苦労により身につけた人間性が認められ、女将代理を務めるまでに!関西の財界でも名の知られた熊吾に出会ったのはそのような時期でした。

養女としての生活

房江は「三人兄妹の末っ子として神戸の中山手で生まれた」
彼女が苦労した要因の一つは
「父は町でも名高い放蕩者の色男で、妻がありながら、他人の妻と恋仲になり、ふたりで姿をくらませたまま七年間消息がわらかなかった」
というような人物だったことでした。

房江は帰ってきた父・宗助と母・真佐子との間に生まれますが、1歳にもならないうちに母が亡くなってしまいました。
近所にあったパン屋の夫妻が「養女に貰えないかと申し出て」くると、あっさりと譲り、自分は
「連れ子のある女と再婚し、房江の兄と妹をともなって、相手の出生地である岡山で商売をおこすべく神戸から去って行ってしまった」
とあります。

出典:神戸市商工課 編『神戸商工名鑑』大正12年10月調査,神戸市商工課,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1016622 (参照 2024-05-18)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1016622/1/67

神戸は今でもパンの町として有名ですが、明治時代に開国するとすぐにベーカリーが開業した歴史があります。上に引用した「神戸商工年鑑」によると、大正12年には神戸市内で15軒以上のパン屋が営業していました。

当時のパン屋の様子を想像するために、下には大正時代に開業した「岡山木村屋」の写真を引用させていただきました。老舗パン屋の木村屋総本店で修行した創業者が、独立して地元岡山に開業されたとのことです。

出典:Webタウン情報おかやま公式サイト、表町商店街で創業して一世紀以上! 庶民に寄り添い、新しい食文化を広めた老舗パン企業
https://tjokayama.jp/life/vol11_20220627/

こちらの写真に写っている店主の姿を見ながら房江の回想シーンを想像してみましょう。

「おぼろげな己の幼い姿を脳裏に描くとき、必ずそこには焼きたてのパンの匂いが満ちている。パンのタネをせっせと手でこねている父(房江は七歳のとき、それが実の父ではなかったことを知った)が、煉瓦造りのパン焼き釜のまわりで遊んでいる自分に注いでくれた優しい目も、イーストの匂いと常に混ざり合っているのである。房江は、あの幼かったほんの一時期だけがしあわせだったといまでも思っているのだった」

養母の非情な仕打ち

養父母の間に女の子が生まれたこと、その後、すぐに養父が亡くなったことが房江から幸福な時間を奪っていきます。パン屋を閉業した養母は生活費に困窮し、房江を父・宗助に返したいと手紙を出しますが断られます。

そのことに激怒した養母は房江を尋常小学校二年生で退学させ
「あんたのほんまのお父ちゃんは、血も涙もない人非人や」
といって「新開地にあった料理屋」に奉公に出しました。

「表向きは<花田屋>という料理屋であったが、実際は売春宿で・・・・・・娼婦たちが、荒れた肌を白粉で隠して、ひと晩に二人か三人の客を取らされていた」
とのこと。
七歳の少女が働くのに適した環境ではありませんでした。

出典:ヒョーゴアーカイブス、湊川新開地の賑わい
https://web.pref.hyogo.lg.jp/archives/c581.html

上には大正から昭和初期の神戸・新開地の写真を引用させていただきます。戦前の新開地は東京・浅草と並ぶ歓楽街として有名な場所でした。

新開地の街は華やかでしたが、房江は以下に引用するような苦しい毎日を送っていました。
「朝の五時に叩き起こされ、玄関と廊下の掃除をさせられ、昼は洗い物やら娼婦たちの使い走りに使われ、夕方には七部屋全部の布団を敷く作業を義務づけられ、夜の十二時の店じまいの時間が来ると、再び玄関の掃除と洗い物をしてやっと物置部屋に敷かれたせんべい蒲団にもぐり込むことを許される」

親戚を転々として成人

そんなつらい毎日を送っていたある日、母・真佐子の兄の馬場孝造が、<花田屋>に房江を引き取りにきました。
馬場「おっちゃんかて貧乏やけどなァ、どない暮らしに困ったかて、こんないたいけな子供を淫売宿に売るような真似はせえへんでェ」

