宮本輝「花の回廊」の風景(その4)

昭和三十三年の正月前後

尼崎の小学校に転校した伸仁は相変わらず落ち着きがなく、親が学校に呼び出されます。また、「お染」にはかつて仲良くコンビを組んでいた千代鶴が北新地のクラブのママとなって現れ、房江にいやがらせをしますが・・・・・・。一方、かつて熊吾を裏切った井草(流転の海の風景その3・参照)の妻から、松坂商会の資金が(井草を介して)海老原太一に渡った証拠を入手します。

小学校から呼び出し

共働きの熊吾夫妻は伸仁が通う尼崎市立難波小学校に学級参観に行けずにいました。冬休みを前にしたある日、船津橋のビルにいた房江のところに、伸仁が学校からの「ガリ版刷りのお知らせ」を房江に届けに来ます。

ガリ版には
「伸仁君についてどうしてもお話しなければならないことがあるので、必ずお越しいただきたい」
と書かれていました。

上には昭和時代のガリ版についての投稿を引用させていただきました。
「ガリ版」とはコピー機以前に広まった大量印刷の手段で、正式名称は謄写版(とうしゃばん)といいます。エジソンの発明品を堀井新治郎さんという発明家が日本人向けに改良したものでした。下にはその堀井氏が創設した堀井謄写堂の広告を引用します。

出典:大蔵省印刷局 [編]『官報』1939年02月15日,日本マイクロ写真 ,昭和14年. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2960125 (参照 2024-08-16、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2960125/1/27

謄写版のしくみは原紙に鉄筆で文字を書いて小さな穴をあけ、その穴からローラーでインクを押し出して紙に転写するというものでした。文字だけでなく下に引用させていただいたようにデザイン性の高い印刷物もできるため、今でも一部の美術家や愛好家などに使われています。

伸仁は要注意人物?

呼び出しに応じて学校に行った房江に担任教師はこう言います。
「とにかく、伸仁くんは、つまり要注意人物です。宿題は何一つやってきませんし、授業では私の話なんかほとんど聞いてません。・・・・・・乱暴なことをするわけやないんですが、伸仁くんがこのクラスに転校してから何かがはっきりと崩れました。とくに成績のええ子たちには迷惑な存在なんです」

ただ、「ひとつくらいは褒めておこうといった口調でつけくわえた」
「剽軽なおもしろいことを言うたり、やってみせたりして、クラスのみんなをよう笑わせてます。漫才がうまいんです。おんなじクラスの土井っちゅう生徒と組んで即興で漫才をやるんですが、即興とは思えんくらい上手で、おもしろいんです」

上に引用させていただいたのは、昭和30年代、若手漫才コンビとして人気だった夢路いとし・喜味こいし師匠の写真です。こちらのような人気漫才師たちのネタをヒントに、漫才をやって大うけする伸仁を想像してみます。

月村敏夫

房江が教師との面談を終え
「校門を出るとき、何気なく体操用の鉄棒が並んでいるところに目をやった。男の子がひとりで鉄棒に腕と腹と片方の脚を器用に巻きつけ、まるで木の枝に蛇が絡まるような格好のまま回転しつづけていた」
伸仁と同じ蘭月ビルに住む月村敏夫という少年でした。

下には伸仁が通った「尼崎市難波小學校」の昭和初期の写真を引用させていただきました。鉄棒があったのは写真の手前側だったでしょうか。

出典:PCD(あまがさきアーカイブス)、東ヨリ見タル 尼崎市難波小學校
https://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/pcd/watch.php?p=0000000855&search_query=%E5%88%86%E9%A1%9E%3A212

ここでは月村少年が
「ノブちゃんのお母さんやろ」
と駆け寄ってくるところを想像してみましょう。

蘭月ビルの人々

房江は月村少年とともに蘭月ビルに行き、タネの家で預かってもらっている伸仁を訪ねます。伸仁は発熱していましたが、本人は他の住人のことを心配していました。
伸仁「光子ちゃん、死んでまうわ」
月村敏夫の妹(光子)が前日の夜、母にひどく殴られ、ひきつけを起こしたとのこと。伸仁がいつものように給食のパンを半分残して持っていっても食べないといいます。

