宮本輝「流転の海」の風景(その6)

それぞれの戦後

前回(流転の海の風景その5・参照)は房江の戦前の物語が中心でしたが、今回は現在(昭和23年)に時を戻し、戦争で夫を失った房江の姪たちの物語を追って行きます。妹・直子は二人の子供をひとりで育てるといってきかない気丈な性格、一方、繊細な性格の姉・美津子は再婚問題で心が揺れ動きます。そんなある日、房江の実の息子を連れた女が金の無心にやってきました。

戦争の爪痕

第二次世界大戦では多くの人が犠牲になり、戦争終結後も夫を失った妻たちの苦しい生活が続きます。房江の姉・あや子の娘である美津子や直子の姉妹も結婚後に夫が出征し、戻ってくることはありませんでした。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Soldiers_Train_Okayama.jpg

上には岡山駅での出征兵士の見送りの写真を引用させていただきます。妻や子供と別れるのがつらくても、こちらのように笑顔で出ていくしかありませんでした。

当時の女性の職業

昭和初期になると働く女性が多くなり「職業婦人」とよばれることもありました。人気の職種は華やかなエレベーターガールや専門性が高く給料の良いタイピスト、電話交換手などでした。

下にはエレベーターガールやタイピスト、バス車掌の方の写真を引用しておきます。

出典:忠孝之日本社編輯部 編『新日本写真大観』,忠孝之日本社,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1112102 (参照 2024-05-21、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1112102/1/91

また、下に引用したのは電話交換手の写真です。女性の職業に限りませんが、当時の職業の多くは機械化・自動化などにより姿を消しています。

出典:東京開成館編輯所 編『現代商業写真帖』,東京開成館,昭和11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1112198 (参照 2024-05-21、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1112198/1/18

妹・直子

房江の姉・あや子の次女である直子は二十四歳で結婚し、二人の子供がいます。
「直子の夫は自分に二人目の子供が出来たことを知らずに、昭和十九年の七月、サイパンで戦死した」
とのこと。
戦地への便りは「軍事郵便」といわれ、下に引用させていただいたように戦意を上げるものとして奨励されていたようです。ただ、
「収集されて二ヵ月もたたないうちに死んだので、直子の妊娠をしらせる手紙は、ついに夫の目に触れぬままになった」
とあります。

出典:『大東亜写真年報』2603年版,同盟通信社,昭和17-18. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1123699 (参照 2024-05-21、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1123699/1/8

直子は熊吾・房江夫妻の家の裏に住み、再婚の話をしても応じず自分ひとりで子供たちを育てていくと言い張るたくましい女性です。また、容貌などについて、「流転の海」第一章には以下のように描かれています。
「房江とは姉妹のように似ていた。ただ房江と違って、男まさりで口も達者だった」

彼女は三宮の料亭で仲居として働いていました。下に引用させていただいたのは昭和24年ごろの三宮駅周辺の写真です。ここでは飲食店の前を颯爽(?)と歩く女性に直子の姿を重ねてみましょう。

出典:今昔物語公式サイト、三宮・阪急三宮駅の北側の飲食街、1949年
https://konjaku-photo.com/?p_mode=view&p_photo=8844

姉・美津子

姉の美津子のほうも結婚して2年もたたないうちに夫が徴兵され、戦死してしまいました。彼女には子供がなく、辻堂の紹介で大阪・高麗橋にある「大手の証券会社の会計課」に勤務しています。

当時の高麗橋周辺には銀行や証券会社、百貨店などが立ち並び、大阪の中心的な場所でした。下には当時の華やかな街の様子をイメージできる昭和初期の絵葉書を引用させていただきます。

出典:大阪市立図書館デジタルアーカイブ、大阪の印象 商業区堺筋、1927
http://image.oml.city.osaka.lg.jp/archive/detail?cls=ancient&pkey=e0283001

また、下に引用させていただいた写真は昭和10年の事務員さんとのことです。美津子もこちらのような姿で働いていたかもしれません。

美津子は3年前に急逝した女友達の夫・白川益男から結婚を申し込まれ、熊吾夫妻に相談します。

白川は子供のころの怪我が原因で松葉杖なしでは歩けない体になったとのこと。妻が亡くなったあとは故郷の北海道・旭川に戻り、二人の子供を育てながら銀行員として働いていました。