そんな孝造でしたが、病弱な妻の医療費がかさみ、ぐれた息子に金を持ち出されたりしたため、房江を呉服屋の子守りに出さざるを得なくなります。下には明治時代の子守り娘の写真を引用しました。当時、子守りは女子児童の主な仕事の一つでした。

出典:Kusakabe Kimbei, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kusakabe_Kimbei_-_39_Carrying_Children.jpg

数年後、孝造が病で倒れると伯母の家から従兄の家、従妹の家を転々とします。そして、従妹の家でやっかいになっている時に「山下則夫という工場勤めの男」に見初められ結婚することになりました。

結婚に失敗

房江が結婚したのは
「親戚の家をたらい廻しにされ、厄介者扱いされているよりも、いっそ嫁に行くほうがましだ」
からで結婚の際
「山下則夫なる男がどんな人間であるかといったことなどほとんど考えなかった」
とのこと。

山下は「昼間は実直な温和しい工員」でしたが、夜になると色気狂い(いろきちがい)という本性を現します。恐怖を感じた房江は子供を抱いて家から逃げ出し「行くあてもなく市電に乗った」とあります。

上には1971年に全線廃止された神戸市電の写真(大正時代に撮影)を引用させていただきました。ここでは、子供を抱いて足早に市電に乗り込む房江の姿をイメージしてみましょう。

姉を頼って

房江は子供の頃、売春宿から救い出してくれた馬場孝造に相談しにいきますが、彼は病気で瀕死の状態でした。幸造から実の兄姉が神戸に戻ってきていることを聞いた房江は、姉の家を頼っていきます。姉・あや子とは二十年ぶりの再会でした。

房江「ごめんください」
あや子はしばらく怪訝な面持ちで房江を見ていましたが・・・・・・
あや子「房江か?」
房江がうなずくと、絶句してこう続けます。
あや子「いままで、いままでほったらかしにしといて、私が姉やでェなんて、よう言いに行かんかってん。一郎兄ちゃんも、おんなじ気持ちやねん」

そして、夫の山下則夫から受けた仕打ちを伝えると、あや子とその夫の鶴松は
「そんな男、別れてしまい。そら色気狂いやがな」
といい、鶴松は山下家まで出向いて房江の意思を伝えてくれます。

何度か話し合いをしたのち、やっとのことで房江は山下と別れることができましたが、子供は山下家に引き取られていきました。

鶴松とあや子の間には美津子と直子という娘がいて、同じ女学校に通っています。

出典:女人藝術社, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nyonin-Geijutsu-1928-November-1.png

「彼女たちは、学校から帰って来ると、こっそり友だちに貸してもらった小説雑誌を廻し読みしていた。当時は、女学生に限らず、男子学生でさえ、小説など読んでいるととがめられた時代だった」
とのことです。

上には昭和3年7月から昭和7年6月まで発刊された女性の文芸・総合雑誌「女人芸術」の写真を引用しました。彼女たちもこちらのような本を読んでいたかもしれません。

また
「そんな姉妹の姿を見ているうちに、房江は字を覚えたいと思うようになった」
とのこと。

尋常小学校を1年程度しか通わせてもらえなかった房江には、読み書きなどへのコンプレックスがありました。

出典:林芙美子 著『北岸部隊』,中央公論社,昭14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1231836 (参照 2024-05-18、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1231836/1/7

姉の美津子に字を教えて欲しいと頼むと、美津子は「女人芸術」で連載され、ベストセラーになった林芙美子さん(上の写真右)の自伝的小説「放浪記」を貸してくれます。
本には「房江のために全ての漢字にふりがながつけられ」ていて、房江は三回も読んだとのこと。

私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。

出典:青空文庫、新版 放浪記、林芙美子https://www.aozora.gr.jp/cards/000291/files/1813_30136.html

放浪記の冒頭は上のような文章から始まります。房江は貧しくて苦労続きの自分と、主人公の人生を重ねていたかもしれません。

新町の本茶屋へ

ある日、姉・あや子の友人が大阪新町の茶屋の仲居を辞めるにあたり、房江を後任にできないかとの話を持ってきます。あや子は房江に水商売はさせたくないと一度断りますが、話を聞いていた房江は夕食時に以下のように切り出しました。
房江「姉ちゃん、私、もうそろそろ働きたいと思てたから、さっきの話、もっと詳しいに訊いてみてくれへん?」
鶴松「新町の本茶屋か。そんなに悪い話やないなァ」
あや子は反対しますが、房江の意思が強かったため、とりあえず一、二ヵ月勤めてみることになります。