「花の回廊」の舞台は昭和32年から昭和33年にかけて。そのころはほぼ毎日、上に引用させていただいたようなパン食でした。なお、ソフト麺が学校給食に導入されたのは1960年代、米飯が正式に導入されるのは1976年となります。

房江は心配になって二階にある月村家に向かいます。
房江「光子ちゃん。どこか具合が悪いのん?立たれへんのん?お医者さん行こうか?」
月村敏夫「光子は腹が空いてるねん。あんまり空き過ぎて、パンも食べられへんようになってしもたんやと思うねん。お母ちゃんに殴られたからとちゃうでェ」
房江「お母さんは、なんでそんなにきつうに光子ちゃんを殴りはったん?光子ちゃんはまだ五つやで」

そこに現れたのは伸仁が死を看取った老人の息子で「暴力団に深いつながりのある金貸し」張本栄一でした。
張本「よその家のことにあんまり余計な口出しせんほうがよろしおまっせ・・・・・・」
といいながらも
張本「この子らのおかはんは、毎晩、体を張って生きてまんねん。それもまた切った張ったの世界でっせ。俺のおやじが生きてたときは、この子らが飯を食うてないなァと気づいたら、何やかやと食うもんを運んでやってましたんや。死ぬ二日ほど前に、敏夫も光子も、わしが半分育てたようなもんて言いよった。俺は、ひょっとしたら、あれが親父の遺言かなァって考えるようになってしもて・・・・・・」

父に代わって月村家の子供たちの面倒をみることにした「張本のアニイ」は、その後、光子を病院に連れて行ってくれます。

蘭月ビルの怪人二十面相

蘭月ビルで「怪人二十面相」というあだ名を持つ恩田という男の部屋には子供が六人も集まり、
「怪人二十面相と明智小五郎を主人公にした物語を、自分たちで思いつくままに想像して、それとはまったく別の物語を創っているらしい」
とのこと。
恩田の部屋には下に引用したような江戸川乱歩の小説が置いてあったかもしれません。

出典:江戸川亂歩 著『怪人二十面相』,大日本雄辯會講談社,1936.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1873910 (参照 2024-08-16、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1873910/1/1

様子を見にいった房江は、廊下で以下のような話声を耳にします。

伸仁「裏切られた観音寺のケンは、明智小五郎への復讐を固く誓った。白鳥に乗った光子姫とともに観音寺のケンは・・・・・・」
恩田「このままノブちゃんに物語を作らせていたら、怪人二十面相の出番は永遠にないではないか」
伸仁「脚を負傷している光子姫に、時速二百キロで空を飛びながら、白鳥の桃太郎は『姫、しっかり拙者につかまっていないとダイヤの耳飾りが落ちますぞ』と言った」
恩田「ノブちゃん、時速二百キロでは、三十分でアマゾンの秘境にあるベロンベロン城まで行かれへんで。それに、白鳥に桃太郎ちゅうのはなァ・・・・・・。もうちょっと速そうなスマートな名前がええなァ」

恩田の姿については
「こざっぱりとした四十過ぎの男の油っ気のない頭髪と、日本人離れした高い鼻」
「蘭月ビルの住人たちから『怪人二十面相』と呼ばれているのだから、どんな怪し気で奇異な男なのだろうと思っていたが、子供たちに慕われる気さくな人なのだ」
などとあります。

恩田は怪人二十面相というよりは上に引用させていただいた明智小五郎(天地茂さん)のような人物だったかもしれません。

当時の伸仁のぜいたく

熱のある伸仁に対し、房江が以下のような言葉をかける場面があります。
「今日はお母ちゃんはこれから仕事にいかなあかんけど、こんどの日曜日に一緒に映画を観に行こな。それから不二家でケーキを食べよ」