一方、熊吾たちは美津子と辻堂が惹かれ合っているのを知っていて、再婚することを望んでいました。美津子が親の鶴松・あや子夫婦と住む家を熊吾たちが訪ねたときの会話を抜粋してみます。

熊吾「まさかその北海道の男に、ひと目惚れしたっちゅうわけじゃあるまいのう。惚れたのなら、わしの出る幕やありゃせんが、それ以外の理由があるんなら、わしは反対せんわけにはいかんのじゃ」
鶴松「惚れようが惚れまいが、お父ちゃんは、そんななさぬ仲の子供がふたりもいてる、足の不自由な男に、お前を嫁にやったりせえへんでェ」
あや子「北海道やて。そんな遠い寒いとこへ、何もわざわざ再婚して行くことはないやないか」
熊吾「辻堂と一緒になる気はないんか?ふたりでそんな話をしたことはないんか」
美津子「辻堂さんは、一生結婚する気はないそうです。・・・・・・自分は女房と子供たちを、わざわざ原爆の落ちる長崎に行かせたんや。そんな自分が、ひとりぬくぬくと生き延びて、新しい家庭をもち、しあわせを築こうなんて気持ちには、どうしてもなられへん。そう言いはりました」

辻堂の結婚観

熊吾は辻堂を家に呼んで酒を飲みながら、美津子と結婚するように説得します。熊吾が住んでいたエリアは「菊正宗酒造」や「剣菱酒造」などの「灘の酒」の酒蔵にも近い場所です。下には1980年代の菊正宗のCMを引用させていただき、会話を抜粋していきます。

熊吾「死んだ女房や子供に、いつまで義理立てするつもりなんじゃ・・・・・・美津子がその北海道の男と結婚したら、あとで必ず悔やむぞ」
辻堂「私も十九や二十歳の小僧とは違いますから、そのへんのふんぎりはついています。ただ、私は家内と子供を喪って、何か自分には不吉な星廻りみたいなもんがあるんじゃないかと考えるようになったんです・・・・・・私には兄が三人いますが、どういうわけか、みんなつれあいに先立たれたり、子供に先立たれたりしました。・・・・・・そんな男のもとに嫁いでくれる女性に、不幸なとばっちりをくらわせたくありません」
熊吾「他人の生き方に口を出す権利は、わしにはないけんのお。・・・・・・しかしのお、辻堂。星廻りとケンカをしてこそ、ほんまの人生やとは言えんかのお。・・・・・・じゃが、どうやったらそのケンカに勝てるか。わしにはケンカのやり方がつかめんのよ」

お見合い

結局、白川益男にはお見合いという形式で神戸にきてもらい、美津子やその父母と話し合ってから決断をすることになります。

特急「日本海」は、大阪と青森を結ぶ急行列車として1947年7月に運転を開始し、1950年11月に「日本海」と名付けられた。その後1968年に特急列車化されている。

出典:ウィキペディア、日本海 (列車)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7_(%E5%88%97%E8%BB%8A)

昭和20年前半には旅客機や新幹線はまだ登場しておらず、旭川から大阪への移動は大変だったことでしょう。函館本線で函館まで汽車に乗り、青函連絡船に乗りかえて青森駅へ。青森駅からは上に引用させていただいた特急「日本海」を使って大阪駅に向かうルートだったでしょうか。

出典:国土交通省 東北地方整備局・青森港湾事務所公式サイト、キッズコーナー:青森港の歴史(青函連絡船の歴史2)
https://www.pa.thr.mlit.go.jp/aomori/090/020/040/20200101042000.html

上には白川が経由したと思われる青森港周辺の写真を引用させていただきました。奥の方で煙をあげているのが青函連絡船です。子供二人と一緒に特急に乗り込んだ白川は不安な気持ちを抱えていて、阿房列車の内田百閒先生(第一阿房列車の風景その1・参照)のようには列車旅を楽しめなかったのではないでしょうか。