出典:大阪市立図書館デジタルアーカイブ、九軒の吉田屋、日下コレクション -歴史的写真資料- 3(No.201~No.300) 大阪市西区役所旧蔵、日下福蔵(ワラヂヤ出版代表取締役)所蔵の複製写真
http://image.oml.city.osaka.lg.jp/archive/detail?cls=ancient&pkey=w5286001

大阪新町は江戸時代から続く色街で、房江が務めることになったのは格式の高い「本茶屋の中でも一、二を争う<まち川>」でした。上には新町でも代表的な茶屋であった吉田屋の写真(右側)を引用しておきます。

吉田屋のあった九軒町は桜の名所としても知られていました。ここでは房江が写真左側にある桜並木を眺めながら歩いているところを想像してみましょう。

結婚と離婚・再起

<まち川>での房江の源氏名は「キク」でした。房江を気に入った女将「町川ケイ」が「芸者の手配、集金、帳場」といった女将の仕事を任せるようになると、給料は当時のサラリーマンの数倍にもなりました。

房江は芸者たちからも人気があり
「本茶屋に上がる一流の名妓の多くが、キクちゃんとか、キク姐さんとか呼んで、何かかんやと相談事を持ちかけてくるようになった」
とのこと。

出典:『浪花踊』 第6回,淀川種蔵,大正2-3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/910506 (参照 2024-05-20、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/910506/1/26

また「千代鶴という新町一の芸者」がおり、「豊麗な面立ちと賢さが、財界の大物たちに愛され、彼らを飽きさせなかった」とのこと。その「千代鶴」の天真爛漫な性格と気配りに長けているキク(房江)とは相性が良く、一緒に座敷に招かれるようになりました。

下には大阪新町の春の行事「浪花踊」の出演者の写真(大正初期)を引用させていただきます。こちらの写真から「千代鶴」をはじめとした芸者さんたちの姿をイメージしてみましょう。

熊吾との出会い

そんな時、<まち川>に自動車メーカーの浅見なる人物の招待客としてやってきたのが熊吾でした。

「口ひげの似合う、切れ長な目の、精悍な顔つきの男」
というのが房江の熊吾に対する第一印象でした。

浅見「松坂熊吾さんや。わしの大事なお客さんや。これからこの店にもちょくちょく来はるやろから粗相のないようにしてや。関西の自動車部品を一手に握ってるどえらい男やさかいな」

その日の宴席の話題は熊吾がかつて創業し、浅見たちの自動車メーカーに乗っ取られた「日刊自動車新聞社」についてでした。

ちなみに「流転の海」で登場するのと同名の新聞社「日刊自動車新聞社」は現在も存在しています(昭和4年創刊)。下には同社が昭和9年頃に発刊した「自動車ハンドブック」から国産車(日産・ダットサン)の写真を引用しました。

左側のオースティン(イギリスの自動車ブランド)などハンドブックで紹介されている車の大半は欧州製です。戦前の日本はまだ国産自動車の黎明期で、日産やトヨタ、いすゞ、マツダ(東洋工業株式会社)など現在も続くメーカーのほか、オオタ自動車工業など現在は存在しないメーカーもありました。浅見の自動車メーカー(浅見自動車工業)のモデルもこちらの中にあるかもしれません。

出典:『自動車ハンドブツク』1935年版,日刊自動車新聞社,昭和9-10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1089647 (参照 2024-05-20)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1089647/1/48

浅見「(新聞社を)返そう。わしの部下を引きあげさせる。俺を許してくれ」
熊吾「その代わり、こんどはわしの何を狙うちょる」
浅見「あんたという人間や。わしは松坂熊吾が欲しい」
熊吾「あんたは日本が戦争に負けたあと、しばらく様子を見る。・・・・・・そのあいだ、わしに肩代わりをさせる。混乱がおさまって、先が見えてきたら、また得意の手でわしを追い出し、悠々とあとに坐る・・・・・・わしは日刊自動車新聞なんか、もういらん。あんなもんは、泥棒猫にくれてやる」