不二家は明治43年に藤井林右衛門氏が創業した横浜・元町の洋菓子店がはじまりです。その後、大正12年に銀座店、昭和6年に心斎橋店などと全国に展開していきました。

銀座と横浜で名高い不二家が、心斎橋進出を敢行して数年、今では完全にしんぶらまんの素通りのできぬオアシスとなった。

出典:『写真心斎橋』,心斎橋新聞社,[昭和10]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1015112 (参照 2024-08-16、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1015112/1/24

下には昭和10年ごろの心斎橋の不二家の全景写真を引用させていただきました。ここでは、店頭のショーケースの前で房江と伸仁がケーキを選んでいるところを想像してみましょう。

出典:『写真心斎橋』,心斎橋新聞社,[昭和10]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1015112 (参照 2024-08-16、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1015112/1/24

島津育代

房江は「お染」で料理の腕をふるい客層を広げていました(流転の海の風景その5・参照)。そんなある日、かつて房江が新町の「料亭まち川」で仲居をしていたころ人気芸者だった「千代鶴」が客としてやってきます。今では「千代鶴(本名・島津育代)」は北新地で一番人気のクラブ「しまづ」のママになっていました。

下には大正から昭和初期にかけての北新地演舞場の写真を引用させていただきました。新町と並ぶ花街だった北新地は昭和30年代にはクラブやバーを中心とした街に代わっていきます。千代鶴のお店はその先駆けだったかもしれません。

出典:大阪市立図書館デジタルアーカイブ、北新地演舞塲正面
http://image.oml.city.osaka.lg.jp/archive/detail?cls=ancient&pkey=e0264001

以前は性格がよく、房江とも仲のよかった島津育代でしたが、「お染」に来るたびに房江や(育代が芸者時代に好いていた)熊吾を侮蔑するような言葉を吐くようになります。それは以下のような激しいものでした。
「私、空襲のある半年ほど前、私のお客さんと有馬温泉に行った帰りに、豪壮な松坂熊吾邸を見るためにわざわざ前を通ったことがあるねん。庭だけでもいったい何坪あったやろ。そのとき一緒やったお客さんをお座敷で子供扱いしたのが、この人のご亭主や。大会社の社長をぎょうさんの人の前で子供扱いするなんて下品で身の程も知らん成り上がりやもん、そらまあ、落ちぶれだしたら底無しやわ。」

育代の嫌がらせが続き房江のストレスは溜まって行きました。そんなある日、高圧的な態度の育代は「お染」の女将とも大喧嘩をして怪我を負わせてしまいます。この事件以降、彼女が房江の前に現れることはありませんでした。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Minako_(Yoshiwara_4_geisha).jpg

上には昭和時代の芸者さんたちの写真を引用しました。右端の方は「最後の吉原芸者」と呼ばれた「みな子(本名、長尾みつ)」さんです。

こちらの写真のような笑顔の千代鶴を思い出しながら、房江は以下のような思いをめぐらしていました。
「わずか十三、四年のあいだに、あの我儘で駄々っ子のようでありながら、新町一の矜持と、豊麗で、高貴ささえもたずさえていた千代鶴が、大阪の北新地のクラブのママとなり、かつての美徳のすべてを失って、ただの下卑た水商売の女へとなりはてた。彼女を変化させたものは何だろう。」

井草の金は海老原太一に!

その夜、房江が遅く帰宅すると、熊吾が起きてきて、以下のようなことを語りました。
熊吾「きょう、井草の女房が金沢から大阪に出て来て、わしを捜して千代麿の事務所を訪ねて来よった。とんでもないものがみつかったっちゅうてな」
熊吾が見せたのは
「亜細亜商会 取締役社長 海老原太一」
と書かれた名刺でした。
そして、名刺の裏には以下のような文言が書かれていました。
「金五拾萬円也 右金額確かにお預かり致しました 昭和弐拾弐年九月拾参日 海老原太一」

出典:SLIMHANNYA, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Katana_Magoroku_Kanemoto.jpg

五十万円といえば熊吾が恥を忍んで海老原太一に買ってもらった「関の孫六兼元」と同じ金額です。熊吾は上に引用したような刀剣(孫六兼元)やその時浴びせられた海老原からの言葉を思い出していたかもしれません。