実の子に再会

熊吾が辻堂と美津子の件で気を揉んでいたある日、房江が家の外に出てみると
「着物を着た三十五、六歳の女と、中学校の制服を着た男の子」
が門のところに立っていました。

女「あのお、松坂房江さんですやろか」
房江「はい、そうです」
女「山下志乃と申します・・・・・・山下則夫の家内でございます」
房江「どんなご用件でしょうか?」
女「えらい玉の輿に乗りはったと聞いて、ご挨拶に行かんならんと思てましてん」
金の無心が目的と気付いた房江は自分の家に入れずに、市場の近くの喫茶店にさそいます。

出典:昔の六甲道 街並み再現プロジェクト(昭和30・40年代)
http://www17.plala.or.jp/moomin3/rokkomiti.html

喫茶店については明記されていませんが、山下志乃たちが公共機関を利用する(?)ことを考えると駅近のお店だったかもしれません。上には昭和30年・40年代の六甲道駅近の商店街の写真を引用させていただきました。

こちらの商店街の喫茶店で以下のような会話がなされているところを想像してみましょう。
山下「この子、どうしても高校へ行きたい言うてききまへんのです・・・・・・この子の高校へ通えるお金を用立てて欲しいんです」
房江「私と山下さんとは何の関係もありません。お宅の坊ちゃんが、それで高校へ行かれへんようになっても、それはしょうがないことですやろ?」
山下「私らには、そんな甲斐性がないから、恥をしのんで、こうやってお訪ねしたんやおまへんか」
房江「ほんまに恥をしのんで来はったのなら、坊ちゃんをわざわざ連れて来たりはしはらしません」

自分の産んだ子を目前にして、房江がどのような決断をしたかについては「流転の海」の本文にてお確かめください。

旅行などの情報

NTT技術史料館

「NTT技術史料館」は職業婦人のところで紹介した「電話交換手」の体験ができる貴重なスポットです。また「デルビル磁石式壁掛電話機」や「ダイヤル式黒電話」の体験コーナーもあり、昭和時代へのタイムスリップを楽しめるでしょう。

ほかにも、下に引用させていただいたような大きな携帯電話(ショルダーホン)やポケットベルなど展示品も豊富で、通信方法の変遷についての理解を深めることができます。

基本情報

【住所】東京都武蔵野市緑町3-9-11NTT武蔵野研究開発センタ内
【アクセス】JR三鷹駅からバスに乗り換え武蔵野市役所前で下車
【参考URL】http://www.hct.ecl.ntt.co.jp/index.html

高麗橋ビルディング

美津子が勤務していた高麗橋周辺は大阪空襲の被害が比較的少なく、今でも当時の建物がいくつか残っています。下に引用させていただいた「高麗橋ビルディング」もその一つです。

東京駅の設計でも有名な辰野金吾(たつのきんご)氏が設計にかかわり、赤い煉瓦と白石のラインの美しいコントラストが特徴になっています。

ほかにも周辺には「野村高麗橋ビルディング」や「生駒ビルヂング」といったレトロなビルが残っているので散策してみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】大阪府大阪市中央区高麗橋2-6-4
【アクセス】御堂筋線・淀屋橋駅から徒歩約1分
【参考URL】https://www.jalan.net/kankou/spt_27128ae2182028817/

菊正宗酒造記念館

山田錦という良質な酒米やミネラル分を多く含む「宮水」を利用した灘の酒は品質が高いことで有名です。なかでも熊吾が辻堂に再婚をすすめる場面で登場した「菊正宗酒造」は江戸時代創業の老舗として知られています。

「菊正宗酒造記念館」は江戸時代に建てられた神戸・御影の酒蔵を移築し一般に開放、阪神淡路大震災後に再建し現在に至っています。下に引用させていただいたように試飲コーナーでは加熱処理前の「生原酒」や季節のお酒を堪能できるのも魅力です。また、こちらでしか入手できない限定品もありますのでお土産探しをしてみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】兵庫県神戸市東灘区魚崎西町1-9-1
【アクセス】阪神魚崎駅から徒歩で約7分
【参考URL】https://www.kikumasamune.co.jp/kinenkan/