宴席の雰囲気は穏やかなものではありませんでした。

熊吾と奈良へ

気になっていた熊吾から奈良への旅行に行こうと誘われたのは、<まち川>に熊吾が最初にやってきてから約1か月後のことでした。

熊吾「わしは、これまでに三人の女と所帯を持った。いや、籍を入れる前に死んでしもうた女がおるけん、四人の女を女房にしたことになる。最初の女は別にして、あとの三人は自分が気に入って一緒になったわけやない。親父や親戚との絡みがあって、そうなってしもた。子供はおらん」
房江「私は、男の子をひとり産みました。その子が生まれてすぐに離婚しました。子供は相手のほうに引き取られました」

出典:Gryffindor, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nara_Hotel_2014_(7).jpg

宿泊場所は熊吾が常宿とする奈良公園の高台に建つホテルでした。
「外観は重厚な和風建築だったが、内部は洋風で、深々とした赤い絨毯がロビーに敷き詰められ」

「明治四十二年の店開き」
などの表現から「奈良ホテル」と推測できます。

ここでは上の写真(奈良ホテルの内部)の絨毯の上を歩く熊吾と房江の姿をイメージしてみてみましょう。

出典:建築写真類聚刊行会 編『建築写真類聚』第1期 第24 (特殊建築 巻1),[洪洋社],[大正10]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/962657 (参照 2024-05-20、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/962657/1/35

部屋に入った房江は
「松坂の上着を洋服箪笥にしまい、初めて目にする洋風の風呂場を覗いたり、ベッドに腰を降ろしてみたりした。家具も調度品も上等の年代物だった」
とのこと。

房江が見たのは上に引用したような部屋(奈良ホテルの客室)だったでしょうか。こちらの部屋で「わしの女房になるか」ときかれた房江は、熊吾と結婚する決心をしました。

旅行などの情報

新開地劇場

房江が少女時代に働いた神戸・新開地には劇場がたくさんありましたが、神戸大空襲で大部分が被災してしまいます。こちらの劇場は戦後の昭和20年に芝居小屋としてオープンし、その後大衆演劇の専門館となりました。

下に引用させていただいたような広大な舞台では、時代劇や歌謡・舞踊など多彩な演目が披露され、元気のよい掛け声も飛びます。こちらで昭和の新開地のにぎわいを感じてみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】兵庫県神戸市兵庫区新開地5-2-3
【アクセス】JR神戸駅から徒歩約8分
【参考URL】https://www.shinkaichigekijou.com/

新町演舞場跡

大坂新町は井原西鶴などの作品にも登場する江戸幕府公認の遊郭でした。明治になると花街として発展しますが大阪空襲で大きな損傷を受け、今では記念碑などが当時の痕跡を残しています。

例えば桜の名所として紹介した「新町九軒町桜堤」のあった場所(新町北公園の北東角)には石碑が建てられ、公園内に再現された桜並木も見どころです。

また、公園から南東に歩いて5分ほどのところには春の風物詩「浪花踊」が開催された新町演舞場跡があり、下に引用させていただいたモニュメントから大正・昭和の様子を偲ぶことができます。

基本情報

【住所】西区新町一丁目15 新町北公園
【アクセス】大阪メトロ西大橋から徒歩約4分
【参考URL】https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009576.html(大阪市役所公式サイト)

奈良ホテル

熊吾が房江に結婚を申し込む場面で登場した「奈良ホテル」は明治42年創業のクラシックホテルです。ロビーやフロントには明治時代のモダンなつくりが残っていて、タイムスリップしたような感覚を楽しめます。夕食はフレンチと和食から選ぶスタイル。レストランやティーラウンジは宿泊者以外でも利用可能です。

また、下に引用させていただいたように敷地内には熊吾がホテル専属の庭師の息子とかくれんぼをした(?)庭があります。鹿が訪れることもあるので探してみてください。

基本情報

【住所】奈良県奈良市高畑町1096番地
【アクセス】近鉄奈良駅より約15分
【参考URL】https://www.narahotel.co.jp/

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