熊吾「これは、井草がわしから盗んだ金じゃ。・・・・・・そそのかしたのは太一じゃとわかっちょったが、まさかあの金のほとんどを海老原太一に預けちょったとはのお。・・・・・・太一は墓穴を掘りよった」

年末には角座で寄席を

熊吾が年末の休暇に入ると
「十二月三十日は親子三人で角座の寄席に行き、そのあと千日前のふぐ料理屋でてっちり鍋を囲み、大晦日は、終日、お節料理作りをして新しい年を迎え・・・・・・」
といった楽しいイベントが目白押しです。

上に引用させていただいたのは昭和30年代の大阪角座の出演者の看板です。ちなみに、上で登場していただいたいとし・こいし師匠の名前もあります。
節分時期の興行のようで
「オニもフキダス爆笑陣ここに勢揃い」
というフレーズがいいですね。

料金は200円とありますので、「花の回廊」にでてくる屋台のたこ焼き(100円)の2倍くらいです。ここでは手前にたたずむ方の姿に熊吾の家族を重ねてみましょう。

タクシーのラジオからは「有楽町であいましょう」

熊吾たちの昭和三十三年の元日は
「丸尾千代麿の家に年始の挨拶をしてから、房江と伸仁だけで梅田で映画を観た。熊吾と千代麿は夜遅くまで碁盤を挟んで向かい合っていた」
とのことです。

房江たちがどのような映画を観たかは分かりませんが、この年のお正月映画流で人気が高かったのは下に予告編を引用させていただいた「嵐を呼ぶ男(石原裕次郎さん主演)」などでした。

ちなみに、歌謡曲では「有楽町で逢いましょう」などが流行っていました。
「フランク永井という歌手がきれいな低音で歌う曲は、いま『空前の大ヒット』」で
房江の乗ったタクシーの運転手がずっと小声で歌っていたため、歌詞の出だしだけは覚えてしまったとあります。

上には同曲のYoutube動画を共有させていただきました。
今回は房江が覚えた
「あなたを待てば雨が降る。濡れて来ぬかと気にかかる・・・・・・」
という低音の渋い声を聴きながらお別れしましょう。

旅行などの情報

ワッハ上方

正式名称は「大阪府立上方演芸資料館」といって、落語や漫才、浪曲、講談などの上方演芸の資料館です。 夢路いとし・喜味こいし師匠の写真を公式ツイッターから引用させていただきましたが、他にもたくさんの上方演芸の名人たちのなつかしいポスターが展示され、映像・音声などで当時を振り返ることができます。

また、上に引用させていただいたようにM1グランプリのファイナリストとの写真撮影コーナーや、にらめっこ対決コーナーなどもあり、さまざまな体験を楽しめます。イベントも頻繁に行われていますので、詳細は公式SNSでチェックしてみてください。

基本情報

【住所】大阪市中央区難波千日前12-7YES・NAMBAビル7階
【アクセス】なんば駅から徒歩5分
【関連URL】https://wahha-kamigata.jp/

太政(ふとまさ)千日前本店

熊吾たちは角座に行った後、千日前のふぐ料理に立ち寄りました。太政は昭和23年創業の老舗フグ料理店で、角座の跡地(現・ホテルフォルツァ大阪なんば道頓堀)からも数分の場所にあります。熊吾たちもこちらに立ち寄っていたかもしれません。

こちらのお店は下関の南風泊(はえどまり)漁港に専用生け簀を備え、そこから直送する新鮮なフグを食べられるのがこだわりです。

上に引用させていただいたような鍋(てっちり)のほか、刺身(てっさ)やふぐ皮の湯引き(てっぴ)、唐揚げ、白子など料理の種類も豊富にあります。また、こちらも名物の鯖寿司や小鯛寿司、ふぐ握りは事前に予約をしてからお出かけください。

基本情報

【住所】大阪府大阪市中央区千日前2-7-18
【アクセス】難波駅から徒歩5分
【関連URL】http://www.futomasa.com/